「初芽」
店を出て帰宅しようとしたところで、声を掛けられた。これもベストタイミングというべきなのか、葉一がこちらに向かって歩いてくるところだった。仕事帰りなのか、スーツにネクタイといった姿で、革製の鞄を提げている。
「仕事でこの辺きたからちょっと寄ってみたんだけど、もうランチ終わっちゃった?」
「あ、うん……」
土曜の観劇以来だったが、葉一はふだんどおりでとくに変わった様子はなかった。鞄を脇に抱え、腕時計に目をやる。
「初芽は昼飯今から? じゃいっしょに……」
「あの、葉一くん」
躊躇いながらも、葉一を遮って、いった。
「さっき、友達きてた」
「友達? おれの?」
頷いて、ポケットから財布を取り出し、100円玉を摘まむ。
「これ」
「なにこれ」
「お釣り、渡しそびれちゃったから」
わけがわからないといった顔の葉一の手に小銭を圧しつける。
「じゃあ……」
「ちょっと待って」
葉一の脇を通り過ぎようとしたところで、腕をつかまれた。薄いカーディガンの生地を通して、葉一の掌から体温が伝わってくる。思わず硬直した。おれの反応を見て、葉一が慌てて手を離す。
「ごめん……」
痛みはなかったが、無意識につかまれた腕に手を添えた。気まずい沈黙がはしる。
「友達って……」
空気を切り替えるように、葉一が軽い口調でいった。
「男? 女?」
「……男」
「どんな奴?」
「金髪で、背は凪砂くらいで、鼻にピアスしてた」
「あいつか……」
思い当たる人物がいたようで、葉一は顔をしかめた。
「なんでここがわかったんだ、くそ……」
独白のように呟いて、乱暴に頭を搔く。ていねいにセットされた髪が乱れ、整髪料の爽やかな香りが漂った。いつもの葉一の匂いだったが、今日は他人のもののように思えた。
「……なんかいわれた?」
「なんかって……」
なにもいわれていないと即答すべきだった。まずいと思ったが遅かった。葉一の顔色が変わった。
「あいつ、おまえになにいった?」
「なにも……」
「嘘つけ。なんかいわれただろ。なんていった?」
葉一が再びおれの腕をつかんだ。切迫した表情。これまで見たことがない顔をしていた。
「……葉一くんって」
ひとりでに唇が動いていた。考えるよりも先に、言葉が零れ出た。
「葉一くんって、もしかして、男の子のほうが好き?」
腕をつかむ手に力がこもった。伝わる熱が言葉よりも雄弁に語っていた。
「……あの子と付き合ってるの?」
「付き合ってねえよ!」
意外なほど強い口調で否定すると、葉一はおれの腕をさらにぎゅっとつかんだ。さすがに痛みがはしって、顔をしかめると、すぐに開放された。
「ごめん。痛かったか」
「だいじょうぶ……」
なんとなく、視線を合わせられず、俯いた。昼食を終えて仕事に戻る会社員や駅に向かう若者がおれたちの脇を通り過ぎて行く。
「……あいつとはなんもないから」
切実な口調だった。冗談とは思えない。しかし、あの金髪の男の様子もまた切迫していた。なんの関係もなく、わざわざおれの勤め先に訪ねてくるとは思えなかった。
「葉一くんのこと好きみたいだったけど……」
「知るかよ、そんなの」
「でも……」
「向こうがどうでも、おれはなんとも思ってない。おれが好きなのは……」
不自然に言葉を切る。目を上げると、視線がぶつかった。葉一の喉仏が上下するのが見えた。
「好きなひと、ほかにいるんだ……」
複雑な気分だった。考えてみれば、学生時代から、恋愛の話をしたことはほとんどなかった。おれが奥手で、話しても楽しくないからだと思い込んでいた。話さないのではなく、話せなかったのかもしれないと考えたことはなかった。
「どんなひと?」
「どんなって……」
葉一が視線を逸らす。おれの目から隠そうとするかのように掌で顔の下半分を覆っているが、顔が赤くなっているのがわかった。
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「……気になっただけ。友達だし」
再び奇妙な沈黙が漂う。耐えがたい空気。
「べつに答えなくても……」
「かわいい」
顔を伏せたまま、葉一が呟いた。注意していなければ聞き漏らしてしまいそうなほど小さな声だった。
「めちゃくちゃかわいい。しっかりしてるし、やさしいし、ほっとけないところもあって、とにかくやばいくらいかわいい」
胸を衝かれた。葉一が本気だということが完璧に理解できた。
同時に、気づいた。葉一のような男がそれほど真剣に惚れる相手。何度も繰り返すほどかわいらしい男はひとりしか知らない。
「……告白しないの?」
「するわけないだろ」
「なんで」
「そいつ、べつにゲイじゃないし……ていうか、なんならゲイ嫌ってるから、おれがそういう目で見てるって知ったら、絶対軽蔑する」
心臓が絞られるようだった。葉一の口ぶりからすると、かなり前から気持ちを意識していたようだ。こんなに近くにいたのに、まるで気づかなかった。
「そんなことないと思うけど……」
「……本当にそう思うか?」
見つめられ、言葉が出なくなった。はっきりそうだといえるのか。無責任に請け合えるようなものではない。おれは凪砂ではないのだから。
「でも可能性がゼロってわけじゃ……」
「ゼロだよ。完璧にゼロ」
「なんでそんなの……」
「仮に偏見がなかったとしても、絶対おれに興味ない」
「わかんないだろ」
「わかるんだよ」
「なんで」
「なんでって……」
葉一の言葉を遮るように、スマホのバイブ音がした。おれのスマホだった。無視しようとしたが、震えつづけて、止まらない。
ディスプレイに目を落とす。電話番号を知る者はすくない。確認するまでもなかった。
「凪砂だろ」
低い声で、葉一がいう。
「出ろよ」
迷っていると、電話が切れた。直後、LINEが届いた。
「凪砂?」
「うん……」
「……なんだって?」
「今からごはん行こうって」
「行ってこいよ」
「葉一くんも……」
「おれはいい」
「でもお昼まだって……」
「いい。もう会社もどるから」
たしかに、今顔を合わせるのは気まずいだろう。おれもどうふたりに接していいかわからなかった。
「……じゃあちょっと待って」
「なに」
「ちょっとそこで待ってて」
急いで店に引き返し、ランチの残りのシチューを手早くタッパーに詰めた。バゲットをアルミホイルに包み、紙袋に入れる。
帰ってしまったかと思ったが、葉一はいわれたとおりに待っていた。両手をスーツのポケットに突っ込んで、所在なさげに俯いている。
「会社にレンジある?」
紙袋を突き出し、いった。
「ランチの残りだけど、あっためて食べて」
袋を受け取ったものの、葉一はなにもいわなかった。咄嗟の行動だったが、相応しくなかったかもしれない。突然不安になり、慌てていった。
「あの、ビーフシチューなんだけど、中身。好きじゃなかったら……」
「好きだよ」
思いがけず、真剣な口調で、葉一がいった。
「大好き」
おれを見る瞳には熱がこもっていて、思わずたじろいだ。
「……よかった。じゃあ……あの、あっためて食べて、あとで。えっと、会社にもどってから、あとで」
しどろもどろになりながら後ずさる。葉一の視線を正面から受け止めることができず、物理的に距離を取った。
「じゃあ、来週また……」
凪砂の舞台もいっしょに観る約束をしていて、チケットもすでに購入済みだった。どう対応するかはあらためて考えるとして、とにかく今は凪砂がくる。
「またね」
手を振って背を向ける。すこしも行かないうちに、葉一の声が追いかけてきた。
「初芽」
どきりとして、振り返る。
「なに?」
「いや……」
葉一はまた手で顎を撫でながら唇を舐めている。今日の葉一は歯切れが悪い。隠してきた秘密を打ち明けることになったのだから、当然といえば当然だった。
「おれ、だれにもいわないよ」
問われる前に答えた。葉一は一瞬虚を衝かれたような表情になり、直後、微笑んだ。
「わかってる」
頷いて見せる。ようやくいつもの葉一にもどったようだった。
「シチューありがとな」
去り際に袋を掲げて見せる笑顔はふだんの葉一のものだった。さっきまでの張り詰めた緊張感が消え、嬉しそうだった。すこし意外なほどだ。それほどビーフシチューが好きだとは知らなかった。
スーツの背中を見送って、おれは全身で息をした。自分でも気づかないうちにかなり緊張していたようで、筋肉に張りをおぼえていた。
まだ心臓が烈しく跳ねている。これまで見たことのない葉一の新たな面を目の当たりにして、動揺を抑えることができなかった。
思いがけず葉一の秘密を知ることとなり、驚いたのはもちろんだが、自分が葉一のことをなにも知らないという事実に気づかされた。葉一の恋愛対象が男であることはもちろん、好物さえ知らなかった。
考えてみれば、葉一は常に自分の希望よりもおれや凪砂の行きたいところや食べたいものを優先してくれていた。さりげなく周囲に気を遣い、心地よい空気をつくることに長けていた。行動力があり、コミュニケーション能力にも優れた葉一が、身近にいるおれたちにも明かせない秘密を抱えていたことを知って、胸が詰まった。
店を出て帰宅しようとしたところで、声を掛けられた。これもベストタイミングというべきなのか、葉一がこちらに向かって歩いてくるところだった。仕事帰りなのか、スーツにネクタイといった姿で、革製の鞄を提げている。
「仕事でこの辺きたからちょっと寄ってみたんだけど、もうランチ終わっちゃった?」
「あ、うん……」
土曜の観劇以来だったが、葉一はふだんどおりでとくに変わった様子はなかった。鞄を脇に抱え、腕時計に目をやる。
「初芽は昼飯今から? じゃいっしょに……」
「あの、葉一くん」
躊躇いながらも、葉一を遮って、いった。
「さっき、友達きてた」
「友達? おれの?」
頷いて、ポケットから財布を取り出し、100円玉を摘まむ。
「これ」
「なにこれ」
「お釣り、渡しそびれちゃったから」
わけがわからないといった顔の葉一の手に小銭を圧しつける。
「じゃあ……」
「ちょっと待って」
葉一の脇を通り過ぎようとしたところで、腕をつかまれた。薄いカーディガンの生地を通して、葉一の掌から体温が伝わってくる。思わず硬直した。おれの反応を見て、葉一が慌てて手を離す。
「ごめん……」
痛みはなかったが、無意識につかまれた腕に手を添えた。気まずい沈黙がはしる。
「友達って……」
空気を切り替えるように、葉一が軽い口調でいった。
「男? 女?」
「……男」
「どんな奴?」
「金髪で、背は凪砂くらいで、鼻にピアスしてた」
「あいつか……」
思い当たる人物がいたようで、葉一は顔をしかめた。
「なんでここがわかったんだ、くそ……」
独白のように呟いて、乱暴に頭を搔く。ていねいにセットされた髪が乱れ、整髪料の爽やかな香りが漂った。いつもの葉一の匂いだったが、今日は他人のもののように思えた。
「……なんかいわれた?」
「なんかって……」
なにもいわれていないと即答すべきだった。まずいと思ったが遅かった。葉一の顔色が変わった。
「あいつ、おまえになにいった?」
「なにも……」
「嘘つけ。なんかいわれただろ。なんていった?」
葉一が再びおれの腕をつかんだ。切迫した表情。これまで見たことがない顔をしていた。
「……葉一くんって」
ひとりでに唇が動いていた。考えるよりも先に、言葉が零れ出た。
「葉一くんって、もしかして、男の子のほうが好き?」
腕をつかむ手に力がこもった。伝わる熱が言葉よりも雄弁に語っていた。
「……あの子と付き合ってるの?」
「付き合ってねえよ!」
意外なほど強い口調で否定すると、葉一はおれの腕をさらにぎゅっとつかんだ。さすがに痛みがはしって、顔をしかめると、すぐに開放された。
「ごめん。痛かったか」
「だいじょうぶ……」
なんとなく、視線を合わせられず、俯いた。昼食を終えて仕事に戻る会社員や駅に向かう若者がおれたちの脇を通り過ぎて行く。
「……あいつとはなんもないから」
切実な口調だった。冗談とは思えない。しかし、あの金髪の男の様子もまた切迫していた。なんの関係もなく、わざわざおれの勤め先に訪ねてくるとは思えなかった。
「葉一くんのこと好きみたいだったけど……」
「知るかよ、そんなの」
「でも……」
「向こうがどうでも、おれはなんとも思ってない。おれが好きなのは……」
不自然に言葉を切る。目を上げると、視線がぶつかった。葉一の喉仏が上下するのが見えた。
「好きなひと、ほかにいるんだ……」
複雑な気分だった。考えてみれば、学生時代から、恋愛の話をしたことはほとんどなかった。おれが奥手で、話しても楽しくないからだと思い込んでいた。話さないのではなく、話せなかったのかもしれないと考えたことはなかった。
「どんなひと?」
「どんなって……」
葉一が視線を逸らす。おれの目から隠そうとするかのように掌で顔の下半分を覆っているが、顔が赤くなっているのがわかった。
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「……気になっただけ。友達だし」
再び奇妙な沈黙が漂う。耐えがたい空気。
「べつに答えなくても……」
「かわいい」
顔を伏せたまま、葉一が呟いた。注意していなければ聞き漏らしてしまいそうなほど小さな声だった。
「めちゃくちゃかわいい。しっかりしてるし、やさしいし、ほっとけないところもあって、とにかくやばいくらいかわいい」
胸を衝かれた。葉一が本気だということが完璧に理解できた。
同時に、気づいた。葉一のような男がそれほど真剣に惚れる相手。何度も繰り返すほどかわいらしい男はひとりしか知らない。
「……告白しないの?」
「するわけないだろ」
「なんで」
「そいつ、べつにゲイじゃないし……ていうか、なんならゲイ嫌ってるから、おれがそういう目で見てるって知ったら、絶対軽蔑する」
心臓が絞られるようだった。葉一の口ぶりからすると、かなり前から気持ちを意識していたようだ。こんなに近くにいたのに、まるで気づかなかった。
「そんなことないと思うけど……」
「……本当にそう思うか?」
見つめられ、言葉が出なくなった。はっきりそうだといえるのか。無責任に請け合えるようなものではない。おれは凪砂ではないのだから。
「でも可能性がゼロってわけじゃ……」
「ゼロだよ。完璧にゼロ」
「なんでそんなの……」
「仮に偏見がなかったとしても、絶対おれに興味ない」
「わかんないだろ」
「わかるんだよ」
「なんで」
「なんでって……」
葉一の言葉を遮るように、スマホのバイブ音がした。おれのスマホだった。無視しようとしたが、震えつづけて、止まらない。
ディスプレイに目を落とす。電話番号を知る者はすくない。確認するまでもなかった。
「凪砂だろ」
低い声で、葉一がいう。
「出ろよ」
迷っていると、電話が切れた。直後、LINEが届いた。
「凪砂?」
「うん……」
「……なんだって?」
「今からごはん行こうって」
「行ってこいよ」
「葉一くんも……」
「おれはいい」
「でもお昼まだって……」
「いい。もう会社もどるから」
たしかに、今顔を合わせるのは気まずいだろう。おれもどうふたりに接していいかわからなかった。
「……じゃあちょっと待って」
「なに」
「ちょっとそこで待ってて」
急いで店に引き返し、ランチの残りのシチューを手早くタッパーに詰めた。バゲットをアルミホイルに包み、紙袋に入れる。
帰ってしまったかと思ったが、葉一はいわれたとおりに待っていた。両手をスーツのポケットに突っ込んで、所在なさげに俯いている。
「会社にレンジある?」
紙袋を突き出し、いった。
「ランチの残りだけど、あっためて食べて」
袋を受け取ったものの、葉一はなにもいわなかった。咄嗟の行動だったが、相応しくなかったかもしれない。突然不安になり、慌てていった。
「あの、ビーフシチューなんだけど、中身。好きじゃなかったら……」
「好きだよ」
思いがけず、真剣な口調で、葉一がいった。
「大好き」
おれを見る瞳には熱がこもっていて、思わずたじろいだ。
「……よかった。じゃあ……あの、あっためて食べて、あとで。えっと、会社にもどってから、あとで」
しどろもどろになりながら後ずさる。葉一の視線を正面から受け止めることができず、物理的に距離を取った。
「じゃあ、来週また……」
凪砂の舞台もいっしょに観る約束をしていて、チケットもすでに購入済みだった。どう対応するかはあらためて考えるとして、とにかく今は凪砂がくる。
「またね」
手を振って背を向ける。すこしも行かないうちに、葉一の声が追いかけてきた。
「初芽」
どきりとして、振り返る。
「なに?」
「いや……」
葉一はまた手で顎を撫でながら唇を舐めている。今日の葉一は歯切れが悪い。隠してきた秘密を打ち明けることになったのだから、当然といえば当然だった。
「おれ、だれにもいわないよ」
問われる前に答えた。葉一は一瞬虚を衝かれたような表情になり、直後、微笑んだ。
「わかってる」
頷いて見せる。ようやくいつもの葉一にもどったようだった。
「シチューありがとな」
去り際に袋を掲げて見せる笑顔はふだんの葉一のものだった。さっきまでの張り詰めた緊張感が消え、嬉しそうだった。すこし意外なほどだ。それほどビーフシチューが好きだとは知らなかった。
スーツの背中を見送って、おれは全身で息をした。自分でも気づかないうちにかなり緊張していたようで、筋肉に張りをおぼえていた。
まだ心臓が烈しく跳ねている。これまで見たことのない葉一の新たな面を目の当たりにして、動揺を抑えることができなかった。
思いがけず葉一の秘密を知ることとなり、驚いたのはもちろんだが、自分が葉一のことをなにも知らないという事実に気づかされた。葉一の恋愛対象が男であることはもちろん、好物さえ知らなかった。
考えてみれば、葉一は常に自分の希望よりもおれや凪砂の行きたいところや食べたいものを優先してくれていた。さりげなく周囲に気を遣い、心地よい空気をつくることに長けていた。行動力があり、コミュニケーション能力にも優れた葉一が、身近にいるおれたちにも明かせない秘密を抱えていたことを知って、胸が詰まった。



