「うお、すげー」
間延びした一言で、数時間キッチンに籠もって生魚たちと格闘した苦労が消え去った。
「なにこれ。寿司?」
テーブルに並ぶ刺身や海苔を興味深げに眺めながら、凪砂がいう。雑な手つきでジャケットとショルダーバッグをソファの背に引っかける。
「手巻き寿司。お父さんが有明産のおいしい海苔送ってくれたから」
細長く切ったマグロやサーモンの列を目で追いかける凪砂を、オープンキッチンからすこし誇らしげに見つめた。
「そろそろ日本食が恋しくなってくるんじゃないかと思って」
「いいじゃん。手巻き寿司とか何年ぶりだ?」
キッチンから大きな寿司桶を抱えて出てきたおれを見て、凪砂はすこし驚いた顔になった。
「それも日本から送ってきたのか?」
「ううん。お店から借りてきた」
半年ほど前から勤めはじめたビバリーヒルズの日本食レストランでは、本場で修行した日本人シェフの握る創作寿司が人気だ。もちろんおれには寿司を握る技術はなく、調理補助のひとりという立場だったが、煮物や焼き物はすこしずつ任されるようになっていた。日本人のスタッフが多く、片言の英語しか話せないおれにも働きやすい職場だ。高級店なだけに給料も悪くない。
寿司酢を混ぜ込んだ白米をしゃもじで切るように素早く混ぜ、全体に空気を含ませながら冷ます。醤油に漬けたイクラや厚焼き卵もテーブルに出した。何日も前から計画してきた。下準備は完璧だった。
「豪華だな」
「特別な日だから」
冷蔵庫から冷えた日本酒とビールを出しながら答える。風が涼しい季節だ。窓を開け放して、新鮮な空気を呼び込む。
「凪砂の誕生日と、アメリカでの初仕事が決まったお祝い」
「端役だっていっただろ。あんま大袈裟にすんなよ」
「それでも、はじめての仕事は1回しかないんだし」
グラスもあらかじめ冷やしてある。ビールを注いで手渡すと、凪砂は一気に半分ほど飲み干した。うまそうに目を細める。
「そういや、上京して最初の仕事決まったときも手巻き寿司だったっけか」
「おぼえてたの?」
「今思い出した」
アボカドディップを指先で掬い取ってつまみ食いをしながら、凪砂が独白のようにいう。
「あのときは飲みすぎて翌日きつかったな」
「アサリの味噌汁つくってあるよ」
「今日はそこまで飲まねえよ。明日朝からトレーニングあるしな」
出演作品にアクションシーンがあるため、専門のトレーナーの指導を受けて特訓に励んでいる。戦国時代の日本が舞台の映画とのことで、刀を手に殺陣も披露しなければならないようだ。
「すげえスパルタできつすぎ。撮影前に死ぬかも」
ディップのついた指をなめながら、凪砂が顔をしかめる。トレーナーの指導によるものか、Tシャツの袖から伸びた腕には痣が浮いている。
文句をいいながらも、凪砂はほぼ毎日休まずスタジオに通っていた。何十ものオーディションを受けてようやく勝ち取ったチャンスだ。並々ならぬ気合いが入っているのは間違いない。もとより退路を経って海外挑戦の道を選んだのだ。
「なに笑ってんだよ」
「べつに」
皿を並べながら首を窄める。
「凪砂、幸せそうだから」
「なんだよ、それ」
アメリカへ渡って約2年、英語や演技メソッド、筋力トレーニングなど、凪砂はあらゆる努力をしてきた。人脈も頼れるものもなく、見知らぬ土地でのゼロからのスタートは苦難の連続だったはずだが、日本にいるときよりもずっと生き生きとして楽しそうに見えた。
「おまえも」
「なに?」
「幸せそう」
椅子に座り、ビールのグラスを手のなかで弄びながら、凪砂がおれを見上げる。
「……そう見える?」
「ちがうのかよ?」
「ううん」
食器をセットする手を止め、凪砂を見下ろした。凪砂の目を見て、はっきりと答えた。
「すごく幸せ」
「そっか」
凪砂が微笑む。おれも笑った。リラックスした、穏やかな空気だった。
インタホンが鳴って、おれは顔を上げた。
「帰ってきた」
「やっとかよ」
凪砂がため息をつく。アルコールは控えめにすると宣言したのも忘れ、すでに2本目のビールのプルタブに指をかけている。
「ただいま」
玄関のほうから声がする。皿を置いてタオルで手を拭きながら玄関に向かう。
気持ちが昂ってしまっていた。パートナーの帰りを、自分で思う以上に待ち焦がれていた。リビングに入ってきた葉一と鉢合わせになり、あやうく正面衝突するところだった。
「おかえり、葉一」
「ベイビー」
葉一がおれの腰に腕を回して軽くキスしてくる。片方の手にはワインの入った紙袋を提げている。仕事の帰りに買ってきてくれるようにおれが頼んだ。
「ベイビー?」
ダイニングテーブルから見守っていた凪砂が噴き出した。
「おまえ、今ベイビーつった?」
「いったよ」
涼しい顔で葉一が答える。おれのほうはそうはいかない。熱くなった顔を葉一の胸に圧しつけて隠した。
「どこのメロドラマだよ。こっちが恥ずかしくなるわ」
凪砂は身を捩ってテーブルを叩きながら笑っている。葉一は平然としている。むしろ上機嫌といってよかった。おれの肩を抱いたまま、ワインの紙袋をテーブルに置く。
「昼間っからいちゃついてんじゃねえよ。鬱陶しい」
悪態をついているのはポーズだ。凪砂の表情は明るく、楽しそうだった。
「初芽、こいついつもこう?」
「まあ……」
苦笑いしながら曖昧に頷く。米国移住は凪砂の渡米から1年ほどあとだった。アメリカでは同性のカップルも珍しくない。近所にはおれたちとおなじような男同士のカップルも子どもを育てながら暮らしているし、レストランやスーパーマーケットでも手をつないで歩ける。日本では周囲の目を気にしていたおれたちもオープンに付き合うようになっていた。
恋人をベイビーと呼び、往来で堂々とキスをする。異性のカップルならなんの気兼ねもなくできることに、葉一は憧れのような気持ちを抱いていたのかもしれない。日本にいた頃ともっとも大きく変わったのは葉一だった。海外赴任は仕事の都合だとおれにはいったが、窮屈な日本を脱出して海外で暮らしたいという思いを、ずっと以前から持っていたのかもしれない。長く縛られてきた期待やしがらみからようやく解放されたのだ。
「ビール飲むか」
「もらうよ」
ようやくおれから離れて、葉一がジャケットを脱ぐ。ネクタイは締めていない。
「そこ座れば」
「おまえんちじゃないだろ」
葉一が呆れて笑う。おれもつられて噴き出してしまった。凪砂は相変わらずだ。
爆笑する凪砂と気にもかけない葉一をよそに、おれはキッチンにもどってグラスと箸を準備した。ダイニングからは凪砂の笑い声が聞こえてくる。
おれは葉一にすべてを話した。葉一はおれを責めなかった。凪砂や自分を責めることもなかった。なにもいわず、ただすべきことをした。一瞬の躊躇もなく。
「これ、お父さんが送ってくれたやつ?」
焼き海苔をつまみ上げて葉一がいう。
「そうだよ。醤油と大葉も」
「お礼いっとかないとな」
「おまえ、『息子さんをぼくにください』とかいいそうだな」
凪砂がビールを飲みながら茶化して笑う。おれが真っ赤になっているのを見て、眉間に皺を寄せた。
「マジかよ。嘘だろ」
「大事な長男を海外に連れてくんだから、挨拶くらいするだろ」
暴力や不同意性行為の巣窟になっていた新宿のクラブは、葉一が糾弾したことで閉店に追いやられた。クラブに通っていた常連客たちは転校させられた生徒会長のように黙って引き下がることはなかった。葉一が新宿の店で楽しんでいる写真や動画が勤務先の会社のメールフォームに大量に送られた。葉一の告発を裏切りと認識したかつての仲間たちによる意趣返しだった。
葉一に非がないのはあきらかだったが、上司や同僚はそれまでとおなじように葉一を見なくなった。数ヶ月たたないうちに、だれもが羨む大手商社を葉一はあっさり辞めた。
都内の有名大学を卒業し、一流企業に就職した葉一は両親にとって自慢の息子だっただろう。退職の報告とともに、同性の恋人がいることを打ち明けられた父親は激怒し、母親は号泣したという。おれはその場にいなかったからわからないが、葉一から聞いた話によると「地獄絵図のよう」だったらしい。
おれを連れてアメリカに渡った葉一が選んだ職は、フェアトレードをサポートするコンサルティング会社だった。発展途上国で生産されるカカオ豆や綿などの原料を適正価格で輸入する取り組みを支援するシステムを開発している。前職での経験を生かして、中央アジアとの輸出入取引にも携わり、相変わらず出張は多いが、以前よりもプライベートな時間を持てるようになった。収入は減ったものの、残業やノルマは皆無で、健康的で充実した生活になった。
高校時代、ほとんど面識のない同級生のために、おそらくは小さくない犠牲を払った葉一は、さらに多くのものを失った。ようやく手に入れた居場所も積み上げてきたキャリアもすべて棄てて、自由と愛を選んだ。その選択を悔やむ日がいつかこないとも限らない。でも、おれをベイビーと呼び、凪砂とビールを飲んで笑い合っている葉一は、以前よりもだいぶ呼吸がしやすくなったようだ。すくなくとも、周囲が望む自分を演じる必要はもうなくなった。
弾けるような笑顔を、葉一の両親にも見せたいと思った。いつかわかってもらえるときが訪れるだろうか。きてほしいと思った。
「お待たせしました」
ことさらに明るい声で日本酒とグラスを持ってダイニングにもどった。
「寿司パーティだ」
凪砂の言葉を合図に、3人で乾杯した。ジンジャーエールを飲んでいると、隣に座る葉一が手を伸ばしてきた。テーブルの上でおれの手を握る。視線を合わせた。葉一がやわらかく微笑む。微笑を返し、手を握り返した。
「復活したんだな」
サーモンときゅうりを巻き込んだ手巻き寿司にアボカドディップをのせながら、凪砂が唐突にいう。長い付き合いだ。脈絡がないことに驚いたりはしない。おれたちは顔を見合わせた。
「その木」
「ああ、これ?」
顎をしゃくった先にはベンジャミンの鉢があった。リビングのもっとも目立つところに置かれた観葉植物は日本から苗を持ち込んだものだった。広い家にはほかにもたくさんの植物を置いていたし、おれの寝室にあった頃とは外見もかなり変わっているのに、植物に興味がないはずの凪砂が真っ先に気づいたのは意外だった。
「枯れたと思ってた」
「植え替えたんだ」
「そっか。よかった」
植物を眺める凪砂の横顔は、心底安堵しているように見えた。
「植物は脆そうに見えてもけっこう強いから」
「そうだな」
葉一の言葉に凪砂が頷く。手巻き寿司を頬張り、ビールで流し込む。
「凪砂」
食事の手を止め、葉一が凪砂を見つめる。
「おれたち、ちかいうち結婚する」
凪砂よりもおれのほうが驚いていた。はじめて聞かされる話だった。指を握る手の力が強まった。葉一の横顔は真剣そのものといった表情だった。冗談でいえることではない。触れた手から、葉一の緊張が伝わってきた。
「……いつ」
「初芽がよければすぐにでも」
おれは呆然としていたが、ふたりの視線を受け、我に返った。慌てて頷いた。振り子人形のように何度も繰り返して首を縦に振る。見つめる葉一の顔が綻んだ。
「祝福してくれるか?」
葉一の問いに、すこしの間、凪砂は黙っていた。おれを見て、もう一度葉一に視線をもどしてから、いった。
「初芽のこと、幸せにしろよ」
「約束する」
葉一は即答した。凪砂はそれ以上なにもいわなかった。たぶん、葉一が約束を破ることはないと知っているからだろう。
葉一はおれの『推し活』を応援するといった。おれと凪砂のどちらも失う気はないともいった。葉一は有言実行を徹底する男だ。本当に大切なもののためなら犠牲を厭わない潔さと信念を貫き通す意志の強さを持っている。
「もっかい乾杯しようぜ」
凪砂が新たなグラスに日本酒を注ぐ。異論の出るはずがなかった。おれたちはそれぞれのグラスを持ち上げた。
こみ上げる涙を抑えるのにかなり苦労しなければならなかった。葉一の体温が掌からゆっくりと全身に伝わっていった。
何度も間違いを重ね、そのたびに傷を負い、枯れて崩れてしまいそうになった。たとえすべての葉が落ちても、たとえば最後の一葉になったとしても、また水を与えられれば、新たな芽吹きが待っている。教えてくれたのは、葉一であり、凪砂だった。
「25歳、おめでとう」
自然と言葉が口をついて出た。
「おまえも」
凪砂がおれを見つめた。にっこり笑った。
小学校の学芸会の小さな舞台で見たときとおなじ表情。凜として、迷いなく、たとえようがないほど美しい。
「おめでとう」
窓から吹き込んだ風がベンジャミンの葉を揺らした。
おわり。
間延びした一言で、数時間キッチンに籠もって生魚たちと格闘した苦労が消え去った。
「なにこれ。寿司?」
テーブルに並ぶ刺身や海苔を興味深げに眺めながら、凪砂がいう。雑な手つきでジャケットとショルダーバッグをソファの背に引っかける。
「手巻き寿司。お父さんが有明産のおいしい海苔送ってくれたから」
細長く切ったマグロやサーモンの列を目で追いかける凪砂を、オープンキッチンからすこし誇らしげに見つめた。
「そろそろ日本食が恋しくなってくるんじゃないかと思って」
「いいじゃん。手巻き寿司とか何年ぶりだ?」
キッチンから大きな寿司桶を抱えて出てきたおれを見て、凪砂はすこし驚いた顔になった。
「それも日本から送ってきたのか?」
「ううん。お店から借りてきた」
半年ほど前から勤めはじめたビバリーヒルズの日本食レストランでは、本場で修行した日本人シェフの握る創作寿司が人気だ。もちろんおれには寿司を握る技術はなく、調理補助のひとりという立場だったが、煮物や焼き物はすこしずつ任されるようになっていた。日本人のスタッフが多く、片言の英語しか話せないおれにも働きやすい職場だ。高級店なだけに給料も悪くない。
寿司酢を混ぜ込んだ白米をしゃもじで切るように素早く混ぜ、全体に空気を含ませながら冷ます。醤油に漬けたイクラや厚焼き卵もテーブルに出した。何日も前から計画してきた。下準備は完璧だった。
「豪華だな」
「特別な日だから」
冷蔵庫から冷えた日本酒とビールを出しながら答える。風が涼しい季節だ。窓を開け放して、新鮮な空気を呼び込む。
「凪砂の誕生日と、アメリカでの初仕事が決まったお祝い」
「端役だっていっただろ。あんま大袈裟にすんなよ」
「それでも、はじめての仕事は1回しかないんだし」
グラスもあらかじめ冷やしてある。ビールを注いで手渡すと、凪砂は一気に半分ほど飲み干した。うまそうに目を細める。
「そういや、上京して最初の仕事決まったときも手巻き寿司だったっけか」
「おぼえてたの?」
「今思い出した」
アボカドディップを指先で掬い取ってつまみ食いをしながら、凪砂が独白のようにいう。
「あのときは飲みすぎて翌日きつかったな」
「アサリの味噌汁つくってあるよ」
「今日はそこまで飲まねえよ。明日朝からトレーニングあるしな」
出演作品にアクションシーンがあるため、専門のトレーナーの指導を受けて特訓に励んでいる。戦国時代の日本が舞台の映画とのことで、刀を手に殺陣も披露しなければならないようだ。
「すげえスパルタできつすぎ。撮影前に死ぬかも」
ディップのついた指をなめながら、凪砂が顔をしかめる。トレーナーの指導によるものか、Tシャツの袖から伸びた腕には痣が浮いている。
文句をいいながらも、凪砂はほぼ毎日休まずスタジオに通っていた。何十ものオーディションを受けてようやく勝ち取ったチャンスだ。並々ならぬ気合いが入っているのは間違いない。もとより退路を経って海外挑戦の道を選んだのだ。
「なに笑ってんだよ」
「べつに」
皿を並べながら首を窄める。
「凪砂、幸せそうだから」
「なんだよ、それ」
アメリカへ渡って約2年、英語や演技メソッド、筋力トレーニングなど、凪砂はあらゆる努力をしてきた。人脈も頼れるものもなく、見知らぬ土地でのゼロからのスタートは苦難の連続だったはずだが、日本にいるときよりもずっと生き生きとして楽しそうに見えた。
「おまえも」
「なに?」
「幸せそう」
椅子に座り、ビールのグラスを手のなかで弄びながら、凪砂がおれを見上げる。
「……そう見える?」
「ちがうのかよ?」
「ううん」
食器をセットする手を止め、凪砂を見下ろした。凪砂の目を見て、はっきりと答えた。
「すごく幸せ」
「そっか」
凪砂が微笑む。おれも笑った。リラックスした、穏やかな空気だった。
インタホンが鳴って、おれは顔を上げた。
「帰ってきた」
「やっとかよ」
凪砂がため息をつく。アルコールは控えめにすると宣言したのも忘れ、すでに2本目のビールのプルタブに指をかけている。
「ただいま」
玄関のほうから声がする。皿を置いてタオルで手を拭きながら玄関に向かう。
気持ちが昂ってしまっていた。パートナーの帰りを、自分で思う以上に待ち焦がれていた。リビングに入ってきた葉一と鉢合わせになり、あやうく正面衝突するところだった。
「おかえり、葉一」
「ベイビー」
葉一がおれの腰に腕を回して軽くキスしてくる。片方の手にはワインの入った紙袋を提げている。仕事の帰りに買ってきてくれるようにおれが頼んだ。
「ベイビー?」
ダイニングテーブルから見守っていた凪砂が噴き出した。
「おまえ、今ベイビーつった?」
「いったよ」
涼しい顔で葉一が答える。おれのほうはそうはいかない。熱くなった顔を葉一の胸に圧しつけて隠した。
「どこのメロドラマだよ。こっちが恥ずかしくなるわ」
凪砂は身を捩ってテーブルを叩きながら笑っている。葉一は平然としている。むしろ上機嫌といってよかった。おれの肩を抱いたまま、ワインの紙袋をテーブルに置く。
「昼間っからいちゃついてんじゃねえよ。鬱陶しい」
悪態をついているのはポーズだ。凪砂の表情は明るく、楽しそうだった。
「初芽、こいついつもこう?」
「まあ……」
苦笑いしながら曖昧に頷く。米国移住は凪砂の渡米から1年ほどあとだった。アメリカでは同性のカップルも珍しくない。近所にはおれたちとおなじような男同士のカップルも子どもを育てながら暮らしているし、レストランやスーパーマーケットでも手をつないで歩ける。日本では周囲の目を気にしていたおれたちもオープンに付き合うようになっていた。
恋人をベイビーと呼び、往来で堂々とキスをする。異性のカップルならなんの気兼ねもなくできることに、葉一は憧れのような気持ちを抱いていたのかもしれない。日本にいた頃ともっとも大きく変わったのは葉一だった。海外赴任は仕事の都合だとおれにはいったが、窮屈な日本を脱出して海外で暮らしたいという思いを、ずっと以前から持っていたのかもしれない。長く縛られてきた期待やしがらみからようやく解放されたのだ。
「ビール飲むか」
「もらうよ」
ようやくおれから離れて、葉一がジャケットを脱ぐ。ネクタイは締めていない。
「そこ座れば」
「おまえんちじゃないだろ」
葉一が呆れて笑う。おれもつられて噴き出してしまった。凪砂は相変わらずだ。
爆笑する凪砂と気にもかけない葉一をよそに、おれはキッチンにもどってグラスと箸を準備した。ダイニングからは凪砂の笑い声が聞こえてくる。
おれは葉一にすべてを話した。葉一はおれを責めなかった。凪砂や自分を責めることもなかった。なにもいわず、ただすべきことをした。一瞬の躊躇もなく。
「これ、お父さんが送ってくれたやつ?」
焼き海苔をつまみ上げて葉一がいう。
「そうだよ。醤油と大葉も」
「お礼いっとかないとな」
「おまえ、『息子さんをぼくにください』とかいいそうだな」
凪砂がビールを飲みながら茶化して笑う。おれが真っ赤になっているのを見て、眉間に皺を寄せた。
「マジかよ。嘘だろ」
「大事な長男を海外に連れてくんだから、挨拶くらいするだろ」
暴力や不同意性行為の巣窟になっていた新宿のクラブは、葉一が糾弾したことで閉店に追いやられた。クラブに通っていた常連客たちは転校させられた生徒会長のように黙って引き下がることはなかった。葉一が新宿の店で楽しんでいる写真や動画が勤務先の会社のメールフォームに大量に送られた。葉一の告発を裏切りと認識したかつての仲間たちによる意趣返しだった。
葉一に非がないのはあきらかだったが、上司や同僚はそれまでとおなじように葉一を見なくなった。数ヶ月たたないうちに、だれもが羨む大手商社を葉一はあっさり辞めた。
都内の有名大学を卒業し、一流企業に就職した葉一は両親にとって自慢の息子だっただろう。退職の報告とともに、同性の恋人がいることを打ち明けられた父親は激怒し、母親は号泣したという。おれはその場にいなかったからわからないが、葉一から聞いた話によると「地獄絵図のよう」だったらしい。
おれを連れてアメリカに渡った葉一が選んだ職は、フェアトレードをサポートするコンサルティング会社だった。発展途上国で生産されるカカオ豆や綿などの原料を適正価格で輸入する取り組みを支援するシステムを開発している。前職での経験を生かして、中央アジアとの輸出入取引にも携わり、相変わらず出張は多いが、以前よりもプライベートな時間を持てるようになった。収入は減ったものの、残業やノルマは皆無で、健康的で充実した生活になった。
高校時代、ほとんど面識のない同級生のために、おそらくは小さくない犠牲を払った葉一は、さらに多くのものを失った。ようやく手に入れた居場所も積み上げてきたキャリアもすべて棄てて、自由と愛を選んだ。その選択を悔やむ日がいつかこないとも限らない。でも、おれをベイビーと呼び、凪砂とビールを飲んで笑い合っている葉一は、以前よりもだいぶ呼吸がしやすくなったようだ。すくなくとも、周囲が望む自分を演じる必要はもうなくなった。
弾けるような笑顔を、葉一の両親にも見せたいと思った。いつかわかってもらえるときが訪れるだろうか。きてほしいと思った。
「お待たせしました」
ことさらに明るい声で日本酒とグラスを持ってダイニングにもどった。
「寿司パーティだ」
凪砂の言葉を合図に、3人で乾杯した。ジンジャーエールを飲んでいると、隣に座る葉一が手を伸ばしてきた。テーブルの上でおれの手を握る。視線を合わせた。葉一がやわらかく微笑む。微笑を返し、手を握り返した。
「復活したんだな」
サーモンときゅうりを巻き込んだ手巻き寿司にアボカドディップをのせながら、凪砂が唐突にいう。長い付き合いだ。脈絡がないことに驚いたりはしない。おれたちは顔を見合わせた。
「その木」
「ああ、これ?」
顎をしゃくった先にはベンジャミンの鉢があった。リビングのもっとも目立つところに置かれた観葉植物は日本から苗を持ち込んだものだった。広い家にはほかにもたくさんの植物を置いていたし、おれの寝室にあった頃とは外見もかなり変わっているのに、植物に興味がないはずの凪砂が真っ先に気づいたのは意外だった。
「枯れたと思ってた」
「植え替えたんだ」
「そっか。よかった」
植物を眺める凪砂の横顔は、心底安堵しているように見えた。
「植物は脆そうに見えてもけっこう強いから」
「そうだな」
葉一の言葉に凪砂が頷く。手巻き寿司を頬張り、ビールで流し込む。
「凪砂」
食事の手を止め、葉一が凪砂を見つめる。
「おれたち、ちかいうち結婚する」
凪砂よりもおれのほうが驚いていた。はじめて聞かされる話だった。指を握る手の力が強まった。葉一の横顔は真剣そのものといった表情だった。冗談でいえることではない。触れた手から、葉一の緊張が伝わってきた。
「……いつ」
「初芽がよければすぐにでも」
おれは呆然としていたが、ふたりの視線を受け、我に返った。慌てて頷いた。振り子人形のように何度も繰り返して首を縦に振る。見つめる葉一の顔が綻んだ。
「祝福してくれるか?」
葉一の問いに、すこしの間、凪砂は黙っていた。おれを見て、もう一度葉一に視線をもどしてから、いった。
「初芽のこと、幸せにしろよ」
「約束する」
葉一は即答した。凪砂はそれ以上なにもいわなかった。たぶん、葉一が約束を破ることはないと知っているからだろう。
葉一はおれの『推し活』を応援するといった。おれと凪砂のどちらも失う気はないともいった。葉一は有言実行を徹底する男だ。本当に大切なもののためなら犠牲を厭わない潔さと信念を貫き通す意志の強さを持っている。
「もっかい乾杯しようぜ」
凪砂が新たなグラスに日本酒を注ぐ。異論の出るはずがなかった。おれたちはそれぞれのグラスを持ち上げた。
こみ上げる涙を抑えるのにかなり苦労しなければならなかった。葉一の体温が掌からゆっくりと全身に伝わっていった。
何度も間違いを重ね、そのたびに傷を負い、枯れて崩れてしまいそうになった。たとえすべての葉が落ちても、たとえば最後の一葉になったとしても、また水を与えられれば、新たな芽吹きが待っている。教えてくれたのは、葉一であり、凪砂だった。
「25歳、おめでとう」
自然と言葉が口をついて出た。
「おまえも」
凪砂がおれを見つめた。にっこり笑った。
小学校の学芸会の小さな舞台で見たときとおなじ表情。凜として、迷いなく、たとえようがないほど美しい。
「おめでとう」
窓から吹き込んだ風がベンジャミンの葉を揺らした。
おわり。



