ファーストリーフ

 マンションのドアを開けた瞬間、饐えた匂いが拡がって、思わず顔をしかめた。玄関にはシューズやサンダルが散乱し、フローリングの床には埃が舞っている。
 悪臭の源はキッチンだった。シンクに洗いものが溜まっている。ゴミ箱はテイクアウト食品の空き箱やカップ麺の容器であふれていた。残飯の腐敗臭が鼻をついた。
 ため息を呑み込んだ。凪砂には生活能力というものが絶望的に欠けている。3か月ひとりでいてこの程度で済んでいるのはむしろ上出来と褒めるべきかもしれない。
 惨憺たる状況のリビングを見回す。凪砂の渡米準備のためにおれの荷物を引き取ることが目的だったが、どうやら私物の整理は後回しになりそうだ。
 忌まわしい記憶がまだ鮮やかなままの東京にもどるのは不安だったが、観葉植物が枯れそうになっているという凪砂の一言に、先延ばしにしていられなくなった。植物が枯れてしまうのと部屋に埃が溜まるのとではまったく意味がちがう。
 ここにくる前に、元勤務先に寄った。おなじように私物を置いたままにしていたからだ。非常識な辞め方をしたのにもかかわらず、オーナーも店のスタッフたちもあたたかく接してくれた。体調がもどったらいつでも復職してといわれたときには涙が出そうだった。高校生バイトの由真は自分がつかっているというアロマオイルをくれた。就寝前にティッシュやコットンに数滴含ませて枕元に置いておくと、良質な睡眠が取れるのだそうだ。
 駅まで車で送ってくれた継父からも「いつまでもいていい」といわれた。もどるとももどらないともいわないのに。なにがあったのか、けっきょく一度も聞かれていない。
 凪砂は正しい。おれは幸運で幸福だ。孤独でもなければ惨めでもなかった。なぜ今まで気づかなかったのだろう。
 自分の部屋に入ると、凪砂のいうとおり、ベンジャミンの葉が半分以上落ちてしまっていた。残った葉も光沢を失い、黄土色にくすんでいる。凪砂も水をやってはいたようだが、一度に大量の水を与えてしまったのか、鉢の底に水が溜まって茶色に変色している。
 カビの生えた鉢を洗うため、鉢ごと持ち上げてリビングにはこぶ。服に土がついたが構ってはいられない。着替えはいくらでもあるのだ。
 ほとんどの葉を枯らしながらも、木はもうおれの胸ほどの背丈まで成長していた。ひとまず埃の散ったテーブルの上に置き、目の前のソファに腰掛ける。瀕死の植物を前に、すぐには動けずにいた。
 はじめてデートをした日、木や花に埋め尽くされた葉一の部屋に行った。噎せ返るような草花の香りは、抑圧の香りでもあった。女々しいという理由で奪われた木や花は葉一の人格を象徴していた。その一部を譲り受けておきながら、あっさりと放置して無残に枯れさせてしまった。
 小さく縮んだ葉の表面に指を触れさせると、あっけなく幹からはずれ、はらりと床に落ちてしまった。拾い上げようと伸ばした手を止めた。拾い上げてなにになるのか。再び幹に括りつけたとしても、息を吹き返すわけでもない。一度落ちた葉はもどらないのだ。
 床に落ちた涙の粒を見て、自分が泣いていることに気づいた。床に落ちた葉は、時間をもどせないという現実をこれ以上ないほどつよく実感させた。
 あの植物園ではキンモクセイが咲いている頃だろうか。あのときふたりで撮った写真は紛失したスマホに入ったままだ。
 落ちた花は木にもどらない。枯れた葉が甦ることもない。どれほど悲しみ、後悔したとしても。
 うずくまり、膝を抱えて、わずかに残った葉を見つめた。ここへきたときは元気で、幸せだった。どこで間違えてしまったのだろう。綻びはどこからはじまったのだろうか。最後の一葉にはだれもが思いを馳せ、落葉を惜しむ。でも最初に落ちた葉はだれも気にとめない。そこから終わりがはじまっているのに。
 玄関で物音がした。ドアが開く音と、靴を脱ぐかすかな音。凪砂が帰ってきたのだろう。泣いているところを見られたくなかった。葉を拾い上げ、握りしめた。拳を目頭に圧しつけ、乱暴に涙を拭った。
「凪砂?」
 精一杯の軽い声をつくった。
「もうほんと散らかしすぎだよ。向こうでひとり暮らしするんだろ」
 作為的なため息とともに立ち上がった。
「見て、これ。こんなに……」
 振り返る。言葉が消えた。手のなかの枯れた葉が揺れた。窓は閉めきったままで風のせいではない。おれの手が震えていた。
「初芽……」
 葉一が立っていた。仕事の途中で抜けてきたのだろうか。スーツ姿で首にマフラーを巻いている。幻でも見ているかのように立ち竦んで、微動だにしない。
 おれも動けなかった。想像もしていなかったことに、なにひとつ反応できなかった。
 どうやって入ってきたのか。考えるまでもない。部屋の鍵を持っているのは大家と不動産仲介業者を除けば凪砂だけだ。今日、おれが荷物の整理にくることを知っているのも。
 葉一はなにもいわずにただじっとおれを見つめていた。黙ったままゆっくりと、足を一歩前に進めた。
 葉一がちかづいてくる気配を感じても、おれは動けなかった。葉一とのことを放棄するつもりはなかった。どんなかたちであれ、きちんと話をするつもりだった。しかし、突然目の前に現れた今、顔を合わせたら話そうと思っていた言葉はひとつ残らず頭から消え去っていた。
「葉一くん……」
 おれに泣く資格はない。ないのに、抑えられなかった。葉一の顔を見た瞬間、すべてが崩れて粉々になった。
「ごめん……」
 掠れて震える声で、いった。
「枯れちゃった……」
 たった一言、かろうじて出た言葉は、あまりにも馬鹿馬鹿しいものだった。黙って姿を消したこと、何か月も連絡をしなかったこと、ほかにも謝るべきことは無数にあった。
 葉一は黙って手を伸ばし、おれの手を取った。無意識のうちに固く握っていた拳に指を這わせ、促すように表面を撫でた。おれの指を開かせ、水分を失い、ばらばらになった枯葉を指先で摘まんだ。
「だいじょうぶだよ、初芽」
 やさしい声だった。怒りも戸惑いもない、穏やかな、懐かしい葉一の声。
「挿し木をして、新しい苗をつくってやれば、また前みたいになる」
 枯葉ごとおれの手を握りこみ、空いたもう片方の手をおれの背中に回してそっと抱き寄せた。視界が葉一のスーツの藍でいっぱいになり、鼻腔が葉一の匂いでいっぱいになった。
「心配しなくていい、だいじょうぶだから」
 大きな掌でおれの背中を擦りながら、葉一はおれの耳元で囁いた。
「だいじょうぶ。約束する」
 おれは目を閉じた。全身の力が脱けていくのを感じた。葉一は決して約束を破らない。
「葉一くん……」
 葉一の体温を感じながら、息を吐くように呟いた。
「おれ、葉一くんに話さないといけないことがある」
 顔を上げると、葉一のやさしい眼差しとぶつかった。顔には疲労の色がさしていたが、あたたかさは失われていなかった。
「無理して話さなくてもいいよ」
 なにが起きたのか知っているのか、なにかを察しているのか、葉一が静かにいう。首を振って答えた。
「話したい」
 落ちた葉が木にもどることはない。それでも、葉一に隠したままにしたくなかった。すべてを葉一に知ってほしかった。
「葉一くんはおれとはもういたくないと思うかもしれない。でも……」
 声が震えた。葉一を永久に失う覚悟はとっくにできていた。そのつもりだった。頭に心が追いついていない。深呼吸して、なんとか息を整え、いった。
「やっぱり話したい。もう後悔したくない」
 葉一の指先が頬に触れる。握りしめた指の隙間から、乾いてちぎれた葉がこぼれ落ちた。