ファーストリーフ

「葉一くんになにもいわないでいてくれてる?」
「いうわけないだろ」
 おれの問いに心外というように顔をしかめて、凪砂がいう。
「けど、時間の問題だぞ。おまえがそのなんとかいうクラブにいたことはあいつも知ってるからな。あそこでなにかあったんじゃないかって、あちこち聞き回ってるらしい」
 警察に訴えるよう凪砂はつよく主張したが、被害届を出すことはしなかった。体に残った証拠はすべて洗い流してしまったし、ゲイが集まるイベントに自ら足を運んでいる。昔ほど性的マイノリティへの偏見がつよくないとはいっても、まともに取り合ってもらえるとは思えなかった。ゲイ同士の痴情のもつれとしてなおざりに処理されるだけだろう。なによりも、葉一に知られたくなかった。
 だれがやったにせよ、おれに薬を盛った連中が自ら吹聴するとも思えない。しかし、大袈裟に騒ぎ立てれば、社会的にカミングアウトしていない葉一の立場を危うくしかねなかった。
「あいつ、自分のせいでおまえがいなくなったと思ってるぞ」
 凪砂は煙草の箱から1本取り出したが、おれの実家だということを思い出したのか、火をつけることなく箱のなかにもどした。
「そんな、なんで……」
「黙っていなくなったらそうなるだろ。警察行くのはどうにか止めてるけどな」
 凪砂の助けを得て、携帯電話の回線を解約し、クレジットカードを停止した。職場にも凪砂が連絡してくれた。急な体調不良でしばらく休みたいと説明したが、2週間後に、自分で連絡して退職の意思を伝えた。迷惑をかけることになってしまったが、電話口のオーナーの声はやさしく、おれを労ってくれた。嘘をつくのは心ぐるしかったが、真実を打ち明ける気にはなれなかった。
 葉一は職場のカフェにも行ったはずだ。最後の会話を思い出す。どこにでもついていくと、ずっといっしょにいると約束した。
「おれは無事だっていった?」
「いったよ」
 煙草の代わりに親指の皮膚に前歯を立てて、凪砂がため息をつく。
「おれが隠してると思ってる」
 凪砂が真実を話していることはわかっていた。むしろ、抑えて表現している。実際には葉一からそうとうに烈しい追求を受けているのだろう。途方に暮れたように息をつく凪砂の横顔には疲弊が滲んでいた。
「ごめん……」
「謝んなって。おまえのせいじゃないっていっただろ」
「ちがう。おれのせいだよ」
 冷えたグラスの表面に浮かんだ水滴の粒を見つめながら、いった。
「凪砂がいったとおり、おれは自分が恵まれてることに全然気づいてなかった。自分はだめな人間だから好かれるはずないって、卑屈になってた」
「おれはそこまでいってねえよ」
「でもそうなんだよ。驕りみたいなのがきっとあって、それがほかのひとにも伝わったんだと思う」
「いい加減にしろ、馬鹿」
 凪砂が表情を歪める。苛立ったように爪先で細かく床を叩く。
「おまえのせいでも葉一のせいでもない。あと、おれのせいでもない」
「凪砂のせいなわけ……」
「おれが自分を責めてないと思ってんのか?」
 凪砂の口調が鋭く尖り、おれは口を閉ざした。首を捻っておれを見つめ、凪砂はいった。
「おれがあんな話したから、おまえが夜中に出てったんだって、それであんなことになったんだって、思ってないと思うのかよ?」
 言葉が出なかった。傷ついたのはおれだけではなかった。凪砂も葉一も傷ついている。
「おれはおまえが羨ましかったっていったろ」
 指の腹を噛みながら、おれから視線をはずし、正面に向きなおって、凪砂はいった。
「おまえが電話してきたとき、一瞬、おれのせいじゃないかって思った。自分でも無意識のうちに、おまえもおなじ目に遭えばいいのにって考えたんじゃないかって……」
「そんな……」
「考えたことねえよ、一回も。だけどそのときはすげえ怖かった」
 凪砂の眼球が揺れ動くのをおれは呆然と見つめていた。
「凪砂は悪くない」
 独白のようにいった。
「凪砂を置いて葉一くんに会いに行った。凪砂をひとりにしても平気だったし、葉一くんの都合も考えてなかった。自分が最優先で、自分勝手だったから、あんな……」
「おれのせいでもおまえのせいでも葉一のせいでもねえよ」
 凜とした声で、凪砂はいった。
「絶対ちがう」
「凪砂……」
 おれに隙があったせいでつけ込まれることになったのだという思いがあった。もっと警戒すべきだったと後悔していた。凪砂の言葉はおれの心に深く刻まれた傷にあたたかく沁みわたるようだった。凪砂もおなじように自分を責めたのかもしれないと思った。
「葉一と話せよ、初芽」
 ドラマのなかで見た親友のように、凪砂は膝の上に頬杖をついていた。
「葉一くんには知られたくない」
「いいたくないならそれでもいい。けど、理由もなんもなくいきなり消えたら葉一がどうなるか考えろ」
 凪砂が自分の保身のためにいっているのではないことはわかっていた。葉一のためにも、そしておそらくおれ自身にとっても、そうすべきだ。もっと早くすべきだったのに、おれはまた逃げてしまった。今さらのこのこ出て行ってどう話せばいいのか。なにが起きたのか、真実を隠しながら説明し、納得させられる自信がなかった。たとえその場を凌ぎきれたとしても、しこりは残るだろう。もうおれを信頼することはなくなるかもしれない。それがなによりも恐ろしかった。
「なあ、初芽」
 凪砂の瞳がまっすぐにおれを見据える。
「葉一のこと好きなんだろ」
 頷いた。こんな状況になっても、その気持ちだけは誤魔化しようがない。
「だったら……」
「好きだから無理なんだよ」
 自ら発した言葉に圧し出されるように、涙がこみ上げてきた。けっきょく、おれは変われなかった。変われると思ったことが間違いだった。
「初芽……」
「ごめん、凪砂。一回だけ、一回だけのお願いだから」
 凪砂の腕をつかむ。自分でも驚くほどつよい力になった。
「もうおれのこと探さないでって葉一くんにいって」
「馬鹿。いえるかよ、そんなこと」
「今まで凪砂になにか頼んだことないだろ。一回だけだから。お願い」
「初芽……」
 凪砂の手が背中に回り、おれの最後の平静が瓦解した。凪砂の胸に顔を埋めて、おれは泣いた。凪砂のパーカーが濡れて重くなるほど泣きじゃくった。
 凪砂は渾身の力でしがみつくおれの体重を受け止め、ただ黙って背中を擦ってくれた。夕方ちかく、弟たちが学校から帰ってくる直前まで、ずっとそうしていた。