ファーストリーフ

「おまえさ、好きなやつとかいないの」
 学生服を着た凪砂が、ろくに読んでもいない参考書を捲りながら尋ねた。
「好き……?」
「付き合ってるやつとか、片思いでもいいけど」
「ないよ。そういうのは全然……」
 熱くなる頬を隠すように、机の上で大学ノートを立て、顔を伏せる。この手の話題は苦手だ。直接聞かれるのもはじめてで、どんな顔をすればいいかわからない。
「気になるやつくらいいるだろ」
「いないってば」
「なんだよ。教えろよ。親友だろ」
「だからいないんだって……」
 教室の隅で不毛な押し問答をしていると、前方の席の女子生徒が振り向いてこちらに手を振った。
「雨宮くーん」
 呼ばれて顔を上げる。ずり下がった眼鏡を中指の腹で圧し上げた。
「4組の風間くん、きてるよー」
「えっ」
 思わず立ち上がる。教室の入り口に長身の影を見つけたとたん、心臓が大きく跳ね上がった。背中に親友の視線を感じながら、高鳴る鼓動を抑えることができなかった。

 インタホンが鳴り、驚いて声を上げそうになった。リモコンを操作して画面を一時停止にする。テレビの長方形のなかで、頬杖をついた凪砂の無邪気な表情が固まっている。ここからが佳境だったがしかたない。録画してあるからあとで何度でも繰り返し見られる。
 田舎の古いアパートにオートロックは設置されていない。来客の予定は聞いていなかった。居留守を決め込もうかとも思ったが、宅配便かなにかかもしれない。迷った末に、ドアを開けた。
 鍵を開けると、反対側からドアが開けられた。凪砂が立っていた。学生服ではなく、ニット帽にパーカーを着ている。
「久しぶり」
 呆気にとられているおれの脇を通り抜け、断りもなく玄関で靴を脱いで室内に入ってくる。
「元気か?」
 リビングに入り、おれのほうを振り返って尋ねる。
「なわけないか」
 乱暴な言葉のわりに、目はしっかりとおれの全身を確認している。心配してくれているのだとわかった。
「親父さんと弟は?」
「仕事と学校……」
「そっか、今日平日だったか」
 一時停止のままのテレビ画面を一瞥して、唇を窄める。
「見てたのかよ」
「毎週見てるよ。凪砂が出てるドラマだもん」
 凪砂が出演する連続ドラマの放送はすでにはじまっていた。今週放送された3話まですべて録画して繰り返し見ている。
「凪砂が出てなかったとしても、すごくいいドラマだよ。おれ、泣いた」
「もう? 早くね?」
 凪砂は笑ったが、素直な感想だった。
「凪砂の演技もリアルだし」
「おまえはなんでも褒めるからな」
「そんなことないよ」
 実際に、凪砂は脇役ながら作品のなかで主演俳優を凌ぐ存在感を見せていた。瑞々しくリアリティのある演技は、これまでのイメージから脱却するにじゅうぶんだった。欲目ではない。国内では最後の作品でもあり、作品の内容からしても、この役にかける思いは過去のどの作品よりもつよかっただろう。
「……だいじょうぶか?」
 テーブルの上のリモコンを取り上げて自分の顔を画面から消し、凪砂がこちらに背を向けたままいう。今度はさっきよりも静かで、真剣な声だった。
「うん」
 おれも静かに、ゆっくりと頷いた。
「だいぶ落ち着いた」
「そっか」
「いろいろありがとう」
「やめろ、馬鹿。ありがとうとかいうな」
 華奢な背中を見つめ、おれは笑った。
「おなか空いてない? 昨日つくったカレーあるけど」
「メシ食ってきた」
「じゃ、お茶淹れる」
「コーヒー」
「わかった」
 棚からコーヒーの粉を取り出す。キッチンは狭いが、だいぶ慣れてきた。鍋のなかにはカレーがすこし残っている。半分は冷凍しておくつもりだったが、食べ盛りの男子高校生ふたりの胃袋を少々侮っていたようだ。今日の夕飯は残りものというわけにはいかなくなりそうだ。
 日中はまだ暑いからアイスコーヒーのほうがいいだろう。冷凍庫を開けて、氷を取ろうとした手を止めた。カップのバニラアイスが冷凍スペースの中央に鎮座していた。カップの包装に直接油性マジックペンで「ウメ兄ちゃんへ」と書いてある。
 思わず表情が緩んでしまった。夕食後に弟たちがコンビニへ出かけたようだったが、そのときに買ってきたのかもしれない。食事のお礼のつもりだろうが、感謝したいのはおれのほうだ。血の繋がらない兄が突然帰ってきて、思春期の弟たちは戸惑っただろうが、なにもいわずに受け入れてくれている。
 亡き母の再婚相手である継父も、しばらく泊めてほしいという頼みを即座に聞き入れてくれた。高校を卒業して家を出てからずっと音信不通だったのが、なんの前触れもなく突然顔を見せて、不審に思っているかもしれなかったが、なにも聞かなかった。ただふつうに、まるで5年間ずっといっしょに暮らしてきたかのように、自然に接してくれた。
 母がいなくなり、ひとりぼっちになった気がしていた。家族のなかでただひとり血縁がないことを引け目に感じ、疎外感をおぼえていた。身勝手な思い込みだったのかもしれない。
「心配してきてくれたの?」
 氷を満たしたグラスに濃いコーヒーを注いで、凪砂に渡す。ひとつしかないソファの凪砂の隣に座った。
「べつに。実家から取るもんあったから、ついでに寄っただけだよ」
「ご両親に会った?」
「いや。仕事だってさ」
 ドラマの収録が間もなく終わり、あと3か月もすれば凪砂はロスへ出発する。息子と顔を合わせる機会はそう多くないはずだが、それほど多忙なのだろうか。
 凪砂の両親は息子が二十代半ばになっても口座に生活費を振り込んでいた。凪砂を甘やかすのは、凪砂を愛しているからだと信じて疑わなかった。
 おれは邪魔な人間で、凪砂は大切にされている。自分を惨めな脇役に仕立て上げ、凪砂を神秘的な存在に演出することで、エゴを満たそうとしていた。あまりに屈折している。
「葉一くんは……」
 自分もアイスコーヒーを入れて、冷たいグラスを両手で包み、いった。
「葉一くんは、どうしてる?」
「まあ……かなりやばい」
 凪砂が口籠もるのは滅多にない。それだけ深刻だということだ。
「おまえに会わせろって毎日死ぬほど電話とLINEくるよ。家にも撮影現場にもくるし」
「ごめん……」
「おまえが謝ることじゃねえよ」
 テーブルの上にコーヒーのグラスを置き、凪砂はため息をついた。
「けど、いい加減どうにかしないとマジでまずいことになるぞ。今んとこはどうにか落ち着かせてるけど、いつまでも止められない」
 凪砂も憔悴した様子で、その表情からも、葉一の状態が切迫していることがわかる。なにもいわずに突然姿を消し、連絡も取れないのだ。葉一の性格を考えても、まともな神経ではいられないだろう。心臓が軋む音が聞こえた。
「ほんとやべえよ、あいつ。仕事もしょっちゅう休んでるみたいだしさ。あの感じじゃ、まともに働けてないだろうな」
「え……」
 動揺して視線を揺らすおれに、凪砂はいった。
「このままじゃだめだって、わかってんだろ、おまえも」
 黙って俯いた。返せるような言葉が見つけられなかった。
 新宿のクラブで葉一を待っていた夜、渡された飲みものを飲んで、急に烈しい目眩に襲われ、その場で意識を失った。
 ホテルの一室で目を覚ました。ベッドの上で仰向けになり、全裸だった。どう見てもひとりのものではない大量の体液に塗れ、全身が痛んだ。薬を盛られたのだろう。ひどい頭痛と下半身の不快さに耐えながら、狭いシャワールームで体を洗った。
 財布とスマホが入ったバッグごと消えていた。奪われたのか、落としたのか。かろうじて衣服だけは残されていたが、身ひとつで取り残されていた。体の状態から、おぞましい性犯罪の被害に遭ったことはあきらかだったが、ホテルに連れ込まれたことも乱暴されたこともなにもおぼえていなかった。
 ネット社会で、電話番号を記憶する習慣はなくなっている。葉一ともLINEの通話やメッセージのやりとりがほとんどで、携帯電話の番号は登録こそしていたが記憶はできていなかった。唯一暗記していたのが、中学時代から頻繁にやりとりをしている凪砂の電話番号だった。
 酔っ払って前後不覚になった凪砂を迎えに行くのがおれの役目だった。逆ははじめてだった。ホテルの電話を借り、凪砂に連絡した。凪砂はまだ起きていて、すぐに飛んできた。
 体液塗れのベッドの横でしゃがみこんでいるおれを見て、凪砂は烈しく動揺した。パニックを起こし、意味不明な叫び声を上げ、床に突っ伏して号泣した。凪砂が泣くのを見たのははじめてだった。
 おれもひどい精神状態ではあったが、錯乱する凪砂を目の前にして、不思議と冷静さを取りもどしていた。おれの身に起きたことがそれほどまでに凪砂にショックを与えるとは思っていなかったのだ。
 貧相なラブホテルの部屋で、おれたちは身を寄せ合い、肩を支え合って泣いた。凪砂の体温を感じながら、まるでべつの世界に生きていると思っていた凪砂をだれよりも近くに感じていた。触れた部分から絡まり、溶け合い、融合してひとつの個体になるような感覚さえおぼえていた。