肉が焼ける香ばしい匂い。油が跳ねる音がかすかに変化し、ちょうどいい焼き具合を報せている。フライパンを傾け、肉の塊を皿に移した。べつの鍋からソースを垂らして、香草を添えれば完成だ。
「ハンバーグ出ます」
キッチンから顔を出し、ホールに声をかけると、アルバイトの女の子の軽やかな返事が返ってくる。
同時に作業していた鍋を確認する。ビーフシチューが湯気を立てている。皿に開けるのを待っていたようにトースターが音を立て、バゲットが焼き上がった。ベストのタイミング。こういう小さな成功に満足感を得られる。
ハンバーグとほぼ同時にシチューを出す。カップルのオーダーだったから、いっしょに食事をはじめられるはずだ。おれはあくまでも調理担当で、ホールには出ない。客と言葉を交わすことはないが、来店時に一瞬ちらっと顔を見れば、よろこぶ表情を思い浮かべることができる。
料理は数すくないおれの特技だ。唯一といっていい。キッチンで食材を調理しているときだけは、劣等感も無力感もなにもかも忘れて没頭できる。
中学の頃、母親が乳がんを煩っていることがわかった。すでにレベル4に達していて、手術で腫瘍を完全に取り除くことは不可能だと医師に告げられた。入退院を繰り返す母に代わり、仕事で忙しい父やまだ小さい弟たちのため、料理や洗濯をするようになった。
おれは3年生で、私立高校を受験することになっていた。進学は諦めるつもりだったが、両親に反対された。受験勉強と家事を両立するのは苦労が必要だったが、どうにかやりきった。合格発表の日、病院で報告を受けた母が見せた涙を今もおぼえている。
2年後、母は死んだ。がんが骨髄やリンパ節にも転移して、何度も手術を繰り返し、心身ともに疲弊しきっていた。最期は自宅で、家族に見守られながらゆっくりと息を引き取った。
父には大学進学を勧められたが、母の医療費とおれの学費で家計が圧迫されていることは知っていた。料理の道に進みたいからと父を説得し、専門学校に進んだ。本心をいえば卒業後すぐにでも働きたかったが、資格を取っておいたほうが後々有利に働くという父のアドバイスに従った。あまり反抗するのも気が引けたというほうがちかい。
新宿駅西口にちかいこのカフェレストランで働きはじめて1年ほどになる。その前は居酒屋でアルバイトをしていたが、深夜帯の勤務が肉体的に合わず、人間関係のストレスも重なり、体調を崩して辞めてしまった。この店は客層もよく、ある程度融通もきくし、スタッフ同士の付き合いもあまり濃くないため、居心地がよかった。3か月前にアルバイトから契約社員になり、キッチンの責任者としてメニューの調整やレシピの選定も任されている。
「ハンバーグ追加お願いします」
「了解。パンケーキもうすぐ出ます」
「はーい」
平日だが、それなりに忙しい日だった。つぎのオーダーを確認していると、パンケーキを配膳したバイトスタッフがもどってきた。
「あの、安藤さん」
「はい?」
野菜を切りながら、顔を向けずに答える。
「なんですか?」
「あの、なんか、安藤さんと話したいってお客さんがいるんですけど」
スタッフの口調には戸惑いが見えた。包丁を握る手を止めて、振り向いた。
「おれ?」
「はい、安藤さんといってました」
すこし不審に感じた。シェフの挨拶を望む客もいるかもしれないが、高級レストランに限った話で、この店のような庶民的なカフェレストランでわざわざ料理人を席に呼びつける客は滅多にいない。それも名指しとは。
「なんていうお客さん?」
「お名前はおっしゃいませんでした」
首を伸ばしてホールを確認する。アルバイトが視線で示す先を見ると、窓際の席で若い男性客がハンバーグにナイフを入れていた。見覚えのない顔だった。
「ちょっと今手が離せないから、待っててもらってください」
「わかりました」
正直なところ、気がすすまなかった。ほかのだれかに代わってもらいたかったが、あいにく小さな店で料理担当はひとりしかいない。忙しいときにホール担当が補助に加わる程度だ。
幸か不幸か、追加のハンバーグを出したあと、オーダーが途切れた。ランチタイムのあとは休憩があり、ディナーまで新規の客は入らない。
手を洗い、エプロンを整えて、ホールに出た。スタッフに目で合図してから、壁際の席へ向かう。二十代半ばくらいだろうか。厚手のパーカーにデニムの男は食後のコーヒーを飲んでいた。華奢な体躯で、凪砂ほどではないが、整った顔立ちだった。髪を明るく染め、鼻にピアスをしている。
「……お待たせしてすみません」
緊張で声が上擦る。席に呼ばれたのははじめてだった。料理に不満があって苦情を受けるのではないかと心配していたが、顔を上げた客は無表情だった。無言のまま、品定めするような目でおれの全身を見ている。
「あの、料理になにか……」
「葉ちゃんと付き合ってんの」
なんのことかわからず、反応できなかった。
「あの……」
「葉ちゃんと付き合ってんだろ?」
男は相変わらず無表情で、声にも抑揚がなかった。おれの顔を真っ直ぐ見つめ、繰り返した。
「付き合ってるんだよな?」
「いや、えっと……」
想像もしていなかった展開に、おれは混乱していた。エプロンの裾を握り締め、どうにか頬の筋肉を動かした。
「ごめんなさい、ちょっとおっしゃってる意味が……ようちゃんってだれの……」
「葉一のことに決まってんだろ。ふざけてんのか、おまえ」
男が早口にいう。怒鳴っているわけではなく、抑えた声だったが、迫力はじゅうぶんだった。おれを見る目には明確な敵意があった。
「あの……ごめんなさい。本当になんのことかわからなくて……」
「先週の土曜、いっしょだっただろ、下北沢で」
土曜日の下北沢。凪砂の舞台の初日だったからよくおぼえている。この男がだれで葉一とどういう関係なのかは不明だが、あきらかに誤解している。
「もういい、わかった」
言葉が出ずに黙りこんでいるおれを見て、男は舌打ちした。乱暴に立ち上がり、椅子の背に掛けていたリュックを背負う。
「ちょっと……待ってください。勘違いです。おれ……」
「もういいっつったろ。聞きたくない」
おれの言葉を遮って、男は財布から札を抜き出した。伝票とともにテーブルに置く。
「ごちそうさま」
おれのほうは見ずにいって、踵を返した。制止も聞かず、大股に店を出て行った。おれは唖然として立っていた。
「だいじょうぶですか?」
アルバイトスタッフが近寄ってきて、耳打ちする。
「なにいわれたんです?」
「いや……なんか人違いだったみたい」
「人違い?」
自分の言葉に気づかされた。冷静に考えればわかることだ。ただし、確信はなかった。
テーブルの上の札を見つめる。千円札が2枚。ランチの料金は1600円だ。コーヒーを入れてもお釣りが出る。
ため息を漏らしかけ、スタッフの視線を意識して、かろうじて飲み込んだ。不穏な兆候をまた感じていた。
おれが望むのはただひとつ、平和な日常だ。おれの人生にドラマは不要だった。なにも起きず、なにもしないまま、おなじ今日を繰り返したい。どうすれば平穏を守れるのか。おれの頭にはそれしかなかった。
「ハンバーグ出ます」
キッチンから顔を出し、ホールに声をかけると、アルバイトの女の子の軽やかな返事が返ってくる。
同時に作業していた鍋を確認する。ビーフシチューが湯気を立てている。皿に開けるのを待っていたようにトースターが音を立て、バゲットが焼き上がった。ベストのタイミング。こういう小さな成功に満足感を得られる。
ハンバーグとほぼ同時にシチューを出す。カップルのオーダーだったから、いっしょに食事をはじめられるはずだ。おれはあくまでも調理担当で、ホールには出ない。客と言葉を交わすことはないが、来店時に一瞬ちらっと顔を見れば、よろこぶ表情を思い浮かべることができる。
料理は数すくないおれの特技だ。唯一といっていい。キッチンで食材を調理しているときだけは、劣等感も無力感もなにもかも忘れて没頭できる。
中学の頃、母親が乳がんを煩っていることがわかった。すでにレベル4に達していて、手術で腫瘍を完全に取り除くことは不可能だと医師に告げられた。入退院を繰り返す母に代わり、仕事で忙しい父やまだ小さい弟たちのため、料理や洗濯をするようになった。
おれは3年生で、私立高校を受験することになっていた。進学は諦めるつもりだったが、両親に反対された。受験勉強と家事を両立するのは苦労が必要だったが、どうにかやりきった。合格発表の日、病院で報告を受けた母が見せた涙を今もおぼえている。
2年後、母は死んだ。がんが骨髄やリンパ節にも転移して、何度も手術を繰り返し、心身ともに疲弊しきっていた。最期は自宅で、家族に見守られながらゆっくりと息を引き取った。
父には大学進学を勧められたが、母の医療費とおれの学費で家計が圧迫されていることは知っていた。料理の道に進みたいからと父を説得し、専門学校に進んだ。本心をいえば卒業後すぐにでも働きたかったが、資格を取っておいたほうが後々有利に働くという父のアドバイスに従った。あまり反抗するのも気が引けたというほうがちかい。
新宿駅西口にちかいこのカフェレストランで働きはじめて1年ほどになる。その前は居酒屋でアルバイトをしていたが、深夜帯の勤務が肉体的に合わず、人間関係のストレスも重なり、体調を崩して辞めてしまった。この店は客層もよく、ある程度融通もきくし、スタッフ同士の付き合いもあまり濃くないため、居心地がよかった。3か月前にアルバイトから契約社員になり、キッチンの責任者としてメニューの調整やレシピの選定も任されている。
「ハンバーグ追加お願いします」
「了解。パンケーキもうすぐ出ます」
「はーい」
平日だが、それなりに忙しい日だった。つぎのオーダーを確認していると、パンケーキを配膳したバイトスタッフがもどってきた。
「あの、安藤さん」
「はい?」
野菜を切りながら、顔を向けずに答える。
「なんですか?」
「あの、なんか、安藤さんと話したいってお客さんがいるんですけど」
スタッフの口調には戸惑いが見えた。包丁を握る手を止めて、振り向いた。
「おれ?」
「はい、安藤さんといってました」
すこし不審に感じた。シェフの挨拶を望む客もいるかもしれないが、高級レストランに限った話で、この店のような庶民的なカフェレストランでわざわざ料理人を席に呼びつける客は滅多にいない。それも名指しとは。
「なんていうお客さん?」
「お名前はおっしゃいませんでした」
首を伸ばしてホールを確認する。アルバイトが視線で示す先を見ると、窓際の席で若い男性客がハンバーグにナイフを入れていた。見覚えのない顔だった。
「ちょっと今手が離せないから、待っててもらってください」
「わかりました」
正直なところ、気がすすまなかった。ほかのだれかに代わってもらいたかったが、あいにく小さな店で料理担当はひとりしかいない。忙しいときにホール担当が補助に加わる程度だ。
幸か不幸か、追加のハンバーグを出したあと、オーダーが途切れた。ランチタイムのあとは休憩があり、ディナーまで新規の客は入らない。
手を洗い、エプロンを整えて、ホールに出た。スタッフに目で合図してから、壁際の席へ向かう。二十代半ばくらいだろうか。厚手のパーカーにデニムの男は食後のコーヒーを飲んでいた。華奢な体躯で、凪砂ほどではないが、整った顔立ちだった。髪を明るく染め、鼻にピアスをしている。
「……お待たせしてすみません」
緊張で声が上擦る。席に呼ばれたのははじめてだった。料理に不満があって苦情を受けるのではないかと心配していたが、顔を上げた客は無表情だった。無言のまま、品定めするような目でおれの全身を見ている。
「あの、料理になにか……」
「葉ちゃんと付き合ってんの」
なんのことかわからず、反応できなかった。
「あの……」
「葉ちゃんと付き合ってんだろ?」
男は相変わらず無表情で、声にも抑揚がなかった。おれの顔を真っ直ぐ見つめ、繰り返した。
「付き合ってるんだよな?」
「いや、えっと……」
想像もしていなかった展開に、おれは混乱していた。エプロンの裾を握り締め、どうにか頬の筋肉を動かした。
「ごめんなさい、ちょっとおっしゃってる意味が……ようちゃんってだれの……」
「葉一のことに決まってんだろ。ふざけてんのか、おまえ」
男が早口にいう。怒鳴っているわけではなく、抑えた声だったが、迫力はじゅうぶんだった。おれを見る目には明確な敵意があった。
「あの……ごめんなさい。本当になんのことかわからなくて……」
「先週の土曜、いっしょだっただろ、下北沢で」
土曜日の下北沢。凪砂の舞台の初日だったからよくおぼえている。この男がだれで葉一とどういう関係なのかは不明だが、あきらかに誤解している。
「もういい、わかった」
言葉が出ずに黙りこんでいるおれを見て、男は舌打ちした。乱暴に立ち上がり、椅子の背に掛けていたリュックを背負う。
「ちょっと……待ってください。勘違いです。おれ……」
「もういいっつったろ。聞きたくない」
おれの言葉を遮って、男は財布から札を抜き出した。伝票とともにテーブルに置く。
「ごちそうさま」
おれのほうは見ずにいって、踵を返した。制止も聞かず、大股に店を出て行った。おれは唖然として立っていた。
「だいじょうぶですか?」
アルバイトスタッフが近寄ってきて、耳打ちする。
「なにいわれたんです?」
「いや……なんか人違いだったみたい」
「人違い?」
自分の言葉に気づかされた。冷静に考えればわかることだ。ただし、確信はなかった。
テーブルの上の札を見つめる。千円札が2枚。ランチの料金は1600円だ。コーヒーを入れてもお釣りが出る。
ため息を漏らしかけ、スタッフの視線を意識して、かろうじて飲み込んだ。不穏な兆候をまた感じていた。
おれが望むのはただひとつ、平和な日常だ。おれの人生にドラマは不要だった。なにも起きず、なにもしないまま、おなじ今日を繰り返したい。どうすれば平穏を守れるのか。おれの頭にはそれしかなかった。



