トイレに向かう途中で振動は消えたが、またすぐにかかってきた。足早に歩きながら電話に出た。
「初芽!」
ほとんど叫び声だった。騒がしいフロア内でもはっきり聞こえ、その声が耳に届いたとたん、泣きそうになった。
「葉一くん」
トイレに入ると、騒音がわずかに遮られた。個室に入ると、大きく息をついた。自覚している以上に緊張していたらしい。
「連絡遅れてごめん」
葉一はおれ以上に安堵しているようだった。喘ぐような息づかいが聞こえてきた。
「仕事でトラブルがあって、ずっと私用携帯触れなくて……」
「そうだったんだ……」
事故があったのではと心配していただけに安心した。個室の壁に凭れかかって、目を閉じた。待ち望んでいた葉一の声。心が満たされ、体の力が脱けていく。
「だいじょうぶだったの?」
「ああ、どうにか……」
葉一の声には疲労の色が濃かった。すでに日付が変わっているが、まだ会社にいるようで、声の背後が慌ただしい。とはいえ、こちらのほうがよほど騒々しいのはあきらかで、葉一が怪訝そうにいった。
「騒がしいけど、どこいるの? 外?」
「うん。えっと……」
口籠もりながら答えた。
「実は、今新宿にきてて……」
「新宿?」
「還暦パーティの……」
「イエローにいるのか?」
クラブの名称を口にして、葉一は絶句した。
「おい、嘘だろ。なんでそんなとこに……」
咎めるような口ぶりではなかったが、店での疎外感もあり、泣きたい気持ちがより高まった。ひた隠しにしていた過去を打ち明けて傷ついているかもしれない凪砂をひとり部屋に残し、あきらかに招かれざる客として不慣れな場所にまでやってきたことを後悔しかけていたが、葉一の声を聞いたとたんに不安や罪悪感は消えてしまった。
「葉一くんに会いたくて……」
葉一がまた言葉を切った。静かにいった。
「凪砂となにかあったのか?」
「なにもないよ。ただ会いたかっただけ」
「じゃ……話できなかった?」
「ううん。できた」
葉一の声を噛みしめるようにスマホを耳につよく圧しつけた。
「全部聞いた。高校のときあったことも、今のことも、これからのことも全部」
葉一はおれにも凪砂にも嘘をつきつづけてきた。本人の意思ではない。おれたちがそう望んだからだ。葉一は常におれたちのために行動し、おれたちふたりともを守ってくれた。
「そっか……」
声だけでは葉一の感情をすべて読み取ることはできなかった。向こうももどかしさを感じたのか、早口にいった。
「とにかく、直接話そう」
走りながら話しているようで、呼吸が乱れている。
「すぐそっち行くから、そこで待ってろ」
「わかった」
「危ないからあんまうろつくなよ」
「子どもじゃないんだから……」
「わかってるけど心配なんだよ」
一言一言に葉一の思いやりと愛情が感じられ、胸があたたかくなった。
「今からタクシー拾うから、30分くらいで……」
「葉一くん」
葉一の言葉を遮って、いった。
「おれ、葉一くんといたい」
「わかってる。今向かうところだからすぐ……」
「そうじゃなくて」
個室の便座の蓋の上に座って、俯いた。
「ついてきてほしいっていったよね」
スマホの熱を掌と耳もとに感じる。まるで葉一がすぐちかくにいるように感じられた。
「辞令が出て、海外に行くことになったら、おれについてきてほしいって」
「ああ……」
葉一の声が強張る。足を止めたのか、周囲は静かになっていた。
「おれ、行く」
「……本当に?」
「うん」
見られていないのにもかかわらず、深く頷いた。
「どこでもついてく。葉一くんとずっといっしょにいたい。離れたくない」
「初芽……」
気持ちがあふれて、止められなかった。葉一が好きだった。葉一といられるなら、ほかに望むものはなかった。
「絶対離さないよ」
「うん……」
「一生かけて愛する。約束する」
真剣な声だった。力強く、熱かった。
おまえがうらやましい。渡米を伝えたあとで、凪砂はそういった。「何万人に好きだのイケメンだのいわれても全然うれしくねえよ。おまえのほうが幸せだって。間違いない」。
大きな家とやさしい両親、だれもが振り返るような美貌を持って生まれてきた凪砂を、幸運だとか幸福だとかそう考えるひとは多いはずだ。しかし、強烈な美貌はむしろ凪砂にとって疎ましい個性だったのかもしれない。見た目の印象にとらわれず、凪砂の本質を見つめる葉一のような人間は周囲にすくなかった。その環境は凪砂から他人への信頼感や自己肯定感を奪った。友達にも恋人にも、凪砂が本来の自分を曝け出すことはなかった。だれかを本気で好きになることもなく、華やかな外見の奥に孤独を抱えて生きてきた。
葉一に対して特別な感情はないと凪砂はいった。何度尋ねても、笑うだけだった。唯一、その一瞬だけ、演技の仮面が剥がれたような気がした。
確信はない。おれの考えが正しかったとしても、凪砂は絶対に認めないだろう。そしておれも、葉一をだれかに譲ることなどできない。たとえ凪砂が相手でも。凪砂への贖罪だとしても、葉一だけは、離せなかった。葉一を独占したかった。
「すごく愛してる、初芽」
「おれも愛してる……」
熱いものがこみ上げてきて、掌で顔を覆った。清潔とはいえないクラブのトイレのなかで、おれは全身を行き渡る感情を放出できず身を震わせた。
おれの選択を凪砂はゆるしてくれるだろうか。歪んだ愛情をぶつけられ、欲望の対象として消費されつづけてきた凪砂の苦痛を考えると、胸が詰まった。
「早くきて……」
声が掠れた。これ以上ひとりではいられなかった。凪砂をひとり残しておきながら、身勝手な本音がこぼれた。
「今すぐ行く」
短い言葉の後、通話は切れた。葉一の声が聞こえなくなっても、おれは便座に座ったまま動けなかった。スマホを持ったまま両手を組み、うなだれる。
「初芽!」
ほとんど叫び声だった。騒がしいフロア内でもはっきり聞こえ、その声が耳に届いたとたん、泣きそうになった。
「葉一くん」
トイレに入ると、騒音がわずかに遮られた。個室に入ると、大きく息をついた。自覚している以上に緊張していたらしい。
「連絡遅れてごめん」
葉一はおれ以上に安堵しているようだった。喘ぐような息づかいが聞こえてきた。
「仕事でトラブルがあって、ずっと私用携帯触れなくて……」
「そうだったんだ……」
事故があったのではと心配していただけに安心した。個室の壁に凭れかかって、目を閉じた。待ち望んでいた葉一の声。心が満たされ、体の力が脱けていく。
「だいじょうぶだったの?」
「ああ、どうにか……」
葉一の声には疲労の色が濃かった。すでに日付が変わっているが、まだ会社にいるようで、声の背後が慌ただしい。とはいえ、こちらのほうがよほど騒々しいのはあきらかで、葉一が怪訝そうにいった。
「騒がしいけど、どこいるの? 外?」
「うん。えっと……」
口籠もりながら答えた。
「実は、今新宿にきてて……」
「新宿?」
「還暦パーティの……」
「イエローにいるのか?」
クラブの名称を口にして、葉一は絶句した。
「おい、嘘だろ。なんでそんなとこに……」
咎めるような口ぶりではなかったが、店での疎外感もあり、泣きたい気持ちがより高まった。ひた隠しにしていた過去を打ち明けて傷ついているかもしれない凪砂をひとり部屋に残し、あきらかに招かれざる客として不慣れな場所にまでやってきたことを後悔しかけていたが、葉一の声を聞いたとたんに不安や罪悪感は消えてしまった。
「葉一くんに会いたくて……」
葉一がまた言葉を切った。静かにいった。
「凪砂となにかあったのか?」
「なにもないよ。ただ会いたかっただけ」
「じゃ……話できなかった?」
「ううん。できた」
葉一の声を噛みしめるようにスマホを耳につよく圧しつけた。
「全部聞いた。高校のときあったことも、今のことも、これからのことも全部」
葉一はおれにも凪砂にも嘘をつきつづけてきた。本人の意思ではない。おれたちがそう望んだからだ。葉一は常におれたちのために行動し、おれたちふたりともを守ってくれた。
「そっか……」
声だけでは葉一の感情をすべて読み取ることはできなかった。向こうももどかしさを感じたのか、早口にいった。
「とにかく、直接話そう」
走りながら話しているようで、呼吸が乱れている。
「すぐそっち行くから、そこで待ってろ」
「わかった」
「危ないからあんまうろつくなよ」
「子どもじゃないんだから……」
「わかってるけど心配なんだよ」
一言一言に葉一の思いやりと愛情が感じられ、胸があたたかくなった。
「今からタクシー拾うから、30分くらいで……」
「葉一くん」
葉一の言葉を遮って、いった。
「おれ、葉一くんといたい」
「わかってる。今向かうところだからすぐ……」
「そうじゃなくて」
個室の便座の蓋の上に座って、俯いた。
「ついてきてほしいっていったよね」
スマホの熱を掌と耳もとに感じる。まるで葉一がすぐちかくにいるように感じられた。
「辞令が出て、海外に行くことになったら、おれについてきてほしいって」
「ああ……」
葉一の声が強張る。足を止めたのか、周囲は静かになっていた。
「おれ、行く」
「……本当に?」
「うん」
見られていないのにもかかわらず、深く頷いた。
「どこでもついてく。葉一くんとずっといっしょにいたい。離れたくない」
「初芽……」
気持ちがあふれて、止められなかった。葉一が好きだった。葉一といられるなら、ほかに望むものはなかった。
「絶対離さないよ」
「うん……」
「一生かけて愛する。約束する」
真剣な声だった。力強く、熱かった。
おまえがうらやましい。渡米を伝えたあとで、凪砂はそういった。「何万人に好きだのイケメンだのいわれても全然うれしくねえよ。おまえのほうが幸せだって。間違いない」。
大きな家とやさしい両親、だれもが振り返るような美貌を持って生まれてきた凪砂を、幸運だとか幸福だとかそう考えるひとは多いはずだ。しかし、強烈な美貌はむしろ凪砂にとって疎ましい個性だったのかもしれない。見た目の印象にとらわれず、凪砂の本質を見つめる葉一のような人間は周囲にすくなかった。その環境は凪砂から他人への信頼感や自己肯定感を奪った。友達にも恋人にも、凪砂が本来の自分を曝け出すことはなかった。だれかを本気で好きになることもなく、華やかな外見の奥に孤独を抱えて生きてきた。
葉一に対して特別な感情はないと凪砂はいった。何度尋ねても、笑うだけだった。唯一、その一瞬だけ、演技の仮面が剥がれたような気がした。
確信はない。おれの考えが正しかったとしても、凪砂は絶対に認めないだろう。そしておれも、葉一をだれかに譲ることなどできない。たとえ凪砂が相手でも。凪砂への贖罪だとしても、葉一だけは、離せなかった。葉一を独占したかった。
「すごく愛してる、初芽」
「おれも愛してる……」
熱いものがこみ上げてきて、掌で顔を覆った。清潔とはいえないクラブのトイレのなかで、おれは全身を行き渡る感情を放出できず身を震わせた。
おれの選択を凪砂はゆるしてくれるだろうか。歪んだ愛情をぶつけられ、欲望の対象として消費されつづけてきた凪砂の苦痛を考えると、胸が詰まった。
「早くきて……」
声が掠れた。これ以上ひとりではいられなかった。凪砂をひとり残しておきながら、身勝手な本音がこぼれた。
「今すぐ行く」
短い言葉の後、通話は切れた。葉一の声が聞こえなくなっても、おれは便座に座ったまま動けなかった。スマホを持ったまま両手を組み、うなだれる。



