ファーストリーフ

 新宿駅周辺は混雑していた。終電を逃すまいと足を速める通行人の流れに逆らって歩く。二丁目は深夜も騒がしく、ドアが開いたままのバーからはけたたましい笑い声が漏れ出ていた。
 葉一から聞いていた店名を頼りにスマホの地図で検索したが、目的の店はなかなか見つけられなかった。数十分周辺を歩き回ってようやく辿り着いた。
 主役のママの店は10人ほどで満席になる小さな店舗ということで、還暦祝いの今日はべつの店舗が会場になっていた。地下のクラブはハウスミュージックが大音量で流れ、エントランスはひとでごった返していた。
 フロアに通じる重い防音ドアを開けたとたん、すさまじい熱気に包まれ、気後れして帰りたくなった。こういった場所には慣れていない。しかし、引き返したところですでに終電はなくなっていたし、葉一とはまだ連絡がついていなかった。臆する気持ちを奮い立たせ、フロア内に足を踏み入れた。
 フロアはそれほど広くないが、歩くのも苦労するほどの満員状態で、100人はいそうだった。ママはこの道30年でゲイコミュニティの顔役といえる存在でもあるという。奇抜なファッションのドラァグクイーンやテレビで顔を見かけるタレントの姿もあった。店内に複数台設置された大型のLEDビジョンには、還暦とは思えないほど若々しいメイクをした男性の顔写真とともにハッピーバースデイの文字が躍っていた。
 葉一の姿を探そうとしたが、この混雑ぶりでは難しかった。店内は暗く、レーザー照明がひっきりなしに煌めいて眩しかった。重低音が床を振動させ、鼓膜を振るわせる。スモークが炊かれているせいで視界が曇っている。煙草や汗、ハーブのような特徴的な匂いが充満し、空間全体の空気が淀んでいた。
 息ぐるしさに耐えながらフロアの奥にすすんだ。ドリンクカウンターで注文したコーラを手に、フロアの隅でぼんやりと佇んでいた。フロア内では幅広い年齢、性別のゲストたちが音楽に合わせて体を揺らしていた。顔をちかづけて笑い合っている姿は見えても声は聞こえない。パーティは盛り上がっていて、足に力を入れていないと熱狂の渦に吹き飛ばされそうだった。
 あきらかに場違いだった。きたのが間違いだったかもしれない。プラカップのコーラを一口飲んでからスマホを確認したが、葉一からの返信はない。LINEの既読もついていなかった。嫌な胸騒ぎがした。
 心配なのは当然だったが、心の奥に暗い不安も混在していた。アルバイトスタッフの由真の言葉を思い出していた。好きで付き合っても嫌になることもある。
 小さく首を振った。帰ろう。コーラのプラカップを持ったまま、壁沿いをすすんで出入り口を目指した。数人のグループとすれ違うとき、背後にいたべつの団体と接触し、バランスを崩した。前のめりに倒れそうになり、慌てて踏ん張ったが、躓いた拍子にカップのコーラがこぼれ、床を汚した。
「あ、すみません」
 声のしたほうを振り返ると、髪を明るい色に染めた男がこちらを見ていた。先を歩いていた友達らしき男たちも気づいて引き返してくる。
「どした?」
「ちょっとぶつかっちゃった」
「だいじょうぶ? ……あれ?」
 おれの顔を見て、友達のほうが首を傾げる。目を細め、至近距離で見つめられ、思わず身を引いた。
「どっかで会ってる?」
 すぐには気づかなかった。一拍措いて、おれも声を上げた。葉一の友人たちだ。新宿のカフェで食事をしたあとに声をかけられた。ぶつかった男も思い出したようで、笑顔になった。
「そうだ、葉ちゃんの友達でしょ」
「あの……」
「葉ちゃんもいっしょ? どこいんの?」
 立て続けに尋ねられ、戸惑っていると、べつのグループが近づいてきた。
「なに、どうしたの?」
「あ、カズ」
 カズと呼ばれた男の顔を見たとたん、息を飲んだ。おれの勤め先に客としてやってきて牽制するような言葉を残していった美青年だ。髪型が変わっていたが、間違えようがない。向こうもすぐに気づいたようで、あからさまに顔をしかめた。
「葉ちゃんの友達にぶつかっちゃってさ」
「友達?」
 男はおれを見つめたまま笑った。
「友達じゃない。彼氏だよ」
「え!」
 轟音のなかでも、ざわついているのが雰囲気でわかる。
「マジで?」
「マジだよ。ねえ?」
 後半の言葉はおれに向けられていたが、反応できなかった。否定すれば嘘になるし、肯定できる空気でもなかった。
「えー、なんかびっくり。全然気づかなかった」
「ほんとだよね。ちょっと意外な感じ」
「わかる、それ」
 カフェの前で会った男たちも、あらためておれを眺め回す。値踏みするような視線に居心地の悪さを感じ、おれは身を竦ませた。軽い口調ではあったが、意外という言葉には親しみを感じることはできなかった。
 葉一に聞いた話と彼らの態度からするに、このなかのすくなくとも数人は葉一と過去に関係があったはずだ。さっきまでとは空気があきらかにちがう。
「葉一は? いっしょじゃないの?」
 ぶつかった男が迫ってくる。顔には笑顔が張り付いていたが、眼の奥には好奇心に交じるわずかな敵意の火が見えた。葉一がモテることは意識していたが、直接的に嫉妬を向けられるのははじめてで、狼狽した。
「あの……おれ、もう帰るとこで」
「ひとりできたの?」
 男たちが顔を見合わせる。おれを横目に見てなにか囁きあっている。会話の内容は聞き取れなかった。だれかが笑った。好意的な笑いではなかった。息ぐるしさが増していた。
 手のなかで握っていたスマホが突然震えた。無意識に汗をかいていたようで、湿った指の隙間から滑り落ちてフロアの床に落下した。
 明るい髪の男が身を屈め、スマホを拾った。
「はい」
 にっこり微笑んで、スマホを差し出す。おそるおそる受け取った。スマホのディスプレイには葉一の名が浮かび上がっていた。拾ったときに見られたかもしれないが、男はなにもいわなかった。
「えっと、トイレは……」
「あそこだよ」
 おれの背後を指さして教えてくれる。店の奥にトイレの場所を示す電飾が光っていた。
「ありがとう」
「いいえー」
 間延びした声で手を振り、微笑む。すこしほっとした。敵意を感じたのは自意識過剰だったのかもしれない。しかし、肩越しに見えるカズの表情は硬く、おれへの敵意を隠そうともしていなかった。
 気まずさに耐えられなかった。振動しつづけるスマホを握りしめて、踵を返した。背中にも視線を感じ、逃げるようにその場を離れた。