ベッドのなか、寝返りを打った。布団にくるまったまま手を伸ばし、枕元のスマホをたぐり寄せる。ディスプレイに表示された時刻は11時すぎ。早朝から料理をして疲れているはずだったが、眠りはなかなか訪れそうになかった。
明かりをつける。上半身を捻ると、ベンジャミンの葉がかすかに揺れているのが見えた。窓を細く開けていた。煙草の匂いを逃がすためだ。自室のドアを開け放していることを忘れていた。
窓を閉め、ドアを開けて廊下を見る。凪砂の部屋は静かだった。もう眠ってしまったのだろうか。あるいは、おれとおなじように寝つけずにいるのかもしれない。
凪砂の話はあまりに衝撃的で、予想をはるかに超えたインパクトを与えた。まだ余韻が残っている。眠れるはずがない。
おれは凪砂も葉一も失いたくなかった。葉一もそうだといった。おれとの愛、凪砂との友情、どちらも手放す気はないと宣言した。
凪砂もおなじだった。おれと葉一のふたりともがそばにいる人生を望んだ。あるいは、おれたちのなかでもっともその状況に固執していたのかもしれない。これまで出会ったなかでもっとも深い愛情を示す人間と、これまで出会ったなかでもっとも関心を示さない人間の両方が、凪砂には必要だった。ほかのだれにも埋められない代役不可能なキャスティング。奪われることを恐れ、維持するためにあらゆる手段を講じた。そうしているうちにいつしか自分自身を見失いかけていることに気づいた。
渡米は以前から考えていたと凪砂は話した。海外、とくにハリウッドでは、日本ほど外見の要素は求められない。美醜よりもむしろ演技力や特性のほうが重視される。実力主義の世界だけに誤魔化しがきかず、母数が多いぶん競争も烈しい。しかし、挑戦する価値はある。
凪砂は俳優として現状に不満と焦りを感じていた。成長する機会や切磋琢磨できる環境をずっと求めてきた。渇望していたといっていい。二十代半ばにさしかかり、後悔の残らない人生を選択したいという思いが強まり、1年ほど前から準備をすすめていた。仕事のスケジュールを調整し、就労ビザを手配し、葉一に英語の個人レッスンを頼んだ。撮影中のドラマが国内で最後の仕事となる。
おれに隠していたのは、動揺することがわかりきっていたからだという。葉一も固く口止めされていた。実際、知っていたら平静ではいられなかっただろう。小学生の頃からずっといっしょだった。凪砂と離れることは想像できなかった。
凪砂と葉一が共通の秘密を持っていたことに、不快感や不信感を抱くことはなかった。高校の頃の性被害が凪砂にとって思い出したくない忌まわしい記憶であることは想像に難くない。渡米にしてもそうだ。凪砂の挑戦を支持し、素直に応援できたかどうか、自分でも疑わしい。身勝手な狼狽で凪砂の決意に水を差すことになっていたかもしれない。
しかし、今はちがう。これ以上凪砂の足を引っ張りたくなかった。心地よい空間も積み上げてきたキャリアもすべて棄てて、新しい一歩を踏み出そうとする凪砂の足枷にはなりたくない。黙って見送ることが、凪砂のためにおれができる唯一のことだ。凪砂にしがみつくのをやめ、解放しなくては。凪砂だけでなく、おれ自身のためにも。
ベッドの隅に腰掛け、息をついた。スマホを握りしめる。すこし前に葉一にLINEを送ったが、まだ既読がつかない。仕事が立て込んでいるのかもしれないし、もう新宿に移動したのかもしれない。
もう一度、今度は深いため息。葉一はまめな男で、連絡がつかないということは滅多にない。それも、なにかあればすぐ連絡するようにと事前にいわれていた。
葉一に会いたかった。声を聞けば不安が消え、心が落ち着く。返事がないことで会いたい気持ちがさらに募り、抑えられなくなっていた。
観葉植物に視線を向けた。葉一から譲り受けたベンジャミンは成長して葉の幅を広げていた。
決意が固まり、おれは立ち上がった。手早く着替えて、ショルダーバッグのなかにスマホを放り込んだ。
部屋を出る。凪砂の部屋の前に立ったが、躊躇った。もう眠っているかもしれない。起こしたくはなかった。すこし考えて、LINEを送っておくことにした。一度しまいこんだスマホを再び取り出し、文面を作成した。『葉一のところへ行く』と打ち込んだが、迷った末に修正した。『ちょっと出かけてくる』と入力し、送信した。ドアごしに受信を示す機械音が確認できたが、手元の画面に既読のチェックはつかなかった。熟睡しているのだろう。邪魔をしないようそっと玄関に向かった。
ドアを開け、外に出る前に、一度振り返った。凪砂とおれの15年間に思いを馳せた。凪砂は変わろうとしている。おれも変わらなければならない。
静かにドアを閉め、エレベーターに向かって歩き出した。もう振り返らなかった。
明かりをつける。上半身を捻ると、ベンジャミンの葉がかすかに揺れているのが見えた。窓を細く開けていた。煙草の匂いを逃がすためだ。自室のドアを開け放していることを忘れていた。
窓を閉め、ドアを開けて廊下を見る。凪砂の部屋は静かだった。もう眠ってしまったのだろうか。あるいは、おれとおなじように寝つけずにいるのかもしれない。
凪砂の話はあまりに衝撃的で、予想をはるかに超えたインパクトを与えた。まだ余韻が残っている。眠れるはずがない。
おれは凪砂も葉一も失いたくなかった。葉一もそうだといった。おれとの愛、凪砂との友情、どちらも手放す気はないと宣言した。
凪砂もおなじだった。おれと葉一のふたりともがそばにいる人生を望んだ。あるいは、おれたちのなかでもっともその状況に固執していたのかもしれない。これまで出会ったなかでもっとも深い愛情を示す人間と、これまで出会ったなかでもっとも関心を示さない人間の両方が、凪砂には必要だった。ほかのだれにも埋められない代役不可能なキャスティング。奪われることを恐れ、維持するためにあらゆる手段を講じた。そうしているうちにいつしか自分自身を見失いかけていることに気づいた。
渡米は以前から考えていたと凪砂は話した。海外、とくにハリウッドでは、日本ほど外見の要素は求められない。美醜よりもむしろ演技力や特性のほうが重視される。実力主義の世界だけに誤魔化しがきかず、母数が多いぶん競争も烈しい。しかし、挑戦する価値はある。
凪砂は俳優として現状に不満と焦りを感じていた。成長する機会や切磋琢磨できる環境をずっと求めてきた。渇望していたといっていい。二十代半ばにさしかかり、後悔の残らない人生を選択したいという思いが強まり、1年ほど前から準備をすすめていた。仕事のスケジュールを調整し、就労ビザを手配し、葉一に英語の個人レッスンを頼んだ。撮影中のドラマが国内で最後の仕事となる。
おれに隠していたのは、動揺することがわかりきっていたからだという。葉一も固く口止めされていた。実際、知っていたら平静ではいられなかっただろう。小学生の頃からずっといっしょだった。凪砂と離れることは想像できなかった。
凪砂と葉一が共通の秘密を持っていたことに、不快感や不信感を抱くことはなかった。高校の頃の性被害が凪砂にとって思い出したくない忌まわしい記憶であることは想像に難くない。渡米にしてもそうだ。凪砂の挑戦を支持し、素直に応援できたかどうか、自分でも疑わしい。身勝手な狼狽で凪砂の決意に水を差すことになっていたかもしれない。
しかし、今はちがう。これ以上凪砂の足を引っ張りたくなかった。心地よい空間も積み上げてきたキャリアもすべて棄てて、新しい一歩を踏み出そうとする凪砂の足枷にはなりたくない。黙って見送ることが、凪砂のためにおれができる唯一のことだ。凪砂にしがみつくのをやめ、解放しなくては。凪砂だけでなく、おれ自身のためにも。
ベッドの隅に腰掛け、息をついた。スマホを握りしめる。すこし前に葉一にLINEを送ったが、まだ既読がつかない。仕事が立て込んでいるのかもしれないし、もう新宿に移動したのかもしれない。
もう一度、今度は深いため息。葉一はまめな男で、連絡がつかないということは滅多にない。それも、なにかあればすぐ連絡するようにと事前にいわれていた。
葉一に会いたかった。声を聞けば不安が消え、心が落ち着く。返事がないことで会いたい気持ちがさらに募り、抑えられなくなっていた。
観葉植物に視線を向けた。葉一から譲り受けたベンジャミンは成長して葉の幅を広げていた。
決意が固まり、おれは立ち上がった。手早く着替えて、ショルダーバッグのなかにスマホを放り込んだ。
部屋を出る。凪砂の部屋の前に立ったが、躊躇った。もう眠っているかもしれない。起こしたくはなかった。すこし考えて、LINEを送っておくことにした。一度しまいこんだスマホを再び取り出し、文面を作成した。『葉一のところへ行く』と打ち込んだが、迷った末に修正した。『ちょっと出かけてくる』と入力し、送信した。ドアごしに受信を示す機械音が確認できたが、手元の画面に既読のチェックはつかなかった。熟睡しているのだろう。邪魔をしないようそっと玄関に向かった。
ドアを開け、外に出る前に、一度振り返った。凪砂とおれの15年間に思いを馳せた。凪砂は変わろうとしている。おれも変わらなければならない。
静かにドアを閉め、エレベーターに向かって歩き出した。もう振り返らなかった。



