ファーストリーフ

 話があると予告されていただけに、すくなからず緊張していたが、凪砂はなにもいわなかった。いつもどおりに帰宅して、着替えてシャワーを浴び、食事を取った。
「あの……」
 耐えられず、自分から切り出した。
「さっき、ごめん」
 ほどけたキャベツの葉を箸の先でつつきながら、おずおずといった。
「なにが」
 テーブルの向かい側でスマホを操作しながら凪砂がいう。視線はスマホの画面に向けられたままで、空いた手でスープの皿をつかみクラムチャウダーを啜っている。食欲もいつもどおりで、チキンとロールキャベツの皿はすでに空になっていた。
「その……嫌ないいかたして……」
「べつに気にしてねえよ。事実だしな」
「そんな……」
「拗ねてるわけじゃねえから。いいんだよ。自分でわかってる」
 いつもなら、そんなことはないとつよく否定する。しかしこの日はなにもいえなかった。
「ごちそうさん」
 空いた皿を重ねて、凪砂が立ち上がる。話は終わりといった様子で、キッチンの流し台に皿を置く。凪砂の動作を目で追いながら、おれは狼狽した。これまで、凪砂と真剣に膝をつき合わせて話をしたことはなかった。そういう雰囲気をつくるのは簡単ではなかった。
 凪砂がなにもいわないことも不可解だった。凪砂の性格を考えれば、帰宅してすぐに本題に入るはずだ。昼間のやりとりがまるでなかったかのように、機嫌を損ねることもなく、平然とふだんどおりに振る舞っている。
「初芽」
 呼ばれていることに気づくのが遅れた。
「初芽」
「えっ、はい」
 慌てて顔を上げる。すぐ隣に凪砂が立っていた。スウェットのポケットに手を突っ込んで、おれを見下ろしている。
「おまえ、暇?」
 なにも予定を入れるなといっておきながら、凪砂は平然といった。
「暇なら、本読み付き合ってくんない」
「本読み……」
「台本読むこと」
「それは……わかるけど……」
 舞台やドラマの出演が決まり、台本が提供されると、凪砂は毎日のように自室やリビングで台本と睨み合いながら、声に出して練習していた。おれは邪魔にならないよう息を潜めながら見守っていた。手伝ってほしいと頼まれたのははじめてだった。演技の経験もなく、器用でもないおれにそんなことをさせようとする意図がわからず、戸惑った。
「……なにしたらいいの?」
「相手役やって、おれが台詞に詰まったら教えてくれりゃいいから」
「相手役って……おれ、演技とかできないけど」
「わかってるよ。演技する必要ない。ただフラットに読めばいいんだって」
 自信はなかったが、凪砂から頼まれて断れるはずもない。けっきょく、頷いた。
 凪砂の心の裡をはかることができず悩むのもはじめてだった。これまではわかっていたということではない。考えたことがなかった。
 凪砂もおれのように、あるいはおれ以上に怯えているのかもしれない。凪砂は完璧な人間ではない。おれがそう思い込んだ。勝手なイメージに凪砂を圧しこめ、身動きが取れないように縛りつけていた。
 食器を洗ってリビングにもどると、先に食事を済ませた凪砂が待っていた。手渡された台本は撮影中のドラマの最新話で、紙の表面はまだ真新しかったが、すでに多くの付箋と赤い文字の書き込みでびっしりと埋められていた。芝居にかける凪砂の思いが込められているようで、あらためて自分の不用意な発言を恥じた。
「どこ読めばいいの」
「8ページの2行目から。放課後の教室のシーンあるだろ。『シオン』って役やって」
 主人公らしき『シオン』の友人が凪砂に振り分けられた役のようだ。実際の放映はまだ先だが、メインキャストとおおまかなストーリーの流れはすでに公開されていた。はじめての恋愛、それも同性を相手に芽生えた恋心に戸惑う主人公の成長が描かれた純愛物語だ。大手事務所に所属する若手注目株の俳優と女子中高生に人気のアイドルグループメンバーによるダブル主演ということで早くも話題を呼んでいた。原作はネットで公開されているウェブ小説で、凪砂の出演が決まってからすぐに読んだが、嫌みのない新鮮な筆致とリアルな心情描写に引き込まれた。凪砂は端役だと謙遜していたが、主人公を支える友人のひとりで、出番はすくなくても重要な役柄だった。
「変に芝居つけないで、さらっと読んでくれたらいいよ」
「わかった」
 不慣れなことで緊張したが、凪砂の役に立てることは単純にうれしかったし、凪砂の世界に触れることはこれまでにない高揚を齎していた。
「じゃあ……読みます」
 ソファに座り、凪砂は目を瞑っている。集中しているのだ。凪砂と自分のために淹れたコーヒーを一口飲んで、最初の台詞を目で追った。
「話したいことがあるんだけど……」
 いわれたとおり、抑揚をつけずに、噛まないようゆっくりと慎重に読んだ。目を閉じたまま、凪砂が答える。
「なに?」
 頭のなかで記憶した台詞を呼び起こしているのか、目を閉じたままいう。
「深刻な話?」
「深刻っていうか……」
 できる限り緊張を圧しころして、いった。
「気づいてるよね、おれたちのこと」
「おれたち?」
「おれと風間くん」
「ああ……」
 おれは棒読みだが、凪砂は芝居を加えていた。わずかに首を窄めて、いった。
「見た?」
「なにを?」
「この前、体育館の裏で……」
「見たよ」
 凪砂が目を開き、おれを見る。鋭い眼差しが演技なのかそうでないのか判別できずに、思わず身を竦めた。
「どう……思った?」
 声が掠れたのは演技したわけではなく、自然なものだった。
「気持ち悪いよね?」
「べつに気持ち悪くはないよ」
 凪砂が演じる友人は、さりげなくいった。
「おまえがだれを好きでも、おれたちが友達だってことに変わりないじゃん」
 次の台詞を目では確認できていたが、声が出てこなかった。言葉に詰まるおれを見て、凪砂が眉を顰める。不自然な沈黙の後、おれは細い声で呟いた。
「葉一くんと付き合ってる」