「初芽もいっしょかよ。なにしてんだ、こんなとこで」
大きな目を丸くして、凪砂が近づいてくる。
「おれの会社すぐそこだから」
さりげなくベンチの上で距離を取りながら、葉一が手のなかのサンドイッチの残りを口に放り込む。
「おまえは?」
視線を向けられ、おれはたじろいだ。予想もしていなかったことに、葉一ほど自然には対応できなかった。
「おれが初芽に頼んで昼メシ届けてもらったんだよ」
「昼メシ?」
凪砂の視線がおれの顔から膝の上のサンドイッチに移る。
「なに、おまえんとこデリバリーもはじめたの?」
「えっ、いや……」
「冗談だよ。おれにもくれ。昼食ってねんだわ」
了承を得ないまま、おれのボックスからサンドイッチをひとつつかみ取る。
「これ持ってく?」
ボックスごと差し出すと、凪砂は無邪気な笑顔を見せた。
「撮影前でメシの時間なくてどうしようかと思ってたわ」
「おまえな、ちょっとは遠慮しろよ」
葉一が呆れた顔で窘める。
「いいよ、だいじょうぶ」
「初芽のぶんなくなるだろ」
「おれはそんなおなか空いてないから」
おれたちのやりとりを眺めていた凪砂が怪訝そうに眉を歪める。
「ていうか、おまえら、最近仲良すぎじゃね?」
サンドイッチを頬張りながら、おれと葉一を見較べる。
「前からそんな感じだっけ? おれ抜きでもよく会ってるよな」
「そ、そうだっけ……」
葉一と先に親しくなったのは凪砂のほうだった。告白されるまでは、葉一とふたりで会うことはほとんどなく、たまに凪砂の出演する舞台や映画に付き合ってもらうくらいだった。おれの外出が増えたことに凪砂は関心を寄せていないように見えたが、違和感を抱いていたのだろう。
「そうしょっちゅうってわけじゃないよ。おれの仕事が忙しいから、初芽が心配してくれただけ」
凪砂の視線をまっすぐ受け止められないおれに代わって、葉一が助け船を出してくれる。
「ふーん」
凪砂の眼差しが鋭くなったのはほんの一瞬で、すぐにまた醒めた表情に変わる。
「どうでもいいけどさ、昼間っからこんなとこでいちゃついてるとホモカップルだと勘違いされんぞ」
背すじが冷える感覚。鼓動が早まり、呼吸がくるしくなる。いつもの軽口で他意はないとわかっていても、動揺を隠しきれなかった。
「ホモって、おまえな……」
葉一もいつもどおり苦笑いで返す。いつもとちがうのはおれだけだった。顔が強張って血管は振動している。凪砂が目敏く気づき、おれに目を向ける。
「なんだよ、初芽」
首を傾けて、視線を逸らせようとするおれの顔を覗きこんでくる。
「なんかいいたいことあんのかよ」
「べつに……」
「おい、凪砂。絡むなよ」
葉一がおれと凪砂の間に体を割り込ませる。宥めるように凪砂の肩に手を置く。おれから遠ざけようとするためだと理解していたが、葉一が凪砂に触れたとたん、胸の奥がざわめいた。
「そういうのやめたほうがいいと思う」
「あ?」
無意識に口をついて出た言葉。葉一の体ごしに凪砂がおれを見る。葉一も振り返った。
「なんだよ、それ。そういうのってどういうのだよ」
「だからそういう……」
「初芽」
葉一が慌てて止めに入ったが、止まらなかった。おれは凪砂の目を見て、いった。
「ホモとかそういうの、ふつうに差別だよ。やめたほうがいいと思う」
「はあ?」
凪砂の表情が歪む。さっきまでは戸惑いだったが、今では苛立ちに変わっていた。
「それなに、文句?」
「文句ってわけじゃないけど……」
「いきなりなんなんだよ。意味わかんねんだけど。今までもおなじこといってただろ。なに急に常識人ぶってんだよ」
「おいおい、凪砂もやめとけって。熱くなんなよ、な」
葉一が軽い口調で取りなそうとするが、笑顔はぎこちなかった。
「べつに……ただ、ドラマにも出てるんだし、そういう……」
「ドラマがなんなんだよ。関係ねえだろ。なに、殺人鬼の役やってたら犯罪にも寛容になれっつの? そゆこと?」
「ちがうけど……」
「なんでいちいちそこまでいわれなきゃなんねえんだよ。めんどくせえ」
凪砂の苛立ちは明確な怒りに変化しつつあった。臆しながらも、おれは震える声で反論した。
「だから主役になれないんじゃないの」
口にした瞬間、後悔した。凪砂の顔から血の気が引き、表情がみるみるうちに険しくなっていく。形状がすぐれているぶん、表情が消えると寒々として恐ろしかった。
「おまえ、今なんつった?」
「やめろって」
葉一ももう笑っていなかった。おれに背を向け、凪砂の前に立ちはだかる。スーツの背中で視界が埋め尽くされ、凪砂が見えなくなった。
「初芽も凪砂もちょっと落ち着けよ」
「うっせえな、おまえは引っ込んでろよ」
体格差程度で退くほど凪砂は軟弱ではなかった。葉一を圧しのけ、至近距離で睨みつけてきた。
「わかったような口きいてんじゃねえぞ、おい」
低く殺した声。瞳が燃えて揺れている。おれは硬直して動けなかった。蛇ににらまれた蛙だ。怒鳴られると覚悟したが、凪砂の怒りは予想をはるかに超えていた。はじめて見る凪砂の表情に、おれは完全に怯えていた。
「なあ、おい。おまえにわかんのかよ。おれの……」
「凪砂!」
葉一が声を荒らげた。凪砂の腕をつかみ、おれから引き剥がす。
「その辺にしとけ」
葉一の声も低かったが、つよい力がこもっていた。凪砂に鋭く睨まれても、おれのように怯まなかった。
「撮影あるんだろ。遅れないほうがいい」
凄みを帯びていたのは一瞬だけで、次の言葉にはもう穏やかさがもどっていた。
「ほら、これ持ってけ」
ベンチの上のサンドイッチのボックスを圧しつけられ、凪砂はもう一度おれを睨んだ。小さく舌打ちして、葉一の手からボックスを奪い取った。箱をつかんだまま、人差し指でおれを指す。
「初芽、おまえ今日家いろよ」
「え……」
「おい、凪砂……」
「うるせえつってんだろ。話すだけだよ」
葉一のほうは見ずに、おれを見据える。
「話したいことあるから、どこも出かけんなよ。わかったな」
それだけいうと、凪砂は踵を返した。そのまま無言で立ち去ってしまう。大股に歩く背中には憤りが露になっていた。
凪砂の姿が見えなくなると、緊張の糸が解け、その場に座り込みそうになった。足に力が入らない。ふらつくおれを支え、葉一が心配そうにいう。
「だいじょうぶか」
かろうじて頷いた。まだ体が震えている。葉一の手を借りてベンチに座った。
「どうしたんだよ」
「ごめん……」
「謝らなくていいけどさ。初芽と凪砂が喧嘩するとこはじめて見たからびっくりした」
葉一も困惑しているようだった。凪砂と衝突するのは小学校で出会って以来はじめてだった。凪砂の言葉を否定したり反論したりすることなど考えたこともなかった。
「ごめん……自分でもなんであんなこといったのかわかんなくて……」
「おれのため?」
おれの震える指を握って、葉一が静かに尋ねる。黙って首を振った。これまでおなじようなやりとりは何度もあったし、おれもなにも考えず当然のように凪砂に同調した。葉一がどんな気持ちで迎合の笑みを浮かべていたか想像すれば、居たたまれなかった。しかし、反駁したのは葉一のためではなかった。
「葉一くんのためじゃない。自分のため……」
誤魔化すことはできなかった。葉一のことも凪砂のことも慮ることのない完全なるエゴイズムだと自覚していた。
凪砂に対して、あまりに無遠慮な言葉を投げつけてしまった。安易な一般論を振りかざし、もっとも触れてはいけない領域に土足で踏み込んだ。正論だからといって、相手を傷つけるために乱暴につかってはいけない。
「葉一くんはなんでふつうにしていられるの」
自己嫌悪の渦に呑みこまれまいと指先を掌に食いこませて、いった。
「ホモとかキモいとか聞かされて、傷つかないの」
「そりゃまったくなにも思わないわけじゃないけど、でも平気だよ」
「平気なわけない。あんなの……」
「まあ、確かに他の奴ならちょっと怒ってるかもだけど……」
「凪砂はいいってこと?」
葉一の言葉を遮るようにいった。
「凪砂は特別だから?」
「え? いや、特別っていう意味じゃない」
俯くおれの顔を覗きこんで、葉一がいう。
「凪砂のこと気にしてんの?」
答えられなかった。肯定すれば自分と凪砂を同等視しているようだし、否定するならべつの理由を差し出さなければならない。
「凪砂のことはなんとも思ってないっていっただろ」
「わかってる……」
「初芽だけっていったよな」
「わかってるってば」
沈黙。犬の鳴き声が聞こえ、咄嗟に身を引こうとしたが、わずかに距離が開いただけで、手は握られたままだった。
背後を犬の声と足音が通り過ぎていく。散歩中の住民だろう。立ち止まることなく、遠ざかっていく。自意識過剰だとわかってはいたが、どうしても、他人の目を気にしてしまう。その結果の行為が葉一を傷つけることもわかっていた。
「ごめんな。くるしい思いさせてんだな」
膝の上で指先をつかむ手に力がこもる。葉一のほうがつらいのに、表情を変えることはない。もう一度首を横に振った。
「ちがう。おれのせい……」
張り詰めた糸が切れかけている兆候。葉一も感じているだろう。これ以上先延ばしにはできない。
「今日、凪砂に話す」
「……ほんとに?」
葉一が心配そうに見つめてくる。
「おれも行くよ」
「だいじょうぶだから。葉一くんはイベント行ってきて」
なおも心配そうに眉間に皺を寄せている葉一の手を握り返した。
「だいじょうぶ。ちゃんといえる」
葉一の手のぬくもりを直接感じていると、すこしずつ動揺が収まり、落ち着いてきた。大きく深呼吸すると、葉一が空いたもう片方の手で頭を撫でてくれた。
「この前、おれ初芽に選択迫るようなこといったけどさ、凪砂を棄てておれを選べってことじゃないよ」
視線を挙げると、やさしい笑顔とぶつかった。
「おれも、凪砂とはずっと友達でいたいと思ってるから。凪砂には初芽とのこと認めてもらいたいし、軽蔑されても、理解してもらえるまでしっかり向き合いたい」
今この場で考えた言葉ではない。ずっと心のなかに圧しこめてきた願いのはずだった。細かく何度も頷いた。おれもおなじだった。凪砂と葉一、だれもが近づきたい、友達や恋人になりたいと切望するふたりをどちらも手放したくないと考えるのは贅沢だろうか。そんな葛藤を抱えていた。葉一の一言で、おれの迷いは消えた。
「絶対だいじょうぶ」
おれの手を握り、葉一が呟く。おれを勇気づけるというよりも、自らにいい聞かせているように聞こえた。黙って頷いた。
風が吹いて、頭上の木々が揺れた。葉が擦れあい、緑の匂いが濃くなった。
大きな目を丸くして、凪砂が近づいてくる。
「おれの会社すぐそこだから」
さりげなくベンチの上で距離を取りながら、葉一が手のなかのサンドイッチの残りを口に放り込む。
「おまえは?」
視線を向けられ、おれはたじろいだ。予想もしていなかったことに、葉一ほど自然には対応できなかった。
「おれが初芽に頼んで昼メシ届けてもらったんだよ」
「昼メシ?」
凪砂の視線がおれの顔から膝の上のサンドイッチに移る。
「なに、おまえんとこデリバリーもはじめたの?」
「えっ、いや……」
「冗談だよ。おれにもくれ。昼食ってねんだわ」
了承を得ないまま、おれのボックスからサンドイッチをひとつつかみ取る。
「これ持ってく?」
ボックスごと差し出すと、凪砂は無邪気な笑顔を見せた。
「撮影前でメシの時間なくてどうしようかと思ってたわ」
「おまえな、ちょっとは遠慮しろよ」
葉一が呆れた顔で窘める。
「いいよ、だいじょうぶ」
「初芽のぶんなくなるだろ」
「おれはそんなおなか空いてないから」
おれたちのやりとりを眺めていた凪砂が怪訝そうに眉を歪める。
「ていうか、おまえら、最近仲良すぎじゃね?」
サンドイッチを頬張りながら、おれと葉一を見較べる。
「前からそんな感じだっけ? おれ抜きでもよく会ってるよな」
「そ、そうだっけ……」
葉一と先に親しくなったのは凪砂のほうだった。告白されるまでは、葉一とふたりで会うことはほとんどなく、たまに凪砂の出演する舞台や映画に付き合ってもらうくらいだった。おれの外出が増えたことに凪砂は関心を寄せていないように見えたが、違和感を抱いていたのだろう。
「そうしょっちゅうってわけじゃないよ。おれの仕事が忙しいから、初芽が心配してくれただけ」
凪砂の視線をまっすぐ受け止められないおれに代わって、葉一が助け船を出してくれる。
「ふーん」
凪砂の眼差しが鋭くなったのはほんの一瞬で、すぐにまた醒めた表情に変わる。
「どうでもいいけどさ、昼間っからこんなとこでいちゃついてるとホモカップルだと勘違いされんぞ」
背すじが冷える感覚。鼓動が早まり、呼吸がくるしくなる。いつもの軽口で他意はないとわかっていても、動揺を隠しきれなかった。
「ホモって、おまえな……」
葉一もいつもどおり苦笑いで返す。いつもとちがうのはおれだけだった。顔が強張って血管は振動している。凪砂が目敏く気づき、おれに目を向ける。
「なんだよ、初芽」
首を傾けて、視線を逸らせようとするおれの顔を覗きこんでくる。
「なんかいいたいことあんのかよ」
「べつに……」
「おい、凪砂。絡むなよ」
葉一がおれと凪砂の間に体を割り込ませる。宥めるように凪砂の肩に手を置く。おれから遠ざけようとするためだと理解していたが、葉一が凪砂に触れたとたん、胸の奥がざわめいた。
「そういうのやめたほうがいいと思う」
「あ?」
無意識に口をついて出た言葉。葉一の体ごしに凪砂がおれを見る。葉一も振り返った。
「なんだよ、それ。そういうのってどういうのだよ」
「だからそういう……」
「初芽」
葉一が慌てて止めに入ったが、止まらなかった。おれは凪砂の目を見て、いった。
「ホモとかそういうの、ふつうに差別だよ。やめたほうがいいと思う」
「はあ?」
凪砂の表情が歪む。さっきまでは戸惑いだったが、今では苛立ちに変わっていた。
「それなに、文句?」
「文句ってわけじゃないけど……」
「いきなりなんなんだよ。意味わかんねんだけど。今までもおなじこといってただろ。なに急に常識人ぶってんだよ」
「おいおい、凪砂もやめとけって。熱くなんなよ、な」
葉一が軽い口調で取りなそうとするが、笑顔はぎこちなかった。
「べつに……ただ、ドラマにも出てるんだし、そういう……」
「ドラマがなんなんだよ。関係ねえだろ。なに、殺人鬼の役やってたら犯罪にも寛容になれっつの? そゆこと?」
「ちがうけど……」
「なんでいちいちそこまでいわれなきゃなんねえんだよ。めんどくせえ」
凪砂の苛立ちは明確な怒りに変化しつつあった。臆しながらも、おれは震える声で反論した。
「だから主役になれないんじゃないの」
口にした瞬間、後悔した。凪砂の顔から血の気が引き、表情がみるみるうちに険しくなっていく。形状がすぐれているぶん、表情が消えると寒々として恐ろしかった。
「おまえ、今なんつった?」
「やめろって」
葉一ももう笑っていなかった。おれに背を向け、凪砂の前に立ちはだかる。スーツの背中で視界が埋め尽くされ、凪砂が見えなくなった。
「初芽も凪砂もちょっと落ち着けよ」
「うっせえな、おまえは引っ込んでろよ」
体格差程度で退くほど凪砂は軟弱ではなかった。葉一を圧しのけ、至近距離で睨みつけてきた。
「わかったような口きいてんじゃねえぞ、おい」
低く殺した声。瞳が燃えて揺れている。おれは硬直して動けなかった。蛇ににらまれた蛙だ。怒鳴られると覚悟したが、凪砂の怒りは予想をはるかに超えていた。はじめて見る凪砂の表情に、おれは完全に怯えていた。
「なあ、おい。おまえにわかんのかよ。おれの……」
「凪砂!」
葉一が声を荒らげた。凪砂の腕をつかみ、おれから引き剥がす。
「その辺にしとけ」
葉一の声も低かったが、つよい力がこもっていた。凪砂に鋭く睨まれても、おれのように怯まなかった。
「撮影あるんだろ。遅れないほうがいい」
凄みを帯びていたのは一瞬だけで、次の言葉にはもう穏やかさがもどっていた。
「ほら、これ持ってけ」
ベンチの上のサンドイッチのボックスを圧しつけられ、凪砂はもう一度おれを睨んだ。小さく舌打ちして、葉一の手からボックスを奪い取った。箱をつかんだまま、人差し指でおれを指す。
「初芽、おまえ今日家いろよ」
「え……」
「おい、凪砂……」
「うるせえつってんだろ。話すだけだよ」
葉一のほうは見ずに、おれを見据える。
「話したいことあるから、どこも出かけんなよ。わかったな」
それだけいうと、凪砂は踵を返した。そのまま無言で立ち去ってしまう。大股に歩く背中には憤りが露になっていた。
凪砂の姿が見えなくなると、緊張の糸が解け、その場に座り込みそうになった。足に力が入らない。ふらつくおれを支え、葉一が心配そうにいう。
「だいじょうぶか」
かろうじて頷いた。まだ体が震えている。葉一の手を借りてベンチに座った。
「どうしたんだよ」
「ごめん……」
「謝らなくていいけどさ。初芽と凪砂が喧嘩するとこはじめて見たからびっくりした」
葉一も困惑しているようだった。凪砂と衝突するのは小学校で出会って以来はじめてだった。凪砂の言葉を否定したり反論したりすることなど考えたこともなかった。
「ごめん……自分でもなんであんなこといったのかわかんなくて……」
「おれのため?」
おれの震える指を握って、葉一が静かに尋ねる。黙って首を振った。これまでおなじようなやりとりは何度もあったし、おれもなにも考えず当然のように凪砂に同調した。葉一がどんな気持ちで迎合の笑みを浮かべていたか想像すれば、居たたまれなかった。しかし、反駁したのは葉一のためではなかった。
「葉一くんのためじゃない。自分のため……」
誤魔化すことはできなかった。葉一のことも凪砂のことも慮ることのない完全なるエゴイズムだと自覚していた。
凪砂に対して、あまりに無遠慮な言葉を投げつけてしまった。安易な一般論を振りかざし、もっとも触れてはいけない領域に土足で踏み込んだ。正論だからといって、相手を傷つけるために乱暴につかってはいけない。
「葉一くんはなんでふつうにしていられるの」
自己嫌悪の渦に呑みこまれまいと指先を掌に食いこませて、いった。
「ホモとかキモいとか聞かされて、傷つかないの」
「そりゃまったくなにも思わないわけじゃないけど、でも平気だよ」
「平気なわけない。あんなの……」
「まあ、確かに他の奴ならちょっと怒ってるかもだけど……」
「凪砂はいいってこと?」
葉一の言葉を遮るようにいった。
「凪砂は特別だから?」
「え? いや、特別っていう意味じゃない」
俯くおれの顔を覗きこんで、葉一がいう。
「凪砂のこと気にしてんの?」
答えられなかった。肯定すれば自分と凪砂を同等視しているようだし、否定するならべつの理由を差し出さなければならない。
「凪砂のことはなんとも思ってないっていっただろ」
「わかってる……」
「初芽だけっていったよな」
「わかってるってば」
沈黙。犬の鳴き声が聞こえ、咄嗟に身を引こうとしたが、わずかに距離が開いただけで、手は握られたままだった。
背後を犬の声と足音が通り過ぎていく。散歩中の住民だろう。立ち止まることなく、遠ざかっていく。自意識過剰だとわかってはいたが、どうしても、他人の目を気にしてしまう。その結果の行為が葉一を傷つけることもわかっていた。
「ごめんな。くるしい思いさせてんだな」
膝の上で指先をつかむ手に力がこもる。葉一のほうがつらいのに、表情を変えることはない。もう一度首を横に振った。
「ちがう。おれのせい……」
張り詰めた糸が切れかけている兆候。葉一も感じているだろう。これ以上先延ばしにはできない。
「今日、凪砂に話す」
「……ほんとに?」
葉一が心配そうに見つめてくる。
「おれも行くよ」
「だいじょうぶだから。葉一くんはイベント行ってきて」
なおも心配そうに眉間に皺を寄せている葉一の手を握り返した。
「だいじょうぶ。ちゃんといえる」
葉一の手のぬくもりを直接感じていると、すこしずつ動揺が収まり、落ち着いてきた。大きく深呼吸すると、葉一が空いたもう片方の手で頭を撫でてくれた。
「この前、おれ初芽に選択迫るようなこといったけどさ、凪砂を棄てておれを選べってことじゃないよ」
視線を挙げると、やさしい笑顔とぶつかった。
「おれも、凪砂とはずっと友達でいたいと思ってるから。凪砂には初芽とのこと認めてもらいたいし、軽蔑されても、理解してもらえるまでしっかり向き合いたい」
今この場で考えた言葉ではない。ずっと心のなかに圧しこめてきた願いのはずだった。細かく何度も頷いた。おれもおなじだった。凪砂と葉一、だれもが近づきたい、友達や恋人になりたいと切望するふたりをどちらも手放したくないと考えるのは贅沢だろうか。そんな葛藤を抱えていた。葉一の一言で、おれの迷いは消えた。
「絶対だいじょうぶ」
おれの手を握り、葉一が呟く。おれを勇気づけるというよりも、自らにいい聞かせているように聞こえた。黙って頷いた。
風が吹いて、頭上の木々が揺れた。葉が擦れあい、緑の匂いが濃くなった。



