予告のとおり、翌週からの葉一は多忙を極め、週末もほぼ休みなく出社していた。外資系ホテルとフードブランドの日本出店プロジェクトに携わっているということだった。細かいことはわからないが、国内での不動産契約から広告宣伝までの業務を取り纏めているとのことで、特別なポジションなのだということが想像できる。葉一の能力が高く評価されている結果であり、順調にキャリアを積み重ねていることの証拠でもあった。喜ばしいことではあったが、その先に待っているであろう海外への転勤が現実味を増しているようで、複雑な気持ちだった。
仕事が忙しくなると会える時間も減る。葉一のマンションを訪ねて食事を用意したり掃除や洗濯をしたりということはあったが、部屋の持ち主は深夜まで帰宅しないことも多く、会社に泊まってそのまま翌日の業務に入ることも珍しくなかった。あまりのハードワークに体調を崩さないか心配だったが、おれにできるのは栄養価を考慮した食事をつくり、冷蔵庫の中身を充実させておくことくらいだった。
店が定休日の火曜、おれは朝から準備した昼食をランチボックスに詰めて葉一の会社に向かっていた。地下鉄に乗って大手町へ。出不精で極端に行動範囲の狭いおれは、その程度の距離を移動するだけでも緊張していた。
仕事が忙しくなってからは、葉一の会社の近くで昼に待ち合わせて、公園やカフェで1時間ほど過ごして別れることも多かった。たいていはおれのランチ営業が終わってからかディナー営業の前。昼食をいっしょにできることは珍しかった。
レストランやカフェでなく公園でのランチを提案したのはおれだった。激務の日々で疲弊している葉一のためにできることもほとんどないうえに、望ましいはずの海外赴任を恐れていることで罪悪感をおぼえていた。葉一を喜ばせたかったし、なんでもいいから役に立ちたかった。
待ち合わせた公園に到着したのは約束した時間の10分ほど前だったが、葉一は先にきていた。ベンチの中央に座り、ノートパソコンを膝の上で広げて、スマホでだれかと話している。難しい話題のようで、眉間に皺を寄せている。肩と耳でスマホを挟み、両手で素早くパソコンのキーボードを叩く。真剣な表情はまるでべつの世界の住民のようだった。
なんとなく、声をかけるのが憚られて、すこし離れた場所に立って、通話が終わるのを待った。午後1時を過ぎたオフィス街の小さな公園はひともまばらで、女性の3人組がベンチでおしゃべりしている以外には、仕事中らしきビジネスパーソンたちが時折行き交うくらいだ。一様に忙しなく足早に通り過ぎていく。おれや葉一に関心を向けることはなかった。というより、周囲に気を配る様子は見られなかった。時間の軸がちがっているように思えた。
通話を終えた葉一がスマホをスーツのポケットにしまい、顔を上げた。おれに気づき、手を振る。張り詰めた表情が緩み、若々しい笑顔が弾ける。胸が詰まって、鼓動が烈しくなった。なにげない一瞬に、好きだという気持ちがあふれる。
「ごめん。待ってた?」
「いや、早めにきちゃった。待ちきれなくて」
パソコンを閉じ、大きなビジネスバッグのなかに圧しこんで、葉一が立ち上がる。すこし横に移動して座りなおし、おれのためのスペースを確保してくれる。
「出てきて平気?」
胸に抱えていたトートバッグを一度ベンチに置いて、ランチボックスやコーヒーの入ったタンブラーを取り出す。
「忙しかったんじゃない?」
「昼休憩くらい平気だよ」
サンドイッチを詰めたランチボックスの蓋を開けると、葉一がすこし大仰なほどの声を上げた。
「サンドイッチ? すげえうまそう」
「和風のお弁当がいいかと思ったんだけど……」
「そんなことない。昼は毎日コンビニ飯だったから、生野菜とかうれしすぎ」
葉一の喜びようはかなりのもので、こちらが恥ずかしくなるほどだった。早起きして準備をした甲斐があるというものだ。
「めちゃくちゃうまい」
厚焼き卵をトーストで挟んだシンプルなサンドイッチを囓って、葉一が感嘆のため息をついた。
「卵に味噌入ってる?」
「うん。昆布だしもちょっと」
「マジでうまいよ。このピクルスも最高」
自家製ピクルスは2日前に漬けておいた。自身も料理を嗜むためか、葉一の褒め言葉は具体的でポイントを押さえている。つくる側にとっては照れくささもあるが、うれしいことに変わりはない。
「多めにつくったから、夜も食べて」
「うん。今日も残業確定だから助かる」
長閑な午後だ。風が涼しくなりはじめていて、太陽の光が木々の隙間から差し込む。並んで座り、ふたりでサンドイッチを食べていると、仕事のこともそれ以外の悩みも忘れてしまいそうだった。
「仕事忙しい?」
「まあ、今は佳境だけど、ピークを抜けたらもうすこし楽になると思う」
わかりきった質問にも、葉一は頷いて返す。
「なかなか会えなくてごめん」
「それはだいじょうぶだけど……」
答えたものの、正直なところ、それほどだいじょうぶというわけではなかった。葉一の部屋で帰りを待ちながら、終電の時間を気にするのも、疲れて帰ってきて眠る葉一の顔を眺めているのも、はじめのうちはよかったが、何日もつづくと寂しさが募る。
「今日の夜は?」
「あー、今日は……」
葉一の反応を見て思い出した。今日は葉一が上京以来世話になっているという新宿二丁目のバーでオーナーの還暦祝いがあるという。2週間も前に聞いていたのに忘れていた。
「ごめん。前から聞いてたのに」
「キャンセルしてもいいよ」
「ううん。忘れてただけだから。いいよ、行ってきて」
「ほんとに?」
「うん」
葉一にも付き合いがあるだろうし、この忙しさのなかでもスケジュールを調整するほどだから、よほど親しい間柄なのだろう。田舎町で同性愛者であることを隠しながら窮屈な生き方を強いられてきた彼が東京で見つけた居場所だ。行かないでほしいと頼めばおれを優先するだろうが、身勝手な我が儘で縛りつけたくなかった。
あたたかい感触。葉一が腿の上に手を置いていた。反射的に周囲に目を配ったが、おれたちのことを記にとめる通行人はいなかった。
「浮気はしない。約束する」
耳もとで囁かれ、笑顔を返した。
「心配してないよ」
「ほんと?」
「うん。信じてる」
同伴は求められなかったし、おれもなにもいわなかった。葉一が遊びたがっているわけではないことはわかっていたし、おれとしても、いわゆる同性愛者たちの集まりに混ざることに抵抗があった。自分自身が当事者となった事実を強烈に意識するのが怖かった。引け目のようなものも感じていたし、葉一が関係を持ったという男たちに会うのも怖かった。
「初芽だけだよ」
「うん……」
低い声が耳朶を掠め、ぞくっとする。触れあった部分が熱を持っている。もう2週間近く体をつなげていない。
「明日の夜は?」
おれを見つめる葉一の眼差しにも熱の光が見えた。
「時間つくるから」
「わかった……」
腿の上の手に指先で触れる。視線が絡んだ。たぶん、葉一もおれとおなじことを考えている。それでも、男女の恋人同士のようにはできない。人通りがすくないとはいえ無人というわけではないし、葉一の会社の近所だ。だれかに見られているかもしれない場所では、ランチョンマットの下で手を触れあわせるだけで精一杯だ。
もどかしい気持ちを持て余し、唇を結んだ。
葉一がなにかいいかけて口を開いたときだった。
「あれ? 葉一じゃん?」
声がして、慌てて手を離した。大きなリュックを背負った凪砂が公園の入り口に立っておれたちのほうを見ていた。
仕事が忙しくなると会える時間も減る。葉一のマンションを訪ねて食事を用意したり掃除や洗濯をしたりということはあったが、部屋の持ち主は深夜まで帰宅しないことも多く、会社に泊まってそのまま翌日の業務に入ることも珍しくなかった。あまりのハードワークに体調を崩さないか心配だったが、おれにできるのは栄養価を考慮した食事をつくり、冷蔵庫の中身を充実させておくことくらいだった。
店が定休日の火曜、おれは朝から準備した昼食をランチボックスに詰めて葉一の会社に向かっていた。地下鉄に乗って大手町へ。出不精で極端に行動範囲の狭いおれは、その程度の距離を移動するだけでも緊張していた。
仕事が忙しくなってからは、葉一の会社の近くで昼に待ち合わせて、公園やカフェで1時間ほど過ごして別れることも多かった。たいていはおれのランチ営業が終わってからかディナー営業の前。昼食をいっしょにできることは珍しかった。
レストランやカフェでなく公園でのランチを提案したのはおれだった。激務の日々で疲弊している葉一のためにできることもほとんどないうえに、望ましいはずの海外赴任を恐れていることで罪悪感をおぼえていた。葉一を喜ばせたかったし、なんでもいいから役に立ちたかった。
待ち合わせた公園に到着したのは約束した時間の10分ほど前だったが、葉一は先にきていた。ベンチの中央に座り、ノートパソコンを膝の上で広げて、スマホでだれかと話している。難しい話題のようで、眉間に皺を寄せている。肩と耳でスマホを挟み、両手で素早くパソコンのキーボードを叩く。真剣な表情はまるでべつの世界の住民のようだった。
なんとなく、声をかけるのが憚られて、すこし離れた場所に立って、通話が終わるのを待った。午後1時を過ぎたオフィス街の小さな公園はひともまばらで、女性の3人組がベンチでおしゃべりしている以外には、仕事中らしきビジネスパーソンたちが時折行き交うくらいだ。一様に忙しなく足早に通り過ぎていく。おれや葉一に関心を向けることはなかった。というより、周囲に気を配る様子は見られなかった。時間の軸がちがっているように思えた。
通話を終えた葉一がスマホをスーツのポケットにしまい、顔を上げた。おれに気づき、手を振る。張り詰めた表情が緩み、若々しい笑顔が弾ける。胸が詰まって、鼓動が烈しくなった。なにげない一瞬に、好きだという気持ちがあふれる。
「ごめん。待ってた?」
「いや、早めにきちゃった。待ちきれなくて」
パソコンを閉じ、大きなビジネスバッグのなかに圧しこんで、葉一が立ち上がる。すこし横に移動して座りなおし、おれのためのスペースを確保してくれる。
「出てきて平気?」
胸に抱えていたトートバッグを一度ベンチに置いて、ランチボックスやコーヒーの入ったタンブラーを取り出す。
「忙しかったんじゃない?」
「昼休憩くらい平気だよ」
サンドイッチを詰めたランチボックスの蓋を開けると、葉一がすこし大仰なほどの声を上げた。
「サンドイッチ? すげえうまそう」
「和風のお弁当がいいかと思ったんだけど……」
「そんなことない。昼は毎日コンビニ飯だったから、生野菜とかうれしすぎ」
葉一の喜びようはかなりのもので、こちらが恥ずかしくなるほどだった。早起きして準備をした甲斐があるというものだ。
「めちゃくちゃうまい」
厚焼き卵をトーストで挟んだシンプルなサンドイッチを囓って、葉一が感嘆のため息をついた。
「卵に味噌入ってる?」
「うん。昆布だしもちょっと」
「マジでうまいよ。このピクルスも最高」
自家製ピクルスは2日前に漬けておいた。自身も料理を嗜むためか、葉一の褒め言葉は具体的でポイントを押さえている。つくる側にとっては照れくささもあるが、うれしいことに変わりはない。
「多めにつくったから、夜も食べて」
「うん。今日も残業確定だから助かる」
長閑な午後だ。風が涼しくなりはじめていて、太陽の光が木々の隙間から差し込む。並んで座り、ふたりでサンドイッチを食べていると、仕事のこともそれ以外の悩みも忘れてしまいそうだった。
「仕事忙しい?」
「まあ、今は佳境だけど、ピークを抜けたらもうすこし楽になると思う」
わかりきった質問にも、葉一は頷いて返す。
「なかなか会えなくてごめん」
「それはだいじょうぶだけど……」
答えたものの、正直なところ、それほどだいじょうぶというわけではなかった。葉一の部屋で帰りを待ちながら、終電の時間を気にするのも、疲れて帰ってきて眠る葉一の顔を眺めているのも、はじめのうちはよかったが、何日もつづくと寂しさが募る。
「今日の夜は?」
「あー、今日は……」
葉一の反応を見て思い出した。今日は葉一が上京以来世話になっているという新宿二丁目のバーでオーナーの還暦祝いがあるという。2週間も前に聞いていたのに忘れていた。
「ごめん。前から聞いてたのに」
「キャンセルしてもいいよ」
「ううん。忘れてただけだから。いいよ、行ってきて」
「ほんとに?」
「うん」
葉一にも付き合いがあるだろうし、この忙しさのなかでもスケジュールを調整するほどだから、よほど親しい間柄なのだろう。田舎町で同性愛者であることを隠しながら窮屈な生き方を強いられてきた彼が東京で見つけた居場所だ。行かないでほしいと頼めばおれを優先するだろうが、身勝手な我が儘で縛りつけたくなかった。
あたたかい感触。葉一が腿の上に手を置いていた。反射的に周囲に目を配ったが、おれたちのことを記にとめる通行人はいなかった。
「浮気はしない。約束する」
耳もとで囁かれ、笑顔を返した。
「心配してないよ」
「ほんと?」
「うん。信じてる」
同伴は求められなかったし、おれもなにもいわなかった。葉一が遊びたがっているわけではないことはわかっていたし、おれとしても、いわゆる同性愛者たちの集まりに混ざることに抵抗があった。自分自身が当事者となった事実を強烈に意識するのが怖かった。引け目のようなものも感じていたし、葉一が関係を持ったという男たちに会うのも怖かった。
「初芽だけだよ」
「うん……」
低い声が耳朶を掠め、ぞくっとする。触れあった部分が熱を持っている。もう2週間近く体をつなげていない。
「明日の夜は?」
おれを見つめる葉一の眼差しにも熱の光が見えた。
「時間つくるから」
「わかった……」
腿の上の手に指先で触れる。視線が絡んだ。たぶん、葉一もおれとおなじことを考えている。それでも、男女の恋人同士のようにはできない。人通りがすくないとはいえ無人というわけではないし、葉一の会社の近所だ。だれかに見られているかもしれない場所では、ランチョンマットの下で手を触れあわせるだけで精一杯だ。
もどかしい気持ちを持て余し、唇を結んだ。
葉一がなにかいいかけて口を開いたときだった。
「あれ? 葉一じゃん?」
声がして、慌てて手を離した。大きなリュックを背負った凪砂が公園の入り口に立っておれたちのほうを見ていた。



