ファーストリーフ

 カレーの鍋に火を入れて中身をかき混ぜていると、背後から抱き竦められた。
「うまそう」
 おれの肩に顎を乗せ、鼻を蠢かせて、葉一が声を上げる。
「いい匂いしてんなって、帰ってきたときから思ってた」
 帰宅してから数時間たっている。すぐにベッドに向かい、ほとんどの時間を寝室で過ごした。出張に出ていたのは数日なのに、葉一は飢えた肉食動物のようにおれを貪り、離さなかった。おれも没頭して、ふだん以上に強烈な快感を何度も極めた。慌ただしく脱ぎ捨てた服は皺だらけになっていて、葉一のシャツを借りて着ていた。ボトムはサイズが合わないので下着だけだった。
「つくっといてくれたの?」
「うん、昨日の夜……」
 1日置いたカレーはスパイスが具材に染みこんで、食欲を刺激する香りを立ち上らせていた。葉一の濡れた髪から漂うシャンプーの匂いと絡み合って、なんともいえない穏やかな気持ちにさせてくれる。
「食材費、あとで渡す」
「いいよ、そんなの」
 葉一はおれを気遣いながらも、女性のように扱ったり収入の差を誇示したりすることはなかった。デートのときもそれほど高い店はつかわず、代金は基本的に折半していたが、自分が誘ったからとか記念日だからとか理由をつけてさりげなく葉一が負担することもあった。
 ふだんなら気にしないのに、ことさらにつよい調子で固辞してしまったのは、昼間、店でバイトスタッフからヒモではないかと揶揄されたことが影響したのかもしれない。
 男として葉一と対抗するつもりなどまるでなかった。そんなことをしても無意味だし、比較しても落ち込むだけだ。
 抱かれている間はなにも考えずに済む。それだけに、終わったあと、余韻が引いたら、いつも以上に過剰な自己憐憫に陥ってしまう。
 ダイニングテーブルの上に置いたままだったスマホが震えた。
「携帯鳴ってるよ」
 葉一が長い手を伸ばしてスマホを取り上げる。ディスプレイにはLINEメッセージの受信を伝える通知文が浮かんでいた。アルバイトの広田由真だった。
「広田さんに返事するの忘れてた……」
 どう答えればいいのかわからず躊躇っているうちに、既読のまま無視しているかたちになってしまった。
「断ったと思ってた」
「なんて書いたらいいのかわかんなくて……」
 由真のLINEには葉一の連絡先をせがむ言葉がかわいらしい絵文字とともに並んでいた。向こうはおれたちを友人同士だと思っているはずだ。断る理由を探す必要があった。
「広田さんとなんの話してたの?」
 嫉妬の欠片を燻しながら、できる限り自然にいった。うまくいっているとは思えなかった。
「初芽のこと」
「おれのなに?」
「彼女いるんだって?」
「それは……」
 慌てて弁解しようとした唇を塞がれた。音を立ててキスしたあと、すぐに唇が離れる。
「高校の同級生でかわいくてかっこよくて海外出張から今日帰ってくる彼女って、おれの知ってる子?」
 葉一は怒るどころか上機嫌だった。背後から首を捻って再びキスをし、おれの首や肩に前歯を圧しつける。痛みはないが、くすぐったくて首を窄めた。
「初芽のことしか話してないよ。心配することなんかない」
「うん……」
「不安になったら、さっきみたいになんでもいって」
「わかった……」
 正面から向き合っていたら、視線がキッチンの隅のゴミ箱に向かったことに気づかれていただろう。葉一がなにかいう前に視線をもどした。
「サラダつくりたいんだけど」
「んー、いいね、サラダ」
「じゃなくて、動けないから」
 腹の前で交差した腕を指先で軽く叩いて抗議したが、葉一は意にも介さず、さらに密着してきた。
「来週また出張だからさ、今のうち初芽を充電しとかないと」
「充電はさっきしたじゃん……」
 自分の言葉に照れて語尾が霞む。
「足りない、全然」
 葉一は平然といってのけ、おれの鎖骨に顎を擦りつけた。しかたなく、葉一の腕を腰に巻き付けたまま、冷蔵庫からレタスとトマトを取り出し、俎板の上に乗せる。
「むしろおれが充電した気がするけど……」
「おっと」
 葉一が驚いたような声を漏らしておれの顔を覗き込んでくる。
「初芽が下ネタって珍しい」
「え?」
 葉一のにやついた顔を見て、一気に顔が熱くなった。
「ちがう、そういう意味じゃなくて……」
「やらしいな」
 シャツの裾から潜り込んできた手を避けて身を捩った。
「来週はどこ?」
「出張?」
 無理矢理話題を変えた。葉一は不満げに唇を尖らせながらも、おれを手伝って片手で醤油の瓶を取りながら、答えた。
「バンコクだよ。水曜から」
 葉一は新年度から異動で所属部署が代わり、さらに忙しくなった。アジア諸国の海洋植物を調査、輸入して加工し、さらに海外に販売する新事業だと聞かされたが、具体的にどういう仕事なのかはよくわからなかった。ただ、海外出張が増え、残業も増えた。2年目の新人が担当するにはあまりに大きなプロジェクトなのではないかと、漠然とながら思う。それだけ期待されているということだろう。
「また水やり頼める?」
「いいよ。好きだし」
「初芽んちのやつも元気にしてるか?」
「元気だよ。凪砂の鼻炎も問題なし」
 醤油と酢、ごま油を混ぜてドレッシングをつくりながら笑う。
「鍵は返さないほうがいいかな」
「返さなくていい。そのまま持ってて」
 レタスの葉を毟る手に大きな手が重なる。
「いっしょに住まない?」
 手を止め、振り返った。葉一の眼は相変わらず穏やかだったが、ふざけているわけでないというのはすぐにわかった。
「……3人で、って意味じゃないよね」
 馬鹿げた質問だった。葉一は笑うことも怒ることもせず、ゆっくりいった。
「ちがうよ。おれと初芽のふたり」
 当然だった。自分の迂闊さを呪いながら、おれは唇を結んだ。
「前から考えてた。おれ残業多いし、初芽も週末は休めないから、なかなか時間合わないだろ」
 体を裏返され、流し台の前で向き合った。葉一はおれの手から箸を抜き取り、額同士をくっつけて近距離で目を見つめてきた。
「ここでもいいし、初芽の職場に近いほうがよかったら引っ越してもいい。だめかな」
「だめっていうか……」
 思いがけない申し出に、すぐには言葉が出てこなかった。
「おれといっしょは嫌?」
「嫌じゃないけど……」
「凪砂だったらだいじょうぶだよ。もうおとななんだし、ひとりでもやってける」
 凪砂におれは不要だともうわかっていた。それでも、凪砂に依存してきた時間が長かっただけに、自分の存在価値を失う気がして、簡単には認められなかった。
「ちょっと……すぐには答えられない。いろいろ考えてからじゃないと」
 正直に答えた。これでもわずかながら前進といえた。葉一は急かすことはしなかった。
「今すぐじゃなくていいよ」
 おれの額に軽く唇を圧しつけてから、いった。
「でも、おれの仕事知ってるだろ? 海外赴任はこれから絶対あるし、来年かもっと早いかもしれない。実際、そろそろだって上からもいわれてる」
 どきっとした。商社の仕事がどういうものか、一般的な知識しかなかったが、そのくらいは知っていた。知っていたが、敢えて尋ねなかった。葉一の口から直接聞かされると、現実感がさざ波のようにじわりと襲ってきた。
「それって……待っててほしいってこと?」
「ちがう」
 葉一は即座に否定して、重ねていった。
「ついてきてほしい」
 迷いのない言葉だった。今考えたものでなく、ずっと前から準備していたことがわかる。
「凪砂とおれのどっちかを選べってことじゃないし、無理強いもしない。ただ、初芽ともっといっしょにいたい。おれがびびって告白できてなかった何年間かのぶんも、この先もずっと」
 なにげない口調ではあったが、その裏に重い覚悟が感じ取れた。頷くことしかできなかった。
「よし、じゃメシ食おう」
 ことさらに明るい声でいって、葉一が離れて行く。冷蔵庫からビールとコーラの缶を取り出し、皿を並べはじめる。
 煮えたカレーの鍋を覗き込み、火を消しながら、おれは首を捻って、食事の支度をする葉一を見た。
 試しているわけではないと葉一はいった。こうして事前に予告することも彼らしい気遣いだと理解していた。
 意図しようがしまいが、いずれは選択を迫られるときがくる。わかっていても、動揺を止められなかった。
 数日間の出張でもこれほど寂しく、空虚な時間を過ごしたのだ。遠距離恋愛に耐えられる自信はなかった。それほどまでに、葉一の存在はすでにおれのなかで大きく、掛け替えのないものになっていた。
 おれは変化が苦手なタイプの人間で、海外での生活など考えたこともなかったが、語学堪能でコミュニケーション能力にも秀でた葉一がいっしょなら、生活そのものはどうにかやっていけるだろう。しかし、葉一についていくということは、同時に、凪砂と離れることを意味する。
 凪砂の心配はしていない。葉一のいうとおり、凪砂は逞しいから、生活能力が乏しくともどうにかやっていけるだろう。問題はおれのほうだ。おれにとって、凪砂はただの推しというだけではない特別な存在だ。心に大きな穴が空くことは明白で、それがもっとも怖かった。
「おれやるから貸して」
 自家製ドレッシングを小皿に移していると、葉一が手を伸ばしてきた。
「ありがとう」
 ドレッシングの皿を両手に受け取って、葉一が微笑む。やわらかいのに力強く頼りがいを感じさせる笑顔だった。
 商社勤めのエリートで空手の有段者でやさしく気が回り、顔も整って体も鍛えている。葉一は恋人として文字どおり非の打ちどころのない男だった。おれが女なら、喜んでついていっただろう。仕事を辞めて養ってもらう選択肢もあるかもしれない。しかし、そんな思考にならないのは凪砂だけが理由ではなかった。
 精神的に依存していることを自覚しているだけに、金銭的、物理的にも葉一にしがみつくのには抵抗がある。一方で、そんな不安を口にするのも憚られた。
 すこしずつ本音を曝け出していけばいいと葉一はいってくれてはいるが、海外赴任の辞令同様に、いつかはタイムリミットを宣言されるのかもしれない。いつまでも先延ばしにはしていられない。
 葉一と向き合って遅い夕食を取りながら、おれはつよい力で背中を圧されているような強迫観念と焦りを感じていた。
 そのとき、おれはどうするのだろう。
 答えはまだ出せそうになかった。