「あんどーさーん」
軽やかな高い声。首を伸ばしてホールを見ると、アルバイトの広田由真が跳ねるような足取りでこちらに向かってくるのが見えた。木製のトレンチを脇に挟み、スマホを手にしている。
「なに? 広田さん」
「今シフトのLINE見てたんですけど」
キッチンスペースに入ってくると、スマホの画面をおれのほうに向け、首を傾げてみせる。
「3週目、日曜と月曜、逆になってません?」
「え、ほんとに?」
アルバイトスタッフのグループに今朝送信したシフト表を確認する。由真の指摘どおり、週末のシフトがそっくり入れ替わっていた。単純な入力ミスだ。
「ごめんなさい。すぐ修正するから」
「必要だったら、わたし月曜も出られますけど」
「いや、間違えて逆にしちゃってただけだから。すぐなおすね」
「はーい、了解です」
美容系の専門学校に通っているという由真は、きれいに巻かれた髪を揺らして頷いた。見た目は今時の女子大生といった印象だが、実際には気配りも細やかで、仕事もていねいだ。明るい性格で、まだ雇われて1か月程度ではあったが、すっかり馴染んでいる。小柄でかわいらしい顔立ちということもあり、彼女を狙っているスタッフも多いようだ。
「もう上がっても平気なんでしたっけ?」
ランチの最後の客が帰ってしまうと、店内は空になった。
「あ、そうだった。15時までだったよね」
慌ててキッチンの掛け時計を確認する。由真の就業時間を30分ほど過ぎていた。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「いいです。どうせ暇なんで」
黒の前掛けをはずして、由真が笑顔を見せる。
「でも珍しいですね。安藤さん、なんか今日そわそわしてません?」
由真のいうとおりだった。忙しいランチタイムにオーダーを間違えて迷惑をかけてしまった。
「ひょっとして彼女さんとデートですか?」
「え……」
いきなり核心を衝かれ、思わず黙ってしまった。
「あ、やっぱりそうだった。安藤さん、わかりやすすぎ」
5つも年下にもかかわらず、由真は女友達にするような気軽さでおれの腕を軽く突いた。
「彼女さん、どんなひとなんですか? 付き合ってどのくらい?」
否定する間も与えず、立て続けに質問してくる。戸惑いながらも、曖昧に頷いた。
「半年……くらいかな」
「へえー。ねえ、どんなひとですか? かわいい?」
「まあ……たまにかわいいけど、どっちかっていうとかっこいい……」
「かっこいい系かー。年上とか?」
「いや、同い年。高校の同級生で……」
「なにしてるひとなんですか?」
「会社員だけど出張が多くて。今日帰ってくるんだけど……」
そこまでいってから、突然我に返った。由真が聞き上手なこともあり、ついしゃべりすぎてしまった。凪砂にもだれにも知られないようこっそり付き合っていることをどこかで後ろめたく思っていたのかもしれない。
「え-、写真とかないんですか? 見たーい」
顔が真っ赤になっていることは自覚していた。由真の無邪気な笑顔を直視できず、洗ったばかりの食器をもう一度水にさらした。
「おれも見たいなー」
「おれもー」
話を聞いていたらしい他のバイトスタッフも近寄ってきて、おれは意図せず話の中心となってしまった。
「ていうかー」
学生バイトのひとりが間延びした声でいった。
「安藤さんって、ひょっとしてホモなんすか?」
その言葉を認識したとたん、全身の血液が落ちた。体が急激に冷え、心臓が跳ね上がった。あまりに突然で、予想だにしていなかったから、身構えることもできなかった。
「そんなわけないじゃん」
由真が呆れたようにいう。
「ヒモってのは、自分は働かないで女に寄生する奴のことでしょ。安藤さん、ちゃんと働いてるし、ヒモじゃなくない?」
冷静な由真の言葉で、自分が聞き違いをしていたことに気づいた。男同士で付き合っていることを知られることへの潜在的な恐怖心が勘違いを生んだのだろう。
「ね、安藤さん」
「あ、うん……」
同年代のはずだが、他のアルバイトの男たちよりも由真のほうがよほどしっかりしている。おれはなんとなく救われた気分で、ぎこちない笑みを返した。
「由真ちゃんはどうなん?」
バイトの男たちがさりげなく話題を変える。
「彼氏とかいるの?」
「いるよー」
由真があっさり答えて、男たちはあからさまに落胆の声を上げた。
「なんだ、彼氏持ちかー」
「そろそろ別れるけどね」
「え、マジ? なんで? 浮気とか?」
「そういうのじゃないけど」
細い眉をわずかに曲げて、由真がいう。
「顔が好みだったんだけど、付き合ってみたら、なんかイメージとちがったっていうか」
「あー、わかる。そういうのあるわ」
「ほんとにわかんのかよ。おまえ彼女いたことないだろ」
「うるせえ。だれが童貞や」
コントめいたやりとりに迎合の笑いを向ける。由真も他のスタッフももうおれには関心がないようだった。正直なところ、ほっとした。あまり詳しく突っ込まれるとぼろが出てしまいそうだった。
間もなくフリーになるという由真の予告は男たちを色めき立たせ、彼女を中心に会話が盛り上がっている。それとなく場を離れようと後ずさったところで、店のドアが開く音が聞こえた。来客を知らせるためのベルが設置されていて、ドアの動きに反応する。他のスタッフも気づいたようで、会話を中断し、一斉にドアのほうを向いた。
「お客さん?」
「ランチ終わってるって説明してきて」
「はーい」
スタッフのひとりが入口に向かったが、すぐにもどってきた。
「あの、安藤さんの知り合いみたいなんですけど」
「え?」
どきっとした。慌ててキッチンを出る。ドアの前で大きなキャリーケースを持った葉一が立っていた。空港から直接きたのか、スーツ姿でネクタイを締めている。
夢かと思った。唖然としているおれに、葉一は笑いかけた。
「びっくりした?」
キャリーケースを放置したまま、おれのほうへ近づいてくる。一瞬、背後にいる同僚たちの存在が気になったが、もちろん葉一は友人としての距離を保っていた。おれの前に立ち、エプロンの裾を軽く摘まむ。
「サプライズ成功?」
「あ……うん、びっくりした」
かなり遅い反応だったが、なんとか頷いた。
「家に行くとこだったのに」
「わかってるけど、早く会いたかったから迎えにきた」
顔を近づけ、囁きあう。だれかに聞こえるようなボリュームではなかったが、それでも胸がどきどきして落ち着かなかった。
「仕事終わった? もう出られる?」
「ちょっと待って。着替えてくる」
「わかった」
伸びてきた手を避けるように咄嗟に身を引いた。背後のスタッフたちの視線を意識してしまった。
「ごめん。あの、すぐ……」
しどろもどろになりながら、葉一に背を向けた。キッチンを抜け、バックヤードに向かう。制服を脱ぎ、私服に着替える。思いがけない葉一の来訪にまだ動揺して鼓動が収まらなかった。こういう事態には慣れていない。驚きのあまりぎこちない態度を取ってしまった。葉一が不審に思っただろうと考えると、早く会いたい気持ちとは裏腹に、ボタンを嵌める手の動きが緩慢になってしまう。
「あ、お疲れさまです」
さっきまでキッチンで雑談をしていたバイトスタッフたちがぞろぞろとバックヤードに入ってくる。由真の姿はなかったが彼女以外はほぼ全員揃っていた。
「安藤さん、友達きてましたよ」
「あ、うん」
「すげえイケメンの友達いるんですね」
軽い言葉の奥に皮肉めいたものを勝手に感じて、迎合の笑みを浮かべる。葉一とおれがふたりでいるところを見て、友人同士だと思うひとはすくないだろう。ましてそれ以上の関係などと悟られるはずがない。それでも、過剰に他人の目を意識してしまう。
「じゃあ、お疲れさま」
「お疲れさまです」
窮屈になったバックヤードを出て、ホールにもどる。葉一はさっきとおなじ場所にいて、由真と話していた。さわやかな笑顔で、小柄な由真を見下ろしている。葉一をイケメンと評したバイトスタッフたちの言葉に覗けた棘はおれへの皮肉ではなく、嫉妬からくるものだったかもしれない。こちらに背を向けてはいたが、由真も楽しげな様子だとわかった。葉一に好意を持っていることが、鈍感なおれにもすぐ理解できた。
「初芽」
おれの姿に気づいた葉一が、由真の頭越しに手を振る。由真が振り返った。おれとふたりで話しているときよりも華やかで愛らしい笑顔に見えた。表情が明るく輝いている。胸に小さな痛みがはしった。
葉一はもう由真を見ていなかった。彼女の脇を通り過ぎ、おれのほうに近寄ってきた。
「もう行ける?」
「うん」
「おし。じゃ行くか」
キャリーケースの柄を握りなおして、葉一が微笑む。声が弾んでいる。葉一の表情もまた華やいで見えた。由真の視線を半身に感じながら、おれはほんのすこし安堵していた。葉一と由真が並んでいる姿を見て、その風景があまりに絵になっていて、気後れしてしまっていた。葉一が女性に関心を持たないと知っていても、バイトスタッフたちのようにバックヤードに逃げ帰りたくなってしまった。
男だけでなく女に対しても嫉妬する自分の卑屈さに、昏い気持ちになった。葉一と並んで歩きながら、おれは自己嫌悪のため息をなんとか飲み込んだ。
「なんかごめん」
ぼんやりしているおれに、葉一が声を掛けた。
「店きたらまずかった?」
「え?」
歩道橋の階段を上るためにキャリーケースを持ち上げながら、葉一がいう。
「いや、なんか表情が暗い感じだから、きてほしくなかったのかなって」
「そんなことない」
慌てて否定した。声が上擦ってしまった。先を上がっていた葉一が上半身を捻る。
「いきなりだったからびっくりしただけで、きてほしくないとか、そんなこと全然ない。うれしかった、ほんとに」
「そっか」
夕陽を背負った葉一の輪郭が朱色にぼやける。
「ならよかった」
葉一が目を細めて笑う。
身勝手な妄想と嫉妬でまた葉一を落胆させてしまった。わざわざ会いにきてくれたのだから、素直に喜べばよかった。動揺するよりも先に伝えるべき気持ちがあったはずだ。後悔が胸に広がり、泣きたくなった。
歩道橋を下りるところで、スマホが鳴った。由真からLINEのメッセージが届いていた。これまではスタッフの業務連絡のため設置されたグループLINEでしかやりとりをしたことがなかった。個人的な連絡がきたのははじめてだった。
「凪砂?」
「あ、ううん。バイトの子……」
メッセージの内容は葉一のアカウントを教えてほしいというものだった。付き合っている相手とは別れるつもりだと話していたし、由真の反応から、予想していなかったわけではなかった。
「さっき話してた子が、葉一くんのLINE教えてほしいって」
「おれの? なんでだろ」
重そうなキャリーケースを軽々と操って、葉一がいう。歩道の端で立ち止まり、周囲を見渡す。
「タクシー乗っちゃおうか。この時間、電車込みそうだし」
「あの……」
車を拾おうと身を乗り出す葉一の背中に向かっていった。
「……どうする?」
「なにが?」
「その……LINE、どうしたら……」
葉一がキャリーケースから手を離し振り返る。おれの目を見つめ、いった。
「おれに女の子と連絡先交換しろっていってんの?」
静かで平坦な声だった。怒っている。本能的に感じた。身が竦んで、呼吸がくるしくなる。
「ごめん。怒ってるわけじゃないよ」
おれの反応に即座に気づいた葉一が、声を低めて近づいてくる。俯くおれの顔を救い上げるように覗き込もうとした。
そのとき、ちょうど背後を通りがかった制服姿の女子高生のグループが笑い声を上げた。おれたちを見ていたわけではない、その可能性は限りなく皆無だとわかっていながらも、体が強張った。
葉一には拒絶と認識されただろう。表情が曇る。甲高い笑い声が遠ざかって消えても、おれは言葉を発せずにいた。
葉一が出張から帰る今日はふたりきりで楽しい時間を過ごすはずだった。たった数日とはいえ、会えない時間の寂しさを埋めるつもりだった。こんなふうに気まずい空気にはしたくなかった。
「初芽……」
周囲から見ても違和感のない距離を保ちながら、葉一は声を顰めていった。
「今日は帰りたい?」
「嫌だ」
反射的に首を振った。気がつくと葉一のスーツの袖を握っていた。避けるような態度を取っておきながら、我ながら勝手すぎる。スーツの生地に皺をつくって、指先に痛みを感じるほどつよく握りしめた。
「広田さんと葉一くんが連絡するの嫌だ」
質問と返答が噛み合っていない。かなり遅いタイミングだと自覚していた。間の抜けた返事にも、葉一は笑わなかった。
「楽しそうに話してるとこ見てるのも嫌だったし、そんなふうに思う自分が一番嫌だ。あと、ひとの目を気にしてしまうのも、素直にうれしいっていえないのも、嫌われたかもっていちいちびくびくするのも全部嫌だ」
葉一と付き合えばこうなるのもわかっていた。男にも女にも嫉妬の炎を燃やしてしまう。凪砂にさえだ。覚悟はしていたが、想像していた以上にくるしい。
「素直に気持ちいえてるじゃん」
おれの肩に手を置いて、葉一はいった。やさしい声が頭上を漂った。
「ときどきでいいから、今みたいに正直な気持ち教えて」
頷くだけで精一杯だった。もう一度、葉一が顔を寄せ、囁いた。
「やっぱタクシー乗ろ」
目を上げると、視線が衝突した。
「今すぐ連れて帰りたいから」
葉一の瞳は声以上にやさしかった。その目に見つめられると、強張っていた体から自然と力が脱けた。するりとスーツの袖がはずれ、代わりに大きくあたたかい手に指を握られた。
「行こう」
短い言葉が、おれの足を踏み出させた。
軽やかな高い声。首を伸ばしてホールを見ると、アルバイトの広田由真が跳ねるような足取りでこちらに向かってくるのが見えた。木製のトレンチを脇に挟み、スマホを手にしている。
「なに? 広田さん」
「今シフトのLINE見てたんですけど」
キッチンスペースに入ってくると、スマホの画面をおれのほうに向け、首を傾げてみせる。
「3週目、日曜と月曜、逆になってません?」
「え、ほんとに?」
アルバイトスタッフのグループに今朝送信したシフト表を確認する。由真の指摘どおり、週末のシフトがそっくり入れ替わっていた。単純な入力ミスだ。
「ごめんなさい。すぐ修正するから」
「必要だったら、わたし月曜も出られますけど」
「いや、間違えて逆にしちゃってただけだから。すぐなおすね」
「はーい、了解です」
美容系の専門学校に通っているという由真は、きれいに巻かれた髪を揺らして頷いた。見た目は今時の女子大生といった印象だが、実際には気配りも細やかで、仕事もていねいだ。明るい性格で、まだ雇われて1か月程度ではあったが、すっかり馴染んでいる。小柄でかわいらしい顔立ちということもあり、彼女を狙っているスタッフも多いようだ。
「もう上がっても平気なんでしたっけ?」
ランチの最後の客が帰ってしまうと、店内は空になった。
「あ、そうだった。15時までだったよね」
慌ててキッチンの掛け時計を確認する。由真の就業時間を30分ほど過ぎていた。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「いいです。どうせ暇なんで」
黒の前掛けをはずして、由真が笑顔を見せる。
「でも珍しいですね。安藤さん、なんか今日そわそわしてません?」
由真のいうとおりだった。忙しいランチタイムにオーダーを間違えて迷惑をかけてしまった。
「ひょっとして彼女さんとデートですか?」
「え……」
いきなり核心を衝かれ、思わず黙ってしまった。
「あ、やっぱりそうだった。安藤さん、わかりやすすぎ」
5つも年下にもかかわらず、由真は女友達にするような気軽さでおれの腕を軽く突いた。
「彼女さん、どんなひとなんですか? 付き合ってどのくらい?」
否定する間も与えず、立て続けに質問してくる。戸惑いながらも、曖昧に頷いた。
「半年……くらいかな」
「へえー。ねえ、どんなひとですか? かわいい?」
「まあ……たまにかわいいけど、どっちかっていうとかっこいい……」
「かっこいい系かー。年上とか?」
「いや、同い年。高校の同級生で……」
「なにしてるひとなんですか?」
「会社員だけど出張が多くて。今日帰ってくるんだけど……」
そこまでいってから、突然我に返った。由真が聞き上手なこともあり、ついしゃべりすぎてしまった。凪砂にもだれにも知られないようこっそり付き合っていることをどこかで後ろめたく思っていたのかもしれない。
「え-、写真とかないんですか? 見たーい」
顔が真っ赤になっていることは自覚していた。由真の無邪気な笑顔を直視できず、洗ったばかりの食器をもう一度水にさらした。
「おれも見たいなー」
「おれもー」
話を聞いていたらしい他のバイトスタッフも近寄ってきて、おれは意図せず話の中心となってしまった。
「ていうかー」
学生バイトのひとりが間延びした声でいった。
「安藤さんって、ひょっとしてホモなんすか?」
その言葉を認識したとたん、全身の血液が落ちた。体が急激に冷え、心臓が跳ね上がった。あまりに突然で、予想だにしていなかったから、身構えることもできなかった。
「そんなわけないじゃん」
由真が呆れたようにいう。
「ヒモってのは、自分は働かないで女に寄生する奴のことでしょ。安藤さん、ちゃんと働いてるし、ヒモじゃなくない?」
冷静な由真の言葉で、自分が聞き違いをしていたことに気づいた。男同士で付き合っていることを知られることへの潜在的な恐怖心が勘違いを生んだのだろう。
「ね、安藤さん」
「あ、うん……」
同年代のはずだが、他のアルバイトの男たちよりも由真のほうがよほどしっかりしている。おれはなんとなく救われた気分で、ぎこちない笑みを返した。
「由真ちゃんはどうなん?」
バイトの男たちがさりげなく話題を変える。
「彼氏とかいるの?」
「いるよー」
由真があっさり答えて、男たちはあからさまに落胆の声を上げた。
「なんだ、彼氏持ちかー」
「そろそろ別れるけどね」
「え、マジ? なんで? 浮気とか?」
「そういうのじゃないけど」
細い眉をわずかに曲げて、由真がいう。
「顔が好みだったんだけど、付き合ってみたら、なんかイメージとちがったっていうか」
「あー、わかる。そういうのあるわ」
「ほんとにわかんのかよ。おまえ彼女いたことないだろ」
「うるせえ。だれが童貞や」
コントめいたやりとりに迎合の笑いを向ける。由真も他のスタッフももうおれには関心がないようだった。正直なところ、ほっとした。あまり詳しく突っ込まれるとぼろが出てしまいそうだった。
間もなくフリーになるという由真の予告は男たちを色めき立たせ、彼女を中心に会話が盛り上がっている。それとなく場を離れようと後ずさったところで、店のドアが開く音が聞こえた。来客を知らせるためのベルが設置されていて、ドアの動きに反応する。他のスタッフも気づいたようで、会話を中断し、一斉にドアのほうを向いた。
「お客さん?」
「ランチ終わってるって説明してきて」
「はーい」
スタッフのひとりが入口に向かったが、すぐにもどってきた。
「あの、安藤さんの知り合いみたいなんですけど」
「え?」
どきっとした。慌ててキッチンを出る。ドアの前で大きなキャリーケースを持った葉一が立っていた。空港から直接きたのか、スーツ姿でネクタイを締めている。
夢かと思った。唖然としているおれに、葉一は笑いかけた。
「びっくりした?」
キャリーケースを放置したまま、おれのほうへ近づいてくる。一瞬、背後にいる同僚たちの存在が気になったが、もちろん葉一は友人としての距離を保っていた。おれの前に立ち、エプロンの裾を軽く摘まむ。
「サプライズ成功?」
「あ……うん、びっくりした」
かなり遅い反応だったが、なんとか頷いた。
「家に行くとこだったのに」
「わかってるけど、早く会いたかったから迎えにきた」
顔を近づけ、囁きあう。だれかに聞こえるようなボリュームではなかったが、それでも胸がどきどきして落ち着かなかった。
「仕事終わった? もう出られる?」
「ちょっと待って。着替えてくる」
「わかった」
伸びてきた手を避けるように咄嗟に身を引いた。背後のスタッフたちの視線を意識してしまった。
「ごめん。あの、すぐ……」
しどろもどろになりながら、葉一に背を向けた。キッチンを抜け、バックヤードに向かう。制服を脱ぎ、私服に着替える。思いがけない葉一の来訪にまだ動揺して鼓動が収まらなかった。こういう事態には慣れていない。驚きのあまりぎこちない態度を取ってしまった。葉一が不審に思っただろうと考えると、早く会いたい気持ちとは裏腹に、ボタンを嵌める手の動きが緩慢になってしまう。
「あ、お疲れさまです」
さっきまでキッチンで雑談をしていたバイトスタッフたちがぞろぞろとバックヤードに入ってくる。由真の姿はなかったが彼女以外はほぼ全員揃っていた。
「安藤さん、友達きてましたよ」
「あ、うん」
「すげえイケメンの友達いるんですね」
軽い言葉の奥に皮肉めいたものを勝手に感じて、迎合の笑みを浮かべる。葉一とおれがふたりでいるところを見て、友人同士だと思うひとはすくないだろう。ましてそれ以上の関係などと悟られるはずがない。それでも、過剰に他人の目を意識してしまう。
「じゃあ、お疲れさま」
「お疲れさまです」
窮屈になったバックヤードを出て、ホールにもどる。葉一はさっきとおなじ場所にいて、由真と話していた。さわやかな笑顔で、小柄な由真を見下ろしている。葉一をイケメンと評したバイトスタッフたちの言葉に覗けた棘はおれへの皮肉ではなく、嫉妬からくるものだったかもしれない。こちらに背を向けてはいたが、由真も楽しげな様子だとわかった。葉一に好意を持っていることが、鈍感なおれにもすぐ理解できた。
「初芽」
おれの姿に気づいた葉一が、由真の頭越しに手を振る。由真が振り返った。おれとふたりで話しているときよりも華やかで愛らしい笑顔に見えた。表情が明るく輝いている。胸に小さな痛みがはしった。
葉一はもう由真を見ていなかった。彼女の脇を通り過ぎ、おれのほうに近寄ってきた。
「もう行ける?」
「うん」
「おし。じゃ行くか」
キャリーケースの柄を握りなおして、葉一が微笑む。声が弾んでいる。葉一の表情もまた華やいで見えた。由真の視線を半身に感じながら、おれはほんのすこし安堵していた。葉一と由真が並んでいる姿を見て、その風景があまりに絵になっていて、気後れしてしまっていた。葉一が女性に関心を持たないと知っていても、バイトスタッフたちのようにバックヤードに逃げ帰りたくなってしまった。
男だけでなく女に対しても嫉妬する自分の卑屈さに、昏い気持ちになった。葉一と並んで歩きながら、おれは自己嫌悪のため息をなんとか飲み込んだ。
「なんかごめん」
ぼんやりしているおれに、葉一が声を掛けた。
「店きたらまずかった?」
「え?」
歩道橋の階段を上るためにキャリーケースを持ち上げながら、葉一がいう。
「いや、なんか表情が暗い感じだから、きてほしくなかったのかなって」
「そんなことない」
慌てて否定した。声が上擦ってしまった。先を上がっていた葉一が上半身を捻る。
「いきなりだったからびっくりしただけで、きてほしくないとか、そんなこと全然ない。うれしかった、ほんとに」
「そっか」
夕陽を背負った葉一の輪郭が朱色にぼやける。
「ならよかった」
葉一が目を細めて笑う。
身勝手な妄想と嫉妬でまた葉一を落胆させてしまった。わざわざ会いにきてくれたのだから、素直に喜べばよかった。動揺するよりも先に伝えるべき気持ちがあったはずだ。後悔が胸に広がり、泣きたくなった。
歩道橋を下りるところで、スマホが鳴った。由真からLINEのメッセージが届いていた。これまではスタッフの業務連絡のため設置されたグループLINEでしかやりとりをしたことがなかった。個人的な連絡がきたのははじめてだった。
「凪砂?」
「あ、ううん。バイトの子……」
メッセージの内容は葉一のアカウントを教えてほしいというものだった。付き合っている相手とは別れるつもりだと話していたし、由真の反応から、予想していなかったわけではなかった。
「さっき話してた子が、葉一くんのLINE教えてほしいって」
「おれの? なんでだろ」
重そうなキャリーケースを軽々と操って、葉一がいう。歩道の端で立ち止まり、周囲を見渡す。
「タクシー乗っちゃおうか。この時間、電車込みそうだし」
「あの……」
車を拾おうと身を乗り出す葉一の背中に向かっていった。
「……どうする?」
「なにが?」
「その……LINE、どうしたら……」
葉一がキャリーケースから手を離し振り返る。おれの目を見つめ、いった。
「おれに女の子と連絡先交換しろっていってんの?」
静かで平坦な声だった。怒っている。本能的に感じた。身が竦んで、呼吸がくるしくなる。
「ごめん。怒ってるわけじゃないよ」
おれの反応に即座に気づいた葉一が、声を低めて近づいてくる。俯くおれの顔を救い上げるように覗き込もうとした。
そのとき、ちょうど背後を通りがかった制服姿の女子高生のグループが笑い声を上げた。おれたちを見ていたわけではない、その可能性は限りなく皆無だとわかっていながらも、体が強張った。
葉一には拒絶と認識されただろう。表情が曇る。甲高い笑い声が遠ざかって消えても、おれは言葉を発せずにいた。
葉一が出張から帰る今日はふたりきりで楽しい時間を過ごすはずだった。たった数日とはいえ、会えない時間の寂しさを埋めるつもりだった。こんなふうに気まずい空気にはしたくなかった。
「初芽……」
周囲から見ても違和感のない距離を保ちながら、葉一は声を顰めていった。
「今日は帰りたい?」
「嫌だ」
反射的に首を振った。気がつくと葉一のスーツの袖を握っていた。避けるような態度を取っておきながら、我ながら勝手すぎる。スーツの生地に皺をつくって、指先に痛みを感じるほどつよく握りしめた。
「広田さんと葉一くんが連絡するの嫌だ」
質問と返答が噛み合っていない。かなり遅いタイミングだと自覚していた。間の抜けた返事にも、葉一は笑わなかった。
「楽しそうに話してるとこ見てるのも嫌だったし、そんなふうに思う自分が一番嫌だ。あと、ひとの目を気にしてしまうのも、素直にうれしいっていえないのも、嫌われたかもっていちいちびくびくするのも全部嫌だ」
葉一と付き合えばこうなるのもわかっていた。男にも女にも嫉妬の炎を燃やしてしまう。凪砂にさえだ。覚悟はしていたが、想像していた以上にくるしい。
「素直に気持ちいえてるじゃん」
おれの肩に手を置いて、葉一はいった。やさしい声が頭上を漂った。
「ときどきでいいから、今みたいに正直な気持ち教えて」
頷くだけで精一杯だった。もう一度、葉一が顔を寄せ、囁いた。
「やっぱタクシー乗ろ」
目を上げると、視線が衝突した。
「今すぐ連れて帰りたいから」
葉一の瞳は声以上にやさしかった。その目に見つめられると、強張っていた体から自然と力が脱けた。するりとスーツの袖がはずれ、代わりに大きくあたたかい手に指を握られた。
「行こう」
短い言葉が、おれの足を踏み出させた。



