ファーストリーフ

 皮つきの牛蒡をささがきにして、水を張ったボウルに入れた。人参は皮を剥いて細切りにする。フライパンにごま油をひき、牛蒡と人参を炒めて煎り胡麻をまぶす。同時進行で茹でていたじゃがいもをヘラで潰し、刻んだ人参、きゅうり、玉葱と混ぜ合わせる。ゆで卵はすこしだけ刻んで混ぜ、残りは出汁の入ったタッパーに入れた。
 きんぴらやポテトサラダ、煮卵と、複数の料理を同時につくっていくと、徐々に気持ちが落ち着いていく。
 料理は好きだ。親が共働きだったから、小学生の頃から自然と夕食をつくるようになった。苦痛だと思ったことはない。仕事を終えて帰宅した母が、用意した料理を食べて喜ぶ顔を見るのが好きだった。作業をしている間は無心になれるのもありがたかった。
 シンクの横に置いてあったスマホが震えた。葉一からのLINEだった。これから会食というところで、麻布の料亭に入るようだ。しばらくの間連絡がつかなくなる。商社の会食は二次会、三次会と長引くこともざらだ。近年の働き方改革やハラスメント防止は浸透しているといえないらしく、若手社員の葉一はのんびり電話やLINEなどしていられなくなる。
 この後の数時間ぶんを先取りするかのように、立て続けにメッセージが届いた。「会いたい」とか「顔見たい」とかそういった内容だ。昨日合ったばかりなのに、これでは出張から帰るまでの数日間どうなるのか、先が思いやられる。
 ポテトサラダの写真をスマホで撮って送ると、キャラクターのスタンプが連続して送られてきた。「初芽の料理が食べたい」というメッセージに苦笑いする。これから高級料理を食するというのに、なにをいっているのか。
 昨日、駅で別れたときにはすこしぎこちない空気になってしまったが、翌朝にはいつもどおり「おはよう」のやりとりをして、凪砂の名前は互いに出さなかった。
 けっきょく、キッチンのゴミ箱に凪砂がふだん吸っているものとおなじ銘柄の吸い殻が入っていた理由を直接聞くことはできなかった。信用していないわけではない。どんな答えが返ってくるのか考えると怖かったし、質問することで疑っていると思われるのも嫌だった。
 胸のしこりを意識しないよう調理作業に集中する。豚バラ肉を炒めていると、凪砂が部屋から出てきた。昼寝をしていたのか、寝癖のついた髪をかきむしり、欠伸をしている。
「いい匂い」
 体を伸ばし、首を捻りながらキッチンに入ってくる。
「今日、肉?」
 おれの手元を覗き込んで、いう。
「生姜焼きとポテトサラダ」
「なんかいろいろあんじゃん」
「こっちのは作り置き用」
「へえ」
「あとほうれん草のサラダも」
「なんでサラダが2つなんだよ」
「凪砂、ほっとくと肉ばっか食べるから」
 凪砂は首を窄めただけだった。Tシャツの裾から手を突っ込んで腹を引っ掻きながら、リビングのソファにどっかと座る。
「今日は稽古休みだろ? なにも予定ないの?」
 ほうれん草を洗いながら、リビングに届くようすこし声を張って尋ねる。
「おまえこそ、家にいるの珍しいじゃん」
「今日は月曜だし……」
「最近平日もどっか行ってるだろ」
 凪砂もおれのほうは見ずに、クッションを重ねてソファに寝転んでいる。テレビのリモコンを取り上げ、配信サービスのトップ画面に並んだ映画やドラマのパッケージを眺めている。
「初芽、おまえ、彼女できた?」
「は?」
 手に持っていたほうれん草の束を落としそうになった。
「なに、いきなり」
「やっぱそうなのかよ」
「ちがうよ!」
 不意を衝かれ、ついことさらに語気を強めてしまう。
「いるわけない、彼女なんて」
 わずかにうしろめたさがあったが、彼女ではなく彼氏だ。嘘をついているわけではない。
「なんでそう思ったの?」
「べつに。ただの勘」
 凪砂の口調は平坦で、感情は見つけられなかった。
「メシもうできる?」
「あともうちょっと」
 おれも平静を装ってはいたが、うまくいっているという自信はなかった。
 凪砂は退屈そうにリモコンを弄び、テレビ画面のなかで無数のパッケージが右から左へ流れていく。そのひとつひとつに、凪砂が憧れてやまない世界が広がっているはずだが、まるでごみくずのように指1本でさらさらと消し去ってしまう。
 今日だけではない。ここのところ凪砂は常に退屈をもてあましているようだった。最近まで働いていたバイト先の飲食店を辞めてしまい、以前付き合っていた共演者と別れてからは新しい彼女もいない。かなり前に撮影した映画がもうすぐ放映されるはずだが、それを除けばあとは小規模な朗読劇が1本だけだ。
 事務所を辞め、フリーランスとなってからも、仕事が途切れることはなかった。アイドル時代の熱烈なファンとサポートしてくれるキャスティングディレクターや演出家に支えられたこともある。後ろ盾を失い、たったひとりで役を得るのは簡単なことではないとわかっていた。おれの前で弱音を吐くことはなかったが、最近の凪砂はあきらかに行き詰まり、苛立っていた。突然激昂したかと思えば、考えに耽るように何時間も黙ったままのときもあった。
 とりとめなく流れていく様々な国の様々な言葉。おれは調理の手を止め、クッションに凭れた凪砂の小さくて茶色い頭を見つめた。凪砂はおれなどよりもはるかに強い人間だが、無敵というわけではない。とくに、他人に弱みを見せるのを極端に嫌った。おれの誕生日の前日、ビアガーデンで泥酔してがなり立てたのは、凪砂なりのSOSだったのかもしれなかった。抑えつけてきた感情が爆発した。
 あのときのことを凪砂はまったくおぼえていないといった。それが真実かどうか、確かめる術はおれにはない。
 夕食の支度が終わり、食卓についた。ふたりで食事をともにするのは久しぶりだった。
 凪砂は台本らしき紙束をダイニングテーブルの上で開き、目で文字を追いながら食事をしていた。
「あのね、凪砂……」
「んー?」
 ページを捲りながら、いかにも気の入っていない返事だった。
「最近、葉一くんと会った?」
「葉一?」
 視線を上げないまま、凪砂が答える。
「会ってないけど」
「部屋に行ったりとか」
「は? なんで?」
「べつに……」
 凪砂の表情に変化はない。おれの勘違いで、凪砂とおなじ煙草を吸うべつの人間がいたのかもしれない。葉一が吸っている可能性もないではないが、それなら隠す必要もない。おれはとくに煙草の煙が嫌いというわけでもないし、ひとり暮らしで気にすることもないだろう。
 凪砂と葉一が示し合わせておれに嘘をついているとは考えたくなかった。
「おまえは行ってんの?」
 聞き返され、思わず首を振った。
「行かないよ」
 咄嗟に嘘をついてしまった。即座に後悔に襲われたが、後戻りできない。
「それ、今度の劇の?」
 苦し紛れに話題を変えた。
「ちがう。その次の」
「次も決まったの?」
 思わず身を乗り出した。
「舞台? 映画?」
「ドラマだよ。連ドラ」
「ほんとに? すごい!」
「すごくねえよ。脇役だし。いつもの同級生AだかBだかC」
 きゅうりの浅漬けを軽い音を立てて噛み砕きながら、顔をしかめる。
「いつまで学生役やらされんだかな。いくつだと思ってんだって」
 凪砂がいわゆるイケメン俳優の枠を抜け出そうと足掻いているのは知っていた。周囲が持つイメージや求められる役割から解放されたがっている。
「どんな話? 台詞多いの?」
「見るか?」
 凪砂が台本を閉じてこちらに突き出してくる。
「いいの?」
「いいよ、べつに。情報漏らしたりしないだろ」
「するわけないよ!」
「でかい声出すなって」
 箸を置き、台本を受け取って、さっそく読みはじめた。連続ドラマの第1話のようだ。印刷したての紙のピンと張った感触が指に心地いい。まだ提供されたばかりのようだ。いつもなら隙間がないほどびっしりと書き込みで埋め尽くされているのに、きれいなままだった。これからこの台本がぼろぼろになっていくことを考えると、胸が弾んだ。未公開のドラマの内容を覗く高揚感に、顔の筋肉が緩んだ。
 最初のページを捲ったとき、おれは眉を寄せた。
「これって……」