ファーストリーフ

 はじめは教員か用務員かと思った。「安藤?」と呼んだ声が高校生のわりに低く落ち着いて、おとなびていたからだ。
「安藤だよね」
 おれが答えずにいると、もう一度尋ねてきた。人当たりのいい笑顔が、花壇の隅でしゃがんでいるおれを見下ろしていた。
「あ、おれ、窪田。わかる? 沓澤とおなじクラスの」
 知っていた。2年に進級して、凪砂とクラスが別になってしまった。階がちがうから顔を合わせる機会はすくない。空手部のエースで体格もいいクラスメイトをそばに置いておくと、鬱陶しい男たちが寄ってこなくて便利だと話していた。
 おそるおそる立ち上がる。土のついた指を腹の前で組んだ。不安からくる無意識の動作だった。
「いきなり声かけてごめん」
 警戒心を隠しきれていないおれからすこし距離を取って、葉一はいった。離れると身長の高さがよけいに際立った。
「なに植えてんの」
 おれの手元を覗き込み、無邪気に笑う。テレビで見る俳優のように爽やかな笑顔だった。
「おれも植物好きだからさ、気になって」
 嘘ではないかと思った。体育会系でクラスの中心的人物。園芸に関心があるようには見えない。なぜそのようなすぐにばれる嘘をついてまで話しかけてくるのかわからず、戸惑った。
「なあ、この黄色の花って……」
 考えるより先に体の向きを変えていた。おなじようなことは中学時代にも何度もあった。すくなくともおれにとって歓迎すべき接触でないという直感があった。こんなふうに話しかけられたときにはどう対応すべきか、経験上、知っていた。本能的に背を向け、その場を去った。校舎に向けて走りながら何度か振り返ったが、追いかけてくる気配はなかった。花壇のそばで立ち竦んでいる葉一の姿は、すぐにおれの記憶から消えた。

 目を覚ますと、葉一の顔がすぐそばにあった。自分の腕を枕にして横向きに寝そべり、おれの顔を覗き込んでいる。
「おはよう」
 そういわれたが、空気はまだひんやりとしていて、カーテンの閉じられた寝室でもまだ朝を迎えていないことがわかる。
「……おはよう」
 喉が渇いているせいか、声が掠れた。軽く咳をして、裸の肩を丸める。
「なんで見てるの」
「見てたいんだよ」
 鼻の付け根に寄った皺を指先でつつきながら、葉一が目を細める。
「まだ信じられないから。ずっと見てないと消えていなくなりそう」
 冗談だとは思ったが、眼の奥は真剣で、笑い飛ばせなかった。躊躇って、話題を変えた。
「夢見てた」
「なんの夢?」
「高校のとき」
 ブランケットの下で爪先を伸ばす。葉一が膝頭で腿のあたりを擽ってくる。
「凪砂の夢?」
「ううん。葉一くん」
「おれ?」
 意外そうに顔を持ち上げ、おれの顔を上から見下ろす。
「おれのことあんまおぼえてないっていってなかった?」
「なんか突然思い出した。こうなったからかも……」
 誕生日の夜にはじめて体をつなげてから、ほぼ1日おきに葉一の部屋を訪れていた。翌日のシフトがディナーだけか休日の日にはセックスもする。毎回でないのは、葉一がおれの身体的負担を気遣ってのことだった。
「葉一って呼べよ」
 声は不満げだったが、表情は明るかった。というよりも浮ついている。うれしいとき、葉一はあえて不服を述べることがある。最近になって知った。これまでは凪砂の陰に隠れて意識していなかった葉一を、毎日新しく発見している。
「まだ慣れないから……」
「さっきはおっきな声で呼んでくれたのに」
 両方の掌で葉一の胸を突く。もちろんたいした力はこめていない。葉一も大仰にのけぞってみせただけで笑っている。
 この日は葉一の仕事がない日曜でおれもランチ営業のみのシフトだったから、仕事を終えてすぐに訪ね、葉一のつくった夕食を食べて、そこからはひたすらベッドにいた。
 ベッドサイドでスマホのアラームが鳴りはじめて、手を伸ばした。中途半端な時間のアラームに、葉一が眉を寄せる。
「泊まっていかねえの?」
「うん。今日は」
「前もだったじゃん」
 今度は本気で抗議しているようだった。スマホに届かせまいと、おれの手を引っ張る。駄々をこねる少年のようだ。
「明日からしばらく会えないのに」
 翌日の月曜、葉一は得意先との会食があり、火曜日からは海外出張のスケジュールが入っていた。商社勤めの葉一の仕事は忙しく、欧米やアジアへの出張も多い。来週は北京に行くとかで、帰国は金曜の予定と聞いていた。
「外泊が多いと凪砂に怪しまれる」
 葉一の眉間の皺が深くなる。なにをいわれるかはわかっていた。葉一はベッドの上で俯せになり、予想どおりのことをいった。
「なあ、そろそろ凪砂にいわない? おれたちのこと」
 首を捻っておれを見つめる。その眼差しには弱い。それでも首を縦には振らなかった。
「どうだろ……まだ早いんじゃないかな」
 仰向けの姿勢で掲げたスマホを操作しながら、小さな声で答える。
「いきなりだと戸惑うだろうし」
「それはわかるけど……」
 横から手を伸ばしておれの髪を摘まみながら、葉一がいう。
「欺いてるみたいで、なんか嫌だ」
 居心地の悪い思いをしているのはおれもおなじだった。愉快であるはずがない。何度も打ち明けたいと思ったが、男の欲望を嫌悪している凪砂に軽蔑の眼を向けられることを想像すると、どうしてもできなかった。
「ごめん」
 髪の束を指先に巻き付けながら、葉一が呟く。
「毎日いっしょにいる初芽はおれよりもっとつらいよな」
 汗を纏ったおれの髪をくしゃくしゃにして、勢いよく起き上がる。
「シャワー浴びるだろ? コーヒー淹れとく」
 葉一が謝ることではない。おれが臆病なのが原因だ。いつもそうだ。目の前の問題から目を逸らし、解決を先延ばしにしてしまう。
 ビアガーデンで泥酔した凪砂に怒鳴られて以来、さらに怖じ気づいてしまった。凪砂は忘れていても、おれのほうは一言一句すべておぼえている。表面上はふだんと変わらない日常を過ごしていても、ぎこちない態度になってしまう。気後れしているのを悟られないよう、遅い時間に帰宅することも多かった。葉一との関係が順調なだけに、凪砂の前で過剰に身構えてしまう時間はつらかった。
 いっそのことすべて打ち明けてしまったほうが楽なのかもしれない。どんな結果になったとしても、葉一が支えてくれるだろうし、凪砂にしても、誠意をもって説明すれば理解してくれるかもしれない。
 わずかに開いた寝室のドアの隙間からコーヒーの香りが流れこんできた。部屋を彩る観葉植物の葉の匂いと鮮やかに協調する。
 葉一に告白され、付き合うようになって、葉一だけでなく、自分のことにも気づけるようになった。
 おれはおそらく、依存型の人間なのだと思う。自己評価が低く、常に強迫観念に襲われているせいで、価値観を他人に委ねてしまう。凪砂に指摘されたときも反論できなかった。
 葉一といっしょにいる間は、自己嫌悪の渦から顔を出し、呼吸ができる。でもそれは一時的なもので、本質的な部分ではまるで変わっていないのではないだろうか。依存する相手が凪砂から葉一に変わっただけだ。
 まだ怠さの残る体に鞭打ってベッドを出た。バスルームに入り、シャワーを浴びる。すこしうたた寝してしまったが、終電には間に合うだろう。翌日は休みだから、作り置きのおかずを大量に仕込んでおくつもりだった。凪砂もオフだと聞いていた。久しぶりに凪砂とふたりだけの夜になる。
 明日、凪砂に話そう。静かな決意とともに、おれはシャワーの粒を全身に浴びながら深呼吸した。
「コーヒー淹れたよ」
 バスルームを出ると、リビングで葉一がテレビを見ていた。おれの姿に気づくと立ち上がり、首にかけたタオルの両端を摘まんで顔を寄せ、額にキスする。
「駅まで送る。ちょっと待ってて」
 おれと入れ替わりにバスルームに入っていく背中を見送り、今度はおれがキッチンに入る。葉一が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、冷蔵庫を開ける。店で余ったシフォンケーキの残りを冷蔵庫に入れていた。葉一は甘いものはあまり好きではなかったから、持ち帰って明日凪砂と食べようと考えていた。
 ケーキを入れてきた紙袋を棄ててしまったことに気づき、ゴミ箱の蓋を開ける。さっき入れたばかりだからまだきれいだった。取り上げたものの、すこし躊躇した。一度ゴミ箱に入れた袋を再利用するなど、貧乏くさいと思われるだろうか。
 ゴミ箱の蓋を開け放したまましばらく悩んでいると、ふとゴミ袋のなかに見慣れないものを見つけた。煙草の吸い殻だった。数本まとまって、ティッシュペーパーにくるまれていたが、紙袋を取り出したときにずれてしまったのか、ティッシュからこぼれ落ちて先が覗けていた。
 煙草を吸ったことはなかったが、吸い口に印刷された灰色のロゴと細い円柱を一周する緑色のラインに見覚えがあった。紙袋を持ったまま、おれは一瞬立ち竦んだ。
「初芽」
 間延びした声がバスルームのほうから近づいてきて、咄嗟にゴミ箱に紙袋を圧し込み、蓋を閉じた。
「ごめん、行こうか」
「うん」
 コーヒーカップを洗って、ケーキの箱を抱える。
「そのままだと持ちにくくないか。袋なかったっけ?」
「あ、ううん。だいじょうぶ」
 顔を巡らせる葉一を制した。
「駅まですぐだし」
「そっか。じゃおれ持つよ」
「ありがとう」
 ふたりで部屋を出て、駅までの道を並んで歩いた。
「次は来週末かな」
「そうだね」
「1週間も会えないとか地獄だな」
 大袈裟ないいかたに笑おうとしたが、うまく笑えなかった。葉一は気づかずに歩きつづける。
「そうだ、あのさ、初芽にお願いがあるんだけど」
 駅に近づきはじめたところで、ふいに葉一が足を止める。
「なに?」
「金曜に帰るまでに、おれんちきて観葉植物に水やってくんない?」
 葉一は申し訳なさそうに首をすぼめた。
「水足りないと枯れちゃうからさ。時間あるとき寄ってくれるだけでいいんだけど」
「わかった。いいよ」
 ふだん葉一にしてもらっていることの多さや大きさを思えば、あまりに簡単な依頼だった。頷くと、葉一はほっとしたように顔を綻ばせた。
「よかった。じゃ、これ、鍵渡しとく」
 真新しい鍵を渡された。
「今までは会社の後輩に頼んでたんだけど」
「だいじょうぶ。ちゃんとやっとくから」
「ありがとな。助かる」
 再び歩きはじめ、やがて駅に到着した。ケーキの箱を葉一の手から受け取った。
「じゃあ……」
「凪砂もきたことあるの?」
 いつもどおりに別れの言葉を口にしようとした葉一を遮って、いった。脈絡もなにもない、あまりに唐突な問いに、葉一が戸惑いの表情を見せた。
「あ、出張のとき? 凪砂には頼んだことないよ」
 終電間際の改札前で向き合った。
「なんで?」
「べつに……」
 会話が不自然に途切れた。終電を知らせるアナウンスが駅構内に響いて、おれは後ずさった。
「じゃ、行くね。出張、気をつけて」
 まくしたてるようにいった。後半にはすでに踵を返していた。返事を待たずに、足早に改札を抜けた。
 数日会えないというのに、気まずい雰囲気のまま別れてしまった。電車を待ちながら、後悔の念に駆られた。
 回りくどいいいかたをせず、ただ一言「凪砂がきていたのか」と尋ねればいい。ドラマの1シーンのように、煙草を吸わない葉一の部屋にどうして吸い殻があるのか問い詰めるのでもいい。痴話喧嘩に発展したとしても、あんな中途半端な態度を取るよりはずっとましだ。
 終電の車両が駅に入ってきた。電車に乗り込み、つり革を握ると、地下鉄の車両の窓に疲れた表情のおれがいた。ポケットのなかでスマホが震えた。葉一だろう。別れ際のおれの様子を気にしているかもしれない。中身を確認する気力が生まれず、おれは自分の腕に頭を凭せかけた。
 目を閉じて忘れようとしたが、一度心の奥に浮かんだ不安は晴れることはなかった。