ファーストリーフ

 葉一の手が脇から伸びてきて、手のなかからカップを取り上げられた。
 コーヒーの香りがつよくなって、葉一の顔が近づいてくる。昨日から何度も繰り返しているから、驚くことはなかったが、完全にリラックスできるというわけでもない。おれは目を閉じて唇が下りてくるのを待った。すぐにやわらかな感触があり、舌先が潜り込んできた。
「初芽、口開けて」
「ん……」
「もうちょっと……」
「うん……」
 必死で鼻から酸素を吸いながら、どうにか口を開ける。熱く濡れた舌が絡んで、溢れた唾液を葉一が啜る音が響いた。おれも喉を上下させ、残った唾液を必死で飲み下す。
 葉一の指先が頬の肉に食い込み、さらに口を開けさせられた。砂漠でスコールを浴びるように上を向いて、顎に痛みを感じるほど大きく口を開け、舌を突き出して葉一のキスを受け止める。
 何度も角度を変えながら、葉一は肉食動物を思わせる執拗さでおれの唇を貪った。これまででもっとも深く、長いくちづけだった。頭の芯が重くなり、全身の血流が烈しくなった。
 いつもとちがうのはおれもおなじだった。血液が下腹に集中して、硬直がデニムの生地を圧し上げる感覚。性的に反応しているのはあきらかだった。はじめての感覚に畏怖をおぼえ、思わず膝頭同士を擦り合わせた。体勢を崩しかけ、咄嗟に葉一の首に腕を回すと、密着がさらに濃くなった。
「初芽……」
 舌先が触れたまま、囁かれる。低い声と熱い息が耳朶に纏わりつき、さらに興奮が高まった。あっという間に、予兆は予兆でなくなっていた。
「初芽」
 葉一の体重がかかり、芯を失っていたおれの体は後ろに倒れた。ソファに仰向けとなった体勢で、擦りつけていた膝頭が解けた。自身の興奮を象徴する塊が密着しそうになり、咄嗟に身を捩った。唇が離れ、顎をつかんでいた手が緩む。
「あ、ごめん……」
 おれに拒絶されたと思ったのか、葉一がソファを軋ませて起き上がる。
「だいじょうぶか」
 無言で頷く。口を開けば自分のものではないような声が漏れそうで怖かったのだが、葉一にはそう伝わらなかったようで、目に見えて狼狽えた。
「ごめん、ほんと……」
 両腕でおれの体を支え、上半身を持ち上げて再び座らせる。体の変化を悟られまいと、おれはソファの上で膝を抱え、身を縮こまらせた。
「びっくりしたよな。ごめんな」
 ぎこちない手つきで頬を撫でられる。唾液の雫で濡れていたようで、指の腹でていねいに拭われた。
「怖かった?」
 首を振る。かろうじて、答えた。
「怖くはないけど……」
 掠れた声が膝の間を揺蕩って、デニムの厚い生地に溶けていく。実際、恐怖は感じなかった。しかし、まだぼんやりとしていて、次につながる言葉が出てこない。
「もうなんもしないから」
 葉一の顔も紅潮していたが、なにげない口調でいって、体を遠ざけた。
「メシ食うか。腹減ったよな。あの肉ケーキってどうやって……」
 立ち上がりかけた葉一の手をつかんだ。無意識の行動で、自分でも驚いた。腰を浮かせた不安定な姿勢で、葉一が硬直する。
「なんで……」
 声が上擦った。案の定、奇妙な声になってしまった。ますます恥ずかしくなり、葉一の手をつかんだまま俯いた。
「なんでなにもしないの」
「え?」
「昨日も……」
「昨日もって……」
 葉一が身を乗り出す。おれの手をつよく握り返し、いった。
「どういう意味?」
「べつに……」
「なにもしない約束だったし……」
 困惑する葉一の眼の奥にかすかな欲望の炎を見た気がした。自分から話しはじめておきながら、おれは臆してしまった。
 おれが視線を伏せるのを見ても葉一は退かなかった。
「していいってこと?」
 葉一の声も切迫していた。握られた手が熱い。
「……おれだけドキドキしてるの嫌だし」
 答えになっていないのはわかっていた。ソファの上に座りなおし、おれの顔に掌で触れる。やはり、葉一に触れられると安心できた。
「おれがドキドキしてないわけないだろ」
 無意識に視線が移動した。前のめりの姿勢で、体の状態は判断できない。ただ、目の動きを辿られた。
 慌てて顔を背けようとしたが、葉一の掌が妨害した。2本の腕がおれの腰に絡んで、一気に引き寄せる。不意を衝かれ、あっけなく全体重を凭せかけた。葉一の上に跨がるような体勢になると、互いの下腹と腿が密着し、身動きに合わせて擦れた。
 葉一のその部分はおれのものとは比較にならないほど固く漲っていた。衣服ごしにもすぐにわかるほど力強く脈打っている。
「わかる?」
 動揺しているおれの耳元で葉一が囁く。
「おれ、初芽のこと抱きたいって思ってんだよ」
 理解していなかったわけではない。そこまで子どもではなかった。葉一が各層としている情欲の欠片がかすかに覗けることもあった。それでも、直接口に出されると、現実感が渦を巻いて襲ってきた。
「わかってる……」
「ほんと?」
 何度も頷いたが、相変わらず顔を直視することはできない。こういうことが、いつか自分にもあるかもしれないと妄想を抱いたことはあった。もちろん、相手が葉一だとも、欲望を向けられる側になるとも想像だにしていなかったが。
「だって……付き合ってるし」
 顔じゅうに葉一の視線を感じる。触れあったすべての部分から葉一の体温を感じる。
「それに、おれも……」
 いいかけて、口籠もった。葉一の視線に促され、言葉をつないだ。
「おれも、好きだし……」
 語尾が乱れたのは、再び唇を塞がれたからだ。再び体重をかけられ、仰向けにされる。
 体が重なり、舌が絡まる。葉一の膝がおれの太股を割り、ひんやりとした手がシャツの裾から潜り込んできた。肋骨をなぞるように脇腹から胸にかけて移動する。子どもの頃は親に風呂に入れてもらっていただろうが、それを除けばはじめて他人に直接肌を触られ、体が跳ねた。ただし、嫌悪の反応ではない。葉一もわかっていた。おれの顎や頬を舌先で圧迫するように舐めながら、息を弾ませていた。
「おれに触られるの、気持ち悪くないんだ……?」
 独白のように噛みしめて呟いた。おれの意思を直接聞き、こうして触れあっていてもなお、「気持ちいいか」ではなく「気持ち悪くないか」と確かめようとする。もともと同性愛者ではなく、奥手でもあるおれを怯えさせないよう自制しているものと思っていたが、それだけではないのかもしれない。おれとおなじか、もしくはおれ以上に、葉一も怯えていた。
 臍のあたりを行き来していた手がゆっくりと下降する。デニムの中心部分に掌をあてられると、腰から背にかけて電流がはしるような感覚があった。
 息を吐いたつもりだったが、声が漏れていた。反射的に葉一の左腕を両手でつかんだ。なにかに縋りたかったのかもしれない。
 腕をつかむ手に力をこめる。やめさせたいわけではなかった。そう伝えるために、葉一の眼をまっすぐ見た。
 今までなにを求めていたのか。葉一にどうしてほしかったのか。ようやくわかった。
「……もっと触って」
 筋張って、葉脈のように無数の血管が浮き出た葉一の腕をぎゅっと胸に抱きしめて、おれはいった。