ドアを開けるなり、葉一が体をぶつけてきた。玄関先で靴を履いたまま抱き竦められ、思わず硬直していると、間髪を入れずに唇を奪われた。急な展開に頭がついていかず、されるがままだった。
「ごめん」
折れ曲がったおれの体をまっすぐに立たせ、葉一が息をつく。まだ唇の表面が触れあっていて、葉一がしゃべるのに合わせて微振動が伝わった。
「早く会いたかったから」
帰宅したばかりなのだろう。葉一はワイシャツ姿で靴下を履いていた。
「昨日会ったじゃん」
「そうだけどさ」
不服そうに唇を尖らせ、またおれの首元に頬を寄せてくる葉一をいとおしく思った。
さらに何度かキスされてから、ようやく靴を脱ぎ、部屋に入った。
玄関で押し倒されるのではないかと思うほどの勢いだったが、もちろんそんなことはなく、連れだってリビングに向かった。
「凪砂、どうだった?」
準備していたらしいコーヒーをカップに注ぎながら、葉一が背中で尋ねる。
「だいじょうぶ。ただの二日酔いだって」
前夜にビアガーデンで飲みすぎた凪砂は、午後になっても体調がもどらず、ベッドから起き上がれなかった。どうやってひとりで帰ってきたのか、朝帰宅したときにはリビングのソファで熟睡していた。無事で安堵したものの、翌日まで体調不良を引きずるほど深酒をした凪砂の行動に不安も感じていた。
「それなに?」
「あ、これ?」
手にした紙袋を持ち上げる。
「肉ケーキ。予約してたやつ」
凪砂のリクエストで焼肉店を予約していたが、凪砂の体調が改善の見込みなく、キャンセルすることにした。誕生日用に用意された特別メニューの肉ケーキだけはキャンセルというわけにいかず、カフェの仕事を終えてから焼肉店へ行き、キャンセル料を含む料金を支払って引き取ってきた。
「まったく、あいつ、しょうがねえな。自分が行きたいっていったくせに」
葉一がおれの肩越しに首を伸ばして紙袋のなかを覗き込む。おれの手から紙袋を受け取り、代わりにコーヒーカップを渡して、キッチンにもどった。
「それで?」
キッチンから声だけが届く。
「ちゃんと謝れた?」
「うん……」
コーヒーを一口飲んで曖昧に頷くと、葉一がすぐにキッチンを出てきた。
「なに、話せなかったの?」
「話せたけど……」
新宿のホテルで朝まで葉一と過ごした。ふたりで朝食をという葉一の誘いに応じたかったが、連絡が取れずにいる凪砂が気がかりだったし、仕事のシフトも入っていた。早朝の電車で帰宅し、リビングで眠りこけている凪砂を見たときは心底ほっとした。もうおとななのだから心配ないと葉一に諭されたものの、どこかで行き倒れているか犯罪に巻き込まれてでもいないかと考えると落ち着かなかった。
「凪砂、おれが迎えにきたこと、おぼえてないって」
青白い顔で水を飲むために起き出してきた凪砂の言葉は思いがけないものだった。
「なんだよ、それ」
葉一が拍子抜けしたように顎を持ち上げる。
「相変わらずテキトーだな」
おれが迎えにきたことも、話した内容もまるで記憶にないという凪砂に、それ以上なにもいえなかった。
「だからいっただろ、あんま気にすることないって」
葉一は自分もコーヒーカップを手にソファに座って、隣のスペースを手で叩いた。促されるまま腰掛けると、すぐに葉一が身を寄せてくる。肩を抱かれ、腕の表面を軽く擦られると、強張った神経が緩んでいく。
「ほんとにおぼえてねえの? そういってるだけじゃない?」
「どうだろう……」
「そんな酔っ払ってたんだ? まあ珍しいことじゃないけど」
アルコールを受け付けない体質でほとんど口にしたことがない。酔いが頭と体にもたらす影響には実感がなかったが、記憶がすっぽり抜け落ちるということもあり得ないことではないと聞く。アルコールが入ったときにこそ本心が出るという話もあり、凪砂の態度に安堵しながらも、心の奥の靄は晴れなかった。といって、忘れてしまったという凪砂の主張を疑うことも、こちらから発言の意図を問うこともできず、二日酔いによる頭痛で寝込んでいる凪砂を置いて仕事に出てしまった。
カフェでの調理中、何度もオーダーミスを繰り返して、いっしょに働くスタッフに迷惑をかけてしまった。
「初芽」
耳のすぐそばで声がして、我に返った。また物思いに耽ってしまっていたようだ。
「気になる? 凪砂のこと」
厳密にいえば、気になるのは凪砂のことだけではなかった。むしろ、ミスの要因になっていたのは葉一とのことだった。
ホテルでおれの告白を聞いた葉一は、こちらが戸惑うほど感激して、おれは骨折するのではないかと怯えるほどきつく抱きしめられ、何度もキスされた。しかし、それ以上の行為に発展することはなかった。「なにもしないと約束したから」という理由だった。
未経験とはいっても、一般的知識がないわけではない。互いに好意を持っている関係のふたりがホテルの部屋にいれば、自然とそういう流れになるのではないかと、ある種の覚悟も持っていた。しかし、葉一は徹頭徹尾紳士的に振るまい、欲望を表面に出すことはなかった。
ツインルームのベッドのうち一台に身を寄せ合って眠った。疲れ果てていたおれはすぐに寝入ってしまい、目が覚めると朝になっていた。葉一は先に起きていて、おれの顔を眺めていた。
「初芽はおぼえてるだろ、昨日のこと」
唐突に聞かれた。戸惑っているおれに、いつもの悪戯っぽい笑顔を見せて、葉一はいった。
「昨日、おれに好きっていったの」
「あ……」
慌てて頷く。
「おぼえてるよ、ちゃんと、もちろん」
「よかった」
おれのこめかみに鼻先を擦りつけながら、葉一が笑う。
「あれ、嘘じゃないよな?」
「うん……」
面と向かって念を圧されると、あらためて恥ずかしさがこみ上げてくる。
「ごめん」
折れ曲がったおれの体をまっすぐに立たせ、葉一が息をつく。まだ唇の表面が触れあっていて、葉一がしゃべるのに合わせて微振動が伝わった。
「早く会いたかったから」
帰宅したばかりなのだろう。葉一はワイシャツ姿で靴下を履いていた。
「昨日会ったじゃん」
「そうだけどさ」
不服そうに唇を尖らせ、またおれの首元に頬を寄せてくる葉一をいとおしく思った。
さらに何度かキスされてから、ようやく靴を脱ぎ、部屋に入った。
玄関で押し倒されるのではないかと思うほどの勢いだったが、もちろんそんなことはなく、連れだってリビングに向かった。
「凪砂、どうだった?」
準備していたらしいコーヒーをカップに注ぎながら、葉一が背中で尋ねる。
「だいじょうぶ。ただの二日酔いだって」
前夜にビアガーデンで飲みすぎた凪砂は、午後になっても体調がもどらず、ベッドから起き上がれなかった。どうやってひとりで帰ってきたのか、朝帰宅したときにはリビングのソファで熟睡していた。無事で安堵したものの、翌日まで体調不良を引きずるほど深酒をした凪砂の行動に不安も感じていた。
「それなに?」
「あ、これ?」
手にした紙袋を持ち上げる。
「肉ケーキ。予約してたやつ」
凪砂のリクエストで焼肉店を予約していたが、凪砂の体調が改善の見込みなく、キャンセルすることにした。誕生日用に用意された特別メニューの肉ケーキだけはキャンセルというわけにいかず、カフェの仕事を終えてから焼肉店へ行き、キャンセル料を含む料金を支払って引き取ってきた。
「まったく、あいつ、しょうがねえな。自分が行きたいっていったくせに」
葉一がおれの肩越しに首を伸ばして紙袋のなかを覗き込む。おれの手から紙袋を受け取り、代わりにコーヒーカップを渡して、キッチンにもどった。
「それで?」
キッチンから声だけが届く。
「ちゃんと謝れた?」
「うん……」
コーヒーを一口飲んで曖昧に頷くと、葉一がすぐにキッチンを出てきた。
「なに、話せなかったの?」
「話せたけど……」
新宿のホテルで朝まで葉一と過ごした。ふたりで朝食をという葉一の誘いに応じたかったが、連絡が取れずにいる凪砂が気がかりだったし、仕事のシフトも入っていた。早朝の電車で帰宅し、リビングで眠りこけている凪砂を見たときは心底ほっとした。もうおとななのだから心配ないと葉一に諭されたものの、どこかで行き倒れているか犯罪に巻き込まれてでもいないかと考えると落ち着かなかった。
「凪砂、おれが迎えにきたこと、おぼえてないって」
青白い顔で水を飲むために起き出してきた凪砂の言葉は思いがけないものだった。
「なんだよ、それ」
葉一が拍子抜けしたように顎を持ち上げる。
「相変わらずテキトーだな」
おれが迎えにきたことも、話した内容もまるで記憶にないという凪砂に、それ以上なにもいえなかった。
「だからいっただろ、あんま気にすることないって」
葉一は自分もコーヒーカップを手にソファに座って、隣のスペースを手で叩いた。促されるまま腰掛けると、すぐに葉一が身を寄せてくる。肩を抱かれ、腕の表面を軽く擦られると、強張った神経が緩んでいく。
「ほんとにおぼえてねえの? そういってるだけじゃない?」
「どうだろう……」
「そんな酔っ払ってたんだ? まあ珍しいことじゃないけど」
アルコールを受け付けない体質でほとんど口にしたことがない。酔いが頭と体にもたらす影響には実感がなかったが、記憶がすっぽり抜け落ちるということもあり得ないことではないと聞く。アルコールが入ったときにこそ本心が出るという話もあり、凪砂の態度に安堵しながらも、心の奥の靄は晴れなかった。といって、忘れてしまったという凪砂の主張を疑うことも、こちらから発言の意図を問うこともできず、二日酔いによる頭痛で寝込んでいる凪砂を置いて仕事に出てしまった。
カフェでの調理中、何度もオーダーミスを繰り返して、いっしょに働くスタッフに迷惑をかけてしまった。
「初芽」
耳のすぐそばで声がして、我に返った。また物思いに耽ってしまっていたようだ。
「気になる? 凪砂のこと」
厳密にいえば、気になるのは凪砂のことだけではなかった。むしろ、ミスの要因になっていたのは葉一とのことだった。
ホテルでおれの告白を聞いた葉一は、こちらが戸惑うほど感激して、おれは骨折するのではないかと怯えるほどきつく抱きしめられ、何度もキスされた。しかし、それ以上の行為に発展することはなかった。「なにもしないと約束したから」という理由だった。
未経験とはいっても、一般的知識がないわけではない。互いに好意を持っている関係のふたりがホテルの部屋にいれば、自然とそういう流れになるのではないかと、ある種の覚悟も持っていた。しかし、葉一は徹頭徹尾紳士的に振るまい、欲望を表面に出すことはなかった。
ツインルームのベッドのうち一台に身を寄せ合って眠った。疲れ果てていたおれはすぐに寝入ってしまい、目が覚めると朝になっていた。葉一は先に起きていて、おれの顔を眺めていた。
「初芽はおぼえてるだろ、昨日のこと」
唐突に聞かれた。戸惑っているおれに、いつもの悪戯っぽい笑顔を見せて、葉一はいった。
「昨日、おれに好きっていったの」
「あ……」
慌てて頷く。
「おぼえてるよ、ちゃんと、もちろん」
「よかった」
おれのこめかみに鼻先を擦りつけながら、葉一が笑う。
「あれ、嘘じゃないよな?」
「うん……」
面と向かって念を圧されると、あらためて恥ずかしさがこみ上げてくる。



