ファーストリーフ

 葉一に腕を取られ、半身を凭せかけて、エレベータに乗り部屋へ向かった。
 部屋は上階のツインルームだった。葉一がカードキーをかざして解錠し、ドアを開けた。
「入って」
 促されるままに部屋に入った。背後でドアが閉まる音がした。2台並んだベッドはどちらもベッドメイクが施されたままだった。テーブルの上にはワインのボトルとケーキの箱があった。ホールケーキはカットせずそのまま食べたあとがある。ワインは半分ほど減っていた。おれのために用意されたバースデーケーキとワインだということはあきらかで、胸が締め付けられた。葉一がどんな思いでこの部屋でひとりでケーキを食べ、ワインを飲んでいたのかを想像すると、罪悪感で圧しつぶされそうになった。
「なんで……」
 重い頭を傾けて、葉一を見る。
「なんでおれがあそこにいるってわかったの」
「わかんねえよ。LINEきてすぐ連絡したらつながらなかったから心配で下りてっただけで」
 葉一はジャケットも着ていなかった。急いで出てきたのか、靴の底を踵で踏んでいる。
「そんなのいいから、とりあえず風呂入ってきな」
 背後で葉一がいって、思わず振り返った。
「濡れたままだと風邪引くだろ」
 雨水を吸ったカーディガンを脱がせ、濡れたおれの体をバスタオルで包んで、葉一が部屋の奥を示す。
 のそのそとバスルームに向かった。まだ興奮状態が続き、呆然としていた。緩慢な動きで服を脱ぎ、シャワーを浴びた。意識していなかったが、かなり体が冷えていたようで、熱い湯を頭から被った瞬間、大きく体が震えた。
 ホテルまでの道のりを歩いてきた記憶は朧だった。どうして葉一のところにもどったのか、自分でもわからない。葉一はすでに帰宅していたかもしれないし、おれを受け容れてくれるかも確かではなかったのに。
 湯の粒を全身に浴びながら、おれはその場にしゃがみこんだ。冷静さを取りもどすにつれ、自分のしでかしたことの重大さを実感していた。葉一を置き去りにして凪砂のもとへ行き、凪砂から拒絶されると再び葉一の待つホテルにもどった。あまりに優柔不断で自己中心的な行動だ。葉一はなにもいわないが、厳しく詰られても文句はいえない。
 バスルームを出るのが怖かった。どんな顔をして葉一と話せばいいのかわからなかった。
 30分か40分ほどシャワーを浴びていた。タオルで体を拭き、用意されていたバスローブを着た。ドアを開けると、葉一はテーブルの上を片付けているところだった。おれの姿に気づき、ワインボトルを置いてこちらに向かってくる。
「だいじょうぶか。全然出てこないから心配した」
「ごめん……」
「こっちきて。髪乾かそう」
 手を引かれ、ベッドに座らされた。葉一は素早くドライヤーを取り上げ、温度に注意をはらいながら、おれの後頭部に温風をあてる。ぬるい風が首もとに纏わり付く。
「自分でできるから」
「いいって」
「子どもじゃないし……」
「いいから、じっとしてろ」
 おれの身勝手を責めることはなく、葉一はふだんどおりにやさしかった。おれの背後に座り、ていねいな手つきで髪の束を漉き、ドライヤーの風をあてていく。時折葉一の指先が首や肩を掠めた。思わず緊張したが、それ以上深く触れてくることはなかった。
 他人に髪を乾かしてもらうことなどはじめてで、どう振る舞うべきかわからず、おれはただ固まっていた。ベッドの上に放置していたスマホもていねいに水滴が拭われ、サイドテーブルの電源に繋がれていた。
「凪砂、だいじょうぶだった?」
 ドライヤーを器用に操り、角度を変えて髪の表面に風をあてながら、葉一が尋ねてくる。いつものような穏やかな声だった。
「ちゃんと帰れたか?」
「うん……」
 電源が入ったスマホのライトが明滅している。着信かLINEが届いているようだった。
「凪砂、もうおれのこといらないみたい」
 無意識に呟いていた。自分でも情けなくなるほど昏い声だった。
「友達にいるもいらないもないだろ」
 葉一はこともなげにいって、マッサージするように指の腹でおれの頭皮を圧迫した。
「凪砂とは友達だろ?」
「友達……」
 だれかに話すときにはそう形容しているが、友人と呼べるかどうかは判然としない。子どもの頃からずっと凪砂のファンだと自称してきた。それ以外の立場を求めたことはなかった。
「すくなくとも、凪砂は初芽のこと友達だと思ってるよ」
「そう……なのかな」
「そうだよ。だからイラつくんだろ。自分は友達だと思ってるのに、相手にそう思われてないから」
 さりげない言葉に胸を打たれた。凪砂にどう思われているのか、直接怒鳴られるまで考えたことがなかった。自分が凪砂をどう思うか、それだけだった。テレビのなかのアイドルや俳優ならそれでいいかもしれない。しかし、凪砂はちがう。
「どうしよう……」
 ほとんど独白のようにいった。
「おれ、凪砂にすごく嫌なことしてた。ずっと……」
 また目頭が熱くなってきた。泣いてしまうのはさらに身勝手な気がして、唇を噛んで耐えた。
「謝ればいいじゃん」
 頭のすぐ後ろで、葉一がいう。ドライヤーの電源を切り、おれの肩にタオルを置いて、タオルごしに筋肉を圧す。
「悪かったって思うなら、ごめんっていえばいい。だろ?」
 大きな掌で首から肩まで撫でていく。張り詰めた神経がすこしずつほぐれていく。
「そんな簡単には……」
「なんで? やってみないとわかんないじゃん。初芽、今まで凪砂とちゃんと向き合ったことないんだろ?」
 どうして葉一はおれのことをなにもかもすべてわかっているのだろう。おれでさえまるでわからないのに、他人のはずの葉一が完全に理解しているのが不思議だった。それほど長く深くおれを見てきたからだろう。おれが凪砂を見てきたように。しかしその眼差しはおれとはちがう。
「だいじょうぶ。明日焼肉のとき凪砂に話してみな。おれも一緒に謝ってやるから」
「そこまで葉一くんに甘えられない……」
「いいんだよ。おれが甘やかしたいんだから」
 完全に乾いた髪の束に指を差し込みながら、葉一がいう。髪が乱れるほど頭を撫でられて、おれは抗議の声を上げた。
「子どもっていうか犬みたいなんだけど」
「はは」
 葉一はベッドに膝を立てて素早く下りた。ベッドが軋んでスプリングがわずかな音を立てる。
「ケーキ食う?」
 広い背中をおれに向け、葉一が部屋を横切る。身を屈め、備え付けの小型冷蔵庫を開ける。
「初芽、ここのチーズケーキ好きだろ?」
 青山の専門店で個数限定販売されているバスクチーズケーキだ。バースデイケーキには向かないが、生クリームでデコレーションされ、通常よりも豪華に演出されていた。特別に交渉したのだろうか。文字どおり、葉一はおれを甘やかしすぎている。
 丸くなった背中を見つめながら、おれは不満だった。離れてほしくなかった。ベッドにもどってほしかった。そんなふうに感じたのははじめてだった。
「はい」
 小さな皿に切り分けたケーキを載せ、恭しい手つきでベッドに運んでくる。
「おいしい」
 ケーキを口に入れ、正直な感想を口にした。人気店の看板商品だから、そう頻繁には食べられない。
「わざわざ並んだの?」
「どうせ1日休み取ってたから」
 再びベッドに腰掛け、おれの顔を覗き込んで、いう。
「誕生日おめでとう」
 葉一は甘いものをほとんど食べない。にもかかわらず、早朝から店に並んだのかと思うと、胸が軋んだ。
「……なんで帰らなかったの?」
「ん?」
「なんで待ってたの? おれ、もどってこないかもしれないのに」
「また『なんで』か」
 葉一は呆れたように肩を竦めて笑った。
「初芽は昔から『なんで』が多いよな」
「そん……」
 咄嗟に弁解しようと身を乗り出すが、葉一の手にやわらかく肩をつかまれた。
「べつに怒ってない。おれは全然いいよ。なんでも何回でも聞かれたら答えるし」
 おれの隣で膝を折り曲げてベッドに座り、葉一はおれの手に自分の手を重ねた。
「もどってくると思ってたから待ってた」
「でも……おれ約束破ってばっかなのに」
「破ろうと思って破ってるわけじゃないんだろ」
 重ねた手をゆっくり動かしておれの皮膚の表面を擦りながら、葉一がいう。
「いいんだよ。おれ以外に大事なものがあっても」
 手が上昇し、おれの頬に触れる。熱い手だった。かすかにアルコールの匂いがする。短時間でかなりワインの量が減っていた。本当に、平気だったのだろうか。おれが凪砂のところへ行っている数時間を、葉一はこの部屋でひとりワインを飲み、ケーキを食べながら、なにを考えて過ごしていたのだろう。
「それよりほかにおれにいうことねえの?」
「え……」
「あるだろ、ほら」
 悪戯っぽい笑顔を向けられ、戸惑った。ほとんどなにも考えず、唇を動かした。
「好き……」
 一瞬、時間が止まったようだった。一拍措いて、葉一が目を瞬いた。
「え?」
「え、ちがう?」
 慌てて口もとを押さえる。一度外に出た言葉はもどらない。首からこめかみにかけて一気に熱が行き渡った。
「ちがうっていうか、え? 今、好きっていった?」
「そういうことかと……」
「そういうって……」
「ち、ちがうやつ?」
「いや、てっきり『ごめん』とか『ありがとう』とかそういうやつかと思ったから……」
「あ……」
 体温がさらに上昇する。またやってしまった。
「ごめん……」
「いや、え? ごめんてことは、嘘ってこと?」
 葉一はおれ以上に慌てていた。膝を崩して座りなおし、正面からおれの顔を見つめて、いった。
「いつもみたいに、空気読もうとしていっただけ? 本気じゃなかった?」
 切実な表情だった。肩に置かれた手に力がこもっている。眼球が烈しく揺れ、おれの真意をはかろうと近距離で見つめている。
「ケーキが好きってこと? そういうオチ?」
「ちがうよ」
 あまりの錯乱ぶりに、思わず笑ってしまった。そんなふうにできる立場じゃないと思いながらも、つい気が抜けてしまった。
 葉一は笑わなかった。もう片方の手もおれの腰に回し、体を密着させた。
「じゃ、なに? なにが好き?」
 余裕のない顔つき。いつも冷静で朗らかでひとあたりのいい葉一とはまるで別人だった。おれがそうさせているのかと思うと、あたたかい感情が胸に広がった。
 だいぶ前からそうだったのだろう。自覚していなかったといえばそれこそ嘘になる。
「葉一くん」
 葉一の目をまっすぐ見て、答えた。
「葉一くんが好き」