ファーストリーフ

 ビアガーデンを出て、スマホをひらく。バッテリ残量は20%を切っていた。葉一からの連絡はない。
 深夜の歌舞伎町は、仕事に向かうホストや居酒屋のキャッチ、帰宅途中の着飾ったキャバクラ嬢などが行き交い、賑わっていた。舗道の真ん中でぼんやり立ち竦んでいるおれを、すれ違うひとたちが怪訝そうに一瞥して通り過ぎていった。
 どこに行けばいいのかわからなかった。葉一から逃げ、凪砂からは拒絶された。今さら葉一のもとにはもどれない。
 葉一も凪砂も正しかった。けっきょくのところ、おれはどちらにもいい顔がしたかっただけだ。どちらも傷つけまいとして、どちらも欺いた。おれはいい人間になりたかったのではない。いい人間だと思われたかった。
 凪砂を子ども扱いしたことは一度もない。葉一がいうように、ただの友人だとも考えていなかった。ひとりのファンとして、ただ純粋に応援したかっただけだ。だれよりも近くで成功を見守り、活動を支えたかった。見返りを求めず懸命に尽くすことによって達成感を得ていた。
 自己満足に過ぎないという自覚はあった。端から見れば歪に見える関係だと理解もしていた。それでも、だれにも迷惑はかけていないし、自分さえよければ構わないと思っていた。
 凪砂の存在にこだわったのは、自分に自信がないからだ。凪砂に自身を投影し、凪砂の未来に自身の未来を託し、存在価値を求めた。凪砂を励まし、肯定したのは、自分を肯定したかったからだ。凪砂を否定することは自分を否定することとおなじだった。
 おれの期待を一身に背負わされることとなり、凪砂にとっては重荷だったのだろう。身勝手な好意を押しつけるファンたちを軽蔑していたが、けっきょくはおれも彼らとおなじだった。凪砂の意思や個性を尊重することなく、自らの欲求を満たし、空白を埋めることだけを考えていた。凪砂の逃げ場を奪ったという意味では、むしろ彼らよりもたちが悪い。
 仕事の現場では常に緊張状態を強いられ、自宅に帰ってもおれの重圧を受け、安らぎとは無縁の日々だっただろう。凪砂のストレスがどれほどのものだったかは、想像に難くない。
 凪砂をくるしめるつもりはなかった。伝えたくても、もうどうしようもない。
 冷たい感触。雨が降りはじめていた。はじめは小雨、すぐに雨足が烈しくなる。
 そのとき、おれの頭をよぎったのは、凪砂が雨に濡れるのではないかという危惧だった。
 顔の筋肉が引き攣れた感覚。向かい側から歩いてきたホスト風の金髪の男が怪訝そうに眉を顰めてすれ違っていった。

 気づくと、知らない場所にいた。全身ずぶ濡れで、脚が痛んだ。かなり歩いたようだ。靴のなかで靴下がぐっしょりと濡れ、その不快さで我に返った。
 周囲を見渡す。飲食店の看板や道路標識の配置に見覚えがあった。葉一と食事をしたホテルの近くまできていた。無意識にホテルにもどっていたらしい。
 濡れた前髪が額にまとわりつく。緩慢に腕を上げ、手首の裏で拭おうとしたが、全身濡れているから意味がない。
 パンツのポケットに手を入れたが、スマホが入っていなかった。紛失したのかと思ったが、バッグの底に圧しこまれていた。
 葉一からも凪砂からも連絡はなかった。LINEの画面に表示されたいくつかの名前。ふたりを除けば、職場の店舗スタッフで構成された仕事用のグループに、たまに義父から様子をうかがう連絡がくるくらいだ。
 葉一と凪砂以外には友達と呼べる存在は皆無だった。もしかすると、最初からだれもいなかったのかもしれない。葉一はおれを友達とは見ていないとはっきりいったし、凪砂にしてもそうなのだろう。
 全身が震えるような孤独。叫びだしたかった。ホテルの看板が見えたが、なかに入る勇気はなかった。
 葉一はとっくに帰宅してしまったかもしれない。待っていてもおれがもどる保証はない。今までだって一度も約束を守らなかった。
 ホテルの隣に建つオフィスビルのエントランスの前にしゃがみこんだ。雨はまだ降り続いている。わずかな庇が雨を凌いでくれたが、ここまでずぶ濡れでは雨宿りも無意味だ。
 濡れた指でスマホを操作する。LINEを再び開き、メッセージを送った。送信は確認されたが、既読はつかなかった。すこし待って、送信取消を押した。画面上から短い文が消え去った。最初からなにもなかったように、一瞬で消滅した。
 次の瞬間、画面が黒くなった。バッテリを使い切ったのだ。暗黒の画面に亡霊のように生気のない自分の顔が映った。
 すべてが終わってしまった。なにもかも自分のせいだ。
 濡れた地面に尻をついて、膝を抱えた。真夏にもかかわらず、寒気が全身を覆って、肌の表面が粟立っていた。
 ようやく涙が出た。しつこく降りつづく雨のなか、おれは子どものように泣いた。メイン通りからはずれ、深夜ということもあって、人目を気にする必要はなかった。たとえまだ歌舞伎町の中央にいても、耐えられなかっただろう。
「初芽!」
 幻聴かと思った。顔を上げられなかった。前を向いて、だれもいないことを確認して落胆するのが怖かった。
「初芽」
 動けずにいるおれの腕を葉一がつかんだ。いつもとおなじ熱い手だった。
「なにしてんだよ!」
 顔を上げた。ビニール傘を差した葉一がおれを見下ろしていた。
「どうした、こんな濡れて……」
 葉一が言葉を切る。おれにしがみつかれたからだ。
 しゃがみこんでおれの顔を覗こもうとしていた葉一が驚いたように硬直する。おれは葉一の腹に顔を圧しつけ、両腕を胴に回してジャケットの布を必死でつかんだ。葉一に全身を預け、泣いた。
 葉一は黙っておれの肩を抱き、傘を差し掛けてくれた。自分が濡れるのも構わず、身を寄せて、頭を撫でてくれた。そんなことをする必要はないのに。そんなことをしてもらえる資格はないのに。
「誕生日おめでとう」
 おれの背を擦りながら、葉一が囁いた。ひどく浮いた言葉で、その場に似つかわしくないように思えた。それでもおれの心に重く深く響いた。
 スマホはバッテリ切れだし、おれには腕時計を嵌める習慣はない。だからはっきりとはわからないが、きっと日付が変わったのだろう。
 きっとこの先、一生忘れられない誕生日になる。そう考えたとき、無意識に未来のことを思っている自分に気づいた。