ファーストリーフ

 区役所通り沿いのビル最上階にビアガーデンがあった。階下のダイニングバーの経営者が夏季限定でオープンする。場所はすぐにわかった。2年前にもおなじように凪砂を迎えにきたことがあった。凪砂は昼から飲んでいて、前後不覚になるほど酔っていた。帰りのタクシーの車内で嘔吐して、運転手から散々苦情を聞かされた。おれは車内の吐瀉物を自分のシャツで拭い、死人のように脱力した凪砂を引き摺って家に帰った。
 ビアガーデンといっても、会社員がアフターファイブに集まって仕事の愚痴を交わしながらジョッキを擦り合わせる種の店ではない。色鮮やかな照明が明滅し、ヒップホップの重低音が腹の底を振るわせる。ほとんど水着にちかい露出度の高い服を着た女と、彼女たちに群がる大勢の男が限られたスペースのなか地下道の鼠のようにひしめき合っている。
 音楽に合わせて揺れるひとだかりを必死に掻き分け、店の奥に進んだ。あれほどしつこく何度も電話をかけてきたのにもかかわらず、凪砂もその友人も電話に出なかった。せめて店の外に出てきてほしいと願ったが、けっきょくはひとごみのなかを前後左右に揺さぶられながら凪砂を探し回るしかなかった。
 店の奥はVIP専用のスペースになっていた。暗すぎて視界がはっきりしない。スマホの明かりを頼りに前進した。時刻は23時に差し掛かるところだった。バッテリは残り20%に近づいていた。
 タンクトップで覆われたわずかな部分を除いてほぼ全身をタトゥまみれにした大柄な男に体をぶつけられた。あからさまな舌打ちを聞いて、血の気が引いた。逃げるようにさらに奥へと進む。
 カーディガンの袖を捲り、シャツの襟を伸ばして顎の汗を拭う。屋外とは思えないほど熱気が充満していて、息ぐるしかった。シャツの腋にじっとりと汗をかいていた。
 本来なら、今頃はホテルの部屋で葉一とふたりでワインとチーズを楽しんでいるところだった。きつい香水と汗の匂いにまみれて歩きながら、泣きそうになっていた。
 再奥のVIP席に凪砂がいた。ソファの背に頭を預け、両脚を投げ出している。手には中身が半分ほど残ったテキーラの瓶を持っていた。口を半開きにして、眠っているようだった。オーバーサイズのサマーニットの裾が捲れて臍が覗けている。
 解散してしまったのか、二次会に繰り出したのか、連れらしき俳優仲間たちの姿はなかった。大きな丸テーブルにグラスやつまみの皿やウイスキーの空瓶が散乱しているだけだ。用事があると断っている同居人に電話ひとつで面倒ごとを圧しつけ、泥酔した人間をひとり残して去っていく連中を友人や仲間という言葉で呼んでいいものだろうか。
 腹を剥き出しにして寝息を立てている凪砂を見下ろしていると、体から力が脱けていくようだった。これまで完璧なヒーローだと思っていた凪砂がやけに小さく見えた。恵まれた容姿に裕福な実家、なにもかも持っているはずなのに、真夏の雑居ビルの屋上でたったひとり寝呆けている姿を見て、ひどく哀れに思えた。
「凪砂」
 肩をつかんで軽く揺すると、凪砂は形のよい眉を歪めて呻いた。煩わしげにおれの腕を振り払い、ソファの上で体を丸める。手から落ちたテキーラの瓶が転がり、透明の液体が飛び散った。
「帰るよ、凪砂」
「……うるせえな!」
 腕をつかもうとすると、今度は思いがけず烈しい力で圧し返された。バランスを崩し、あやうく倒れ込むところだった。
「なんなんだよ、だれだよ、おまえ」
 凪砂が舌を縺れさせながら怒鳴る。かなり酔っているようで、目の焦点が合っていない。
「……初芽だよ」
「初芽?」
 緩慢に頭を持ち上げ、紅潮した顔をこちらに向ける。おれの姿を確認すると、舌打ちした。
「なに、おまえ、なにしにきたんだよ」
「なにしにって、凪砂がこいっていったんだろ」
「おれはいってねえよ。ナオだろ」
 ナオというのは電話をしてきた木原という俳優だろうか。舌打ちしたいのはこちらのほうだ。
「迎えにこいって……」
「おれはいってない」
 ソファの上に寝そべって、凪砂が繰り返す。
「さっき電話で……」
「おれはくるなっていったんだよ」
「……そんなこといわなかった」
「おれがこいっていったのか? おまえ、聞いたのかよ?」
 言葉に詰まった。確かに、凪砂から直接請われたわけではない。木原という顔も知らない人間に頼まれ、自らきた。
「おまえはいつもそうだよな」
 両腕を伸ばし、足首を組んで、目を閉じたまま凪砂はいう。
「おれはなにも頼んでないし求めてないのに、勝手に忖度して善意を押しつけてくる」
「押しつけって……」
 顔が熱くなるのを感じた。フロアの熱気のせいではない。おれは苛立っていたのだ。凪砂に対して怒っていた。はじめての感情だった。拳を固め、唇を噛んだ。かろうじて声を抑え、いった。
「どうすればよかったんだよ。おれに選択肢なんか……」
「あっただろ」
 長い睫毛を伏せ、首の後ろで手を組んで、凪砂がいう。
「用があったんならこなきゃいいだけの話だろが。今まで一回でもおれが迎えにこいって頼んだことあったかよ? いつもおまえが勝手にきたんだろ」
 冷ややかな声だった。ふだんから素っ気ない態度ではあったが、これほど突き放したような口調ははじめてだった。だらしなく寝転んだ凪砂の前で、おれは呆然と立ち尽くしていた。
「……なんで急にそんなこというの」
「急じゃねえよ。前から思ってた」
 目を閉じたまま、凪砂はいった。アルコールが抜けたのか、それともはじめから酔っていなかったのか、だらけた口調ではあったが、はっきり聞き取れた。
「おまえ、おれの出る映画も舞台も全部最高としかいわねえよな。おれがすること全部正しいみたいなこというけどさ、本当にそう思ってるか? おまえにそういう態度取られるたび、自分がますます惨めに思えてきて、すげえイラつくんだよ」
 そこまでいって、凪砂が片目を開いた。右目だけを薄く開き、おれの顔を見て、つづけた。
「なんだよ、その顔」
 自分がどんな顔をしているのか、想像もできなかった。ただ、顔から熱が失われていく感覚だけがはっきり残っていた。
「おれが喜んでると思ってたのか? おまえがいないとなんもできないと思ってんのかよ? そんなわけねえだろ。見くびんなよ」
「……飲みすぎだよ、凪砂」
 語尾が震えた。他人の声のようだった。
「おれ、嘘なんかついてない。凪砂は最高だって、凪砂のすることは正しいって本気で思ってる」
 凪砂が喉の奥で笑う。
「おまえが本気でそう思ってたとしても、事実とはちがうよな」
 アルコールで掠れた声でいった。
「おれはたいした役者じゃない。才能もないし、努力だって全然足りてない。顔のつくりがひとより多少整ってるってだけで、それがなかったらドラマにも舞台にも出られない」
「そんな……」
「そうなんだよ。自分でわかってる。おまえだってほんとはわかってるだろ」
 小学5年の学芸会。王子役の凪砂は舞台の上で輝いていた。凜とした姿に強烈なインパクトを感じた。それまで感じたことのない衝撃に全身が震え、体の奥から生命力が湧いてきた。あの気持ちに嘘はなかった。
「凪砂は才能あるよ。タイミングさえ合えば……」
「だからそういうのがムカつくんだって!」
 凪砂が声を荒らげて、おれは言葉を切った。
「おれの親かなんかか、おまえは? いちいち鬱陶しいんだよ」
「そんなつもりは……」
「おまえに褒められると、現実とのギャップ感じて、死ぬほどしんどくなる。自分の駄目さを強烈に意識させられるし、そのくせ、うまくいかなくて落ち込んでるとき、おまえが全肯定してくれるのを待ってる自分もいる。それが一番つらいんだよ」
 凪砂がため息とともに言葉を吐き出す。いつの間にか、頭の下敷きにしていた両腕を顔の前に移動させていた。顔が隠れて表情をうかがい知ることができない。
「……葉一くんになにかいわれた?」
「葉一?」
 腕の下で唇の端が歪む。
「なんで葉一が出てくんだよ。あいつは関係ないだろ」
 反応を見たとたんに後悔した。葉一のことを考えた。おれはまた葉一にひどいことをしてしまった。
「ほかにいいたいことねえのかよ」
 今になってようやく気づいた。すべて凪砂のいうとおりだった。おれの行為はすべて自己満足と自己憐憫に過ぎなかった。凪砂に尽くすふりをして、本当のところは、自分のことしか考えていなかった。
 強気で我儘な凪砂。美しく、強かで、常に前を向き、他人に傅かれて当然の選ばれた人間。沓澤凪砂はそういうひとだ。そのはずだった。凪砂本人がどう感じているか、考えたことはなかった。おれが勝手に作り上げたイメージに嵌められ、窮屈な思いをしているのかもしれないと想像したことはなかった。
「ごめん」
 かろうじてそれだけ口にした。凪砂は鼻で笑った。
「もういいわ。帰れよ、おまえ」
「でも……」
「もともと大して飲んでねえんだよ。おまえのせいで酔いもさめたわ」
 嘘だと思った。電話ごしに聞いた声の乱れは演技ではなかったはずだ。
「ひとりで帰れるって」
 突っ立っているおれに、凪砂は乱暴にいった。
「いいから行けって。行くとこあんだろ」
 凪砂はおれが思っていたよりもずっとおとなだ。自分自身を冷静に俯瞰して見ることができるし、視野も広い。おれなど比較にもならない。そのことにもやっと気づけた。
「あ、そうだ。あとな……」
 凪砂が上半身を起こす。後ずさりかけたおれに、凪砂は思い出したかのようにいった。
「おまえ、そのネックレス、全然似合ってねえよ」