「悪い。遅くなった」
見た目の印象よりも低いざらついた声。凪砂はバッグを持ちなおしておれの隣の席に座った。
「荷物、こっち置こうか」
葉一も立ち上がって凪砂のバッグを受け取る。長身の葉一は小柄な凪砂を見下ろすかたちになる。
「料理、適当にオーダーしといたけど」
「なんでもいい。とりあえず腹減った」
バッグを葉一に預けると、凪砂はかけていた眼鏡を摘み取り、雑な手つきで瞼を擦った。メイクは落としていたが、目元にまだ違和感が残っているのかもしれない。舞台上で映えるためのメイクは独特で、完全に落とすのに時間がかかると聞いたことがあった。
「出てきてだいじょうぶなのか?」
「あー、もうやることないし」
葉一のほうは見ずに、メニューを捲りはじめる。
「打ち上げとかあるんじゃないの」
「初日から打ち上げなんかするかよ」
「そんなもんか。ビール注文する?」
「いや、明日も昼夜あるから、酒はやめとくわ」
23歳という年齢にしては幼い顔立ちで、高校生のようにも見える凪砂だが、実はかなりの酒豪だった。下戸のおれは、酔っ払った凪砂に呼ばれて何度も居酒屋やバーに迎えに行っていた。
凪砂の機嫌はあまりよくなかった。観たばかりの舞台について感想を伝えたかったが、凪砂の態度に、中途半端な賛辞を寄せ付けない頑なさを感じて、飲み込んだ。おれにはじゅうぶん素晴らしい演技だったが、本人にとっては100%満足とはいかなかったのだろう。こういうときの凪砂に安易な慰めは逆効果になる。経験から知っていた。
女性3人のグループが店に入ってきた。凪砂を見るなり表情を変え、しきりに髪型やメイクを気にしはじめる。まだ開店直後で店内は空いていたのにもかかわらず、わざわざおれたちの隣のボックス席についた。舞台を観た客ではないようだが、凪砂と葉一に視線を向けてなにか囁き合っている。おれには目もくれない。まるで空気にでもなったかのような気分だが、すっかり慣れて居心地の悪さも感じない。劣等感などもってのほかだ。この種の視線に気づくたび、誇らしい気持ちになる。
実際のところ、おれはあらゆる意味でふたりに釣り合わない。そのことはだれよりもおれ自身が認識していた。
おれと凪砂、葉一の3人は高校の同級生だ。凪砂とは小学校からおなじで、幼馴染みといえるだろう。葉一とは高校でいっしょになった。2年のときに凪砂と葉一がおなじクラスで、自然とおれとも距離が近づいた。
高校は県内で唯一の男子校だった。自宅から遠く、そのうえ偏差値も高かったため、中学の教師は無謀だと反対したが、凪砂とおなじ学校に行きたい一心で勉強に励み、どうにか合格した。我ながらなかなかの根性だと思う。凪砂は頭もよく、要領がよかったため、ほとんど受験勉強をしているところは見たことがなかった。
葉一は中学時代空手部のエースで、全国大会に出場したこともあった。推薦入学だったが、もともと学校の成績も悪くなかった。授業についていくのがやっとのおれとちがって、ふたりは常に成績上位をキープしていた。
「あの……」
小籠包に舌鼓を打っていると、あとからきた3人組のうちのひとりがおれたちの席に近寄ってきた。残りのふたりはテーブルに肘をついてこちらの様子をうかがっている。
「もしお邪魔じゃなかったら……」
「邪魔」
顔も上げずに、凪砂がいい放った。冷ややかな声に女の子の表情が強張る。取り繕うように、葉一がいった。
「ごめん。今日は友達同士で楽しみたいから、ごめんね」
穏やかだが、縋りつかせない口調だった。引き下がるしかない。硬い表情で踵を返す女の子を見て、申し訳ない気持ちになった。
気まずい空気に耐えかねたのか、3人組は料理を半分ほど残して会計し、店を出て行った。
「もうすこしやさしくいえよ。かわいそうだろ」
葉一に窘められ、凪砂は魯肉飯を頬張りながら不服げに眉を顰めた。
「だってうざいじゃん。おれ、ああいうの嫌い」
「ただの逆ナンだろ」
葉一は呆れたようにいったが、おれには凪砂の気持ちが理解できた。
持って生まれた美貌のため、幼少時代から凪砂は女の子の関心を集めた。しかし、その多くは凪砂の外見しか見ていなかった。
もうすこし単細胞ならよかった。持てはやされ、女子に囲まれ、いわゆる「勝ち組」のひとりとして気分よく過ごせただろう。しかし、幸か不幸か、凪砂は聡明で、自分自身を冷静に俯瞰して見ていた。好意を寄せられれば寄せられるほど、自身の存在価値を見失っていった。
「凪砂って、女嫌い?」
葉一の問いに首をすぼめて見せる。
「べつに。男よりはまし」
男子校を選んだのは、中学時代に女子たちに纏わりつかれて辟易したためだったが、高校はさらにひどかった。むさ苦しい校内で、女子と見紛うばかりの美人に思春期の男子生徒たちは色めき立った。結果的に、中学時代以上に不快な思いをする羽目になった。
「今日もいつものひとたちいたね」
おれの言葉にあからさまに顔をしかめる。高校にも凪砂のファンクラブがあったが、今も一部のファンが徒党を組んでいるようで、十数人が毎回資金を出し合って祝花や差し入れを贈っていた。出演舞台の初日とあって、今日も会場の表に大きな花が飾られていた。
凪砂にしてみれば、チケットを買い、足繁く通ってくれる上客で、感謝すべき存在だろう。しかし、高校時代から同性の性的な目を向けられてきたのだ。複雑な思いは拭えないはずだ。理解はできても、実際におなじ立場になってみなければ、本当の気持ちはわからない。
「ホモとかマジ最悪。キモすぎる」
唐揚げに噛みつきながら、凪砂が独白のようにいった。数年前、ファンの中年男性からの贈りものの箱の内側に白くぬめった液体が仕込まれていたことがあり、以来、凪砂がプレゼントを自ら開封することはなくなった。
凪砂はもともと人間嫌いというわけではない。小学生の頃は今よりも明るく、社交的だった。並み外れた美貌が凪砂の猜疑心と警戒心を高めた。他者からの羨望と賛辞、そして下卑た過度な関心は、思春期の凪砂をすこしずつ、しかし着実に蝕んでいった。
それでも凪砂は絶望することなく、前を向いていた。映画に没頭し、スクリーンのなかで演技をすることに憧れ、俳優を目指した。
人目を引く美貌は、芸能という特殊な業界を志す者にとって有利に働くはずだった。しかし、実際にはまったく逆だった。凪砂は地元の劇団に入り、ワークショップを受講するために東京へ通って研鑽を積んだが、凪砂の努力にはだれも関心を示さなかった。芸能事務所やスカウトの目にとまったのは凪砂の演技力ではなく美しい顔だけだった。
高校3年の夏、凪砂は映画のオーディションを受けるため東京へ行き、芸能事務所のスカウトを受けた。俳優として経験を積めると信じ、高校卒業後すぐに上京したが、東京での生活は希望どおりとはいえなかった。
凪砂のデビューは映画でもドラマでもなかった。7人組アイドルグループの一員としてデビューし、時折青春ドラマに端役として出演するも、主立った仕事は渋谷や新宿のライブハウスのステージに立って愛想を振り撒くことだった。
凪砂は歌にもダンスにも情熱を持っていなかったが、俳優として独り立ちするためのステップのうちだと所属事務所から説得され、不承不承加入することになった。もともとやる気がない歌やダンスはまったく上達せず、凪砂はグループ内で孤立していった。
それ以上に致命的だったのは、いわゆるファンサービスができない凪砂の性格だった。ビジュアルでは圧倒的だったが、ステージで笑顔を見せることもなく、握手会やチェキ会では無表情で対応する凪砂は、人気メンバーにはなれなかった。2年後、凪砂はグループを脱退し、事務所も退所した。以来、どこにも所属せず、フリーランスの俳優として、小さな舞台や映像作品に出演している。収入も露出も激減したが、アイドル時代よりは気が楽なようだ。
「そういえば、今日、凪砂が出るドラマの放送日だよね」
不機嫌そうな凪砂に向かって身を乗り出す。
「そうなのか?」
小籠包を頬張っていた葉一も視線を上げる。
「またおまえ黙ってたな」
「べつにいちいち報告するようなもんじゃねえよ。30分の深夜ドラマだし。役も名前もないクラスメイトAとかBとか」
「でも今年入ってはじめてのドラマだし、録画してるけどリアタイでも見たいから、帰る前にビールとか買って……」
「あ、悪い。おれこのあと稽古場行くから」
「え?」
傾けていた上半身をもどし、椅子に座りなおして、おれはいった。
「今から?」
「今日いまいちだったとこ、修正しときたいんだよ」
凪砂はグラスに残っていたジャスミンテ茶を一気に煽って立ち上がった。
「何時に帰る?」
「さあ」
雑に答える凪砂の意識はもう稽古場に飛んでいて、おれの声は耳に入っていなかった。
見た目の印象よりも低いざらついた声。凪砂はバッグを持ちなおしておれの隣の席に座った。
「荷物、こっち置こうか」
葉一も立ち上がって凪砂のバッグを受け取る。長身の葉一は小柄な凪砂を見下ろすかたちになる。
「料理、適当にオーダーしといたけど」
「なんでもいい。とりあえず腹減った」
バッグを葉一に預けると、凪砂はかけていた眼鏡を摘み取り、雑な手つきで瞼を擦った。メイクは落としていたが、目元にまだ違和感が残っているのかもしれない。舞台上で映えるためのメイクは独特で、完全に落とすのに時間がかかると聞いたことがあった。
「出てきてだいじょうぶなのか?」
「あー、もうやることないし」
葉一のほうは見ずに、メニューを捲りはじめる。
「打ち上げとかあるんじゃないの」
「初日から打ち上げなんかするかよ」
「そんなもんか。ビール注文する?」
「いや、明日も昼夜あるから、酒はやめとくわ」
23歳という年齢にしては幼い顔立ちで、高校生のようにも見える凪砂だが、実はかなりの酒豪だった。下戸のおれは、酔っ払った凪砂に呼ばれて何度も居酒屋やバーに迎えに行っていた。
凪砂の機嫌はあまりよくなかった。観たばかりの舞台について感想を伝えたかったが、凪砂の態度に、中途半端な賛辞を寄せ付けない頑なさを感じて、飲み込んだ。おれにはじゅうぶん素晴らしい演技だったが、本人にとっては100%満足とはいかなかったのだろう。こういうときの凪砂に安易な慰めは逆効果になる。経験から知っていた。
女性3人のグループが店に入ってきた。凪砂を見るなり表情を変え、しきりに髪型やメイクを気にしはじめる。まだ開店直後で店内は空いていたのにもかかわらず、わざわざおれたちの隣のボックス席についた。舞台を観た客ではないようだが、凪砂と葉一に視線を向けてなにか囁き合っている。おれには目もくれない。まるで空気にでもなったかのような気分だが、すっかり慣れて居心地の悪さも感じない。劣等感などもってのほかだ。この種の視線に気づくたび、誇らしい気持ちになる。
実際のところ、おれはあらゆる意味でふたりに釣り合わない。そのことはだれよりもおれ自身が認識していた。
おれと凪砂、葉一の3人は高校の同級生だ。凪砂とは小学校からおなじで、幼馴染みといえるだろう。葉一とは高校でいっしょになった。2年のときに凪砂と葉一がおなじクラスで、自然とおれとも距離が近づいた。
高校は県内で唯一の男子校だった。自宅から遠く、そのうえ偏差値も高かったため、中学の教師は無謀だと反対したが、凪砂とおなじ学校に行きたい一心で勉強に励み、どうにか合格した。我ながらなかなかの根性だと思う。凪砂は頭もよく、要領がよかったため、ほとんど受験勉強をしているところは見たことがなかった。
葉一は中学時代空手部のエースで、全国大会に出場したこともあった。推薦入学だったが、もともと学校の成績も悪くなかった。授業についていくのがやっとのおれとちがって、ふたりは常に成績上位をキープしていた。
「あの……」
小籠包に舌鼓を打っていると、あとからきた3人組のうちのひとりがおれたちの席に近寄ってきた。残りのふたりはテーブルに肘をついてこちらの様子をうかがっている。
「もしお邪魔じゃなかったら……」
「邪魔」
顔も上げずに、凪砂がいい放った。冷ややかな声に女の子の表情が強張る。取り繕うように、葉一がいった。
「ごめん。今日は友達同士で楽しみたいから、ごめんね」
穏やかだが、縋りつかせない口調だった。引き下がるしかない。硬い表情で踵を返す女の子を見て、申し訳ない気持ちになった。
気まずい空気に耐えかねたのか、3人組は料理を半分ほど残して会計し、店を出て行った。
「もうすこしやさしくいえよ。かわいそうだろ」
葉一に窘められ、凪砂は魯肉飯を頬張りながら不服げに眉を顰めた。
「だってうざいじゃん。おれ、ああいうの嫌い」
「ただの逆ナンだろ」
葉一は呆れたようにいったが、おれには凪砂の気持ちが理解できた。
持って生まれた美貌のため、幼少時代から凪砂は女の子の関心を集めた。しかし、その多くは凪砂の外見しか見ていなかった。
もうすこし単細胞ならよかった。持てはやされ、女子に囲まれ、いわゆる「勝ち組」のひとりとして気分よく過ごせただろう。しかし、幸か不幸か、凪砂は聡明で、自分自身を冷静に俯瞰して見ていた。好意を寄せられれば寄せられるほど、自身の存在価値を見失っていった。
「凪砂って、女嫌い?」
葉一の問いに首をすぼめて見せる。
「べつに。男よりはまし」
男子校を選んだのは、中学時代に女子たちに纏わりつかれて辟易したためだったが、高校はさらにひどかった。むさ苦しい校内で、女子と見紛うばかりの美人に思春期の男子生徒たちは色めき立った。結果的に、中学時代以上に不快な思いをする羽目になった。
「今日もいつものひとたちいたね」
おれの言葉にあからさまに顔をしかめる。高校にも凪砂のファンクラブがあったが、今も一部のファンが徒党を組んでいるようで、十数人が毎回資金を出し合って祝花や差し入れを贈っていた。出演舞台の初日とあって、今日も会場の表に大きな花が飾られていた。
凪砂にしてみれば、チケットを買い、足繁く通ってくれる上客で、感謝すべき存在だろう。しかし、高校時代から同性の性的な目を向けられてきたのだ。複雑な思いは拭えないはずだ。理解はできても、実際におなじ立場になってみなければ、本当の気持ちはわからない。
「ホモとかマジ最悪。キモすぎる」
唐揚げに噛みつきながら、凪砂が独白のようにいった。数年前、ファンの中年男性からの贈りものの箱の内側に白くぬめった液体が仕込まれていたことがあり、以来、凪砂がプレゼントを自ら開封することはなくなった。
凪砂はもともと人間嫌いというわけではない。小学生の頃は今よりも明るく、社交的だった。並み外れた美貌が凪砂の猜疑心と警戒心を高めた。他者からの羨望と賛辞、そして下卑た過度な関心は、思春期の凪砂をすこしずつ、しかし着実に蝕んでいった。
それでも凪砂は絶望することなく、前を向いていた。映画に没頭し、スクリーンのなかで演技をすることに憧れ、俳優を目指した。
人目を引く美貌は、芸能という特殊な業界を志す者にとって有利に働くはずだった。しかし、実際にはまったく逆だった。凪砂は地元の劇団に入り、ワークショップを受講するために東京へ通って研鑽を積んだが、凪砂の努力にはだれも関心を示さなかった。芸能事務所やスカウトの目にとまったのは凪砂の演技力ではなく美しい顔だけだった。
高校3年の夏、凪砂は映画のオーディションを受けるため東京へ行き、芸能事務所のスカウトを受けた。俳優として経験を積めると信じ、高校卒業後すぐに上京したが、東京での生活は希望どおりとはいえなかった。
凪砂のデビューは映画でもドラマでもなかった。7人組アイドルグループの一員としてデビューし、時折青春ドラマに端役として出演するも、主立った仕事は渋谷や新宿のライブハウスのステージに立って愛想を振り撒くことだった。
凪砂は歌にもダンスにも情熱を持っていなかったが、俳優として独り立ちするためのステップのうちだと所属事務所から説得され、不承不承加入することになった。もともとやる気がない歌やダンスはまったく上達せず、凪砂はグループ内で孤立していった。
それ以上に致命的だったのは、いわゆるファンサービスができない凪砂の性格だった。ビジュアルでは圧倒的だったが、ステージで笑顔を見せることもなく、握手会やチェキ会では無表情で対応する凪砂は、人気メンバーにはなれなかった。2年後、凪砂はグループを脱退し、事務所も退所した。以来、どこにも所属せず、フリーランスの俳優として、小さな舞台や映像作品に出演している。収入も露出も激減したが、アイドル時代よりは気が楽なようだ。
「そういえば、今日、凪砂が出るドラマの放送日だよね」
不機嫌そうな凪砂に向かって身を乗り出す。
「そうなのか?」
小籠包を頬張っていた葉一も視線を上げる。
「またおまえ黙ってたな」
「べつにいちいち報告するようなもんじゃねえよ。30分の深夜ドラマだし。役も名前もないクラスメイトAとかBとか」
「でも今年入ってはじめてのドラマだし、録画してるけどリアタイでも見たいから、帰る前にビールとか買って……」
「あ、悪い。おれこのあと稽古場行くから」
「え?」
傾けていた上半身をもどし、椅子に座りなおして、おれはいった。
「今から?」
「今日いまいちだったとこ、修正しときたいんだよ」
凪砂はグラスに残っていたジャスミンテ茶を一気に煽って立ち上がった。
「何時に帰る?」
「さあ」
雑に答える凪砂の意識はもう稽古場に飛んでいて、おれの声は耳に入っていなかった。



