ファーストリーフ

 葉一がオーダーしている間に、またスマホが鳴った。今度は見覚えのない番号からの着信だった。
「また凪砂?」
 おれの様子に気づいた葉一がメニューを閉じて視線を上げる。
「ううん。知らない番号」
 胸がざわついた。躊躇いながら椅子を引いた。
「ごめん。ちょっと出てくる」
「いいよ。待ってる」
 席を立ち、トイレのほうへ向かう。歩きながら電話に出た。
「もしもし……」
「あ、ウメくんですか?」
 聞き覚えのない声だった。戸惑っているおれに相手は捲し立てるようにいった。
「突然ごめんなさい。おれ、木原っていうんですけど、前にナギと共演してて」
 名前を聞いて、声の主に思い当たった。下北沢の舞台で凪砂の友人役を演じていた若手俳優だ。
「わかります?」
「あ、はい……」
 回線の向こうは騒がしく、相手の声を聞き分けるのに耳を澄ませなければならなかった。俳優仲間とビアガーデンに行くということだったから、おそらくは凪砂もおなじ場所にいるのだろう。
「凪砂、なにかあったんですか?」
「いや、なにかってわけじゃないんですけど、酔っ払っちゃって。ウメくんに連絡してっていうもんだから」
 怒っているというよりは呆れているというような、半分苦笑いの声だった。背後で凪砂のものらしいわめき声が聞こえる。そうとう酔っているらしい。
 泥酔した凪砂から迎えにくるよう要請があることは珍しくなかった。呼び出されるたびに、深夜だろうが朝方だろうがいつでもどこへでも向かった。しかし、この日は即答できなかった。
「あの、だれか送ってくれるひとって……」
「それがみんな飲んじゃってて」
 タクシーを拾い、二次会を辞去してまで凪砂を自宅へ送り届けてくれるような間柄の人間はいないということだ。ため息を飲み込んだ。
「すみませんけど……」
「初芽!」
 ぎくりとした。木原という若手俳優の声ではない。凪砂の声だった。
「初芽―!」
 間延びした声。呂律が回っていない。久しぶりの深酒で羽目をはずしてしまったらしい。
「悪いんだけど、今日は用事があって行けそうにないからひとりで……」
 凪砂がなにかを喚いているが、支離滅裂で聞き取れない。一方的に捲し立てて、電話を切ってしまう。無機質な電子音を聞きながら、おれは途方に暮れた。もう一度かけなおしてみたが、つながらない。ショートメッセージで行けないことを再度伝えたが、既読の印はつかなかった。
 これ以上葉一を待たせることはできない。急いで席へもどると、すでにデザートがきていた。葉一は手をつけることなくおれを待っていた。視線が合うと、にっこり微笑んで軽く手を挙げる。ぎこちない笑顔で応えた。
「だれだった?」
「あ……凪砂の友達」
 ナプキンを取り上げ、椅子にかけなおしながらいった。テーブルの上でシャーベットの表面が溶けかかっていた。スマホを裏返して皿の隣に置く。
「凪砂が飲みすぎちゃったみたいで……」
「おい、冗談だろ。まさか迎えに行くとかいうんじゃないよな?」
 葉一の表情がたちまち強張る。慌てて首を振った。
「行かないよ。ちゃんと断った」
「ならいいけど……」
 溶けかけたシャーベットをスプーンで掬って舐める。洋梨の爽やかな甘みが口のなかに広がった。
 スマホを確認する。ショートメッセージの既読はつかず、着信もなかった。代わりに、LINEに位置情報が届いていた。おれに選択肢はないようだ。頭を抱えたくなった。再び会話に集中できなくなり、葉一の話に相槌を打つタイミングが遅れがちになった。
「初芽?」
「あ、うん」
 呆けて話がまるで聞こえていなかった。急いで返事をしたが、ふさわしいものでなかったのは葉一の顔を見てすぐにわかった。
「紅茶、こぼれてる」
「あ……」
 カップの縁からこぼれた紅茶が純白のテーブルクロスに数点の染みをつくっていた。
「ごめんなさい。どうしよう……」
「そのくらい問題ないよ。ほっとけばいい」
 ただでさえマナーにも自信がない。おれはすっかり恐縮していた。デザートの皿はシャーベットが溶けて広がり、ガトーショコラの欠片に染みこんでいる。
「だいじょうぶか?」
「うん……」
 スマホが気になって何度も確認しているうち、シャーベットの残りが完全に溶けてしまっていた。けっきょく、楽しみにしていたデザートを半分ちかく残してしまった。
「ごめんね、葉一くん」
「なにが?」
「いや、なんか……あんまり楽しくなかったかなって」
「そんなわけないだろ。ていうかおまえの誕生日なんだからおまえが楽しいのが一番」
 葉一が笑う。おれの気分を楽にするためだろうが、逆効果だった。よけいに萎縮してしまった。
「あとさ、そろそろ葉一くんって呼ぶのやめねえ?」
「え?」
 かつてシャーベットだった液体をフォークの先で突きながら、顔を上げた。
「なんかよそよそしいっていうかさ」
「じゃあなんて呼べば……」
「なんでもいいけど。葉一とか?」
「よういち……」
「ぎこちないな。まあ、そのうちでいいよ」
 ワインの残りを飲み干して、葉一がいう。
「そろそろ部屋行くか」
 その単語を耳にして、一気に緊張した。
 連続してスマホが震えた。ディスプレイには登録のない電話番号。凪砂ではなく俳優仲間からのショートメッセージだった。『申し訳ないんだけど手に負えなくて、お願いします』、『いつこれます?』と連続して記されている。テーブルの上に突っ伏した凪砂の後ろ姿を写した写真まで送られてきた。
「料理、どうだった? 口に合った?」
「あ、うん。おいしかった」
「そっか。よかった。部屋にも軽く用意してもらってるから。ノンアルコールワインもオーダーしといたから、飲んでみて。気に入らなかったらおれが飲むよ」
 レストランを出るところで、会計をしていないことに気づいた。
「あの、お会計……」
「もう済んでる」
「え、でも……」
 これまでのデートでは基本的に折半することにしていた。立ち止まるおれの背に手をあてて、葉一はやさしくいった。
「今日くらいいいだろ。誕生日なんだから」
 それでも躊躇っているおれの肩に葉一の腕が回る。
「じゃあとでキスして」
「え……」
 無意識に周囲に視線を巡らせたが、友人同士に見えているのか、おれたちのことを気にする人間はいなかった。
 ぼんやりしていると、葉一が素早く体を離す。軽いしぐさで頭を撫でられた。
「びっくりした。冗談?」
「じゃないって。するだろ、キスは」
 レストランを出てエレベータホールに移動する。葉一は手を伸ばしてボタンを押し、すぐにおれのほうへ向き直った。
「な?」
 エレベータが動きはじめるのが文字盤の点滅でわかった。おれたちは向かい合ったまま一言も話さなかった。
 手のなかでスマホが震えた。着信だった。呪術のようにしつこく震えつづけている。ディスプレイを見なくてもだれからかわかる。
 沈黙。ひとけのないエレベータホールにスマホの振動音が響いていた。
「初芽」
 振動音の合間を縫うように、葉一がいった。
「行かないだろ?」
 エレベータが到着した。体同士を鎖で結ばれたかのように、葉一の後を追って小さな箱のなかに足を踏み入れた。
 背中でエレベータの扉が閉まる音がした。手のなかのスマホの振動は一度やみ、再び鳴りはじめている。葉一にも聞こえているはずだった。
 ふたりとも無言だった。エレベータが下降をはじめた。数階下りるだけだ。1分もかからないはずなのに、永遠に思えた。
 目的の階に着き、エレベータが止まった。葉一が先に出た。おれが下りてこないことに気づき、振り返った。
「初芽?」
 スマホのディスプレイを確認した。22時をすこし過ぎていた。
「……もどってくるから」
 考えるよりも先に体が動いていた。ロビー階のボタンを押した。ゆっくりと扉が閉まる。愕然とした葉一の顔が細くなり、消えた。
 エレベータが地上に向けて滑らかに下っていく。その動きに合わせて、全身の血液が落ちていくようだった。目の前が白くなりかけていた。溶けて液体になり、ガトーショコラの生地に染みこんでいく洋梨シャーベットに似た色だった。乳白色がチョコレートと溶けあい、すこしずつ黒ずんでいく。境目がぼやけ、やがてどちらがどちらか判別できなくなっていく。