ファーストリーフ

 ホワイトアスパラガスのクリームスープをスプーンで掬って口にはこぶ。アスパラガスの爽やかな風味が口のなかに広がり、思わず頬の筋肉から力が脱ける。慌てて背すじを伸ばすおれを見て、葉一が小さく笑う。
「そんな顔すんな。もう怒ってないから」
「ほんとに?」
「おまえの誕生日だろ」
 パンをちぎりながらおれを見て、いう。
「あ、誕生日前日か」
 皮肉めいた口調だったが、目は笑っていた。葉一がこういういいかたをするときはむしろ機嫌がいいときだ。ほっとして、おれも籠からパンを取った。
「ごめん、本当に……」
 けっきょく、おれは誕生日に焼肉がしたいという凪砂のリクエストを拒むことができなかった。中学時代からこれまで、凪砂がしたいことに反対したことはなかった。突然変わるのは難しい。
 約束を守れないおれを葉一は責めなかった。凪砂の前でもおれとの先約のことは一言も話さなかった。ただ黙って串焼きを噛み、ハイボールを飲んだ。
「いいって」
 ワインを口に含み、ゆっくり飲んでから、おれを見つめる。
「その代わり、今日は絶対だぞ」
 パンが喉に詰まりそうになって、噎せた。涙目で水を飲む。
 凪砂の提案どおり、誕生日の当日に3人で焼肉を囲むことを承諾する代わりに、デートを前日に早めた。誕生日の瞬間をいっしょに迎えたいという葉一の希望を受け容れるしかなかった。
 葉一が怒っていると思い気を遣っていたわけではない。おれは緊張していたのだ。ディナーの席につき、前菜がはこばれてくる直前に、ホテルのカードキーを見せられてからずっと、落ち着かなかった。
 12時を過ぎれば終電には間に合わない。タクシーで帰宅できない距離でもなかったが、どこかで予想はしていた。葉一の部屋のソファで組み敷かれたときも、誕生日の瞬間までいっしょにいたいといわれたときも、いずれはそういうことになるだろうと思っていた。おれの気持ちが定まっていないとしても、実際に付き合っているわけだから当然だ。それでも、動揺を隠せなかった。
 新宿の外資系ホテル最上階のフレンチレストランだ。窓から夜景が一望できる特等席。葉一は仕立てのいいジャケットを着ていて、おれも葉一には遠く及ばないが精いっぱいめかし込んできていた。
「それ似合うな」
「え?」
 また考えごとをしてしまっていた。葉一の視線はおれの胸元に向けられていた。
「ネックレス。そういうのするんだ。はじめて見た」
「ああ、これ……」
 ふだんはアクセサリーを身に着けることはほとんどない。唯一持っているものといってよかった。白のシャツにカーディガンというシンプルな服装に不安を感じて、出かける直前にクローゼットの奥の小箱から取り出した。
 どこにでもあるようなシルバーのネックレスだ。十字架を模ってはいるが、交差した部分に草が絡まったすこし凝ったデザインになっている。
「クリスチャンだっけ?」
「ううん、ちがう。これは凪砂から……」
 葉一の表情が変わるのを見て、慌てて弁解する。
「舞台の小道具として買ったものだけど、けっきょくほかのをつかうことになって。棄てるっていうから、もったいないしもらっただけ」
 凪砂も装飾品には関心がない。とはいっても、凪砂の場合は着飾る苦労が無用ということもあった。
「……気に入らない?」
「え? 全然。似合ってるって」
 スープを飲み終え、ナプキンで軽く口元を拭ってから、聞き返してくる。
「なんでそう思ったの?」
「いや、なんとなく……」
 ぎこちない雰囲気。さっきから会話が弾まない。葉一が気を遣ってくれているのはわかっていたが、うまく返答できずにいた。
「そんな緊張すんなよ」
 魚料理がきてウエイターが下がると、葉一が笑っていった。
「でもこういうとこ慣れてないし」
 緊張の原因を誤魔化して答えたつもりだったが、葉一には通用しなかった。テーブルに身を乗り出し、声を顰めていう。
「今日はなにもしないよ。いっしょに誕生日祝いたいだけだから」
 完全に見透かされていた。顔が熱くなって、視線を逸らした。
「そういうのは……」
「あ、ちがった? それで落ち着かないんだと思ってた」
「まあ……それもちょっとはあるけど」
 スズキのポワレにナイフを入れながら、葉一が笑う。
「心配すんなよ。おまえの気持ちが固まるまで待つっていっただろ」
 葉一の笑顔を見ていると居たたまれない気持ちになった。おれは葉一との約束をなにひとつ守れないのに、葉一のほうは必ず守ってくれる。
「このソースめちゃくちゃうまい」
 視線に促され、スズキの身を口にはこぶ。たしかに、すり下ろした玉葱にひよこ豆が入ったソースは絶品だった。
「ほんとだ。おいしい」
「だろ?」
 前菜とスープは、正直なところあまり味がわからなかったが、ようやく料理を堪能できる気分になった。葉一のおかげだった。
 メインの料理がくる頃にはすっかりふだんの調子を取りもどし、会話を楽しめるようになっていた。メインは仔羊とフォワグラで、じゃがいものエスプーマにそら豆のピュレが添えられていた。重厚ながらさっぱりとした味で、人気が高いのも頷けた。平日とはいえ、予約の日程を1日ずらすのは簡単ではなかっただろう。宿泊を前提にしているということは、明日も休暇を取っているはずで、仕事柄週末の休みを取りにくいおれに合わせるため、忙しい葉一が年休を消費していることを考えると、心ぐるしくなった。
「おいしかった」
 メインの皿が下げられると、素直に感嘆の声を上げた。
「ここはデザートもうまいんだよ」
「へえ。楽しみ」
 デザートがくるのを待っていると、ポケットのなかでスマホが鳴った。テーブルの下でディスプレイを確認すると、凪砂からだった。LINEでなく着信だった。
「電話?」
「あ、うん」
 だれからかとは聞かれなかった。おれの様子から察しているのだろう。
「出ないのか?」
「うん……」
 着信はつづいている。かなり長い。
「出ていいよ」
「うん」
 答えたものの、躊躇していた。凪砂は今日は俳優仲間とビアガーデンに出かけると聞いていた。午後から飲んでいるはずで、泥酔して気分が高揚しているのかもしれない。休養というわけではないだろう。すこし考えてから、スマホをポケットにもどした。
「いいの?」
「うん。あとにする」
「そっか」
 葉一が頷いて、メニューをひらいた。
「コーヒーと紅茶、どっちにする?」
 さりげない態度ではあったが、うれしそうだった。おれも気分が浮いて、アルコールも飲んでいないのに体が地についていないようだった。
「どっちでも……あ、でも紅茶にしようかな」
 他人や周囲に合わせることなく、自分が食べたいものや行きたいところを主張することにもようやく慣れてきた。
 考えてみれば、こうして誕生日を特別なプランで祝ってもらうことも初体験にちかい。子どもの頃は家族で外食することもあったが、母が再婚してからはなんとなく気を遣われている気がして遠慮してしまっていたし、去年は凪砂が食事に誘ってくれたが、一昨年はたしか舞台の本番と重なったためひとりで過ごしたし、それ以前はおぼえてすらいない。自分の誕生日をだれかに祝ってもらえるのは、くすぐったい気持ちもあったが、素直にうれしかった。
 おれは目の前にいる葉一の話に集中し、凪砂からの着信を忘れようとしていた。凪砂のことを考えまいとした。