洗いものを終え、タオルで手を拭って振り返ったとたん、抱き竦められた。唇を奪われ、体重をかけられて、上半身が大きく後ろに傾いだ。バランスを崩しかけ、両手をキッチン台の端に突っ張ってどうにか体勢を立て直した。葉一の両腕が腰に巻きつき、下腹部を密着させる。
身を捩って逃げようとすると、キッチン台に散った水滴で掌が滑り、あやうく転倒しかけた。すんでのところで葉一が腕に力をこめておれの体を引き寄せ、ことなきを得た。
「ちょっと待って。あぶないから……」
抗議の声も葉一の唇に吸い取られる。葉一はそのままおれの臀部に指先を食い込ませて軽々と体を持ち上げ、ダイニングテーブルに座らせた。
すこし下から掬い上げるように舌を吸って、ようやく唇が離れた。葉一が上目遣いに見つめてくる。無言で重圧を与えようとするかのようだった。
「なに、急に……」
「そろそろ帰るっていい出す頃だと思ったから」
「そろそろ帰るよ」
「ほらな」
拗ねたように唇を窄ませて、おれのTシャツの胸に額を擦りつける。
「なんで帰るんだよ。帰んなよ」
今日はおれがパスタをつくり、葉一はワインも飲んだ。すこし酔っているのか、アルコールの匂いがする。不快な匂いではない。
「今日は凪砂が早く帰る日だから夜ごはんつくらないと……」
「おれも早く帰ってきてる」
「葉一くんのごはんは今つくったじゃん」
苦笑いしながら腰に絡んだままの腕を指先で軽く叩く。
おれが帰宅しようとすると、葉一はいつもこうしてごねる。凪砂に怪しまれないようにとふたりで会う回数を減らしてからはとくに顕著になった。困るのは確かではあったが、そういうときの葉一は飼い主の外出を阻む大型犬のようで、かわいいと思った。
「もうちょっといろよ」
ふだんならこのあたりであきらめるところだが、アルコールの影響か、この日は手を緩めてくれない。
「終電なくなると困るし……」
「いいじゃん。泊まってけよ」
おれの反応を待たずに、葉一が畳みかけるようにいう。
「なんもしない。いっしょにいるだけ」
おれの緊張と動揺を解すように、膝頭を掌で包み、落ち着かせるように擦る。
「たまにしか会えないから、会えるときはできるだけ長くいっしょいたいんだよ」
「それは……わかってるけど」
会えないとはいっても、週に1度は葉一の家を訪れているし、ふたりで外出するときもある。毎日こまめにLINEでやりとりしているし、寝る前の長電話も頻繁にしていた。だれかと付き合った経験がないから、一般的な基準はわからない。それにおれだって寂しいと感じることもあった。ただその気持ちをうまく伝えられなかった。また衝動的な行動に出てしまうのではないかという恐れから、感情を抑えてもいた。
こういうとき、どう話せばいいのかわからず、けっきょくおれはいつものように待った。葉一がこういい出すのを。「ごめん、嘘だよ」と。
「ごめん、我儘いった」
おれの膝の上で深く息を吐いて、葉一が屈めていた上半身をまっすぐにした。おれの肘を持ち上げ、床の上に立たせて、名残惜しそうに肩や腕を何度も擦って、もう一度短く息をつく。
「困らせるつもりじゃなかった。ほんとごめんな」
答えられず、曖昧に頷く。
「我慢するって約束したのに、おれマジで子どもだよな」
そんなことはないといいたかった。葉一の自制心はだれにも真似できるものではない。
「また明日会えるしな」
翌日は凪砂も含めた3人で食事する約束になっていた。凪砂の舞台出演のスケジュールが過密で、おれたちもこっそりふたりで会っていたから、3人で会うのは久しぶりだった。
「凪砂の前ではふつうにしてるから、心配すんな」
おれの不安を敏感に察知して、葉一がいう。頭に手を置かれると安心できた。入院中の母親の容態が悪化し、病院に向かうときも、母が息を引き取ったときも、葉一はおなじように大きな掌で頭を撫でてくれた。
「聞いていい?」
帰り支度を整えていると、尋ねられた。キッチンの壁に半身を凭せかけ、腕を組んでおれを見つめながら、葉一はいった。
「初芽にとって、凪砂ってなに?」
唐突な質問だったが、葉一にとってはただの思いつきではないようで、表情は静かでありながらも真剣だった。
「なにって……」
「恋愛感情じゃないのはわかった。信じてるけど、恋愛じゃないとしたらなに? 友情?」
「友情……でもない、と思う」
葉一でなければ聞き取れないほどの小さな声でいった。葉一は苛立つこともなく、辛抱づよく言葉を選んで、重ねた。
「怒ったり嫉妬したりってわけじゃない。ただ、気になるだけ。推しっていうんだっけ? なんでそんなに凪砂がいいの? 初芽と凪砂の関係ってなに?」
「それは……」
これまでは曖昧に濁してきたが、葉一を振り回している以上、説明する義務があると思った。食材が入ったエコバッグをテーブルの上に置き、おれは答えた。
「小学生のとき、両親が離婚したんだけど」
自分のことをだれかに話すことには慣れていない。そっと深呼吸して、いった。
「父親が出て行って、そのこと、おれ、自分のせいだと思ってて」
無関係に思えるような話にも、葉一は真剣な表情で耳を傾けていた。
「母親が再婚することになって、新しい家族ができて、もう絶対自分のせいで壊すようなことにはしたくないって思った。いい子でいられるように頑張りたかったし、父親もやさしいし弟たちも懐いてくれたし、幸せだったけど、なにかが足りないっていうか、ずっと違和感があった」
話をしているうちに、これまで塞いで濁してなかったことにしようとしていた自分の心の奥の本心が顔を見せはじめていることに気づいた。
「転校先の学校の学芸会で、舞台に立っている凪砂を見て、暗かった気持ちが明るくなって、世界が拓けたような、そんな気持ちになった。凪砂のファン第1号になって、いちばん近くで凪砂を見られるようになって、自分まで変われたような気がして、つよくなれた」
アイドルでも俳優でもアスリートでも、漫画やアニメの登場人物でもなんでもいい。だれかを応援し、見守ることは、自分自身の支えにもなる。ときには生命力の源にさえなりえる。理解できない人間もいるだろう。葉一にもわかってもらえないかもしれなかった。しかし、葉一は嗤うことも怒ることもなく、黙って頷いた。
「わかった」
しばらく待って、静かにいった。
「凪砂を応援することが初芽の生きがいってことだよな?」
「うん……」
生きがい。それ以外の言葉では表現できない気がした。生きる糧であり、失いがたい存在。凪砂に拒絶されることはおれにとって身を裂かれるようなものだった。
「正直、初芽の気持ちを完全には理解できないけど、初芽が大事にしたいっていうなら、尊重したいと思う」
おれに近づき、肩の上に手を置いて、葉一はいった。
「凪砂とおれのどっちが大事かとは聞かない。そんなこと聞かれても困るだけだろ?」
頷いた。正直なところ、その質問をされたらどう答えるべきか、考えあぐねていた。いつか聞かれるかもしれないと怯えていた。
「でも、おれのことも大事にして。比較しなくていいから」
再び、今度は繰り返し何度も頷いた。どうして葉一にはおれの恐怖がわかるのだろう。凪砂を失わずに、葉一にもそばにいてほしいという身勝手な欲求に、おれは罪悪感をおぼえていた。
「じゃ、明日な」
「うん」
手をつないで玄関まで行き、靴を履いて、葉一を見上げた。包み込むような笑顔が見下ろしてくる。
「キスして」
「うん」
踵を浮かせて伸び上がり、背の高い葉一にキスをした。
「じゃあ、明日」
手を振って、ドアを開け、部屋を出た。ずっと閉じ込めてきた気持ちを解放することができ、わずかだが気持ちが軽くなっていた。受け容れてもらえたという安堵で胸が熱くもなっていた。
そのときのおれには、葉一がどう感じたかまで、考えがおよんでいなかった。おれはつくづく身勝手で、どうしようもなく浅はかだった。
身を捩って逃げようとすると、キッチン台に散った水滴で掌が滑り、あやうく転倒しかけた。すんでのところで葉一が腕に力をこめておれの体を引き寄せ、ことなきを得た。
「ちょっと待って。あぶないから……」
抗議の声も葉一の唇に吸い取られる。葉一はそのままおれの臀部に指先を食い込ませて軽々と体を持ち上げ、ダイニングテーブルに座らせた。
すこし下から掬い上げるように舌を吸って、ようやく唇が離れた。葉一が上目遣いに見つめてくる。無言で重圧を与えようとするかのようだった。
「なに、急に……」
「そろそろ帰るっていい出す頃だと思ったから」
「そろそろ帰るよ」
「ほらな」
拗ねたように唇を窄ませて、おれのTシャツの胸に額を擦りつける。
「なんで帰るんだよ。帰んなよ」
今日はおれがパスタをつくり、葉一はワインも飲んだ。すこし酔っているのか、アルコールの匂いがする。不快な匂いではない。
「今日は凪砂が早く帰る日だから夜ごはんつくらないと……」
「おれも早く帰ってきてる」
「葉一くんのごはんは今つくったじゃん」
苦笑いしながら腰に絡んだままの腕を指先で軽く叩く。
おれが帰宅しようとすると、葉一はいつもこうしてごねる。凪砂に怪しまれないようにとふたりで会う回数を減らしてからはとくに顕著になった。困るのは確かではあったが、そういうときの葉一は飼い主の外出を阻む大型犬のようで、かわいいと思った。
「もうちょっといろよ」
ふだんならこのあたりであきらめるところだが、アルコールの影響か、この日は手を緩めてくれない。
「終電なくなると困るし……」
「いいじゃん。泊まってけよ」
おれの反応を待たずに、葉一が畳みかけるようにいう。
「なんもしない。いっしょにいるだけ」
おれの緊張と動揺を解すように、膝頭を掌で包み、落ち着かせるように擦る。
「たまにしか会えないから、会えるときはできるだけ長くいっしょいたいんだよ」
「それは……わかってるけど」
会えないとはいっても、週に1度は葉一の家を訪れているし、ふたりで外出するときもある。毎日こまめにLINEでやりとりしているし、寝る前の長電話も頻繁にしていた。だれかと付き合った経験がないから、一般的な基準はわからない。それにおれだって寂しいと感じることもあった。ただその気持ちをうまく伝えられなかった。また衝動的な行動に出てしまうのではないかという恐れから、感情を抑えてもいた。
こういうとき、どう話せばいいのかわからず、けっきょくおれはいつものように待った。葉一がこういい出すのを。「ごめん、嘘だよ」と。
「ごめん、我儘いった」
おれの膝の上で深く息を吐いて、葉一が屈めていた上半身をまっすぐにした。おれの肘を持ち上げ、床の上に立たせて、名残惜しそうに肩や腕を何度も擦って、もう一度短く息をつく。
「困らせるつもりじゃなかった。ほんとごめんな」
答えられず、曖昧に頷く。
「我慢するって約束したのに、おれマジで子どもだよな」
そんなことはないといいたかった。葉一の自制心はだれにも真似できるものではない。
「また明日会えるしな」
翌日は凪砂も含めた3人で食事する約束になっていた。凪砂の舞台出演のスケジュールが過密で、おれたちもこっそりふたりで会っていたから、3人で会うのは久しぶりだった。
「凪砂の前ではふつうにしてるから、心配すんな」
おれの不安を敏感に察知して、葉一がいう。頭に手を置かれると安心できた。入院中の母親の容態が悪化し、病院に向かうときも、母が息を引き取ったときも、葉一はおなじように大きな掌で頭を撫でてくれた。
「聞いていい?」
帰り支度を整えていると、尋ねられた。キッチンの壁に半身を凭せかけ、腕を組んでおれを見つめながら、葉一はいった。
「初芽にとって、凪砂ってなに?」
唐突な質問だったが、葉一にとってはただの思いつきではないようで、表情は静かでありながらも真剣だった。
「なにって……」
「恋愛感情じゃないのはわかった。信じてるけど、恋愛じゃないとしたらなに? 友情?」
「友情……でもない、と思う」
葉一でなければ聞き取れないほどの小さな声でいった。葉一は苛立つこともなく、辛抱づよく言葉を選んで、重ねた。
「怒ったり嫉妬したりってわけじゃない。ただ、気になるだけ。推しっていうんだっけ? なんでそんなに凪砂がいいの? 初芽と凪砂の関係ってなに?」
「それは……」
これまでは曖昧に濁してきたが、葉一を振り回している以上、説明する義務があると思った。食材が入ったエコバッグをテーブルの上に置き、おれは答えた。
「小学生のとき、両親が離婚したんだけど」
自分のことをだれかに話すことには慣れていない。そっと深呼吸して、いった。
「父親が出て行って、そのこと、おれ、自分のせいだと思ってて」
無関係に思えるような話にも、葉一は真剣な表情で耳を傾けていた。
「母親が再婚することになって、新しい家族ができて、もう絶対自分のせいで壊すようなことにはしたくないって思った。いい子でいられるように頑張りたかったし、父親もやさしいし弟たちも懐いてくれたし、幸せだったけど、なにかが足りないっていうか、ずっと違和感があった」
話をしているうちに、これまで塞いで濁してなかったことにしようとしていた自分の心の奥の本心が顔を見せはじめていることに気づいた。
「転校先の学校の学芸会で、舞台に立っている凪砂を見て、暗かった気持ちが明るくなって、世界が拓けたような、そんな気持ちになった。凪砂のファン第1号になって、いちばん近くで凪砂を見られるようになって、自分まで変われたような気がして、つよくなれた」
アイドルでも俳優でもアスリートでも、漫画やアニメの登場人物でもなんでもいい。だれかを応援し、見守ることは、自分自身の支えにもなる。ときには生命力の源にさえなりえる。理解できない人間もいるだろう。葉一にもわかってもらえないかもしれなかった。しかし、葉一は嗤うことも怒ることもなく、黙って頷いた。
「わかった」
しばらく待って、静かにいった。
「凪砂を応援することが初芽の生きがいってことだよな?」
「うん……」
生きがい。それ以外の言葉では表現できない気がした。生きる糧であり、失いがたい存在。凪砂に拒絶されることはおれにとって身を裂かれるようなものだった。
「正直、初芽の気持ちを完全には理解できないけど、初芽が大事にしたいっていうなら、尊重したいと思う」
おれに近づき、肩の上に手を置いて、葉一はいった。
「凪砂とおれのどっちが大事かとは聞かない。そんなこと聞かれても困るだけだろ?」
頷いた。正直なところ、その質問をされたらどう答えるべきか、考えあぐねていた。いつか聞かれるかもしれないと怯えていた。
「でも、おれのことも大事にして。比較しなくていいから」
再び、今度は繰り返し何度も頷いた。どうして葉一にはおれの恐怖がわかるのだろう。凪砂を失わずに、葉一にもそばにいてほしいという身勝手な欲求に、おれは罪悪感をおぼえていた。
「じゃ、明日な」
「うん」
手をつないで玄関まで行き、靴を履いて、葉一を見上げた。包み込むような笑顔が見下ろしてくる。
「キスして」
「うん」
踵を浮かせて伸び上がり、背の高い葉一にキスをした。
「じゃあ、明日」
手を振って、ドアを開け、部屋を出た。ずっと閉じ込めてきた気持ちを解放することができ、わずかだが気持ちが軽くなっていた。受け容れてもらえたという安堵で胸が熱くもなっていた。
そのときのおれには、葉一がどう感じたかまで、考えがおよんでいなかった。おれはつくづく身勝手で、どうしようもなく浅はかだった。



