ファーストリーフ

 熱めの湯に浸かると、ようやくすこし気分が落ち着いた。頭を洗って、顔を上げると、卑屈な眼がこちらを見ていた。
 葉一はおれの顔が好きだといった。そんなことをいわれたのは生まれてはじめてだった。
 おそらく物心ついてからはじめて、鏡に顔を近づけて真剣に自分の顔を隅から隅までじっくりと凝視した。
 直視に堪えないほど醜いとまではいわないまでも、すれちがうひとの半分以上は一瞬で忘れてしまうような、いわゆる凡庸な顔立ちだ。美醜の価値観はひとそれぞれとはいえ、美しいともかわいらしいとも感じられない。
 この期に及んで葉一が嘘をついているとは思わないし、おれの機嫌を取るための課題表現とも考えにくい。しかし、どうしても信じられなかった。葉一はこのどこを気に入ったのだろう。それも、すぐそばに世界中の美を集めたような凪砂がいるのに。
 バスタブのなかで顔の下半分まで湯に浸していると、バスルームのドアがノックされた。
「おい、生きてるか?」
「あ、うん、生きてる」
 気づくとかなりの時間がたっていたらしい。タオルで髪を拭いながらリビングにもどると、凪砂はすでに4本目の缶ビールを空にするところだった。テレビでアフリカの野生動物のドキュメンタリーが放送されていて、疾駆するチーターを眺めながら、スナック菓子を囓っている。おれへの関心は薄れたようで、すこしほっとした。
「電話、鳴ってたぞ」
「うん。ありがと」
 スマホをテーブルに置いたままだったことに気づく。手に取り、確認すると、葉一からまたいくつかの着信とLINEが届いていた。ロックをかけているから内容までは見ることができないまでも、受信したときに画面を見れば、はじめの1行ほどは認識できる。
 そっと凪砂の様子をうかがったが、とくに反応することはなかった。アルコールの影響を感じさせない素早さで立ち上がり、おれの脇を通り過ぎる。
「どこ行くの?」
「おれも風呂入る」
 さっさといってしまう後ろ姿を見送ってから、スマホを手に自室に入った。
「初芽?」
 かなり遅い時間になっていたが、電話をかけると、即座に葉一が応答した。
「よかった。連絡つかないから心配してた」
 無視していたことを詰ることもなく、安堵したような呼吸の音が響く。罪悪感で胸がちくりと痛んだ。
「ごめん、ちょっと……疲れて寝ちゃってた」
「そっか。だいじょうぶか?」
「うん……」
 無意識に声を顰めてしまう。
「凪砂、帰ってんの?」
「今お風呂入ってる」
 念のため、ドアを開けて、バスルームのほうを確認する。シャワーの音が聞こえてきた。
「昨日、ごめんな」
 葉一も声を低め、いった。
「おれ、ちょっと強引だったっていうか、追い詰めるみたいな感じにしちゃって、気になって」
「全然そんなことない。だいじょうぶだよ」
「ほんとか?」
 小さな電子機器を通して聞こえてくる声は心配そうで、おれのことを気遣っているようだった。
「だって、おまえ、昨日泣いてただろ」
「あれは……ちょっとびっくりしただけだから」
 葉一の部屋で、ソファに押し倒されたおれは、混乱を極めて思わず泣いてしまった。葉一は慌てて体を離し、必死で謝罪したが、怒ったわけでも怯えたわけでもなかった。ただ、はじめて感じる気持ちの揺れに動揺して、パニックを起こしてしまった。葉一に責任はない。行為そのものにしても、おれが煽ったようなものだ。あんな態度を取れば、拒絶していないどころか、期待していると取られてもしかたない。
「おれのほうこそ、ごめん」
「謝るなよ。初芽はなんも悪くない。おれが焦りすぎたせいだ」
 体に触れようとしたところでおれが錯乱して泣きはじめたため、葉一はすぐに行為をやめてくれたが、あの状況で引き下がるには、そうとうの自制心が必要だろう。葉一が自身の欲望よりもおれの気持ちを優先してくれていることをあらためてつよく実感した。荒れた波に浮かぶ小舟のように心が大きく揺らぐのを感じた。
「それでさ、初芽、次会うとき……」
「葉一くん」
 葉一の言葉を遮って、いった。
「もうちょっとだけ会う頻度減らさない?」
「え?」
 葉一の口調が変化し、胸がかすかに軋む。
「なんで? 昨日おれがしつこくしたから?」
「や、それはほんとに全然……」
「顔が好きとかいったの、気に障った?」
「そんなことない。うれしかった」
 思わず本音が漏れて、不自然に言葉を切ってしまう。
 容姿を褒められるのを不快に思うひともいる。凪砂がそうだった。でもおれはちがった。顔が好きだという直接的な表現にはむしろ胸を打たれた。よけいな装飾のない葉一の言葉はいつもおれの心を動かし、思考を乱した。はじめてキスした温室でも、昨日の葉一の部屋でもそうだった。
 おれが本当に恐れているのは葉一ではなく自分自身だった。
「じゃなんで?」
 葉一の声は機械ごしにもはっきりわかるほど動揺していた。
「おれほかになんかした?」
「ちがうって。そうじゃなくて……」
 部屋の外を気にしながら、おれはいった。
「凪砂に怪しまれてるから」
「凪砂? 凪砂が原因?」
「原因っていうか……」
「なんで凪砂を気にして会うのやめないといけねえの?」
「やめるわけじゃないってば。ちょっと数を減らすだけで……」
 いつものようなおおらかさを見せて、すんなり受け容れると思い込んでいた。おれも動揺し、口籠もった。
「初芽はおれと会うの嫌なの?」
 おれの曖昧さとは対照的に、葉一はいつも率直だった。
「そういうんじゃ……」
「おれが拒否したらどうなんの、それ?」
 低く抑えてはいるが、静かな迫力を感じさせる声だった。思わず臆した。
 顔を合わせていない今だからこそいいにくいことをいえると思った。間違いだった。表情を知ることができない状態で、おれはふだん以上にしどろもどろになっていた。
 スマホを持つ掌が汗ばんでいる。黙っていると、葉一のほうが先に口を開いた。
「ごめん、嘘」
 そういったときには、ふだんどおりの穏やかで明るい声にもどっていた。
「わかった。初芽がそうしたいんだったらそうしよ」
「……ほんとに?」
「うん。まあ、おれはもっと会いたいけど、しょうがないよな」
 その声を聞いて、おれは心底安堵した。無意識に呼吸を止めていたようで、大きな息が漏れた。
「怒ってない?」
「怒ってないよ。ただ……」
 葉一の言葉がぎこちなく途切れる。
「いや、なんでもない」
 口調が変わったのは一瞬だけで、すぐにまたやさしい声にもどる。
「でも、来月の5日は空けとけよ」
「5日?」
 やけにピンポイントだ。聞き返すと、呆れたような声が聞こえてきた。
「初芽、誕生日だろ」
「ああ……」
 誕生日など気にしたことはほとんどなかった。ひとりで過ごすか、凪砂のスケジュールが空いていればいっしょに食事をするか、たしか去年は葉一も誘って3人でカラオケのあるバーで遊んだような記憶がある。
「その日はいっしょにいられるよな?」
 さすがにノーとはいえなかった。半月以上先の約束を交わし、毎日電話とLINEでやりとりすることを約束してから、電話を切った。深夜の1時を過ぎていた。緊張と安堵、わずかな罪悪感が残り、おれはベッドの上で膝を抱えた。
 視線を移動させると、ベンジャミンの青々とした葉が視界に入った。観葉植物を部屋に置いたのはやはり間違いだったかもしれない。生命力を滾らせた葉や幹を見るたび、草の匂いを嗅ぐたび、葉一を思い出す。会う頻度が減っても、けっきょくは無意味かもしれなかった。
 重い体を引き摺るようにベッドを出て立ち上がった。葉一の記憶に水をやり、その匂いや手触りを昨日よりさらに確かなものにするために。霧吹きで水分を与える作業はいつの間にか毎日のルーティーンになっていた。まるで葉一がそばにいるのが当たり前になっているかのようだった。