ファーストリーフ

「わ、びっくりした」
 リビングの照明がついた。帰宅した凪砂が、ソファで膝を丸めて横たわっているおれに気づいて大仰に飛び上がる。
「電気もつけないでなにしてんだよ。びっくりすんだろ」
 背負っていた大きなリュックをソファの上に放り投げて、キッチンに向かう。おれは緩慢に起き上がり、逆さに転がったリュックを置きなおした。
「なに、体調でも悪いの?」
 缶ビールのプルタブを開けながら、凪砂が顔を出す。
「そういうわけじゃないけど……」
 リビングのテーブルに放置していたスマホのディスプレイを見ると、夜9時を過ぎていた。ランチ営業を終えて帰宅したのが夕方5時頃だったから、4時間以上ソファに寝そべってぼんやりしていたことになる。ディスプレイには着信とLINEのメッセージの受信を知らせる通知がいくつか。相手がだれかは開かなくてもわかる。
「あ、ごめん。夜ごはん……」
「いい。食ってきた」
 缶ビールを手にダイニングテーブルに肘をついて、凪砂がおれを見る。
「なんなんだよ、おまえ。最近マジで変だぞ」
 美しく整った顔を歪め、訝しげな口調で尋ねる。
「なんかあったんならいえよ」
「うん……」
 通知の内容を確認することなく、スマホを裏返してテーブルに置く。
「あのさ……」
「おう」
 躊躇いながら、聞いた。
「セックスしたことある?」
「はあ?」
 ビールを噴き出しそうになって口元をラグランスリーブの裾で押さえながら、凪砂が眉を顰める。
「なんだ、それ」
「いや、なんとなく……」
「あるに決まってんだろ。セックスしないでどうやって女と付き合うんだよ」
「そっか。そりゃそうだよね……」
「なんなの、マジでおまえ」
 凪砂が冷蔵庫から緑茶のペットボトルを出して手渡してくれる。よほど挙動不審に見えるのか、憔悴していると思われているのか、とにかくおれの様子を訝しんでいるのは確かだ。
「おまえはまだなんだろ?」
「うん……」
 決めつけるようないいかたではあったが、事実だからしかたない。
 昨日、デートの帰りに葉一の知り合いと会った。いわゆるセックスフレンドというのだろうか。そのあと葉一の家に行き、いつもとはちがう雰囲気になって……
「その顔はあれか、いけそうなとこまではいったんか?」
 おれの表情の変化に目敏く気づき、凪砂が首を伸ばして尋ねてくる。おもしろがっているようだった。
「いけそうっていうか……」
「どこまでいった? どんな女? 彼女か?」
 凪砂がリビングに入ってきておれの前に座る。勢いに圧されて、ソファの上を後ずさった。
「そんな興味ないじゃん、絶対」
「興味あるよ。おまえのそういう話聞いたことないもん」
 床に直接あぐらをかいて座り、おれを見上げるように首を傾けて、凪砂が尋ねる。
「なあ、どこで知り合ったんだよ。彼女なんだろ?」
「彼女ってわけでは……」
「あ、ちがう? じゃプロ?」
 凪砂が品定めするような目つきでおれをじっと見つめる。吸い込まれそうな目だ。思わず臆してしまう。
「ちょっと意外。おまえ、そういうのあんま興味なさそうなのに」
「プロじゃないよ」
 慌てていう。タイミングが遅れたとしても、明確に否定しなければ、決めつけられたまま話がすすんでしまいかねない。
「じゃなんなんだよ」
 歯切れの悪いおれに苛立って、凪砂が顔をしかめる。
「おまえ、そういう話全然おれにしないじゃん。たまには教えろよ。秘密にすることないだろ、べつに」
 葉一との関係を凪砂に隠していることを責められているかのようで、息ぐるしくなった。視線を逸らして、いった。
「凪砂だって、彼女のことおれにいわなかったじゃん」
「彼女?」
「この前会った……」
「ああ、あれか。もう別れた」
「え……」
 絶句した。まったく聞かされていなかったし、凪砂のふだんの様子に変化はなく、気づけるような要素も見つけられなかった。
「いつ?」
「先月かな」
「早いね……」
 責めているわけではなかったが、凪砂は不満げに眉間の皺を深くした。
「べつにいつものことだろ」
 確かにそのとおりだった。これまで半年以上持ったことはなかった。いちいち報告するまでもないという凪砂の主張にも頷ける。
「凪砂って、だれか好きになったことある?」
 今度は即答しなかった。凪砂にしては珍しく、一瞬の間を措いて、答えた。
「おれのことは関係ねえだろ。おまえの話してんだよ」
 はぐらかすようにいって、缶ビールを一気に煽る。
「初芽、おまえ、おれになんか隠しごとあるだろ」
「べつに隠しごとなんか……」
「嘘つけ。見てりゃわかんだよ。誤魔化せると思ってんのかよ」
 切れ長の鋭い目がおれをにらむ。
「おれにいってないことあんなら今いえよ」
「本当になにもないって……」
 凪砂の視線を避けるように立ち上がる。
「おれ、お風呂入ってくる」
「あ、おい、逃げんな、このやろ」
 執拗に追いかけてくる凪砂からなんとか逃げ、バスルームに入る。嘘をつくのは苦手だ。凪砂のいうように、誤魔化しつづけるのにも限界がある。バスルームのドアに鍵をかけ、その場にしゃがみこむと、おれは大きく息をついた。