「なに見る?」
リビングのソファに座った葉一が、テレビのリモコンを操作しながら、もう片方の手で隣を示す。おれのためにソファの背にクッションを置いてくれる。
「なんか見たいのあるか?」
無言で腰掛け、クッションは背もたれにするのではなく膝の上に置いた。テレビ画面のなかで無数の映画やドラマのパッケージ画像が左右に滑っていく。
「なあ、初芽……」
「なんでもいい」
「なんでもいいって……」
「葉一くんの見たいのでいい」
コンビニの袋を漁り、ポテトチップスの袋を開ける。ふだんはスナック菓子を買うことはほとんどない。袋の口は思っていたよりも固く、開けるのに手間取った。
「貸して」
「いい。自分でできる」
伸びた手を避けるように体の向きを変え、葉一に背を向ける。
「初芽」
背後でため息が聞こえる。息が近くなる。葉一がおれの肩に顎を乗せてきた。首を捻っておれの顔を覗き込む。
「なんか怒ってる?」
「怒ってない」
「怒ってるだろ」
腕が回され、手のなかのスナック菓子の袋が取り上げられた。肩をつかまれ、体の向きをもどされる。それほどつよい力ではなかったが、逆らえなかった。
「さっきの奴らはただの知り合いだよ」
葉一が宥めるような口調でいう。新宿での男たちとのやりとりが原因でおれが機嫌を損ねたものと考えているらしい。否定しなかった。否定すれば本当のことを説明しなければならなくなる。説明などできなかった。どうしてこんな気持ちになるのか、自分でもわかっていないのに、説明できるはずがない。
「……わかった」
クッションを抱えて黙ったままのおれを見下ろして、葉一は息をついた。呆れたのでもあきらめたのでもない。自分自身を奮い立たせるための呼吸だった。
「初芽には嘘つきたくないから、正直に話す」
顔を上げると、葉一の真剣な眼差しが目の前にあった。胸がくるしくなり、まばたきが増える。そっと息を詰めた。
「おれ、ずっと本当の自分を隠して生きてきただろ。去年、大学卒業して上京したら、田舎では会えない仲間がいて、コミュニティがあって、なんていうかすげえ気持ちが楽になったっていうか」
仲間やコミュニティというのは、さっき会った男たちのことだろう。女性の格好やあからさまな態度を取らなくても、なんとなくわかった。
「何人かとはそういう関係にもなった。ちゃんと付き合った奴はいないけど。初芽とは、絶対一生無理だと思ってたし、おまえのこと忘れられるんじゃないかって……」
おれの反応をうかがうように顔を傾け、葉一はいった。
「全然忘れられなかったけどな」
クッションの端に顎を圧しつけ、俯いた。葉一の声が額のあたりを揺蕩う。
「嫌われそうでいえなかった。初芽、そういうの不潔だって思うだろ?」
語尾がくるしげに掠れた。葉一が怯えているのがわかっていても、おれにはなにもいえなかった。
「初芽と付き合ってからは、だれともしてないし、遊びにも行ってないから。信じてもらえないかもしれないけど」
疑っているわけではなかった。嘘をついているようには見えなかったし、3か月の間、多くの時間をともに過ごして、葉一の気持ちが本物だともう知っていた。おれの心を覆っている厚い雲の正体は、疑念ではなかった。
両腕でクッションをつよく胸元に圧しつけたまま、頭を垂れ、葉一の胸に額を擦りつけた。
「初芽……」
声に導かれるように顔を上げる。戸惑いながらも、葉一はおれの背に腕を回し、クッションごと密着した。
どうしておれなのか。おれのどこが好きだというのか。聞きたかった。聞けなかった。縋るように見つめることしかできなかった。
葉一もなにもいわなかった。掌をおれの頬にあて、親指の腹で下唇を軽く圧した。
目を瞑ると、唇がゆっくり落ちてきた。やさしく触れ、何度か角度を変えて食む。しかし、強引に割り入ってくることはない。クッションに阻まれて胸の鼓動を直接感じることもない。
唇が離れた。葉一の手に頭を撫でられ、こめかみから首にかけて熱がひろがった。行き場所をなくし、体内を滞留している。
「……おれ帰る」
「え?」
クッションを葉一に圧しつけ、立ち上がろうとした。腕をつかまれ、あえなくソファの上に尻が落ちた。
「ちょっと待って、初芽」
行く手を遮るかのようにソファに浅く腰を掛けて身を乗り出すと、葉一は切迫した表情でいった。
「なんで帰るんだよ」
逃げ道を塞がれ、たじろいだ。縋るものを探したがクッションは視界から消えていた。肩幅の広い葉一の体にすべて隠されていた。おれの目にはなにも見えなくなっていた。
「おれのどこが好き?」
気づくと、口が勝手に動いていた。なにをいうべきか、選択肢はほかにもあったはずだ。おれはいつもそうだ。やまほどある選択肢のなかからわざわざ最悪なものを選び取ってしまう。
「ごめん。今のなし。忘れて」
圧しのけようとした手をつかまれた。今度は思わず怯むほどつよい力だった。
「全部」
葉一は真剣そのものといった表情で、ひとしずくの淀みもなくいった。
「おれ、おまえの顔が好き」
「……顔?」
思いがけない言葉に、間の抜けた復唱をしてしまう。笑ったつもりだったが、顔の筋肉が卑屈に歪んだだけだった。
「すっげえかわいい。おれのタイプ」
葉一は笑わなかった。宝物をあつかうように両方の掌でおれの顔を包み、いった。
「前からいいたかった。高校の頃から……」
困惑した顔をしていたのだろう。おれの反応を見て、葉一は慌てていった。
「性格も好きだ。真面目でやさしくて……趣味も合うし」
陳腐な言葉が並んだが、それだけに本心だとわかった。使い古されたレディメードの言葉たちが、おれの尖った神経を宥め、張り詰めた筋肉を緩めていった。
「信じない?」
「そうじゃないけど……」
顔が熱い。混乱のうちに、また言葉が唇の隙間から漏れた。
「好きっていうだけでなんにもしないから……」
「なんにもって……」
葉一の顔も紅潮している。唖然として、いった。
「そりゃそうだろ。だって、おまえ……」
「葉一くんの友達は……」
「あんな奴ら……」
「おれと付き合ってるって全然思ってなかった」
葉一は完全に当惑していた。おれがなにをいおうとしているのかを必死で考えているように見えた。
「だってそれは……内緒で付き合う約束だっただろ」
「ちがう。そうじゃなくて……」
恋人だと紹介されなかったことで拗ねているのではない。蔑ろにされ無視されたことを憤っているわけでもない。
「おれと葉一くんがいっしょにいても、だれも恋人同士だなんて思わない。おれだってそう」
「そうっていうのは?」
「そうっていうのは……」
葉一が関係を持った男たちに嫉妬したわけではない。劣等感も抱いていない。ただ、自分自身の弱さのせいで、葉一といることが突然つらくなった。
「初芽」
葉一の手が頬から背中、腰へと滑り落ちる。太股の裏に手を差し込まれ、体が浮いた。気づくと葉一の体を跨ぐように座らされていた。
「おれが初芽に興味ないから触らないと思ってんの?」
興味があることはわかった。物理的に、理解できた。内股を突き上げる塊から逃げようと身を引いた。バランスを崩しかけたおれを追うように葉一が体を倒し、ソファの上に雪崩れ込んだ。
「あ……」
言葉も息も葉一の口のなかに吸い込まれて消えた。さっきとは比較にならないほど深く、烈しいくちづけだった。首の下に腕を回され、肩をつかまれて、片手だけで簡単に動きを封じられた。舌を差し込まれ、歯の裏や粘膜を撫で回される。唾液が溢れ、飲み込めずに首をつたってシャツの襟を濡らした。
「おれがしたいっていったら、初芽、どうするの?」
キスの合間に、唇の表面を擦り合わせたまま、葉一が問う。
「なあ、教えてよ、初芽」
なにも考えられない。海底に沈み酸素を求めて足掻くダイバーのようにおれは両手を伸ばし、必死で葉一の背中にしがみついた。
「初芽」
葉一の息が鼻先や耳元を通り過ぎる。全身が熱い。密着した葉一の体も熱を孕んでいた。もうどちらの熱なのか判別できない。
「おれのこと好き?」
湿った声とともに、葉一の指がおれのシャツの裾をズボンから引き抜いた。布地を掻き分けて滑り込んでくる。直接肌に触れられ、体が竦んだ。そんなふうにだれかに体を触られるのははじめてだった。
「なあ、初芽。おれを好きだろ?」
おれの首すじに舌を這わせながら、息を弾ませて葉一がいう。
「好きっていえよ……」
絡んで溶けてソファの底に沈んでいくような感覚に身を震わせながら、おれは必死で酸素を吸い込み、乱れた息のなかでいった。
「おれは……」
リビングのソファに座った葉一が、テレビのリモコンを操作しながら、もう片方の手で隣を示す。おれのためにソファの背にクッションを置いてくれる。
「なんか見たいのあるか?」
無言で腰掛け、クッションは背もたれにするのではなく膝の上に置いた。テレビ画面のなかで無数の映画やドラマのパッケージ画像が左右に滑っていく。
「なあ、初芽……」
「なんでもいい」
「なんでもいいって……」
「葉一くんの見たいのでいい」
コンビニの袋を漁り、ポテトチップスの袋を開ける。ふだんはスナック菓子を買うことはほとんどない。袋の口は思っていたよりも固く、開けるのに手間取った。
「貸して」
「いい。自分でできる」
伸びた手を避けるように体の向きを変え、葉一に背を向ける。
「初芽」
背後でため息が聞こえる。息が近くなる。葉一がおれの肩に顎を乗せてきた。首を捻っておれの顔を覗き込む。
「なんか怒ってる?」
「怒ってない」
「怒ってるだろ」
腕が回され、手のなかのスナック菓子の袋が取り上げられた。肩をつかまれ、体の向きをもどされる。それほどつよい力ではなかったが、逆らえなかった。
「さっきの奴らはただの知り合いだよ」
葉一が宥めるような口調でいう。新宿での男たちとのやりとりが原因でおれが機嫌を損ねたものと考えているらしい。否定しなかった。否定すれば本当のことを説明しなければならなくなる。説明などできなかった。どうしてこんな気持ちになるのか、自分でもわかっていないのに、説明できるはずがない。
「……わかった」
クッションを抱えて黙ったままのおれを見下ろして、葉一は息をついた。呆れたのでもあきらめたのでもない。自分自身を奮い立たせるための呼吸だった。
「初芽には嘘つきたくないから、正直に話す」
顔を上げると、葉一の真剣な眼差しが目の前にあった。胸がくるしくなり、まばたきが増える。そっと息を詰めた。
「おれ、ずっと本当の自分を隠して生きてきただろ。去年、大学卒業して上京したら、田舎では会えない仲間がいて、コミュニティがあって、なんていうかすげえ気持ちが楽になったっていうか」
仲間やコミュニティというのは、さっき会った男たちのことだろう。女性の格好やあからさまな態度を取らなくても、なんとなくわかった。
「何人かとはそういう関係にもなった。ちゃんと付き合った奴はいないけど。初芽とは、絶対一生無理だと思ってたし、おまえのこと忘れられるんじゃないかって……」
おれの反応をうかがうように顔を傾け、葉一はいった。
「全然忘れられなかったけどな」
クッションの端に顎を圧しつけ、俯いた。葉一の声が額のあたりを揺蕩う。
「嫌われそうでいえなかった。初芽、そういうの不潔だって思うだろ?」
語尾がくるしげに掠れた。葉一が怯えているのがわかっていても、おれにはなにもいえなかった。
「初芽と付き合ってからは、だれともしてないし、遊びにも行ってないから。信じてもらえないかもしれないけど」
疑っているわけではなかった。嘘をついているようには見えなかったし、3か月の間、多くの時間をともに過ごして、葉一の気持ちが本物だともう知っていた。おれの心を覆っている厚い雲の正体は、疑念ではなかった。
両腕でクッションをつよく胸元に圧しつけたまま、頭を垂れ、葉一の胸に額を擦りつけた。
「初芽……」
声に導かれるように顔を上げる。戸惑いながらも、葉一はおれの背に腕を回し、クッションごと密着した。
どうしておれなのか。おれのどこが好きだというのか。聞きたかった。聞けなかった。縋るように見つめることしかできなかった。
葉一もなにもいわなかった。掌をおれの頬にあて、親指の腹で下唇を軽く圧した。
目を瞑ると、唇がゆっくり落ちてきた。やさしく触れ、何度か角度を変えて食む。しかし、強引に割り入ってくることはない。クッションに阻まれて胸の鼓動を直接感じることもない。
唇が離れた。葉一の手に頭を撫でられ、こめかみから首にかけて熱がひろがった。行き場所をなくし、体内を滞留している。
「……おれ帰る」
「え?」
クッションを葉一に圧しつけ、立ち上がろうとした。腕をつかまれ、あえなくソファの上に尻が落ちた。
「ちょっと待って、初芽」
行く手を遮るかのようにソファに浅く腰を掛けて身を乗り出すと、葉一は切迫した表情でいった。
「なんで帰るんだよ」
逃げ道を塞がれ、たじろいだ。縋るものを探したがクッションは視界から消えていた。肩幅の広い葉一の体にすべて隠されていた。おれの目にはなにも見えなくなっていた。
「おれのどこが好き?」
気づくと、口が勝手に動いていた。なにをいうべきか、選択肢はほかにもあったはずだ。おれはいつもそうだ。やまほどある選択肢のなかからわざわざ最悪なものを選び取ってしまう。
「ごめん。今のなし。忘れて」
圧しのけようとした手をつかまれた。今度は思わず怯むほどつよい力だった。
「全部」
葉一は真剣そのものといった表情で、ひとしずくの淀みもなくいった。
「おれ、おまえの顔が好き」
「……顔?」
思いがけない言葉に、間の抜けた復唱をしてしまう。笑ったつもりだったが、顔の筋肉が卑屈に歪んだだけだった。
「すっげえかわいい。おれのタイプ」
葉一は笑わなかった。宝物をあつかうように両方の掌でおれの顔を包み、いった。
「前からいいたかった。高校の頃から……」
困惑した顔をしていたのだろう。おれの反応を見て、葉一は慌てていった。
「性格も好きだ。真面目でやさしくて……趣味も合うし」
陳腐な言葉が並んだが、それだけに本心だとわかった。使い古されたレディメードの言葉たちが、おれの尖った神経を宥め、張り詰めた筋肉を緩めていった。
「信じない?」
「そうじゃないけど……」
顔が熱い。混乱のうちに、また言葉が唇の隙間から漏れた。
「好きっていうだけでなんにもしないから……」
「なんにもって……」
葉一の顔も紅潮している。唖然として、いった。
「そりゃそうだろ。だって、おまえ……」
「葉一くんの友達は……」
「あんな奴ら……」
「おれと付き合ってるって全然思ってなかった」
葉一は完全に当惑していた。おれがなにをいおうとしているのかを必死で考えているように見えた。
「だってそれは……内緒で付き合う約束だっただろ」
「ちがう。そうじゃなくて……」
恋人だと紹介されなかったことで拗ねているのではない。蔑ろにされ無視されたことを憤っているわけでもない。
「おれと葉一くんがいっしょにいても、だれも恋人同士だなんて思わない。おれだってそう」
「そうっていうのは?」
「そうっていうのは……」
葉一が関係を持った男たちに嫉妬したわけではない。劣等感も抱いていない。ただ、自分自身の弱さのせいで、葉一といることが突然つらくなった。
「初芽」
葉一の手が頬から背中、腰へと滑り落ちる。太股の裏に手を差し込まれ、体が浮いた。気づくと葉一の体を跨ぐように座らされていた。
「おれが初芽に興味ないから触らないと思ってんの?」
興味があることはわかった。物理的に、理解できた。内股を突き上げる塊から逃げようと身を引いた。バランスを崩しかけたおれを追うように葉一が体を倒し、ソファの上に雪崩れ込んだ。
「あ……」
言葉も息も葉一の口のなかに吸い込まれて消えた。さっきとは比較にならないほど深く、烈しいくちづけだった。首の下に腕を回され、肩をつかまれて、片手だけで簡単に動きを封じられた。舌を差し込まれ、歯の裏や粘膜を撫で回される。唾液が溢れ、飲み込めずに首をつたってシャツの襟を濡らした。
「おれがしたいっていったら、初芽、どうするの?」
キスの合間に、唇の表面を擦り合わせたまま、葉一が問う。
「なあ、教えてよ、初芽」
なにも考えられない。海底に沈み酸素を求めて足掻くダイバーのようにおれは両手を伸ばし、必死で葉一の背中にしがみついた。
「初芽」
葉一の息が鼻先や耳元を通り過ぎる。全身が熱い。密着した葉一の体も熱を孕んでいた。もうどちらの熱なのか判別できない。
「おれのこと好き?」
湿った声とともに、葉一の指がおれのシャツの裾をズボンから引き抜いた。布地を掻き分けて滑り込んでくる。直接肌に触れられ、体が竦んだ。そんなふうにだれかに体を触られるのははじめてだった。
「なあ、初芽。おれを好きだろ?」
おれの首すじに舌を這わせながら、息を弾ませて葉一がいう。
「好きっていえよ……」
絡んで溶けてソファの底に沈んでいくような感覚に身を震わせながら、おれは必死で酸素を吸い込み、乱れた息のなかでいった。
「おれは……」



