レストランのメニューを開き、整然と並ぶ料理の写真を眺めていると、視線に気づいた。向かいの席で葉一がおれを見ていた。
「あ、ごめん。すぐ決めるから」
「急がなくていいよ」
葉一は水を一口飲みながらいった。自分のメニューは畳んでテーブルに伏せてある。
「おれ、ほんと優柔不断で……」
「慎重派なんだろって。気にしなくていいからゆっくり選びな」
葉一はおれの短所をあっという間に長所に変えてしまう。
「葉一くんはなににするの?」
「おれは、そうだな……」
すでに決まっているはずなのに、再びメニューを開いて目を通す。
「このサーモンとほうれん草のシチューにしようかな」
「おいしそう」
おなじメニューを見ながらいった。
「葉一くん、クリームシチュー派だもんね」
「え?」
思いがけず、葉一は不思議そうな顔で視線を上げた。
「おれ、そんなこといったっけ?」
「あれ……なんか前に……」
「どっちも好きだよ、おれ」
メニューを捲りながら、葉一がいう。
「初芽がつくってくれるのがいちばん好きだけど」
「また外でそういうこと……」
「ごめん」
デートは葉一の家が多かったが、こうして外出することもあった。はじめのうちは周囲に悟られないか不安だったが、ふたりでいても友人同士としか思われていないようだった。葉一は外では必要以上に触れてこなかったし、ときどき今のように悪戯っぽく囁いてくる以外は、会話にも不自然なものはなかった。
どちらかが女だったら。異性のカップルであれば、手をつないだり腕を組んだりして歩くことも堂々とできただろう。葉一のほうはそうしたいのかもしれない。
だれにも見られない家のなかでは、ときどきキスすることもあった。ただしそれほど深くはない、学生同士でするような幼稚なものだ。
付き合ってもうすぐ3か月になる。ふつうならとっくに進展があっていい頃だ。葉一は先に進みたがっているのではないだろうか。おれの気持ちを優先して、自分の気持ちを抑えている。これまでずっとしてきたように、本心を隠して、なにもないように装っている。
葉一といると楽しかった。気を張って疲れることもなければ、無駄な背伸びをする必要もない。しかし葉一のほうはどうだろうか。おれのペースや気持ちに合わせるために無理をしているのではないか。考えまいとしても、頭のなかに小さな黒点のように残って消えなかった。
「初芽?」
「ごめん、なんでもない」
無理矢理思考を中断し、メニューを閉じた。ぎこちない笑顔を返す。
「決まった?」
「うん。ハンバーグにする」
これだけ悩んでおきながら定番のメニューを選択してしまうのもいつものことだ。葉一は呆れも笑いもせず「いいね」といった。
レストランのスタッフを呼び、手際よくオーダーする葉一の横顔を見ながら、おれは胸の奥の小さな棘を意識していた。
付き合って3か月。おれはまだ葉一に好きと一度もいっていない。
新宿三丁目のレストランは庶民的ではあるが上品な味で店のインテリアも凝っていた。葉一らしいセレクトだった。ふだんからリサーチしているのか、デートのためにわざわざ選んでいるのかはわからないが、おれの好みにも見事に合致している。
夕食にはすこし早い時間だ。人気の店を確実に抑えるために開店直後の予約だった。店が地下にあったため気づかなかったが、食事を終えて外に出ると、周辺はすでに暗くなっていた。
「このあとどうする?」
先導して舗道に出る階段を上がりながら、葉一が首だけをおれのほうに向けていった。
「おれんちで映画でも見るか?」
「うん」
返事をするのに気を取られ、階段を踏みはずした。つんのめったところを葉一が即座に腕を伸ばして支える。
「あぶなっ」
バランスを崩したおれの腕をつかみ、さりげなく階上に誘導する。
「だいじょうぶか?」
「うん。ごめん、ありがとう」
人通りの多い舗道に出ても、葉一はおれの腕を離さなかった。振り解くこともできず、おれは戸惑いの眼で葉一を見上げるだけだった。
「なあ、初芽……」
なにかをいいかけた葉一を遮るように、賑やかな声が振ってきた。
「あれ? 葉ちゃんじゃない?」
おなじビルの上階からエレベータが地上に到着し、ドアが開いて数人の若い男が降りていた。居酒屋やバーが複数入居したビルだ。食事や酒の帰りなのかもしれない。葉一に気づいて、一様に驚いた顔になる。
「びっくりした。元気?」
「超久しぶりじゃん。なにしてんの?」
流行のファッションに身を包んだ派手な男たちの集団に、思わず気後れして後ずさった。
「久しぶり」
顔見知りらしく、葉一が顔をしかめる。それほど親しい関係ではないのか、避けるようにおれの肩に腕を回して後ろを向かせる。
「元気だよ。じゃあな」
「ちょっとちょっと、早くない? 久しぶりなのに塩対応すぎんだけど」
男のうちのひとりが首を伸ばして葉一の体ごしにおれの顔を覗き込んだ。
「友達?」
「関係ないだろ」
おれの姿を隠そうとするかのように葉一が身をずらして盾になる。すぐに肯定してしまえばそれで済んだはずだ。かえって違和感を抱かせてしまった。男たちが顔を見合わせる。
「ま、いいや。今から二丁目繰り出すんだけど、葉ちゃんも行かない?」
「行くわけないだろ」
「なんで? 前はほぼ毎日行ってたじゃん」
「今は行かねえの」
「えー、なんでだよ。あ、もしかして本命できちゃった?」
「うっそ。ショックなんだけど」
大きめのピアスを耳に提げた男が大仰に笑う。
「みんなの葉ちゃんなのに、独り占めとかずるくない?」
「おれおまえらのもんじゃねえし」
「泣く子多そうだよね。カズくんとかアツシとかけっこうガチ恋っぽかったもん」
「葉ちゃん、モテるもんね」
「モテてねえよ。変なこというな」
葉一が慌てていう。おれのほうを見て、気まずそうに肩を圧した。
「もう行こう」
葉一に引っ張られるようにしてその場を離れた。背後で男たちがなにかいった気がしたが、聞き取れなかった。
「あの……」
「ほんとごめん。べつの店にすればよかった。くそっ」
後半は独白のようだった。喧噪から離れると、おれの肩に回していた手を解き、不安げな眼差しを向けてくる。
「だいじょうぶ?」
「おれは全然……ていうか、久しぶりに会ったのに、いいの?」
「いい、いい。関係ないから」
深く息をついて、駅に向かって先に歩き出す。空気を切り替えるかのように、弾んだ声でいう。
「家行く前にコンビニ寄るか。飲みものとか……」
「あの……」
無意識に口をひらいていた。すこし先で葉一が足を止め、上半身を捻って振り返る。
「どうした?」
「や、えっと……」
さっきの男たちはだれなのか、どういう関係なのか、聞きたいと思ったが、聞けなかった。自分から説明しないということは、話したくないのではないか。半ば妄想めいた考えが頭のなかをぐるぐる巡っていた。躊躇いながら、いった。
「おれ、今日は帰ろっかな」
「え?」
「いや、ほら、ここからだと葉一くんの家よりおれんちのほうが近いし……」
「じゃ初芽んちにする?」
「それはだめ!」
思わず声が高まった。葉一は体ごとこちらを向き、おれに近づいた。後ずさり、その行為によって変化した葉一の表情に気づき、咄嗟にいった。
「やっぱ行く」
「初芽……」
「早く行こ。コンビニにも寄らなきゃだし」
「なあ、おい」
改札を抜けようとするおれの腕を葉一がつかむ。
「無理しなくていいんだぞ。行きたくないなら……」
「行きたい」
「初芽」
「心配しなくても、自分がしたいことくらいわかってる」
葉一の手を振り払った。意図せず、語尾が尖った。葉一が怯むのを見て、慌てて重ねた。
「行こう、早く」
笑顔をつくったつもりだったが、うまくいったかはわからない。唖然としている葉一を置き去りに、おれは大股に改札を抜け、駅構内を直進していった。
「あ、ごめん。すぐ決めるから」
「急がなくていいよ」
葉一は水を一口飲みながらいった。自分のメニューは畳んでテーブルに伏せてある。
「おれ、ほんと優柔不断で……」
「慎重派なんだろって。気にしなくていいからゆっくり選びな」
葉一はおれの短所をあっという間に長所に変えてしまう。
「葉一くんはなににするの?」
「おれは、そうだな……」
すでに決まっているはずなのに、再びメニューを開いて目を通す。
「このサーモンとほうれん草のシチューにしようかな」
「おいしそう」
おなじメニューを見ながらいった。
「葉一くん、クリームシチュー派だもんね」
「え?」
思いがけず、葉一は不思議そうな顔で視線を上げた。
「おれ、そんなこといったっけ?」
「あれ……なんか前に……」
「どっちも好きだよ、おれ」
メニューを捲りながら、葉一がいう。
「初芽がつくってくれるのがいちばん好きだけど」
「また外でそういうこと……」
「ごめん」
デートは葉一の家が多かったが、こうして外出することもあった。はじめのうちは周囲に悟られないか不安だったが、ふたりでいても友人同士としか思われていないようだった。葉一は外では必要以上に触れてこなかったし、ときどき今のように悪戯っぽく囁いてくる以外は、会話にも不自然なものはなかった。
どちらかが女だったら。異性のカップルであれば、手をつないだり腕を組んだりして歩くことも堂々とできただろう。葉一のほうはそうしたいのかもしれない。
だれにも見られない家のなかでは、ときどきキスすることもあった。ただしそれほど深くはない、学生同士でするような幼稚なものだ。
付き合ってもうすぐ3か月になる。ふつうならとっくに進展があっていい頃だ。葉一は先に進みたがっているのではないだろうか。おれの気持ちを優先して、自分の気持ちを抑えている。これまでずっとしてきたように、本心を隠して、なにもないように装っている。
葉一といると楽しかった。気を張って疲れることもなければ、無駄な背伸びをする必要もない。しかし葉一のほうはどうだろうか。おれのペースや気持ちに合わせるために無理をしているのではないか。考えまいとしても、頭のなかに小さな黒点のように残って消えなかった。
「初芽?」
「ごめん、なんでもない」
無理矢理思考を中断し、メニューを閉じた。ぎこちない笑顔を返す。
「決まった?」
「うん。ハンバーグにする」
これだけ悩んでおきながら定番のメニューを選択してしまうのもいつものことだ。葉一は呆れも笑いもせず「いいね」といった。
レストランのスタッフを呼び、手際よくオーダーする葉一の横顔を見ながら、おれは胸の奥の小さな棘を意識していた。
付き合って3か月。おれはまだ葉一に好きと一度もいっていない。
新宿三丁目のレストランは庶民的ではあるが上品な味で店のインテリアも凝っていた。葉一らしいセレクトだった。ふだんからリサーチしているのか、デートのためにわざわざ選んでいるのかはわからないが、おれの好みにも見事に合致している。
夕食にはすこし早い時間だ。人気の店を確実に抑えるために開店直後の予約だった。店が地下にあったため気づかなかったが、食事を終えて外に出ると、周辺はすでに暗くなっていた。
「このあとどうする?」
先導して舗道に出る階段を上がりながら、葉一が首だけをおれのほうに向けていった。
「おれんちで映画でも見るか?」
「うん」
返事をするのに気を取られ、階段を踏みはずした。つんのめったところを葉一が即座に腕を伸ばして支える。
「あぶなっ」
バランスを崩したおれの腕をつかみ、さりげなく階上に誘導する。
「だいじょうぶか?」
「うん。ごめん、ありがとう」
人通りの多い舗道に出ても、葉一はおれの腕を離さなかった。振り解くこともできず、おれは戸惑いの眼で葉一を見上げるだけだった。
「なあ、初芽……」
なにかをいいかけた葉一を遮るように、賑やかな声が振ってきた。
「あれ? 葉ちゃんじゃない?」
おなじビルの上階からエレベータが地上に到着し、ドアが開いて数人の若い男が降りていた。居酒屋やバーが複数入居したビルだ。食事や酒の帰りなのかもしれない。葉一に気づいて、一様に驚いた顔になる。
「びっくりした。元気?」
「超久しぶりじゃん。なにしてんの?」
流行のファッションに身を包んだ派手な男たちの集団に、思わず気後れして後ずさった。
「久しぶり」
顔見知りらしく、葉一が顔をしかめる。それほど親しい関係ではないのか、避けるようにおれの肩に腕を回して後ろを向かせる。
「元気だよ。じゃあな」
「ちょっとちょっと、早くない? 久しぶりなのに塩対応すぎんだけど」
男のうちのひとりが首を伸ばして葉一の体ごしにおれの顔を覗き込んだ。
「友達?」
「関係ないだろ」
おれの姿を隠そうとするかのように葉一が身をずらして盾になる。すぐに肯定してしまえばそれで済んだはずだ。かえって違和感を抱かせてしまった。男たちが顔を見合わせる。
「ま、いいや。今から二丁目繰り出すんだけど、葉ちゃんも行かない?」
「行くわけないだろ」
「なんで? 前はほぼ毎日行ってたじゃん」
「今は行かねえの」
「えー、なんでだよ。あ、もしかして本命できちゃった?」
「うっそ。ショックなんだけど」
大きめのピアスを耳に提げた男が大仰に笑う。
「みんなの葉ちゃんなのに、独り占めとかずるくない?」
「おれおまえらのもんじゃねえし」
「泣く子多そうだよね。カズくんとかアツシとかけっこうガチ恋っぽかったもん」
「葉ちゃん、モテるもんね」
「モテてねえよ。変なこというな」
葉一が慌てていう。おれのほうを見て、気まずそうに肩を圧した。
「もう行こう」
葉一に引っ張られるようにしてその場を離れた。背後で男たちがなにかいった気がしたが、聞き取れなかった。
「あの……」
「ほんとごめん。べつの店にすればよかった。くそっ」
後半は独白のようだった。喧噪から離れると、おれの肩に回していた手を解き、不安げな眼差しを向けてくる。
「だいじょうぶ?」
「おれは全然……ていうか、久しぶりに会ったのに、いいの?」
「いい、いい。関係ないから」
深く息をついて、駅に向かって先に歩き出す。空気を切り替えるかのように、弾んだ声でいう。
「家行く前にコンビニ寄るか。飲みものとか……」
「あの……」
無意識に口をひらいていた。すこし先で葉一が足を止め、上半身を捻って振り返る。
「どうした?」
「や、えっと……」
さっきの男たちはだれなのか、どういう関係なのか、聞きたいと思ったが、聞けなかった。自分から説明しないということは、話したくないのではないか。半ば妄想めいた考えが頭のなかをぐるぐる巡っていた。躊躇いながら、いった。
「おれ、今日は帰ろっかな」
「え?」
「いや、ほら、ここからだと葉一くんの家よりおれんちのほうが近いし……」
「じゃ初芽んちにする?」
「それはだめ!」
思わず声が高まった。葉一は体ごとこちらを向き、おれに近づいた。後ずさり、その行為によって変化した葉一の表情に気づき、咄嗟にいった。
「やっぱ行く」
「初芽……」
「早く行こ。コンビニにも寄らなきゃだし」
「なあ、おい」
改札を抜けようとするおれの腕を葉一がつかむ。
「無理しなくていいんだぞ。行きたくないなら……」
「行きたい」
「初芽」
「心配しなくても、自分がしたいことくらいわかってる」
葉一の手を振り払った。意図せず、語尾が尖った。葉一が怯むのを見て、慌てて重ねた。
「行こう、早く」
笑顔をつくったつもりだったが、うまくいったかはわからない。唖然としている葉一を置き去りに、おれは大股に改札を抜け、駅構内を直進していった。



