ファーストリーフ

「凪砂に話せばいいじゃん」
 些末な問題だとでもいいたげに葉一がいって、おれは目を剥いた。
「絶対だめだよ。だめに決まってんじゃん。なにいってんの?」
「そんなだめ?」
 スポンジに洗剤を含ませながら、葉一がいう。皿にこびりついた泡を落としながら、答えた。
「凪砂がそういうの嫌いだって葉一くんも知ってるくせに」
「それは知らない奴とかキモい奴の話だろ。おまえならべつじゃないの? おれだって知らない仲じゃないんだし」
 大きな手でグラスの底をつかみ、葉一が首を傾けて隣のおれを見た。
「観葉植物だって、心配してたほど拒否反応なかったんだろ? 案外、すんなり受け容れてくれるかも」
「観葉植物とは話が全然ちがうよ」
 ため息をついて、洗剤のついたグラスを葉一の手から受け取る。
「葉一くんは凪砂に嫌われても平気かもしれないけど……」
「べつに平気じゃない」
 洗いものを終えてタオルで手を拭きながら、葉一はいった。
「おれだって怖いよ。おまえに告白したときも死ぬほどびびってただろ」
 葉一との関係を疑った男が突然店を訪ねてきたのは半月ほど前だった。あの誤解がなければ、葉一の本心を知ることは一生なかったかもしれない。
「おれは軽蔑なんかしないし……」
「わからないだろ。凪砂に同調してたし、そもそもおれはおまえが凪砂を好きだと思ってたんだよ」
 端がすこし湿ったタオルをおれに渡して、キッチンを出る。気のせいか、さっきよりも元気がないように見えて、おれも洗いものを済ませ、後を追った。
 葉一はリビングのソファに座って、膝の上に肘をついていた。
「中2のとき」
 食後に入れたまま放置されたぬるいコーヒーを口に含んで、いった。
「おなじクラスの女子に告白されて、付き合ってみたけど、なんか違和感あって、けっきょくすぐ別れた。その子のことが気に入らないとか嫌とかではなくて、根本的にちがう感じがした」
 おれは高校時代の葉一しか知らない。親切で社交的な葉一は女子からも人気が高かった。告白されたこともあっただろうが、彼女がいたことがあったとは一度も聞かなかった。
「中3になって、違和感の正体がやっとわかったけど、なかなか認められなくて……けっこうくるしかったな、あのときは。今はもう笑い話だけど」
 ソファに深く背を預け、苦笑いを浮かべる。おれのほうは見ないままだ。おれはリビングの入口に立ち尽くしたまま、葉一の話を黙って聞いていた。
「空手の稽古中に、だれかがふざけて、おれのことホモっぽいって笑ったことがある。ガキが冗談でいっただけで本気じゃなかったんだけど、それ聞いたうちの親父がすげえ激怒して、そいつをぶん殴った。空手の師範代が中学生を本気で殴ったからな、かなり問題になったよ。周りが止めなきゃもっとやばいことになってた」
 ソファの背に腕を投げ出し、記憶を辿るように眼を細める。思い出したくない記憶であることはいうまでもない。
「おれ、長男だからな。そっからはだれにもホモっぽいとかいわれないように、ひたすら気張ってた。親父の期待にも応えないといけなかったし」
 ついこの間まで、葉一には恋愛の悩みなど無縁だと思い込んでいた。おれには想像さえできないような重圧に圧しつぶされながら、自分自身を内側に圧し込み、気持ちを抑え込んできた。学校では優秀な生徒を演じ、家では完璧な長男を演じて、気の休まる場所はどこにあったのだろう。偽りの姿で生きる苦痛は筆舌に尽くしがたいものだったにちがいない。
「そんな顔すんなって」
 おれがちかづくのを見て、葉一が表情を緩めた。
「こっちきて」
 伸ばされた手を素直に握った。隣に座らされ、背中に腕を回される。性的な欲求は感じなかった。やさしくおれの背を擦って、安心させるように笑顔を見せる。
「上京したのは、おまえのそばにいたかったってのもあるけど、おれのことだれも知らないところに行きたい気持ちはずっと持ってた」
 言葉もなかった。つくづくおれは身勝手だ。葉一の気持ちを考えず、まるでなにも感じていないのだと一方的に決めつけていた。
 うまく言葉が出てこないもどかしさを振り切るように、自分のほうから抱きついた。葉一の背に両腕を回し、胸元に頬を圧しつけた。
「なに、どうした?」
 葉一の胸に耳を擦りつけると、心臓が跳ね上がる音が直接伝わってきた。鼓膜が震え、体が熱くなる。
「ごめん……」
「なーんだよ。謝んなってば」
 軽薄な口調がむしろ切なく胸を締めつけた。葉一の手で密着が濃くなった。胸同士が重なり、膝頭が擦れ合う。
 葉一の肩越しに、リビングを彩る植物たちが見えた。この木々や花は、葉一が長く縛られてきた抑圧からの解放をあらわしているのかもしれない。そう思うと、大きく伸びた葉や鮮やかに咲き誇る花がさらに美しく見えた。
 洗剤と、さっきいっしょに食べたピザのトマトの匂いに、かすかな体臭が混じった匂いがする。花を見つめ、葉一の匂いを嗅ぎ、体を密着させていると、不思議と心が凪ぎ、心配がなくなっていくようだった。そう思ったとき、葉一がいった。
「あ-、なんかすげえ安心する」
 頭のなかを覗かれたのかと疑うようなタイミングに、おれは驚いて顔を上げた。
「なに?」
「ううん……」
 おれもおなじこと考えてた。口に出すとわざとらしく聞こえてしまいそうで、いえなかった。
「なあ、初芽」
 おれの髪を指先で摘まんでいくつかの束をつくりながら、葉一がいった。
「凪砂にいいたくないならそれでいいから、おれたち内緒で付き合わない?」
 至近距離でおれを見つめる葉一の表情は穏やかだったが、眼の奥にわずかながら緊張が見えた。おれに拒絶されるのを恐れ、傷つくのにおびえている。葉一がなにも感じないなど、一度でも考えた自分に心底腹が立った。
「いい?」
 小さく頷くと、葉一の表情から不安の影が消え、花が咲くように輝いた。
「マジ?」
 もう一度、今度はゆっくりはっきりと頷いた。同情でも贖罪でもない。本当はもうここへくる前から決めていた。
「マジかよ。やった。すげえうれしい!」
 大仰に思えるほど大きな声だった。囁き声さえ正確に聞き取れるほど密着していたから、一瞬耳の奥が痺れた。
「声大きすぎ……」
 笑いながら抗議すると、「あっ、悪い」と即座に謝って、再びおれの体をきつく抱きしめた。息がくるしくなるほどだったが、もう文句はいわず、されるがままになった。
「好きだよ、初芽」
 好きな相手に好きだということ。当たり前だと思っていた。自分に経験がないだけで、だれでもごくふつうに行っているものと思い込んでいた。葉一にはおそらく、ずっと難しいことだったはずだ。
 おれはもう葉一が好きなんだろうか。
 眼で、耳で、鼻で、手や肩や背中、全身で葉一を確認しながら、おれは漠然と考えていた。