「初芽」
突然ドアが開いて、ベッドの上で飛び上がった。
「なんだよ、驚きすぎだろ」
風呂上がりらしく、タオルを首にかけた凪砂が顔をしかめる。
「いきなり開けるから……」
部屋に入るときはノックをするように何度もいっているのに、聞いてくれた試しがない。諦めの境地といった気持ちでため息をついた。
「おれ、明日名古屋だからな」
「え、そうだっけ」
「こないだいっといただろ。舞台のイベントで遠征あるって」
たしかに、数日前に夕食を取りながら凪砂が話していた記憶がある。葉一のことを考えていてまともに頭に入ってこなかった。
「その顔は忘れてたな」
「ごめん……」
「べつにいいけど。なんかおまえ最近変じゃね?」
ぎくりとする。凪砂は大雑把な性格ではあるが決して鈍感ではない。毎日いっしょに生活していれば、おれの様子がおかしいことを不審に思うはずだ。できる限り平静を通しているつもりだったが、うまくいっていないこともわかっていた。
「葉一となんかあったんか?」
「えっ!」
具体的な名前が飛び出してきて、思わず過剰に反応してしまった。
「な、なんで? おれ葉一くんの話なんかしたっけ?」
「いや、逆。葉一の話が全然出てこないから」
無意識に葉一の話題を避けてしまっていたようだ。凪砂の鋭さを侮ってはいけない。あらためて神経が張り詰めた。
「なんだそれ」
凪砂の視線がおれを飛び越え、部屋の隅のベンジャミンの鉢に移る。
「あ、えっと、観葉植物」
「前からあったっけ?」
「一昨日から……」
どれでも気に入ったものを持っていってかまわないといわれ、ひとまず指をさしたところ、翌日には鉢を抱えた葉一が自宅を訪ねてきた。凪砂の許可を得てから受け取るつもりだったが、追い返すわけにもいかず、部屋に置くことにした。
葉一は部屋に入りたがっていたが、どうにか帰した。「押す」と宣言してからの葉一はふだん以上に積極的だったが、強引というわけではなく、おれの気持ちを尊重してくれていた。
「買ったの?」
「ああ、うん……」
葉一からもらったことはいわなかった。ふうん、と唇を閉じたまま息を漏らして、凪砂が蒼く茂った葉を眺める。
「嫌なら返してくるけど」
「なんでおれが嫌なんだよ」
「植物、好きじゃないでしょ」
「おまえの部屋に置いとくもんにおれの好みは関係ないだろ」
凪砂が呆れたようにいう。壁に半身を凭せかけ、腕を組みながらいう。
「なんでもかんでもおれの許可取る必要ないんだからな」
「うん……」
凪砂は気づかなかったが、ベッドサイドの台の上に一輪挿しを飾ってあった。はじめてのデートの日に葉一がくれたコスモスをドライフラワーにした。なんとなく、棄てられなかった。
葉一の申し出をすぐに受けなかった理由。凪砂が植物嫌いということもあったが、それ以上に、葉一の存在を感じさせるものを常に身近に置くことへの不安が大きかった。本心を隠すために凪砂の名前をつかったことに罪悪感をおぼえた。第一、物理的なものなどに意味はなかった。
「で?」
「え?」
「どこの店で買ったんだよ、それ」
「あ……」
そこまで詳しく質問されると予想していなかった。言葉に詰まっていると、凪砂が首をすぼめた。
「ま、べつにどうでもいいか」
タオルで乱暴に髪を拭いながら踵を返す。
「明日朝6時起きだからさ。アラームセットしてるけど起きてこなかったら起こしてくんねえ?」
「うん、わかった」
凪砂が出て行くと、そっと息を吐いた。意識していなかったが、かなり緊張していたらしい。ベッドの上に両手をつき、うなだれた。毎日この調子では身が持たない。しかし、凪砂に打ち明けるわけにはいかなかった。凪砂のゲイ嫌いはだれよりも知っている。おれと葉一の関係が凪砂の知るところとなれば、激怒されるか軽蔑されるかその両方か、いずれにしても最悪の結果になることは容易に想像できた。
ふと、思い当たって、顔を上げた。凪砂はなぜか観葉植物をどこで仕入れたのか気にしていた。凪砂が葉一の家に行ったことがあるのではないかと、以前感じたことがある。おなじものが葉一の家にあったとおぼえていたのかもしれない。
まさか。頭に浮かんだ疑念を振り払うように首を振った。ベンジャミンの鉢が置かれていたのは寝室だ。なにか用があって訪問したにしても、寝室に入る用事があるとは思えない。
しかし、おれのときは観葉植物を見せるという理由であっさり寝室に招き入れられた。葉一にとってはごくふつうのことなのかもしれない。価値観がひとそれぞれちがうのは当たり前のことだ。
もし凪砂が葉一の家でベンジャミンの鉢を見ていたのだとしたら、おれは不自然な嘘をついて凪砂の違和感をさらにつよめてしまったことになる。
青ざめたが、今さらわざわざ凪砂の部屋に行って、実は葉一にもらったのだと弁解するのはむしろさらに不自然な行動になってしまう。
自分の浅はかさにつくづく絶望した。今日何度目かのため息をつき、ベッドに仰向けになった。
凪砂はおれのすべてだった。もし凪砂に知られたら。凪砂に侮蔑の眼差しで見られたら、おれはどうなってしまうのだろう。
ベンジャミンの葉脈が描くなだらかな稜線を見つめていると、葉一のことを思い出した。車のなかで抱きしめられたときの体温や料理の話をするときの楽しげな顔。
凪砂に嫌われたらと想像すると鳥肌が立つほどおそろしかった。そのいっぽうで、葉一から離れることもできなくなっていた。
突然ドアが開いて、ベッドの上で飛び上がった。
「なんだよ、驚きすぎだろ」
風呂上がりらしく、タオルを首にかけた凪砂が顔をしかめる。
「いきなり開けるから……」
部屋に入るときはノックをするように何度もいっているのに、聞いてくれた試しがない。諦めの境地といった気持ちでため息をついた。
「おれ、明日名古屋だからな」
「え、そうだっけ」
「こないだいっといただろ。舞台のイベントで遠征あるって」
たしかに、数日前に夕食を取りながら凪砂が話していた記憶がある。葉一のことを考えていてまともに頭に入ってこなかった。
「その顔は忘れてたな」
「ごめん……」
「べつにいいけど。なんかおまえ最近変じゃね?」
ぎくりとする。凪砂は大雑把な性格ではあるが決して鈍感ではない。毎日いっしょに生活していれば、おれの様子がおかしいことを不審に思うはずだ。できる限り平静を通しているつもりだったが、うまくいっていないこともわかっていた。
「葉一となんかあったんか?」
「えっ!」
具体的な名前が飛び出してきて、思わず過剰に反応してしまった。
「な、なんで? おれ葉一くんの話なんかしたっけ?」
「いや、逆。葉一の話が全然出てこないから」
無意識に葉一の話題を避けてしまっていたようだ。凪砂の鋭さを侮ってはいけない。あらためて神経が張り詰めた。
「なんだそれ」
凪砂の視線がおれを飛び越え、部屋の隅のベンジャミンの鉢に移る。
「あ、えっと、観葉植物」
「前からあったっけ?」
「一昨日から……」
どれでも気に入ったものを持っていってかまわないといわれ、ひとまず指をさしたところ、翌日には鉢を抱えた葉一が自宅を訪ねてきた。凪砂の許可を得てから受け取るつもりだったが、追い返すわけにもいかず、部屋に置くことにした。
葉一は部屋に入りたがっていたが、どうにか帰した。「押す」と宣言してからの葉一はふだん以上に積極的だったが、強引というわけではなく、おれの気持ちを尊重してくれていた。
「買ったの?」
「ああ、うん……」
葉一からもらったことはいわなかった。ふうん、と唇を閉じたまま息を漏らして、凪砂が蒼く茂った葉を眺める。
「嫌なら返してくるけど」
「なんでおれが嫌なんだよ」
「植物、好きじゃないでしょ」
「おまえの部屋に置いとくもんにおれの好みは関係ないだろ」
凪砂が呆れたようにいう。壁に半身を凭せかけ、腕を組みながらいう。
「なんでもかんでもおれの許可取る必要ないんだからな」
「うん……」
凪砂は気づかなかったが、ベッドサイドの台の上に一輪挿しを飾ってあった。はじめてのデートの日に葉一がくれたコスモスをドライフラワーにした。なんとなく、棄てられなかった。
葉一の申し出をすぐに受けなかった理由。凪砂が植物嫌いということもあったが、それ以上に、葉一の存在を感じさせるものを常に身近に置くことへの不安が大きかった。本心を隠すために凪砂の名前をつかったことに罪悪感をおぼえた。第一、物理的なものなどに意味はなかった。
「で?」
「え?」
「どこの店で買ったんだよ、それ」
「あ……」
そこまで詳しく質問されると予想していなかった。言葉に詰まっていると、凪砂が首をすぼめた。
「ま、べつにどうでもいいか」
タオルで乱暴に髪を拭いながら踵を返す。
「明日朝6時起きだからさ。アラームセットしてるけど起きてこなかったら起こしてくんねえ?」
「うん、わかった」
凪砂が出て行くと、そっと息を吐いた。意識していなかったが、かなり緊張していたらしい。ベッドの上に両手をつき、うなだれた。毎日この調子では身が持たない。しかし、凪砂に打ち明けるわけにはいかなかった。凪砂のゲイ嫌いはだれよりも知っている。おれと葉一の関係が凪砂の知るところとなれば、激怒されるか軽蔑されるかその両方か、いずれにしても最悪の結果になることは容易に想像できた。
ふと、思い当たって、顔を上げた。凪砂はなぜか観葉植物をどこで仕入れたのか気にしていた。凪砂が葉一の家に行ったことがあるのではないかと、以前感じたことがある。おなじものが葉一の家にあったとおぼえていたのかもしれない。
まさか。頭に浮かんだ疑念を振り払うように首を振った。ベンジャミンの鉢が置かれていたのは寝室だ。なにか用があって訪問したにしても、寝室に入る用事があるとは思えない。
しかし、おれのときは観葉植物を見せるという理由であっさり寝室に招き入れられた。葉一にとってはごくふつうのことなのかもしれない。価値観がひとそれぞれちがうのは当たり前のことだ。
もし凪砂が葉一の家でベンジャミンの鉢を見ていたのだとしたら、おれは不自然な嘘をついて凪砂の違和感をさらにつよめてしまったことになる。
青ざめたが、今さらわざわざ凪砂の部屋に行って、実は葉一にもらったのだと弁解するのはむしろさらに不自然な行動になってしまう。
自分の浅はかさにつくづく絶望した。今日何度目かのため息をつき、ベッドに仰向けになった。
凪砂はおれのすべてだった。もし凪砂に知られたら。凪砂に侮蔑の眼差しで見られたら、おれはどうなってしまうのだろう。
ベンジャミンの葉脈が描くなだらかな稜線を見つめていると、葉一のことを思い出した。車のなかで抱きしめられたときの体温や料理の話をするときの楽しげな顔。
凪砂に嫌われたらと想像すると鳥肌が立つほどおそろしかった。そのいっぽうで、葉一から離れることもできなくなっていた。



