ファーストリーフ

 細く開けた窓から春の風が吹き込み、ベンジャミンの葉を揺らしている。ベッドの上で膝を抱えながら、おれは部屋の隅に置かれた鉢をじっと見つめていた。
 たいへんなことになってしまった。頭を抱え、小さな呻き声を漏らした。本当は叫び出したい気分だったが、隣の部屋で凪砂が新しい舞台の台本を読んでいる。邪魔はできない。
「カレーつくったから食べにこいよ」
 そういわれたのは、初デートの翌日だった。その日はフルタイム出勤だったため断ったが、次の日のランチ営業が終わった夕方、葉一の家に行った。
 助手席に座っていただけで、葉一の自宅の場所はうろおぼえだった。仕事帰りの葉一と駅で待ち合わせ、いっしょにマンションに向かった。スーツ姿の葉一が改札を抜け、こちらに向かって走ってくるのを、おれは不思議な感覚を持って見ていた。これまでは友達だった。今はちがうとわかっていても、急な展開についていけそうになかった。
 手製のバターチキンカレーはヨーグルトの軽やかな酸味がきいて絶品だった。チーズが練り込まれたナンももっちりとした食感が心地よい。葉一の料理の腕はかなりのものだった。凝り性らしく、スパイスの種類も豊富で、複雑な味わいが葉一の性格を表現しているかのようだった。
「どう? うまい?」
 向かいに座っていっしょにカレーを食べていた葉一がテーブルごしに身を乗り出してくる。期待よりも不安のほうが濃い眼差しだった。
「すごくおいしい」
「お、よかった。よしよし」
 満足と安堵の表情でスプーンを持った手を軽く振る。
「このナンも自分でつくったの?」
「簡単だよ。材料混ぜてフライパンで焼くだけ。つくったことない?」
「ない。今度やってみようかな」
 ちぎったナンを口にはこびながらいう。
「凪砂が辛いの苦手だから、インドカレーはあんまりつくらないんだ」
 返事がないことに気づき、視線を上げる。葉一がスプーンを置き、テーブルの上に頬杖をついておれを見つめていた。
「なに?」
「んー? べつに。見てるだけ」
「なんで見てるの?」
「理由はないけど。ほんとに付き合ってんだよなーって思って」
 さらりといわれて、顔が熱くなった。おれの反応を楽しげにうかがって、葉一が身を乗り出す。
「……おれたち、付き合ってるの?」
「え、付き合ってねえの?」
 葉一が腰を浮かせる。緩んでいた表情がたちまち引き締まって声が低まった。
「一昨日のあれは? キスもしたじゃん」
「あれは……」
「初芽のほうからしてきたよな?」
「あれは、その……衝動的というか無意識というか」
「でもおれのこと好きって……」
「好きっていったんじゃなくて、好きになりたいっていったんだよ」
 葉一の勢いに気圧されながら、慌てていった。
「それって、まだ好きじゃないけどこれから好きになるかもってこと?」
「わかんない……」
 皿の上のナンを指で弄びながら、呟く。
「なんかすごい中途半端だよね。ごめん。自分の気持ち、うまく表現できなくて……」
「いい、謝んなよ。おまえ全然悪くないから」
 テーブルごしに手を伸ばし、俯くおれの顎を指先で軽くつついて、葉一がいう。
「真剣に考えてるから適当に返事できないってことだろ。そういう素直で正直なとこも、おれ好きだから」
 葉一の笑顔に、心からほっとした。優柔不断で決断力に欠ける自分の欠点を肯定的に受け止めてくれることに安堵し、張り詰めた神経が弛緩していった。
「好きになりたいってことは、おれのこと好きになるのは嫌じゃないんだろ?」
「うん……」
「じゃあなろうよ。おれも頑張るから」
「頑張る……」
「こうやってメシつくったり、サプライズしたりとか」
 またカレーを食べはじめながら、葉一が軽い調子でいう。
「でも……葉一くん、おれに尽くされたいっていってなかった?」
「凪砂が羨ましいとはいったけど、尽くされたいわけじゃなくて。あ、いや尽くされたいけど、おれもおなじくらい尽くしたい。お互い支え合って、いっぱい幸せになりたい。そういうふうに、初芽とはなれると思う」
 カレーをつけたナンを頬張りながら笑う葉一の顔は、高校時代と変わらず純粋でおおらかで、見ていると安心できた。ただし、心の奥で燻る不安が消えたわけではなかった。
「でもちょっと怖い」
「怖い? おれが?」
「じゃなくて」
 葉一がおれの気持ちを慮ることなく強引にことをすすめるつもりでないことはもうわかっていた。おれの不安はべつのところにあった。
「おれ、恋愛とかまだ一度もしたことないから、もしだれかを好きになったらどうなっちゃうかわかんない」
 心の中身をそのまま口に出しただけだったが、葉一は噴き出した。
「え? なにそれ」
「笑うことないじゃん……」
「ごめん。笑ったわけじゃなくて。えっと、初芽は、もし本気で恋したらやばいことになるって?」
「やばいかどうかはわからないけど……」
 自分自身のことはすこしはわかっている。おれはたぶん、人間として必要なもののいくつかを確実に欠いている。そのことを理解しているから、他人と深く結びつくのを避けていた。凪砂に執着してしまうのはその反動かもしれなかった。
「もしそうなったら、おれ葉一くんのこと振り回したり傷つけたりするんじゃないかと思う」
「べつにいいよ。振り回したり傷つけたりしろよ」
 葉一は平然といってのけた。残ったナンの表面をカレーの皿に圧しつけるようにして最後まで食べきると、無邪気な笑顔を向けてきた。
「おれだって覚悟もなしに告白なんかしねえよ。初芽のこと全部受け止めるつもりだから、心配すんな」
 言葉にならない思いが胸の奥で詰まった。黙って頷くことしかできなかった。
「コーヒー飲む?」
「あ、うん。ありがとう」
 葉一が冷たいコーヒーを入れてくれた。おれの前にカップを置き、そのまま上半身を屈めて顔を近づけてくる。
 あまりに自然な動作だったため、なにをされようとしているのか、気づくのが遅れた。
「ちょ、ちょっと待って、なに?」
 慌てて身を引くと、葉一は意外そうに眉を上げた。
「いや、キス」
「いやキスって……な、なん、なんでキスするの?」
「だめ?」
「だめだよ。だってカレー食べてるのに……」
「おれもおなじの食ってんだし気にすんなよ」
「気にする……」
「わかったよ。じゃあとでな」
 おれの頭を軽く二度叩いて、葉一がダイニングを出る。トイレにでも行くのだろうか。足取りは軽い。機嫌を損ねたわけではなさそうだ。
 葉一はおれに尽くしたいというが、だれかに尽くされた経験がないから実感がない。なにも考えず、与えられるものを素直に受け取る。できるかどうか、自信がなかった。愛されるのも才能のひとつだ。一朝一夕でできるものではない。相変わらず、不安の棘は胸の奥に刺さったまま、抜けることはなかった。