ファーストリーフ

「初芽」
 背後から肩を叩かれた。寝室に入ったときとおなじ、性的な要素をまるで感じさせない自然な動作だった。
「腹減んない?」
 そういえばそろそろ昼どきだった。緊張しすぎて忘れていた。
「どっか食べに行こうか。乾燥機、もうちょっとのはずだし」
 頷きかけてから、いった。
「あの、おれ、なにかつくろうか?」
 キッチンには大きな冷蔵庫があって、フライパンなども掛けられていた。
「え、つくってくれんの?」
「たいしたものはできないけど……お店の予約とか、洗濯とか、やってもらってばっかりだし、それくらいは」
「べつに気にしなくていいって。おれがやりたくてやってんだから」
「でも……」
「あ、じゃあおれつくるわ。初芽は座って待ってて」
 滑らかな動きでキッチンに入り、冷蔵庫を開ける。
「料理するの?」
「初芽ほどじゃないけどな。いちおう、適当に自炊くらいはするよ」
 冷蔵庫から野菜を取り出す。キッチンの棚を開けると、調味料が豊富に揃っていて、整然と並べられていた。葉一の几帳面な性格がわかる。
「パスタでいい?」
「うん」
 大きめの鍋にたっぷりの水を張って、火にかける。慣れた手つきだった。
「おれも手伝うよ」
「いいって。ゆっくりしてろよ」
「なにかしてないと落ち着かないから」
 葉一の隣に立って手を洗う。
「じゃ、玉葱とピーマン切ってくれるか」
「わかった」
 葉一の手から玉葱を受け取り、手で皮を剥く。
「スープにもつかうから、半分はみじん切りにしといて」
「うん」
 葉一はレタスと水菜でサラダをつくりはじめた。玉葱を切るおれを横目に見る。
「うまいな。さすがプロ」
「おだてなくていいから」
 毎日継続している動作だからか、包丁を握っているとリラックスできた。
 葉一はサラダのドレッシングをつくっている。棚に並ぶ調味料には珍しいものも多く、見たことのないパッケージもあった。
「それ、ナンプラー?」
「この前、出張でタイに行ったとき買ってきたんだけど、けっこううまいよ」
 手の甲に一滴垂らしてもらう。舌先で舐めると、ぴりっとした辛みのあとにふくよかなうまみが口中に広がった。
「おいしい」
「だろ?」
 レモン汁、砂糖、一味唐辛子とオリーブオイルを混ぜてドレッシングをつくると、葉一はおれが切った野菜でナポリタンをつくりはじめた。
 葉一は適当だと謙遜したが、料理にはこだわりがあるようで、知識も豊富だった。仕事柄海外出張が多く、現地で珍しい食材や調味料があるとつい購入してしまうのだと笑った。
 ダイニングテーブルに向かい合って座り、昼食を取った。ナポリタンとコンソメスープ、エスニック風サラダといった簡単なものだったが、どれも美味で、世界各地の食文化やそこで経験した話を聞くのも楽しかった。
 濡れた服が乾くと、再び車で外に出た。雨は上がっていて、海沿いをドライブして、浜辺のカフェでパンケーキを食べてから、都内にもどった。
 ディナーは中目黒のビストロだった。高級レストランを予約しているのではないかとすこし緊張していたが、こぢんまりとした風情のある店だった。シェフ夫婦だけで経営しているとのことで、駅から離れていることもあり、都心の喧噪に煩わされることもなく落ち着いて食事が楽しめる。
 料理はフランスの郷土料理で、仔羊のパテや牛乳で茹でた鱈とジャガイモをペースト状にしたブランダード、鶏もも肉のコンフィといった定番だが手のかかった伝統的なものばかりで、どれも驚くほどおいしかった。
 金柑の入ったフレッシュレモネードを飲みながら、互いの仕事のことや高校時代の思い出などいろいろなことを話した。知り合ってそれなりの時間がたっているのにもかかわらず、おれは葉一のことをほとんど知らない。こうして話をしてみると、趣味や嗜好が似ていることに気づいた。昨日までは、葉一とふたりだけでどんな話をすればいいのかわからず不安だったが、実際には、料理や映画、ガーデニングの話題で盛り上がり、時間の経過を忘れてしまうほどだった。
 食事が終わると、台場までドライブした。いっしょに夜景を見て、音楽を聴きながら話しているうちに、自宅のある駅に近づいていた。
「駅のとこでいいよ」
「家まで送る」
「いいって」
「もう遅いし」
「女の子じゃないんだから」
 皮肉でも厭味でもなく、単に呆れて笑ってしまった。その頃にはもう、自分の反応や言動が相手に与える影響をふだんほど気にしなくなっていた。朝の緊張が嘘のように肩の力が脱けていた。
「送りたいんだよ」
 ステアリングを握り、前を見たまま、葉一がいう。
「じゃあ……近くまで」
 すっかり遅くなってしまった。夜の公演を終えた凪砂がもどってくる頃だろう。鉢合わせするのは避けたかった。葉一と出かけることは話していない。なんとなく、ふたりでいるところを見られたくなかった。
「雨、やんでよかったね」
「そうだな」
 自宅がちかづくにつれ、葉一の口数が減っていることには気づいていた。シートに背中を埋め、運転席の葉一を見る。さっきまでと較べて笑顔がぎこちないように思えた。
 今日が最初で最後のデートになる。明日からはまたもとの友人同士にもどるのだという事実を意識しているのかもしれない。おれにしても、忘れていたわけではない。ただ考えたくなかった。この時間がもうすぐ終わり、二度ともどってこないこと。
「そこ、角曲がったとこで」
「家まで行くって」
「いいから、ほんとに」
 葉一は名残惜しそうに、しかしおれの頼みどおり、マンションの1ブロック手前の道添に車を停めた。
「今日、楽しかった」
 朝、目を覚ましたときは憂鬱だった。いいにくいことをいわなければならない重圧で圧しつぶされそうだった。もうこれまでのように親しく話すこともできなくなるのかもしれないと不安も感じていた。すべて杞憂に過ぎなかった。
「ほんと?」
 ステアリングに肘をかけ、葉一が体ごとおれのほうを向く。
「ほんとに楽しかった?」
 頷く。植物園で花を見て、いっしょに昼食をつくって、いろんな話をしながら散歩し、ドライブして、まるで夢を見ているような1日だった。葉一といると気負うこともなければ過剰に反応をうかがうこともなかった。おれにとってははじめての経験だった。
「よかった」
 視界の隅で葉一が微笑む。葉一の顔を正面から見返すことができず、おれは曖昧にまた頷いた。