ファーストリーフ

「どれがいいか考えとけよ」
「うん」
 リビングを見渡して、奥のドアに気づいた。もうひとつ部屋がある。
「こっちの部屋にもあるの?」
「ああ、うん、あるよ」
「見ていい?」
「いいよ」
 葉一がドアを開け、おれを室内に入れてくれる。そこは寝室だった。ダブルベッドが眼に入ると、思わずどきっとした。部屋に誘われたときの「変な意味じゃない」という言葉を今更ながら思い出した。
「そっちのはモンステラ。定番だろ」
 壁際の鉢を指さす。濃い緑の葉が大きく広がっている。葉一はあまり意識していないように見えた。ひとりで緊張することもない。呼吸を整え、部屋を見渡した。
 ベッドのすぐ脇にある細い幹の木が目に入った。
「それが気に入った?」
 おれの視線の先に気づいた葉一がおれの前に回り込む。
「これもゴムの木の仲間で、ベンジャミンっていうんだよ」
「へえ……」
「花言葉は〝信頼〟」
「信頼……」
 自然と手が伸びた。葉の表面に触れ、葉脈の筋を指先で辿る。
「花も咲く?」
「たまに咲くこともあるみたいだけど」
 葉の隙間から視線が絡む。先が黒ずんだ葉が手に触れ、思わず身を起こした。
「なに?」
「あ、ううん。虫かと思ってびっくりした」
「初芽、虫苦手だったよな」
 どうしてそんなことまで知っているのだろう。おれの表情にもすぐ気づき、葉一が笑う。
「高校の頃、花壇で虫と闘ってるとこ見たよ」
 記憶を辿るように目を細めて、葉一はおれを見た。
「闘ってはないと思うけど……」
「木の枝握って、一生懸命花つっついて毛虫だか青虫だかを追い出そうとしてるの、教室から見てた。泣きそうな顔してさ。虫嫌いだったら、だれかにやらせるかほっとくかすればいいのに、責任感あるんだなあとかって」
 責任感ではない。ほかにどうすればいいかわからなかっただけだったのだろう。かなり前のことでおぼえていなかったが、それほど頻繁に見られていたとはまるで気づかなかった。だれもおれのことなど気にしていないと思っていた。
「で、おれ、助けに行こうとしたんだよ。初芽と仲良くなるチャンスだと思ってさ」
「そんなことあったっけ? おぼえてない」
「いや、急いで教室出て、ダッシュで階段降りて、花壇のとこ行ったら、凪砂が先にきてた」
 そのときのことを思い出したのか、自嘲気味に笑う。
「あいつ、虫とか余裕じゃん。秒で退治しやがって、おれの出る幕なくなった」
 そこまでいったところで、ようやく思い出した。虫一匹に苦戦するおれに呆れて、凪砂は素手で虫を摘まみ上げ、遠くに放り投げた。
「あのときはびっくりした」
「凪砂、見た目の印象と全然ちがうもんね」
「凪砂じゃない。おまえだよ」
「おれ?」
 葉一はベッドの端に腰掛けて、突っ立っているおれを見上げている。
「おぼえてない? おまえ、すげえ怒っただろ。虫はなんも悪くないのに放り投げるのはよくないって」
 おぼえていた。凪砂に対して怒ったのはあれがはじめてだった。凪砂の驚いた顔が脳裏に甦った。
「凪砂に守られてるだけの弱い子ってわけじゃないんだなって思った。凪砂とおなじクラスになって、3人で遊ぶようになって、よけいに思ったよ」
 ベッドの上で膝を曲げ、長い脚を投げ出して、葉一はいった。
「ずっと凪砂が羨ましかった。おれもあんなふうに尽くされてみたいって、いつも思ってた」
「べつに尽くしてるわけじゃない。むしろ……」
「むしろ?」
 小学校の学芸会。あの日までおれは孤独で、人生に光を見出せなかった。新しい環境に慣れることができず、家庭では疎外感をおぼえ、友達もできなかった。
 それを見つけるタイミングはひとによって異なるだろう。それがなにかも。スポーツかもしれないし、音楽や芸術かもしれない。とにかく、人生でただひとつの光を探して生きているはずだ。おれにとっては凪砂が光だった。
「むしろ、なに?」
「なんでもない……」
「なんだよ。なんかいいかけただろ」
「葉一くんにはわからないと思うから……」
「……まあ、そうか」
 葉一の表情が曇るのを見てはっとした。つい気を緩めてしまったようだ。怒らせてしまったかもしれない。
「あの……」
「恋愛じゃないんだよな?」
 何度も聞かれたことを、もう一度、葉一は尋ねた。
「恋愛感情はないんだろ?」
 頷いた。嘘はいっていなかった。誤魔化していると疑われないように、まっすぐ葉一を見た。
 おれはたぶん、今までだれかを好きになったことは一度もない。もしかすると凪砂もおなじかもしれないが、おれの場合は付き合ったこともなかった。
 葉一はベッドの反対側に座っておれを見ている。職場にきた金髪の男を思い出した。あの男とは付き合ってはいないと、葉一はおれにいった。でも付き合っていないといっただけで、関係がないとはいわなかった。
 あの男もここにきたことがあるだろうか。シャワーをつかって、このベッドに葉一とふたりで……
「初芽?」
 気づくと、葉一の顔が目の前にあった。反射的に飛び退いた。勢いがつきすぎて壁に背が衝突した。
「なに、だいじょうぶか?」
 葉一が慌ててベッドを乗り越え近づいてくる。
「またぼーっとしてた?」
「うん……」
 あの男のことを思い出したせいで意識してしまった。葉一はふだんどおりの態度なのに、おれだけ軽快したり狼狽したりするのはおかしい。冷静でいなくては。
「背中ぶつけた?」
 伸びてくる手を避けるように身を引いた。葉一が動きを止める。
「ごめん、だいじょうぶだから」
 葉一の脇をすり抜けるように寝室を出てリビングにもどった。心臓の鼓動が烈しくなっていた。
 不自然な態度だったかもしれない。でも温室のときのようになってしまうのが怖かった。葉一といると、自分が自分でなくなってしまうような感覚があった。