ファーストリーフ

 どうしてこうなってしまったのだろう。
 バスタブの湯に顔の下半分まで浸かりながら、膝を抱えて考えた。
 1週間、断る言葉をいくつも考えていた。シミュレーションも何度も繰り返した。駅の前で事情を話し、その場で別れ、今頃は自宅でいつもどおりテレビを見たり本を読んだりして平日の午後を過ごしているはずだった。しかし現実には、葉一の自宅マンションにいて、さらに風呂にまで入っている。
 植物園で豪雨に晒され、全身ずぶ濡れになってしまったため、一度葉一のマンションに寄って、濡れた衣服を乾かすことにした。おれの自宅は遠かったし、平日はソワレのみの公演だったから、凪砂がまだいるかもしれない。朝、家を出るときは寝ていたが、もう起きている頃だろう。詮索されればすぐにぼろが出てしまいそうだった。
「初芽?」
「は、はい!」
 バスルームの外から葉一の声が聞こえて、思わずバスタブのなかで姿勢を正した。湯面が撓み、湯が跳ねる。
「着替え、ここ置いとくからな。おれので悪いけど」
「うん、ありがと……」
 曇りガラスごしにうっすら見える人影から視線を逸らす。
 葉一も濡れた状態だから、早く代わらなければ風邪をひいてしまう。そう思っていても、なかなかバスタブを出られなかった。さっきのことをどう話すべきか考えあぐねていたからだ。
 けっきょく、30分近く湯に浸かり、すこしのぼせながらようやくバスルームを出た。
 葉一が用意してくれたTシャツとスウェットはやはりかなり大きかった。余った袖をまくりながら、バスタオルを首に引っかけてリビングに向かった。
 2LDKの部屋は広く、リビングのソファもゆったり座れるサイズだった。おれの気配に気づいた葉一が立ち上がる。
「お風呂、ありがとう」
「ああ、うん……」
 葉一の視線がおれの足下から顔を撫でていく。
「……なに?」
「いや……」
 落ち着かない様子で手に持ったタオルを弄りながら、葉一がいう。
「初芽がおれの服着ておれの部屋にいんの、なんかすげえって思ったから……」
 なんと答えていいのかわからず狼狽えていると、取り繕うように手を振る。
「ごめん。おれも風呂行ってくるから、適当に座って待ってて。ドライヤーはそこな。洗濯物は乾燥機かけといたから」
 早口にいって、おれの脇を通り過ぎ、バスルームに入っていってしまう。
 部屋の中央に残されたおれは、なんとなく手持ちぶさたで、タオルを手にしたまましばらく突っ立っていた。指示されたようにソファに座り、ドライヤーを借りて髪を乾かす。
 リビングは清掃が行き届いていて、必要最低限の家具はどれもシックなデザインで機能性に秀でているように見えた。リビングの中央に設置されたテーブルは高級そうだが、あとはシンプルにまとまっている。
 おれたちが住む部屋もおなじ2LDKだが、凪砂の舞台衣装や台本、小物など物にあふれていて、収納スペースもすくないため、くつろげる空間をつくるのに苦労していた。都心にちかい場所でこの広さのマンションの家賃を支払えるのは、葉一が大手商社に勤務するエリートだからだろうが、男のひとり暮らしでこれだけリラックスできる部屋を維持できるのは、性格に加えて日々の努力の成果だろう。
 そして、葉一が話したように、リビングには観葉植物がいくつもあった。ソファの横やテレビの脇、壁際にも鉢が置かれている。棚の上に置かれたコンパクトな小型の鉢から両手で抱えるような大型のものまでかなりの数だ。それぞれべつの種類で、よく手入れされ、青々と茂っている。ほかのインテリアがシンプルだから、それだけの数の観葉植物があっても圧迫感がない。
 髪を乾かすのを中断して立ち上がり、健康的に育っている葉をしみじみ眺めていると、ドアが開く音がして、葉一がもどってきた。
「どうかした?」
 タオルを肩にかけ、短く刈った髪を乱暴な手つきで拭きながら、葉一がいう。
「うん。観葉植物見てた」
 葉を摘まんでいた手を離して振り返る。
「ほんとたくさんあるね」
「植物園ほどじゃないけどな」
 照れ隠しの笑みを浮かべて、葉一がおれの隣に立つ。大きな鉢に植えられた1メートルほどの木の幹を撫でていう。
「これ、ゴムの木だっけ?」
「うん。アルテシーマっていって、ゴムの木の一種。一番最初に買ったやつだな」
「こっちの花は?」
 部屋の隅に置かれた白い花の鉢植えを指さす。大ぶりな花弁がハートのかたちに見える。
「あれは花じゃなくて仏炎苞っていう器官なんだ。花はこっち」
 中央の小さな突起をさして解説する。説明がなければその部分が花だとはわからないほど目立たない花だった。
「すごい。本当に詳しいんだ」
 正直に感嘆の声を漏らすと、葉一はますます照れてタオルで首を擦った。
「たいせつに育ててるんだね。木を見たらわかる」
 葉一ほど詳しくはないが、高校時代に校内の花壇で花を育てていたこともあり、そのくらいのことはわかる。
「実家ではさわらせてもらえなかったからな。ひとり暮らししたらたがが外れた」
 おどけたような口調に、思わず笑ってしまった。木々の持つエネルギーのせいか、さっきまでの緊張が解け、穏やかな時間が流れていた。
「いいなあ。おれもこういうの育てたい」
 ゴムの木の葉に触れながら、いった。
「ひとつ持ってくか?」
「あ、ううん。そういう意味じゃ……」
「いいよ。たくさんあるんだし、気に入ったのあったらやるよ」
「……うち、物が多くてごちゃついてるし」
「小さいのだったら邪魔にならないだろ」
「でも凪砂が好きじゃないから」
 凪砂は花粉症がひどかった。田舎でも苦しそうにしていたが、上京してから悪化した。一発本番の舞台に出演することの多い若手俳優の凪砂にとって重度の花粉症は致命的だ。科学的にはたいして影響はないのだろうが、この時期にはかなり敏感になっていて、杉などでなくても植物に近寄ろうとしなかった。
「凪砂が好きじゃなくてもおまえは好きなんだろ?」
「そうだけど……」
「自分の部屋に置けば?」
「うん……」
 興味がないわけではなかった。こうして室内を彩る木々を眺めていると心が凪いだ。
「じゃあ、凪砂に聞いてみようかな」
「そうしな」
 なにかにつけて凪砂の名前を出していいわけをするおれに呆れているかもしれないが、態度に出すことはなく、葉一はおれの肩を軽く叩いた。性的な関心を感じさせないさりげない接触だった。