「最初で最後なら、すこしでも長く顔を見ていたい」
そう葉一がいって、行き先が映画館から植物園に変更になった。はじめての葉一の主張を断りきれるはずがなかった。
平日の植物園はひともまばらで、男ふたりでも気兼ねなくゆったり散策できた。調布市の施設は広大で、巨大な花壇に囲まれた遊歩道がどこまでもつづいていた。葉一は頻繁に足をはこんでいるようで、進行方向も花壇の場所も頭に入っているようだった。
「うわ、すごい」
見渡す限りバラの花が咲き乱れる花壇の前で、思わず足を止めた。赤だけでなく、白やピンクとさまざまな色の花びらで、かたちもすこしずつ異なっている。数百種類はあるのではないだろうか。
「一度にこんなたくさんバラ見たのはじめて……」
圧倒されているおれの隣で葉一が微笑を浮かべる。
「今の時期だとツツジも咲いてると思うよ。見に行こうか」
「うん」
花は好きだ。眺めているだけで穏やかな気持ちになれる。実家ではベランダに小さなプランターを置いて花やハーブを栽培していた。だが、植物園にきたのははじめてだった。自宅のガーデニングとは比較にならないダイナミックな景色におれは見とれ、しばらくの間動けなかった。
「あ、ごめん。ぼーっとしてた」
葉一の視線に気づき、ようやく我に返った。
「いいよ。時間はあるんだし」
すくなくとも数分間はぼんやりと突っ立っていたらしい。はじめてきたとはいえ、まるで世間知らずな子どもだ。
「気に入ったみたいでよかった」
おれの顔を覗き込んで、葉一がいった。言葉以上にうれしそうな顔をしていた。たった1日だけ、1回限りのデートだというのに、葉一よりもおれのほうが楽しんでしまっては意味がない。
「ここ、いいだろ」
「よくくるの?」
「いつもはひとりだけど。だれか連れてきたのははじめて」
さりげない言葉の端々に愛情と気遣いを感じる。はじめてのデートだからなのか、それとも、葉一と付き合えば、毎日こんな時間を過ごせるのだろうか。
「寒くないか?」
「だいじょうぶ」
バラの香りが漂う遊歩道を並んで歩く。かろうじて雨は降っていなかったが、空は曇っていて、肌寒かった。
「花っていいよな。癒やされる」
ジャケットのポケットに両手を入れて、葉一が呟く。天気が崩れはじめているせいか、ほかの来場客の姿はほとんどなくなっていた。バラの花壇のつぎには満開のツツジに迎えられた。桜の蕾も芽吹いていて、庭園を華やかに彩っている。
「ほら、そこ、椿も咲いてる」
「ほんとだ」
頻繁に訪れるというだけあって、葉一は花の種類にも詳しかった。
「葉一くんも花、好きなんだね」
「好きだよ」
微笑む葉一の肩越しに桜の花びらが舞い落ちるのが見えた。
「母親の趣味がガーデニングで、子どもの頃から好きだった。自分でもやってみたかったけど、父親が厳格というか、昔気質なひとで、男が花なんかいじくるもんじゃないって」
葉一の実家が空手の教室を開いていて、父親が師範代だと聞いたことがある。長男の葉一も空手の地区代表として全国大会で優秀な成績を収めていた。家族にとっては誇りだろう。
「中学校の頃は学校にも花壇があって、本当は園芸やりたかったんだけど、友達に話したら、ホモっぽいっていわれてさ。それからなんとなく、花が好きだってこと、他人にいわなくなってた」
大ぶりな椿の花に指先でそっと触れながら、葉一がいう。はじめて会ったとき、「花、好きなの?」と聞かれたことを思い出した。おれはなんと答えただろうか。思い出せない。
「ごめん。なんか、おれ自分の話ばっかしてるな」
「ううん」
眉目秀麗でだれからも信頼され、悩みなどないように思えた葉一が抱えていた重圧とジレンマを知って、胸が詰まった。葉一のことをもっと知りたいと思った。
「今はガーデニングしてないの?」
「してるよ。学生時代にできなかった反動かな、部屋、観葉植物だらけだよ。きたひとにはけっこう驚かれる」
葉一が恥ずかしそうに首を窄める。モバイルバッテリの忘れものを凪砂に渡したときの葉一の顔を思い出した。凪砂は葉一の部屋に入ったのだろうか。
「今度、見にこいよ」
「うん……」
葉一の頭の上で、暗雲が集まりはじめていた。空とおなじように、おれの心にも暗雲が立ちこめていた。
凪砂が葉一の部屋に行ったことが、それをおれにいわずにいることが、どうしてこうも気にかかるのだろう。おれが植物を育てていないことを葉一が知っていることも。
葉一の口ぶりはまるで、おれと凪砂が暮らす部屋を見たことがあるかのようだった。おれが招いたことはすくなくともない。とすれば、凪砂が入れたのだろうか。
友人同士なのだから、互いの家を行き来していたとしても不思議はない。おれに隠しているのにも理由があるのかもしれなかった。そもそも、葉一と凪砂の関係がうまくいくことを願っていたはずなのに、今はなぜか胸が騒いでしかたがなかった。
「あ、変な意味じゃないぞ。ただ、観葉植物を見せたいと思っただけで……」
おれが黙っているのを妙に誤解されたものと勘違いしたのか、葉一が慌てていう。
「変な意味って?」
「いや……」
ぎこちなく首の後ろを掻いて、葉一が視線を逸らす。
「あ、ほら、梅も咲いてる」
葉一の手がおれの両肩に置かれ、体の向きを変えられる。花の香りに混じって、葉一の匂いがした。肩に触れる手の熱とともに、おれの体内を駆け巡る。
「ほんとだ」
見上げると、小さな純白の花たちが視界に広がった。
「きれいだね。梅って桜と較べるとすこし目立たないかもしれないけど……」
「そんなことないだろ」
おれの背後で葉一がいう。
「おれ、梅が一番好き」
自分の名を呼ばれたわけでないとわかっていても、胸がぎゅっとした。心臓が跳ねる音を葉一に聞かれてしまうのではないかと緊張していた。
「ほら、見てみ。これけっこう珍しい種類で……」
おれの脇をすり抜け、葉一が梅の花に近づく。花びらを指さしながら、振り向いた。爽やかな笑顔が、おれの顔を見たとたん、硬直した。
「……初芽?」
その反応を見ても、自分がどんな顔をしているのか想像できなかった。確かなのは、全身を巡る熱だった。たちの悪い風邪をひいたときのように、動悸が激しくなり、呼吸がくるしくなった。
「どうした?」
葉一が心配そうな顔で近づいてくる。避けることも受けることもできず、おれはただじっと立ち竦んでいた。
「初芽……」
葉一の指先よりも先に、冷たい雫がおれの頬に触れた。あっという間に烈しい雨が降りはじめ、雨粒が弾丸のようにおれたちの頭上に降り注いだ。
「やべ……初芽、こっち」
手をつかまれ、体ごと引き寄せられた。葉一はおれの肩に腕を回し、植物園の奥に誘導した。
連れて行かれたのは小さな温室だった。ガラス張りの温室のなかにはベゴニアなどの色鮮やかな花が咲いていて、密閉された空間だからか、さっきよりも強烈な香りが鼻をついた。
「けっこう濡れたな」
走って温室に向かう間にもつよい雨に晒され、ふたりともずぶ濡れだった。葉一が頭を振ると、髪の毛の先から雨の雫が飛び散った。
「だいじょうぶか、初芽」
おれは黙っていた。冷たい雨で全身を濡らされたのに、まだ熱が消えてくれない。体の奥で得体の知れない感情が渦を巻き、マグマのように熱を噴いている。どうしてこんな気持ちになっているのかわからなかった。葉一のことはただの友達としか見ていないはずなのに、どうして……
「初芽?」
温室の天井を雨粒が叩く音に、葉一の呟きがかき消された。猛烈な雨音に加え、花の香りと混じり合った雨の匂いが、おれの頭から現実感を奪っていた。
葉一が近づいてくる気配がする。俯いていてもわかる。
「初芽……」
顔を上げると、信じられないほどの距離に葉一がいた。おれの鼻先が葉一の顎に触れ、葉一の匂いがつよくなった。
大きな両手に頬を包まれ、上を向かされた。葉一の熱を帯びた眼がおれを見つめていた。
ゆっくりと、葉一の顔が近づいてきても、おれは身動きひとつできなかった。つよい力で拘束されていたわけではない。避けようと思えばできた。でもしなかった。拒めなかったのではない。拒まなかった。
その瞬間、雨音も花の香りもすべて霧になって消えた。温室の湿ったなまぬるい空気に包まれながら、おれたちはキスをした。
そう葉一がいって、行き先が映画館から植物園に変更になった。はじめての葉一の主張を断りきれるはずがなかった。
平日の植物園はひともまばらで、男ふたりでも気兼ねなくゆったり散策できた。調布市の施設は広大で、巨大な花壇に囲まれた遊歩道がどこまでもつづいていた。葉一は頻繁に足をはこんでいるようで、進行方向も花壇の場所も頭に入っているようだった。
「うわ、すごい」
見渡す限りバラの花が咲き乱れる花壇の前で、思わず足を止めた。赤だけでなく、白やピンクとさまざまな色の花びらで、かたちもすこしずつ異なっている。数百種類はあるのではないだろうか。
「一度にこんなたくさんバラ見たのはじめて……」
圧倒されているおれの隣で葉一が微笑を浮かべる。
「今の時期だとツツジも咲いてると思うよ。見に行こうか」
「うん」
花は好きだ。眺めているだけで穏やかな気持ちになれる。実家ではベランダに小さなプランターを置いて花やハーブを栽培していた。だが、植物園にきたのははじめてだった。自宅のガーデニングとは比較にならないダイナミックな景色におれは見とれ、しばらくの間動けなかった。
「あ、ごめん。ぼーっとしてた」
葉一の視線に気づき、ようやく我に返った。
「いいよ。時間はあるんだし」
すくなくとも数分間はぼんやりと突っ立っていたらしい。はじめてきたとはいえ、まるで世間知らずな子どもだ。
「気に入ったみたいでよかった」
おれの顔を覗き込んで、葉一がいった。言葉以上にうれしそうな顔をしていた。たった1日だけ、1回限りのデートだというのに、葉一よりもおれのほうが楽しんでしまっては意味がない。
「ここ、いいだろ」
「よくくるの?」
「いつもはひとりだけど。だれか連れてきたのははじめて」
さりげない言葉の端々に愛情と気遣いを感じる。はじめてのデートだからなのか、それとも、葉一と付き合えば、毎日こんな時間を過ごせるのだろうか。
「寒くないか?」
「だいじょうぶ」
バラの香りが漂う遊歩道を並んで歩く。かろうじて雨は降っていなかったが、空は曇っていて、肌寒かった。
「花っていいよな。癒やされる」
ジャケットのポケットに両手を入れて、葉一が呟く。天気が崩れはじめているせいか、ほかの来場客の姿はほとんどなくなっていた。バラの花壇のつぎには満開のツツジに迎えられた。桜の蕾も芽吹いていて、庭園を華やかに彩っている。
「ほら、そこ、椿も咲いてる」
「ほんとだ」
頻繁に訪れるというだけあって、葉一は花の種類にも詳しかった。
「葉一くんも花、好きなんだね」
「好きだよ」
微笑む葉一の肩越しに桜の花びらが舞い落ちるのが見えた。
「母親の趣味がガーデニングで、子どもの頃から好きだった。自分でもやってみたかったけど、父親が厳格というか、昔気質なひとで、男が花なんかいじくるもんじゃないって」
葉一の実家が空手の教室を開いていて、父親が師範代だと聞いたことがある。長男の葉一も空手の地区代表として全国大会で優秀な成績を収めていた。家族にとっては誇りだろう。
「中学校の頃は学校にも花壇があって、本当は園芸やりたかったんだけど、友達に話したら、ホモっぽいっていわれてさ。それからなんとなく、花が好きだってこと、他人にいわなくなってた」
大ぶりな椿の花に指先でそっと触れながら、葉一がいう。はじめて会ったとき、「花、好きなの?」と聞かれたことを思い出した。おれはなんと答えただろうか。思い出せない。
「ごめん。なんか、おれ自分の話ばっかしてるな」
「ううん」
眉目秀麗でだれからも信頼され、悩みなどないように思えた葉一が抱えていた重圧とジレンマを知って、胸が詰まった。葉一のことをもっと知りたいと思った。
「今はガーデニングしてないの?」
「してるよ。学生時代にできなかった反動かな、部屋、観葉植物だらけだよ。きたひとにはけっこう驚かれる」
葉一が恥ずかしそうに首を窄める。モバイルバッテリの忘れものを凪砂に渡したときの葉一の顔を思い出した。凪砂は葉一の部屋に入ったのだろうか。
「今度、見にこいよ」
「うん……」
葉一の頭の上で、暗雲が集まりはじめていた。空とおなじように、おれの心にも暗雲が立ちこめていた。
凪砂が葉一の部屋に行ったことが、それをおれにいわずにいることが、どうしてこうも気にかかるのだろう。おれが植物を育てていないことを葉一が知っていることも。
葉一の口ぶりはまるで、おれと凪砂が暮らす部屋を見たことがあるかのようだった。おれが招いたことはすくなくともない。とすれば、凪砂が入れたのだろうか。
友人同士なのだから、互いの家を行き来していたとしても不思議はない。おれに隠しているのにも理由があるのかもしれなかった。そもそも、葉一と凪砂の関係がうまくいくことを願っていたはずなのに、今はなぜか胸が騒いでしかたがなかった。
「あ、変な意味じゃないぞ。ただ、観葉植物を見せたいと思っただけで……」
おれが黙っているのを妙に誤解されたものと勘違いしたのか、葉一が慌てていう。
「変な意味って?」
「いや……」
ぎこちなく首の後ろを掻いて、葉一が視線を逸らす。
「あ、ほら、梅も咲いてる」
葉一の手がおれの両肩に置かれ、体の向きを変えられる。花の香りに混じって、葉一の匂いがした。肩に触れる手の熱とともに、おれの体内を駆け巡る。
「ほんとだ」
見上げると、小さな純白の花たちが視界に広がった。
「きれいだね。梅って桜と較べるとすこし目立たないかもしれないけど……」
「そんなことないだろ」
おれの背後で葉一がいう。
「おれ、梅が一番好き」
自分の名を呼ばれたわけでないとわかっていても、胸がぎゅっとした。心臓が跳ねる音を葉一に聞かれてしまうのではないかと緊張していた。
「ほら、見てみ。これけっこう珍しい種類で……」
おれの脇をすり抜け、葉一が梅の花に近づく。花びらを指さしながら、振り向いた。爽やかな笑顔が、おれの顔を見たとたん、硬直した。
「……初芽?」
その反応を見ても、自分がどんな顔をしているのか想像できなかった。確かなのは、全身を巡る熱だった。たちの悪い風邪をひいたときのように、動悸が激しくなり、呼吸がくるしくなった。
「どうした?」
葉一が心配そうな顔で近づいてくる。避けることも受けることもできず、おれはただじっと立ち竦んでいた。
「初芽……」
葉一の指先よりも先に、冷たい雫がおれの頬に触れた。あっという間に烈しい雨が降りはじめ、雨粒が弾丸のようにおれたちの頭上に降り注いだ。
「やべ……初芽、こっち」
手をつかまれ、体ごと引き寄せられた。葉一はおれの肩に腕を回し、植物園の奥に誘導した。
連れて行かれたのは小さな温室だった。ガラス張りの温室のなかにはベゴニアなどの色鮮やかな花が咲いていて、密閉された空間だからか、さっきよりも強烈な香りが鼻をついた。
「けっこう濡れたな」
走って温室に向かう間にもつよい雨に晒され、ふたりともずぶ濡れだった。葉一が頭を振ると、髪の毛の先から雨の雫が飛び散った。
「だいじょうぶか、初芽」
おれは黙っていた。冷たい雨で全身を濡らされたのに、まだ熱が消えてくれない。体の奥で得体の知れない感情が渦を巻き、マグマのように熱を噴いている。どうしてこんな気持ちになっているのかわからなかった。葉一のことはただの友達としか見ていないはずなのに、どうして……
「初芽?」
温室の天井を雨粒が叩く音に、葉一の呟きがかき消された。猛烈な雨音に加え、花の香りと混じり合った雨の匂いが、おれの頭から現実感を奪っていた。
葉一が近づいてくる気配がする。俯いていてもわかる。
「初芽……」
顔を上げると、信じられないほどの距離に葉一がいた。おれの鼻先が葉一の顎に触れ、葉一の匂いがつよくなった。
大きな両手に頬を包まれ、上を向かされた。葉一の熱を帯びた眼がおれを見つめていた。
ゆっくりと、葉一の顔が近づいてきても、おれは身動きひとつできなかった。つよい力で拘束されていたわけではない。避けようと思えばできた。でもしなかった。拒めなかったのではない。拒まなかった。
その瞬間、雨音も花の香りもすべて霧になって消えた。温室の湿ったなまぬるい空気に包まれながら、おれたちはキスをした。



