「そんなに好き?」
耳をそばだてなければ聞こえないような小さな声で、葉一がいった。
「え?」
「そんなに凪砂が好き?」
意味がわからず絶句しているおれを見て、葉一が我に返ったように口元を手で覆う。
「ごめん。今のなし。今のは忘れて」
忘れられるわけがなかった。葉一が大きな誤解をしていることにようやく気づき、おれは慌てていった。
「ちょっと待って、葉一くん」
舌を縺れさせながら捲し立てた。
「もしかして、おれが凪砂のこと好きだと思ってんの?」
「……ちがうのか?」
「ちがうよ!」
葉一のおれに対する態度がおかしかった理由。おれを恋敵だと思っているのか。確かに、おれと凪砂の距離はちかい。しかし、葉一が考えているような関係ではない。第一、おれと葉一では男としても人間としても差がありすぎる。凪砂を取り合うなど、冗談としか思えなかった。
「凪砂のことは好きだけど、そういうのじゃないから。なんていうか、推しみたいなもので……」
「推しってなに?」
葉一の表情にも困惑が浮いていた。
「好きとはちがうってこと?」
「いや、好きだけど、でも恋愛とかそういうものではなくて……」
事実だった。凪砂はおれのすべてだったが、その感情は恋愛とはまったく異なるものだった。うまく説明できないが、葉一が考えているようなものでないことは明らかだった。
「マジかよ……」
葉一が勘違いするのも当然かもしれなかった。高校からずっと凪砂の後を追いかけ、同居までして活動や生活をサポートしている理由を恋情と繋げることに無理はない。
「じゃ、おまえはゲイにも偏見ないし、凪砂のことも好きじゃないってこと?」
「え、うん……」
「なんだよ、それ……」
低い呻きとともに、葉一がその場にしゃがみ込む。三角関係ではないと知って安堵したのかと思ったが、ちがった。葉一は両手で髪を掻きむしり、小さく「くそっ」と呟いた。
「おれすげえ間抜けじゃん。勝手に思い込んで……」
「あの……」
声を掛けようとしたが、いきなり葉一が立ち上がったため言葉を切った。
「だったら、おれが押してもいいってことだよな?」
「おす……」
葉一の表情は真剣で、ふざけているようには見えなかった。
「えっと……それは、葉一くんの推しってこと?」
「ちがう、そっちの意味じゃない」
目を瞬いているおれに、葉一は重ねていった。
「今までよりもっと初芽といっしょにいて、アピールしまくって、好きになってもらえるようにしたいってこと」
想像もしていなかった展開に、おれは完全に混乱していた。
「なんで……」
「なんでって、付き合いたいからだよ」
「つきあう……」
また意味もなく鸚鵡返しをしてしまう。葉一の言葉はまるで異国の言語のように、耳に入っていながら脳に届いていないかのようだった。
「葉一くんと凪砂が?」
「だからなんで凪砂なんだよ。ちがうだろ」
葉一が焦れたように前のめりになる。
「おまえと付き合いたいんだよ」
「おれ?」
「はっきりいわないとわかんないか」
唇を窄め、自分を奮い立たせるように小さく息を吐いて、葉一はいった。
「おれ、おまえのこと好きなんだよ」
すぐには反応できなかった。一拍措いて、噴き出した。自然と笑いが零れてしまう。
「いやいや、ないよ、それはない」
「なんでだよ」
「だって……」
自分のことはよくわかっている。たいして秀でた特徴もない凡人だ。ましてすぐそばに凪砂がいるというのに、おれに興味を持つ人間などいるはずがない。おれがもし他人でも、凪砂の隣にいる男に関心が湧くことはないだろう。
「……冗談だよね?」
葉一が黙っていることで不安になり、聞き返した。笑顔をつくったつもりだったが、うまくいっていないことはわかっていた。
「凪砂と間違ってる?」
「なわけないだろ。どうやっておまえと凪砂を間違えんだよ」
確かにそのとおりだったが、俄には信じられなかった。というより、あまりに突然の展開で理解が追いつかない。
「おれ、葉一くんが凪砂を好きなんだと思ってたから……それで彼女にも会わせないように……」
思わず口ばしってしまい、慌てて口を閉ざす。
「彼女?」
葉一が眉間に皺を寄せる。
「あいつ彼女できたの?」
「あ、いや……」
「だから会わせないようにしてたのか。おれがショック受けないように? おれのこと心配してくれてた?」
「いや、それは……」
葉一の言葉に無理はなかった。凪砂に彼女がいると知ってもまるで動揺を見せない。どうやら凪砂を好きなわけでないというのは事実のようだ。
「てことは、初芽、本当に凪砂のこと好きじゃないんだ?」
まったくおなじことを、葉一も感じたらしい。心の底から安堵したように肩を上下させて深呼吸した。
「じゃ、おれが入る余地もあるってことだよな?」
「いや……」
「それか、ほかに好きな奴いるの?」
「いないけど……」
「だったら……」
「ちょ、ちょっと待って待って」
葉一の勢いに圧されるようにして後ずさる。ガードレールに腰がぶつかり、逃げ場を失った。
「いきなりすぎてついていけないっていうか……」
ほとんど必死で息を継ぎながら、いった。
「なんでおれ?」
単純な疑問。ぶつけずにはいられなかった。
「葉一くんなら男でも女でもだれとでも付き合えるのに、なんでおれなの? しかも身近に凪砂みたいなひとがいるのに、おれに興味が湧くことがわからない。卑下してるわけじゃなくて、本当に理解できない。なんで……」
「好きに理由いるのかよ」
言葉が出てこない。また葉一のスマホが鳴りはじめて、おれははっとした。
「凪砂に連絡しないと……」
「今はいいだろ。おまえがいったんだぞ」
「でも一言いっとかないと心配する」
「凪砂のことは忘れろよ、今だけでいいから」
葉一の声が大きくなって、たまたますぐそばを通りがかった通行人の中年女性が驚いた顔で振り返った。
「ちょっとこっちきて」
葉一がおれの手をつかんで舗道の隅に誘導する。建物の隙間、人目につかない場所まで移動すると、おれの手を握ったまま、いった。
「そうやっていつも凪砂凪砂って、凪砂のことばっかりじゃん。おれなんか眼中にないって思うだろ、ふつう」
喘ぐような声で叫び、おれの目の前でうなだれる。背の高い葉一の前髪が乱れておれの額を擽った。それほどちかい距離に葉一がいるのは、たぶんはじめてだった。
「高1の頃……」
右手でおれの手を握り、左手でおれの肩をつかんで、葉一はいった。
「おまえ、中庭の花壇で花育ててただろ」
記憶を手繰り寄せる。高校時代のおれは園芸部に所属していて、中庭の花壇の世話は日課だった。部活動が強制されていた学校で、園芸部に入る生徒はたいてい部活動を軽視していて、名ばかりの部員ばかりだったから、水やりや雑草取りといった雑用はすべておれに任されている状態だったが、草花は好きだし、雑務も苦ではなかったから、気にしていなかった。
「おれの教室、花壇のちょうど上だったから、ずっと見てたんだよ。毎日見てるうちに気になって、仲良くなりたいって思ってた」
「そんなの知らなかった……」
他人の視線を気にしたことはなかった。だれかに見られているという自意識とはかけ離れたところにいた。
「……話したこともないのに」
「一回話しかけたけど、逃げられた」
まったく思い出せなかった。当時のおれは今よりもさらに輪を掛けた人見知りで、だれかに声をかけられても黙って逃げるか曖昧な返事で避けていた。まともに話せるのは凪砂だけだった。
「2年で凪砂とおなじクラスになったとき、凪砂と仲良くなったら、おまえにも近づけるかと思ったんだよ」
小学生の頃からずっと、おれに話しかけてくる人間はすべからく凪砂が目的だった。凪砂と親しくなる目的で、おれに近づいてきた。葉一もそうだと思っていた。逆だったとは想像もしていなかった。
「勘違いするなよ。凪砂もいいやつだし、おもしろいし、あいつのことも好きだよ。大事な友達だけど、でもおまえに対する気持ちとは全然ちがう」
葉一の表情と口調は切迫していて、冗談にしてしまうことはとてもできなかった。肩に触れる掌の熱が服ごしにも上昇しているのがわかった。
「おまえと凪砂の絆がつよすぎて、今までは遠慮してた。おれの気持ちを知られたら、距離ができるんじゃないかと思ってたし……」
しつこい男性ファンや取り巻きの男たちについておれと凪砂が話しているのを、葉一がどんな気持ちで聞いていたのかと考えると、笑い飛ばすことはできなかった。
「あきらめようって何回も思ったけど、無理だった。就職先を東京にしたのも、おまえの近くにいたかったからだし、友達でもいいからそばにいたかった」
地元の大学に進学した葉一とはそのまま疎遠になるものと思い込んでいた。東京の会社に就職して、都内でひとり暮らしをはじめたときは、また3人で遊べることがうれしかったし、凪砂の舞台やイベントに付き合ってくれる友達が近くにいることをありがたいと思っていた。葉一の気持ちなど、考えもしなかった。
「おまえ、男に興味なさそうだったし、凪砂以外の人間寄せ付けない感じだったから、自分の気持ち抑えて、忘れようとしてたけど、無理だった。ほかの奴と付き合っても、いつもおまえのことばっか考えて……」
職場にきていた金髪の男のことを思い出していた。凪砂と間違えているものと思い込んでいたが、どうやらちがうらしい。
「好きだ、初芽」
呆然としているおれの意識を引きもどすかのように、肩に置いていた手を頬に移して、葉一はいった。
「おまえのこといつも一番に考えるし、めちゃくちゃ大事にするし、楽しませるし、毎日幸せって思わせるから、おれと付き合ってください」
「……はい」
葉一の勢いに圧されるように、つい頷いていた。夜、寝ているときに、半分夢のなかにいるときのように、意識がどこか遠くにあり、現実感が希薄だった。テレビドラマや映画を見ていて意味もなく感想や返事を呟くときのように、無意識に答えていた。
「マジ?」
葉一の表情が変わるのを見て、我に返った。とんでもないことを口ばしってしまったのだと気づき、顔から血の気が引いた。
「いや、あの……」
「マジか。信じらんねえ。すげえうれしい!」
いきなり全身をぶつけるように抱きしめられて、息が止まりそうになった。つづく言葉が出てこない。狼狽えているうちに、爪先が浮き上がり、体を持ち上げられた。
「ちょっと、葉一くん、落ち着いて。あの……」
「あ、ごめん。舞い上がりすぎた」
地上に降ろされ、ほっとする間もなく、再び抱きすくめられる。
「どうしよ、おれ泣きそうだわ……」
大袈裟ないいかたに思わず笑ってしまった。本当に泣いているような声で、葉一がおれの肩口に顔を埋めて深く息をついたからだ。葉一が顔を上げ、視線が絡んで、笑いを引っ込めた。
「初芽の笑顔、かわいい。すっげ癒やされる」
葉一の泣き笑いの表情を見て、まずいと思った。このままでは軌道修正が不可能になる。なんとか弁解しようと口をひらいたが、言葉が出てこない。水面に顔を出す小魚のように口を開閉するおれの顔を葉一の両手が包んだ。
一瞬、キスされるのではないかと身構えたが、葉一は強引に迫ってくることはなく、やさしい手つきでおれの頬を撫で、首を擦った。何度目かの深呼吸をしてから、熱のこもった眼差しで見つめた。その眼を見ていると、なにもいえなくなってしまった。
「今はまだおれに気持ちないのわかってる。これから好きになってもらえるように頑張るから」
「あ、うん……」
頷いてしまった。驚くほど繊細な動きで体を抱かれて、おれが感じていたのは安らぎだった。葉一が傷つかずに済んだことに安堵していたのではない。自分が傷つけずに済んだことを、よかったと思っていたのだ。先のことを考えれば、どれほど浅はかな判断をしているのか、ちゃんとわかっていたはずなのに。
耳をそばだてなければ聞こえないような小さな声で、葉一がいった。
「え?」
「そんなに凪砂が好き?」
意味がわからず絶句しているおれを見て、葉一が我に返ったように口元を手で覆う。
「ごめん。今のなし。今のは忘れて」
忘れられるわけがなかった。葉一が大きな誤解をしていることにようやく気づき、おれは慌てていった。
「ちょっと待って、葉一くん」
舌を縺れさせながら捲し立てた。
「もしかして、おれが凪砂のこと好きだと思ってんの?」
「……ちがうのか?」
「ちがうよ!」
葉一のおれに対する態度がおかしかった理由。おれを恋敵だと思っているのか。確かに、おれと凪砂の距離はちかい。しかし、葉一が考えているような関係ではない。第一、おれと葉一では男としても人間としても差がありすぎる。凪砂を取り合うなど、冗談としか思えなかった。
「凪砂のことは好きだけど、そういうのじゃないから。なんていうか、推しみたいなもので……」
「推しってなに?」
葉一の表情にも困惑が浮いていた。
「好きとはちがうってこと?」
「いや、好きだけど、でも恋愛とかそういうものではなくて……」
事実だった。凪砂はおれのすべてだったが、その感情は恋愛とはまったく異なるものだった。うまく説明できないが、葉一が考えているようなものでないことは明らかだった。
「マジかよ……」
葉一が勘違いするのも当然かもしれなかった。高校からずっと凪砂の後を追いかけ、同居までして活動や生活をサポートしている理由を恋情と繋げることに無理はない。
「じゃ、おまえはゲイにも偏見ないし、凪砂のことも好きじゃないってこと?」
「え、うん……」
「なんだよ、それ……」
低い呻きとともに、葉一がその場にしゃがみ込む。三角関係ではないと知って安堵したのかと思ったが、ちがった。葉一は両手で髪を掻きむしり、小さく「くそっ」と呟いた。
「おれすげえ間抜けじゃん。勝手に思い込んで……」
「あの……」
声を掛けようとしたが、いきなり葉一が立ち上がったため言葉を切った。
「だったら、おれが押してもいいってことだよな?」
「おす……」
葉一の表情は真剣で、ふざけているようには見えなかった。
「えっと……それは、葉一くんの推しってこと?」
「ちがう、そっちの意味じゃない」
目を瞬いているおれに、葉一は重ねていった。
「今までよりもっと初芽といっしょにいて、アピールしまくって、好きになってもらえるようにしたいってこと」
想像もしていなかった展開に、おれは完全に混乱していた。
「なんで……」
「なんでって、付き合いたいからだよ」
「つきあう……」
また意味もなく鸚鵡返しをしてしまう。葉一の言葉はまるで異国の言語のように、耳に入っていながら脳に届いていないかのようだった。
「葉一くんと凪砂が?」
「だからなんで凪砂なんだよ。ちがうだろ」
葉一が焦れたように前のめりになる。
「おまえと付き合いたいんだよ」
「おれ?」
「はっきりいわないとわかんないか」
唇を窄め、自分を奮い立たせるように小さく息を吐いて、葉一はいった。
「おれ、おまえのこと好きなんだよ」
すぐには反応できなかった。一拍措いて、噴き出した。自然と笑いが零れてしまう。
「いやいや、ないよ、それはない」
「なんでだよ」
「だって……」
自分のことはよくわかっている。たいして秀でた特徴もない凡人だ。ましてすぐそばに凪砂がいるというのに、おれに興味を持つ人間などいるはずがない。おれがもし他人でも、凪砂の隣にいる男に関心が湧くことはないだろう。
「……冗談だよね?」
葉一が黙っていることで不安になり、聞き返した。笑顔をつくったつもりだったが、うまくいっていないことはわかっていた。
「凪砂と間違ってる?」
「なわけないだろ。どうやっておまえと凪砂を間違えんだよ」
確かにそのとおりだったが、俄には信じられなかった。というより、あまりに突然の展開で理解が追いつかない。
「おれ、葉一くんが凪砂を好きなんだと思ってたから……それで彼女にも会わせないように……」
思わず口ばしってしまい、慌てて口を閉ざす。
「彼女?」
葉一が眉間に皺を寄せる。
「あいつ彼女できたの?」
「あ、いや……」
「だから会わせないようにしてたのか。おれがショック受けないように? おれのこと心配してくれてた?」
「いや、それは……」
葉一の言葉に無理はなかった。凪砂に彼女がいると知ってもまるで動揺を見せない。どうやら凪砂を好きなわけでないというのは事実のようだ。
「てことは、初芽、本当に凪砂のこと好きじゃないんだ?」
まったくおなじことを、葉一も感じたらしい。心の底から安堵したように肩を上下させて深呼吸した。
「じゃ、おれが入る余地もあるってことだよな?」
「いや……」
「それか、ほかに好きな奴いるの?」
「いないけど……」
「だったら……」
「ちょ、ちょっと待って待って」
葉一の勢いに圧されるようにして後ずさる。ガードレールに腰がぶつかり、逃げ場を失った。
「いきなりすぎてついていけないっていうか……」
ほとんど必死で息を継ぎながら、いった。
「なんでおれ?」
単純な疑問。ぶつけずにはいられなかった。
「葉一くんなら男でも女でもだれとでも付き合えるのに、なんでおれなの? しかも身近に凪砂みたいなひとがいるのに、おれに興味が湧くことがわからない。卑下してるわけじゃなくて、本当に理解できない。なんで……」
「好きに理由いるのかよ」
言葉が出てこない。また葉一のスマホが鳴りはじめて、おれははっとした。
「凪砂に連絡しないと……」
「今はいいだろ。おまえがいったんだぞ」
「でも一言いっとかないと心配する」
「凪砂のことは忘れろよ、今だけでいいから」
葉一の声が大きくなって、たまたますぐそばを通りがかった通行人の中年女性が驚いた顔で振り返った。
「ちょっとこっちきて」
葉一がおれの手をつかんで舗道の隅に誘導する。建物の隙間、人目につかない場所まで移動すると、おれの手を握ったまま、いった。
「そうやっていつも凪砂凪砂って、凪砂のことばっかりじゃん。おれなんか眼中にないって思うだろ、ふつう」
喘ぐような声で叫び、おれの目の前でうなだれる。背の高い葉一の前髪が乱れておれの額を擽った。それほどちかい距離に葉一がいるのは、たぶんはじめてだった。
「高1の頃……」
右手でおれの手を握り、左手でおれの肩をつかんで、葉一はいった。
「おまえ、中庭の花壇で花育ててただろ」
記憶を手繰り寄せる。高校時代のおれは園芸部に所属していて、中庭の花壇の世話は日課だった。部活動が強制されていた学校で、園芸部に入る生徒はたいてい部活動を軽視していて、名ばかりの部員ばかりだったから、水やりや雑草取りといった雑用はすべておれに任されている状態だったが、草花は好きだし、雑務も苦ではなかったから、気にしていなかった。
「おれの教室、花壇のちょうど上だったから、ずっと見てたんだよ。毎日見てるうちに気になって、仲良くなりたいって思ってた」
「そんなの知らなかった……」
他人の視線を気にしたことはなかった。だれかに見られているという自意識とはかけ離れたところにいた。
「……話したこともないのに」
「一回話しかけたけど、逃げられた」
まったく思い出せなかった。当時のおれは今よりもさらに輪を掛けた人見知りで、だれかに声をかけられても黙って逃げるか曖昧な返事で避けていた。まともに話せるのは凪砂だけだった。
「2年で凪砂とおなじクラスになったとき、凪砂と仲良くなったら、おまえにも近づけるかと思ったんだよ」
小学生の頃からずっと、おれに話しかけてくる人間はすべからく凪砂が目的だった。凪砂と親しくなる目的で、おれに近づいてきた。葉一もそうだと思っていた。逆だったとは想像もしていなかった。
「勘違いするなよ。凪砂もいいやつだし、おもしろいし、あいつのことも好きだよ。大事な友達だけど、でもおまえに対する気持ちとは全然ちがう」
葉一の表情と口調は切迫していて、冗談にしてしまうことはとてもできなかった。肩に触れる掌の熱が服ごしにも上昇しているのがわかった。
「おまえと凪砂の絆がつよすぎて、今までは遠慮してた。おれの気持ちを知られたら、距離ができるんじゃないかと思ってたし……」
しつこい男性ファンや取り巻きの男たちについておれと凪砂が話しているのを、葉一がどんな気持ちで聞いていたのかと考えると、笑い飛ばすことはできなかった。
「あきらめようって何回も思ったけど、無理だった。就職先を東京にしたのも、おまえの近くにいたかったからだし、友達でもいいからそばにいたかった」
地元の大学に進学した葉一とはそのまま疎遠になるものと思い込んでいた。東京の会社に就職して、都内でひとり暮らしをはじめたときは、また3人で遊べることがうれしかったし、凪砂の舞台やイベントに付き合ってくれる友達が近くにいることをありがたいと思っていた。葉一の気持ちなど、考えもしなかった。
「おまえ、男に興味なさそうだったし、凪砂以外の人間寄せ付けない感じだったから、自分の気持ち抑えて、忘れようとしてたけど、無理だった。ほかの奴と付き合っても、いつもおまえのことばっか考えて……」
職場にきていた金髪の男のことを思い出していた。凪砂と間違えているものと思い込んでいたが、どうやらちがうらしい。
「好きだ、初芽」
呆然としているおれの意識を引きもどすかのように、肩に置いていた手を頬に移して、葉一はいった。
「おまえのこといつも一番に考えるし、めちゃくちゃ大事にするし、楽しませるし、毎日幸せって思わせるから、おれと付き合ってください」
「……はい」
葉一の勢いに圧されるように、つい頷いていた。夜、寝ているときに、半分夢のなかにいるときのように、意識がどこか遠くにあり、現実感が希薄だった。テレビドラマや映画を見ていて意味もなく感想や返事を呟くときのように、無意識に答えていた。
「マジ?」
葉一の表情が変わるのを見て、我に返った。とんでもないことを口ばしってしまったのだと気づき、顔から血の気が引いた。
「いや、あの……」
「マジか。信じらんねえ。すげえうれしい!」
いきなり全身をぶつけるように抱きしめられて、息が止まりそうになった。つづく言葉が出てこない。狼狽えているうちに、爪先が浮き上がり、体を持ち上げられた。
「ちょっと、葉一くん、落ち着いて。あの……」
「あ、ごめん。舞い上がりすぎた」
地上に降ろされ、ほっとする間もなく、再び抱きすくめられる。
「どうしよ、おれ泣きそうだわ……」
大袈裟ないいかたに思わず笑ってしまった。本当に泣いているような声で、葉一がおれの肩口に顔を埋めて深く息をついたからだ。葉一が顔を上げ、視線が絡んで、笑いを引っ込めた。
「初芽の笑顔、かわいい。すっげ癒やされる」
葉一の泣き笑いの表情を見て、まずいと思った。このままでは軌道修正が不可能になる。なんとか弁解しようと口をひらいたが、言葉が出てこない。水面に顔を出す小魚のように口を開閉するおれの顔を葉一の両手が包んだ。
一瞬、キスされるのではないかと身構えたが、葉一は強引に迫ってくることはなく、やさしい手つきでおれの頬を撫で、首を擦った。何度目かの深呼吸をしてから、熱のこもった眼差しで見つめた。その眼を見ていると、なにもいえなくなってしまった。
「今はまだおれに気持ちないのわかってる。これから好きになってもらえるように頑張るから」
「あ、うん……」
頷いてしまった。驚くほど繊細な動きで体を抱かれて、おれが感じていたのは安らぎだった。葉一が傷つかずに済んだことに安堵していたのではない。自分が傷つけずに済んだことを、よかったと思っていたのだ。先のことを考えれば、どれほど浅はかな判断をしているのか、ちゃんとわかっていたはずなのに。



