hugme 蛍光ピンクの蝶

  数日後の夜。
  気づけば、またあの廃駅に来ていた。フェンスの隙間を抜けると、あの時と同じシンナーの匂いが鼻を刺す。
  トンネルの壁には、また新しい線が伸びていた。淡いピンクと濃い群青。あの子の絵だ。私は思わず走り出す。カラフルな線のその先には、スプレーを握った少女が壁に向かって描き続けている。

「また来たんだ」

  振り返りもせず、彼女は短くそう言った。
  私は返事をせず、トンネルの隅に腰を下ろす。地面に直接服が当たる。でも、そんなのは気にならなかった。かばんからノートを取り出して、ペンを走らせる。書きたい、あの子のとなりにいたら、書ける気がした。書ける。文字が、浮かんでくる。
  シュッ、シューッ。壁に色が広がる音と、ノートの上に走るペンの音が重なった。
  しばらくして、彼女がようやく振り返る。細い目で私のノートを見下ろして、口角を少し上げた。

「ふ~~ん。あんた、作家なんだ」

  からかうような声だった。でも、なぜか私の胸は跳ねた。

「作家じゃない」

「じゃあ、なに、詩人? シナリオライター?
 なんにせよ、あんたは作家だ」

「ちがう!」

  思わず大きな声が出てしまう。こんな声が出たんだ、と自分でもびっくりする。

「書けないの。書けない私に価値はないのに、何にも書けなくなった。だから私は作家でも詩人でも何者でもない、ただのミユリ」

  彼女はスプレーを振る腕を下ろし、私のとなりに腰かける。

「私、エマ。三ツ谷エマ」

そう名乗ると、ひょいと私の膝の上のノートを手に取ってしまう。

「あ、ちょっと……」

「いいじゃん、読ませてよ。あんたは私の絵をずっと見てるんだし」

  そう言われると、何も言い返せない。私は彼女、エマの絵を一方的に勝手に見て、写真にまで撮っている。エマは静かにノートに目を下ろしていたが、ページをいくつか捲ると顔を上げて私の目を見て、目だけでニヤリと笑った。

「いいじゃん」

「……ありがと」

「でもさ、なんか、静かすぎるわ」

「静かすぎる?」

「うん」

  エマは私のノートを手に持ったまま立ちあがる。

「私には文学のことはわかんないけどさあ、言葉ってのは、もっと生き生きしてる方が気持ちいいと思う。この『蛍光色が闇の中で光り出す』ってのも、きれいだけど」

「あーーーっ! やめて!」

  エマが急に私の書いた言葉を読みだし、思わず顔を真っ赤にする。

「なんだよ。いいだろ。きれいだよ。
 だからさ、声に出して、身体を動かして、そうしながらもっと言葉に身を任せてみようよ」

  彼女のカラカラとした言葉が、静かな廃駅に響いていく。

「私の絵も全身で描いてるんだ。見てたらわかるだろ。手先だけでも、腕先だけでもなく、全身で描いてる」

  ノートをポンっと私の方へ放ると、エマは再びスプレーを構えて壁に線を描きだす。腕の根元から手先まで、肩の筋肉も、背中の筋肉も使って、踊るようなリズムを足先でとりながら、彼女は壁に美しい花の絵を描き出していく。

  目が離せなかった。

「見てないでさ、あんたはあんたの作りものをしなよ」

  エマの言葉に、私は自分の書いた文章を読み上げだした。