hugme 蛍光ピンクの蝶

***

  その夜、眠れなかった。
  「お母さん」からのチャット通知が頭の奥で点滅しているようで、瞼を閉じても呼吸が浅くなるばかりだった。適当に返信はしたけれど、その反応が返ってきているかもしれない。見たくない、けれど、見たい気もする。どうしよう。とりあえず、一度起きて水でも飲もう。
  のそりとベッドから起き出し、気が付けば足が勝手に動いていた。
  気付かれないように裏口から家を出る。向かう先は、特区のゲートだ。

  「育み協力者制度」で出資されている子どもとその産みの両親が住んでいるのは「特区」と呼ばれている。そうじゃない、普通の人たちから、隔離されているのだ。正しくない情報や交友関係、その他悪い色んなものから子どもを守るためらしい。
  ゲートに近づくのは初めてじゃない。けれど、夜に来るのは初めてだった。境目は廃駅だった。十数年前に使われなくなった鉄道のトンネル。片方は特区に、もう片方は一般区へと続いている。

  フェンスで塞がれているはずなのに、隙間から風が吹き抜けてくる。その匂いに混じって、スプレーのシンナーの匂いがした。闇の中に、シューッ、シューッという音が響いている。壁に色が生まれていく音だ。
  そこにいたのは、私と同じ年頃の少女だった。
  ジャージの袖をまくり、マスクで顔を隠しながら、鉄骨の柱に迷いなく線を走らせている。蛍光の緑と、濁った紫が、ひび割れたコンクリートに鮮烈に浮かび上がっていく。
  絵だ。この子、壁に絵を描いているんだ。

「……あなた、誰?」

  しっかり出したはずの声は、勝手に震えていた。彼女は振り返らず、ただ手を止めて、ひと呼吸置いてから、低い声で言った。

「……あんた、上の子? 見逃してよ」

  フェンスの隙間から吹く風に、外の匂いが混ざっていた。排気ガスと湿った土の匂い。特区の中では決して嗅げない匂いだった。彼女はスプレーを止めたまま、こっちを見ようともしない。蛍光色に濡れた壁だけが、彼女の代わりに主張していた。

「……上の子、って」

  言葉を返すまでに少し時間がかかった。上の子、特区で暮らす私たちを指す言葉、らしい。直接言われたのは初めてだ。心臓が変に早く動いているのを、なんとか誤魔化そうとする。

「上の子だろ。特区の、hugmeに登録できた優秀な遺伝子を持つお嬢さん」

  少女はマスクを下げ、少しだけ呼吸する。月明かりに浮かぶ横顔が、特区では見かけないくらいなんだか強くて、思わず見とれてしまった。

「あの、わたしはミユリ。あなたは?」

「言うわけないでしょ。特区に入ったのがバレたら殺されちゃう」

「そんなこと……」

「そんなことあるよ。私みたいな下の子と話したら価値が下がるでしょ」

  くぐもった声がトンネルに跳ね返る。こちらを見なくても、笑っているのがわかった。
  彼女は再びスプレーを握り、壁に紫の曲線を重ねていった。夜の中、蛍光の線がまるで魔法のように絵になって浮かび上がっていく。

「大変だね、上の子は。作ったものはぜんぶ誰かのもので。こうやって自分のために自由に絵を描くこともできない」

「誰かのもの……?」

「そう。あんたたちは作品を全部提出するんでしょ。論文とか、動画とか。私は誰にも読まれない、誰にも評価されないものを作ってるんだ」

  彼女はスプレーを振って、カチカチと音を鳴らした。

「まあ、下は下で大変だけどさ。このスプレーも近所の塗装屋のバイトしながら、終わりかけのをもらったんだ。バイトなんてしたことないだろ」

「……」

  ひどいことを言われている、のはわかる。でも彼女の言い方は決して嫌味ではなく、むしろ私の方が哀れまれている、そんな気さえした。

「ねえ、上の子。あんたの顔も描いてやろうか?」

  急に振り返った彼女のマスクの奥で、目が光った。黒目の輪郭が、闇にぎらりと浮かんでいる。胸の奥がきゅっと掴まれたようになって、私は思わず一歩後ずさった。

「そんなの、別に……」

  そう言ったのに、彼女の手は止まらない。夜の闇の中、月あかりしかない世界で、まるで描くべき線をすでに知っているかのように、真っ直ぐスプレーを動かしていく。

  ――きれい。

  そう思った瞬間、遠くで警備ドローンのローター音がした。プロペラの低い振動が、夜気を揺らす。

「あーあ、今日はここまでか」

  彼女は即座にスプレーをリュックに放り込む。壁に残った色はまだ湿っていて、にじんだ輪郭がぼんやりと揺れている。

「じゃあね、上の子」

  振り返る間もなく、彼女はトンネルの影に溶けるように走り去った。
  私はしばらく動けなかった。夜気がひんやりと肌を撫でる。そこには、まだ乾いていない彼女の絵が光っていた。

  ――濃い紫と蛍光緑で描かれた、ひとつの顔。

  それは、私自身の顔にひどく似ていた。