泰然に連れられて部屋へと戻った途端、由羅は突然白檀の香りに包まれた。
それが紫釉に抱きしめられていることに一拍遅れて気づく。
「良かった……無事で」
耳元で囁かれた紫釉の言葉には、安堵の色が滲んでいた。
だが、何故抱きしめられているのか。
状況が掴めずに戸惑う由羅は視線を感じてそちらを見ると、そこには口元に微笑みを湛えた凌空の姿があった。
しかし、その目は笑っておらず、纏う雰囲気から静かな怒りが伝わってくる。
「由羅さん」
「は、はい!」
名前を呼ばれただけで、由羅の背中がゾクリとし、冷たい汗が流れた。
荒れ狂う吹雪の雪山にいるかと錯覚するほどの冷気が部屋中を満たしているのを感じる。
「貴女は、自分がしたことの意味を分かっていますか?」
部屋の隅には俯いた蘭香が立っていた。
目の下が赤く、泣いていたのが見て取れた。
「動揺した蘭香を宥めて事情を聞けば、貴女が宮から消えたというじゃありませんか。もしかして誘拐されたのではと、総出で探しましたよ」
凌空のその言葉に、軽い気持ちで抜け出したことが思った以上に大事になってしまっていることを由羅は理解した。
「もし貴女に何かあったら衛兵や蘭香の責任問題になって、何かしらの刑罰を受けることになっていたのですよ」
「そんな! 私が勝手に出たのに?」
「それが今の貴女の立場なのですよ。たとえお飾りだとしても、ね」
その時、由羅は初めて事の重大さを知った。
妃という立場は自分が思っているよりもずっと重いものなのだ。
人の命運を大きく左右し、最悪の場合、命を奪うことすらある。
それが妃なのだ。
今まで由羅は黒の狼として貴族の依頼を受けることはあったし、貴族というのはある意味身近な存在でもあった。
それに、黒の狼として彼らと接する場合は対等な立場であることが多かった。
だから忘れていたのだ。
貴族が平民の人生を簡単に変えられることを。
命令一つで命を奪えることを。
例えばヴァルティアが由羅にしたように……。
「考えが及ばなくて……すみませんでした」
俯く由羅に紫釉は優しく声をかけた。
「どうして勝手に宮の外に出ようと思ったんだい? 何か嫌なことがあった? それとも何か不満があった? 言ってくれればなんでも用意したのに」
紫釉の問いかけに由羅は首を振った。
宮の中では快適に過ごせたし、物が欲しいわけではないのだ。
「怪死事件がどうなっているのか知りたくて。早く解決したかったんです。でも紫釉様は何も教えてくださらないし。だから、自分で調査をしようと」
由羅の言葉に困ったように眉根をひそめた紫釉に対し、凌空は柔らかな声音で言った。
「貴女一人で解決できると、そう思ったわけですね」
そう言った凌空は口元に笑みを浮かべていた。
だが、そこには嘲笑の色が浮かんでいる。
「はっきり言いましょう。貴女ごときがしゃしゃり出て解決できるほど簡単な事件ではありません。貴女に何ができるというのですか?」
「それは……」
確かに刑部でさえ調査が難航しているのだ。
何の力もない由羅が単独で調査したところで、大した成果は得られないだろう。
それでも黙ってこの部屋で結果を待つなどできない。
「紫釉様は事件の捜査で危ないことに巻き込みたくないと言いますが、私はただ守られて、一人で何もしないで待っているのは……辛いんです。早く事件を解決して、後宮を出たいというのが本音です」
その言葉に紫釉の眉がわずかに動いたように見えたが、それを確認するより先に、凌空の抑揚たっぷりの声が部屋に響いた。
「何もしないで待っているのが辛い、ですか。なるほどなるほど」
そう言って凌空は大仰に頷いた。
「分かりました。でも主上も私も忙しい身です。これ以上貴女に時間を割く余裕はありません。ですから今日はこれで帰ります。では」
そう言って部屋を出て行く凌空の背中を、由羅は苦い思いで見つめるしかなかった。
紫釉は視線を由羅に向け、苦笑しながら由羅の頭をポンと軽く撫でた。
「今日はゆっくり休んで。後でまた来るよ」
結局由羅の願いは届けられず、凌空に一蹴される形になった。
(はぁ……ダメだったか)
内心でため息をついていると、今まで黙って事の成り行きを見ていた泰然が、腕を組みながら壁に背を預け、由羅に語りかけた。
「あーなんだ……、由羅、お前がどう思っているか分からないが、なんでこれだけの衛兵が宮の周りを警護しているか分かってるか?」
「……監視じゃないんですか? 凌空様が、平民丸出しの妃だと思われると私がお飾りの妃だとバレてしまうからって仰ってましたけど」
「そっか。やっぱり説明してなかったんだな。まぁ、凌空の理由も半分はそうだけどな」
それ以外の理由が分からず由羅は首を傾げると、泰然はガシガシと頭を掻きながら言葉を選ぶように話し始めた。
「後宮で妃教育も受けていないお前を、悪しざまに言う女官や官吏もいるはずだ。そういった害意からも守りたい。あいつはそう考えたんじゃねーかな。まったく素直じゃねーよな」
泰然は呆れたように苦笑いしながら言った。
その言葉が意外で、由羅は驚いて目を見張った。
「もう一つ、お前を宮から出さなかったのは、お前を守るためだ。お前を妃とした目的の一つはあんたもさっき言ったように、紅蘆を揺さぶり、紅蘆派をあぶり出すことだ。つまり、お前は囮になり危険に晒されるわけだ」
確かに状況的にそうなる。
だが、黒の狼である由羅ならば、刺客に対しても対処できる自信がある。
その考えが顔に出ていたのだろう。
泰然はため息交じりに言った。
「いくらお前が黒の狼の人間だとしても、何が起こるか分からない。何かあった後ではそれこそ後の祭りだ。ただでさえ厄介ごとに巻き込んだって主上は考えていてさ。だからこうして護衛をつけてたってわけだ」
「それならそうって言ってくれれば」
「まぁ、言ったところでお前は納得して部屋にいるか? お前とは付き合いが長くねーけど、そういう性格じゃねーだろうし、現に脱走しているわけだ」
「う……」
「それに余計なことを言って心配かけたくなかったんだよ、主上は。過保護だよなぁ。ま、そういうことだ。二人のことを悪く思わねーでくれよ」
紫釉が心配してくれるのは分かってはいたが、凌空もまた心配してくれていたことに驚いた。
だが、これで由羅が置かれている状況が理解できた。
「泰然様。話してくださってありがとうございました」
「まぁ、脱走の手際はさすがだな。これからはそう簡単に脱走させるつもりはねーけど、また抜け出されても困るし、お前が捜査に参加できるように俺からも凌空に掛け合ってみる」
「ありがとうございます!」
「じゃあな。今日は大人しくしておいてくれ」
泰然はニカリと笑うと、ひらひらと手を振りながら部屋を出て行った。
今まで「守ってもらう」ということがなかった由羅にとって、この状況は戸惑いが大きい。
だが一方で、二人の気遣いが嬉しくも思える。
(それでも、我儘かもしれないけど、やっぱり私も何か手伝いたい。……早くみんなに会いたい)
由羅は、これからどうすべきか考えながら、閉じられた扉を見つめた。
※
翌朝。
来客などなかった碧華宮に突然人が訪れた。
その客はにこやかに微笑みながら由羅の部屋へと入ってきた。
「おはようございます、由羅さん」
「凌空様!? お、おはようございます」
朝の支度は終えてはいたが、まだ朝食も食べていないという時間である。
凌空の突然の訪問に由羅は目を見開いて驚いてしまった。
「こんな朝早くにどうされたんですか?」
「すみません。私は貴女と違って忙しくて、この時間しか手が空かなかったのです」
「それは……お疲れ様です」
紫釉も多忙だと聞いているので、宰相の凌空も忙しいのだろう。
だが、気のせいかもしれないが凌空の言葉に少し棘を感じてしまった。
「昨日、貴女は『何もしないで待ってるのが辛い』と言いましたね」
「はい、言いましたけど……」
含みのある凌空の言いぶりに、彼の意図するところが分からず由羅が首を傾げていると、今度は泰然がひょっこり部屋に現れた。
その手には目の前が見えなくなるほど大量の書類を抱えている。
「お、由羅様おはよう! 朝早くすまねーな」
「泰然、そこに置いてください」
「おうよ。ったく人使いが荒いな」
「力仕事は貴方の領分でしょう」
凌空の指示で泰然は机の上に大量の書類をどんと置いた。
何が起こるのか分からず戸惑っていると、凌空は由羅を見てにっこりと微笑んだ。
「お望み通りの品物をお持ちしましたよ。今回の怪死事件に関する刑部での捜査資料です。どうぞ、好きなだけ読んでください」
「あ、ありがとうございます」
あれほど由羅が捜査に関わることに剣呑な態度だった凌空が突然捜査資料を提供してきたことに、由羅は面食らった。
そんな由羅の反応を無視して、凌空はもう一度優雅な笑みを浮かべた。
「由羅さんは時間があるようですから、読めるのであれば是非じっくりと読んでください。では、私たちは時間がありませんので失礼しますね」
「じゃあな、由羅」
「えっ? あ、はい」
言いたいことだけ言って凌空は出て行ってしまった。
嵐のようにやってきて、嵐のように去って行った凌空たちの背中を、半ば呆然と見送った由羅は、何が起こったのか状況が掴めなかった。
(なんだかよく分からないけど資料は手に入れることができたからまぁいっか)
由羅はそう思って書卓に向かうと、捜査資料を読むことにした。
「ええと、こっちが被害者について、こっちが事件現場についてと……」
由羅はそう言いながら積み上げられた捜査資料の表紙を見た。
そして一つの捜査資料を手に取ると、ぺラリと頁を捲った。
ここしばらく触れたことがなかった紙の感触に、由羅は小さく微笑んだ。
資料を読みながら、蘭香に用意してもらった紙に筆で資料の要点や気になる点、疑問点を書き連ねていった。
まず、被害者は次の4人だ。
楊 翠蓮
黎 霜月
魯 瑤琴
蘇 紫霞
いずれも皇帝紫釉の正妃候補の女性だ。
家柄も良く、正妃となるべく教育されていたいわゆる「お姫様」で、基本紫釉派の家柄もしくは中立派の家柄の女性である。
年齢は18歳~25歳。
全員基礎疾患は無く、いたって健康であったとのことだ。
外傷はなし。
ただ、何故か死因の欄が空欄であった。
(どうして空欄なのかしら? 殺害されているって言うことは、何かしらの死因があるはずなのに……)
書けない事情でもあるのだろうか。
もしくは由羅に知って欲しくない何かがあるのか……
そんなことを考えながら、暫く資料を読み込んだ由羅だったが、不意に扉の外から由羅の名を呼ぶ声がして、そちらに目を向けた。
「由羅様、今よろしいでしょうか?」
「あ、蘭香? どうぞ」
「失礼します」
そう言って部屋に入って来た蘭香から、ふわりと甘い香りがした。
「お疲れかと思いまして、お茶をお持ちいたしました」
微笑みを浮かべながら蘭香が書卓にことりと茉莉花茶と月餅を置いた。
「ありがとう。ふふふ、美味しそう」
一つ伸びをした由羅は、小さく笑ってお茶を飲んだ。
集中していたため、すっかり喉が渇いていた。
お茶と一緒に用意された月餅を口に運べば、餡の甘さが口いっぱいに広がり、疲れを癒してくれるようだった。
「何か書物でもお読みだったのですか?」
「ん? あぁ、ちょっと凌空様から本をお借りして」
蘭香には由羅がお飾り妃であることも、事件のことも伏せられている。
そのことに気が付いた由羅は、書類の内容をあえてぼやかして伝えた。
「わたくしも本を読むのが大好きです。ついつい時間を忘れてしまいますので、由羅様の気持ちも分かりますが、適度にお休みを取ってくださいませ」
「うん、ありがとう」
蘭香は由羅を気遣う言葉を残し、部屋を出て行った。
パタンと音がして扉が閉まってから、由羅は何気なく机に広げられた書類に視線を落とした。
(そう言えば、こうやって机で本を読むなんて、かなり久しぶりのことだわ)
由羅がこうして読み書きができるようになったのは、養い親である崔袁の指示によるものだった。
崔袁から宇航と一緒に呼ばれたと思ったら、突然漢字の勉強をするように伝えられたのだ。
そのことを思い出した由羅は、なんとなく窓の外を見つめながら、崔袁との出会いや宇航と共に切磋琢磨した日々を思い返した。
それが紫釉に抱きしめられていることに一拍遅れて気づく。
「良かった……無事で」
耳元で囁かれた紫釉の言葉には、安堵の色が滲んでいた。
だが、何故抱きしめられているのか。
状況が掴めずに戸惑う由羅は視線を感じてそちらを見ると、そこには口元に微笑みを湛えた凌空の姿があった。
しかし、その目は笑っておらず、纏う雰囲気から静かな怒りが伝わってくる。
「由羅さん」
「は、はい!」
名前を呼ばれただけで、由羅の背中がゾクリとし、冷たい汗が流れた。
荒れ狂う吹雪の雪山にいるかと錯覚するほどの冷気が部屋中を満たしているのを感じる。
「貴女は、自分がしたことの意味を分かっていますか?」
部屋の隅には俯いた蘭香が立っていた。
目の下が赤く、泣いていたのが見て取れた。
「動揺した蘭香を宥めて事情を聞けば、貴女が宮から消えたというじゃありませんか。もしかして誘拐されたのではと、総出で探しましたよ」
凌空のその言葉に、軽い気持ちで抜け出したことが思った以上に大事になってしまっていることを由羅は理解した。
「もし貴女に何かあったら衛兵や蘭香の責任問題になって、何かしらの刑罰を受けることになっていたのですよ」
「そんな! 私が勝手に出たのに?」
「それが今の貴女の立場なのですよ。たとえお飾りだとしても、ね」
その時、由羅は初めて事の重大さを知った。
妃という立場は自分が思っているよりもずっと重いものなのだ。
人の命運を大きく左右し、最悪の場合、命を奪うことすらある。
それが妃なのだ。
今まで由羅は黒の狼として貴族の依頼を受けることはあったし、貴族というのはある意味身近な存在でもあった。
それに、黒の狼として彼らと接する場合は対等な立場であることが多かった。
だから忘れていたのだ。
貴族が平民の人生を簡単に変えられることを。
命令一つで命を奪えることを。
例えばヴァルティアが由羅にしたように……。
「考えが及ばなくて……すみませんでした」
俯く由羅に紫釉は優しく声をかけた。
「どうして勝手に宮の外に出ようと思ったんだい? 何か嫌なことがあった? それとも何か不満があった? 言ってくれればなんでも用意したのに」
紫釉の問いかけに由羅は首を振った。
宮の中では快適に過ごせたし、物が欲しいわけではないのだ。
「怪死事件がどうなっているのか知りたくて。早く解決したかったんです。でも紫釉様は何も教えてくださらないし。だから、自分で調査をしようと」
由羅の言葉に困ったように眉根をひそめた紫釉に対し、凌空は柔らかな声音で言った。
「貴女一人で解決できると、そう思ったわけですね」
そう言った凌空は口元に笑みを浮かべていた。
だが、そこには嘲笑の色が浮かんでいる。
「はっきり言いましょう。貴女ごときがしゃしゃり出て解決できるほど簡単な事件ではありません。貴女に何ができるというのですか?」
「それは……」
確かに刑部でさえ調査が難航しているのだ。
何の力もない由羅が単独で調査したところで、大した成果は得られないだろう。
それでも黙ってこの部屋で結果を待つなどできない。
「紫釉様は事件の捜査で危ないことに巻き込みたくないと言いますが、私はただ守られて、一人で何もしないで待っているのは……辛いんです。早く事件を解決して、後宮を出たいというのが本音です」
その言葉に紫釉の眉がわずかに動いたように見えたが、それを確認するより先に、凌空の抑揚たっぷりの声が部屋に響いた。
「何もしないで待っているのが辛い、ですか。なるほどなるほど」
そう言って凌空は大仰に頷いた。
「分かりました。でも主上も私も忙しい身です。これ以上貴女に時間を割く余裕はありません。ですから今日はこれで帰ります。では」
そう言って部屋を出て行く凌空の背中を、由羅は苦い思いで見つめるしかなかった。
紫釉は視線を由羅に向け、苦笑しながら由羅の頭をポンと軽く撫でた。
「今日はゆっくり休んで。後でまた来るよ」
結局由羅の願いは届けられず、凌空に一蹴される形になった。
(はぁ……ダメだったか)
内心でため息をついていると、今まで黙って事の成り行きを見ていた泰然が、腕を組みながら壁に背を預け、由羅に語りかけた。
「あーなんだ……、由羅、お前がどう思っているか分からないが、なんでこれだけの衛兵が宮の周りを警護しているか分かってるか?」
「……監視じゃないんですか? 凌空様が、平民丸出しの妃だと思われると私がお飾りの妃だとバレてしまうからって仰ってましたけど」
「そっか。やっぱり説明してなかったんだな。まぁ、凌空の理由も半分はそうだけどな」
それ以外の理由が分からず由羅は首を傾げると、泰然はガシガシと頭を掻きながら言葉を選ぶように話し始めた。
「後宮で妃教育も受けていないお前を、悪しざまに言う女官や官吏もいるはずだ。そういった害意からも守りたい。あいつはそう考えたんじゃねーかな。まったく素直じゃねーよな」
泰然は呆れたように苦笑いしながら言った。
その言葉が意外で、由羅は驚いて目を見張った。
「もう一つ、お前を宮から出さなかったのは、お前を守るためだ。お前を妃とした目的の一つはあんたもさっき言ったように、紅蘆を揺さぶり、紅蘆派をあぶり出すことだ。つまり、お前は囮になり危険に晒されるわけだ」
確かに状況的にそうなる。
だが、黒の狼である由羅ならば、刺客に対しても対処できる自信がある。
その考えが顔に出ていたのだろう。
泰然はため息交じりに言った。
「いくらお前が黒の狼の人間だとしても、何が起こるか分からない。何かあった後ではそれこそ後の祭りだ。ただでさえ厄介ごとに巻き込んだって主上は考えていてさ。だからこうして護衛をつけてたってわけだ」
「それならそうって言ってくれれば」
「まぁ、言ったところでお前は納得して部屋にいるか? お前とは付き合いが長くねーけど、そういう性格じゃねーだろうし、現に脱走しているわけだ」
「う……」
「それに余計なことを言って心配かけたくなかったんだよ、主上は。過保護だよなぁ。ま、そういうことだ。二人のことを悪く思わねーでくれよ」
紫釉が心配してくれるのは分かってはいたが、凌空もまた心配してくれていたことに驚いた。
だが、これで由羅が置かれている状況が理解できた。
「泰然様。話してくださってありがとうございました」
「まぁ、脱走の手際はさすがだな。これからはそう簡単に脱走させるつもりはねーけど、また抜け出されても困るし、お前が捜査に参加できるように俺からも凌空に掛け合ってみる」
「ありがとうございます!」
「じゃあな。今日は大人しくしておいてくれ」
泰然はニカリと笑うと、ひらひらと手を振りながら部屋を出て行った。
今まで「守ってもらう」ということがなかった由羅にとって、この状況は戸惑いが大きい。
だが一方で、二人の気遣いが嬉しくも思える。
(それでも、我儘かもしれないけど、やっぱり私も何か手伝いたい。……早くみんなに会いたい)
由羅は、これからどうすべきか考えながら、閉じられた扉を見つめた。
※
翌朝。
来客などなかった碧華宮に突然人が訪れた。
その客はにこやかに微笑みながら由羅の部屋へと入ってきた。
「おはようございます、由羅さん」
「凌空様!? お、おはようございます」
朝の支度は終えてはいたが、まだ朝食も食べていないという時間である。
凌空の突然の訪問に由羅は目を見開いて驚いてしまった。
「こんな朝早くにどうされたんですか?」
「すみません。私は貴女と違って忙しくて、この時間しか手が空かなかったのです」
「それは……お疲れ様です」
紫釉も多忙だと聞いているので、宰相の凌空も忙しいのだろう。
だが、気のせいかもしれないが凌空の言葉に少し棘を感じてしまった。
「昨日、貴女は『何もしないで待ってるのが辛い』と言いましたね」
「はい、言いましたけど……」
含みのある凌空の言いぶりに、彼の意図するところが分からず由羅が首を傾げていると、今度は泰然がひょっこり部屋に現れた。
その手には目の前が見えなくなるほど大量の書類を抱えている。
「お、由羅様おはよう! 朝早くすまねーな」
「泰然、そこに置いてください」
「おうよ。ったく人使いが荒いな」
「力仕事は貴方の領分でしょう」
凌空の指示で泰然は机の上に大量の書類をどんと置いた。
何が起こるのか分からず戸惑っていると、凌空は由羅を見てにっこりと微笑んだ。
「お望み通りの品物をお持ちしましたよ。今回の怪死事件に関する刑部での捜査資料です。どうぞ、好きなだけ読んでください」
「あ、ありがとうございます」
あれほど由羅が捜査に関わることに剣呑な態度だった凌空が突然捜査資料を提供してきたことに、由羅は面食らった。
そんな由羅の反応を無視して、凌空はもう一度優雅な笑みを浮かべた。
「由羅さんは時間があるようですから、読めるのであれば是非じっくりと読んでください。では、私たちは時間がありませんので失礼しますね」
「じゃあな、由羅」
「えっ? あ、はい」
言いたいことだけ言って凌空は出て行ってしまった。
嵐のようにやってきて、嵐のように去って行った凌空たちの背中を、半ば呆然と見送った由羅は、何が起こったのか状況が掴めなかった。
(なんだかよく分からないけど資料は手に入れることができたからまぁいっか)
由羅はそう思って書卓に向かうと、捜査資料を読むことにした。
「ええと、こっちが被害者について、こっちが事件現場についてと……」
由羅はそう言いながら積み上げられた捜査資料の表紙を見た。
そして一つの捜査資料を手に取ると、ぺラリと頁を捲った。
ここしばらく触れたことがなかった紙の感触に、由羅は小さく微笑んだ。
資料を読みながら、蘭香に用意してもらった紙に筆で資料の要点や気になる点、疑問点を書き連ねていった。
まず、被害者は次の4人だ。
楊 翠蓮
黎 霜月
魯 瑤琴
蘇 紫霞
いずれも皇帝紫釉の正妃候補の女性だ。
家柄も良く、正妃となるべく教育されていたいわゆる「お姫様」で、基本紫釉派の家柄もしくは中立派の家柄の女性である。
年齢は18歳~25歳。
全員基礎疾患は無く、いたって健康であったとのことだ。
外傷はなし。
ただ、何故か死因の欄が空欄であった。
(どうして空欄なのかしら? 殺害されているって言うことは、何かしらの死因があるはずなのに……)
書けない事情でもあるのだろうか。
もしくは由羅に知って欲しくない何かがあるのか……
そんなことを考えながら、暫く資料を読み込んだ由羅だったが、不意に扉の外から由羅の名を呼ぶ声がして、そちらに目を向けた。
「由羅様、今よろしいでしょうか?」
「あ、蘭香? どうぞ」
「失礼します」
そう言って部屋に入って来た蘭香から、ふわりと甘い香りがした。
「お疲れかと思いまして、お茶をお持ちいたしました」
微笑みを浮かべながら蘭香が書卓にことりと茉莉花茶と月餅を置いた。
「ありがとう。ふふふ、美味しそう」
一つ伸びをした由羅は、小さく笑ってお茶を飲んだ。
集中していたため、すっかり喉が渇いていた。
お茶と一緒に用意された月餅を口に運べば、餡の甘さが口いっぱいに広がり、疲れを癒してくれるようだった。
「何か書物でもお読みだったのですか?」
「ん? あぁ、ちょっと凌空様から本をお借りして」
蘭香には由羅がお飾り妃であることも、事件のことも伏せられている。
そのことに気が付いた由羅は、書類の内容をあえてぼやかして伝えた。
「わたくしも本を読むのが大好きです。ついつい時間を忘れてしまいますので、由羅様の気持ちも分かりますが、適度にお休みを取ってくださいませ」
「うん、ありがとう」
蘭香は由羅を気遣う言葉を残し、部屋を出て行った。
パタンと音がして扉が閉まってから、由羅は何気なく机に広げられた書類に視線を落とした。
(そう言えば、こうやって机で本を読むなんて、かなり久しぶりのことだわ)
由羅がこうして読み書きができるようになったのは、養い親である崔袁の指示によるものだった。
崔袁から宇航と一緒に呼ばれたと思ったら、突然漢字の勉強をするように伝えられたのだ。
そのことを思い出した由羅は、なんとなく窓の外を見つめながら、崔袁との出会いや宇航と共に切磋琢磨した日々を思い返した。


