命を狙った皇帝のお飾り妃になりました―この謎、私が解決いたします―

パタンと由羅の部屋の扉を閉めた紫釉は、先ほどの由羅の表情を思い返して小さく忍び笑いを浮かべた。

由羅のあの様子だと、真っ赤になって絶句したあと、声にならない叫び声を上げているかもしれない。

最初に紫釉が部屋に入った時、由羅が大胆な夜着を纏っていた姿に思わずドキリとしたのだ。
このくらいの意趣返しは許してほしい。

紫釉はもう一度由羅の部屋を見やった後、自室に戻る廊下を歩きながら由羅の顔を思い浮かべた。
艶のある美しい黒髪に、翡翠のように煌めく緑の瞳は、幼少の頃と変わっていなかった。

(ようやく……再会できた)

そう、紫釉はずっとずっと由羅の事を探していた。
もう由羅は覚えていないようだったが、由羅と紫釉が初めて出会ったのは13年前の事だ。

由羅と紫釉の出会いは薄暗い牢の中だった。
何故由羅と紫釉が出会ったのか。
そもそもの事の始まりは紫釉が8歳になった時、当時側室であった紅蘆が父の正妃になったことだった。

前正妃であり紫釉の母は、紫釉が4歳の頃に亡くなった。
その後、父である前皇帝はしばらく正妃を据えることはなかったが、紫釉が8歳になった時、側室であった紅蘆が懐妊し、正妃となったのだ。

紫釉の母は身分が低かったが父が見初め、周囲の反対を押し切って正妃に据えた。
その一方で、紅蘆の家は乾泰国貴族の中でも5本の指に入るほどの名家の娘だ。

それ故気位が高く、野心家だった。
紅蘆は自分の子供の方が血筋が良いと主張し、紫釉を皇位継承者から外すようにと父に迫った。

だが、紫釉の母を愛していた前皇帝は、その忘れ形見である紫釉に皇位を継がせると言って、紅蘆の主張を頑として聞き入れなかった。
しかし、幼い紫釉はそんな政治的な話など知らず、宮廷で第一皇子としての勉学に勤しんでいた。

そんなある日、事件は起こった。
その日はまだ春浅いものの、照り付ける日差しは温かい日だった。
見上げると紅梅の枝にメジロが止まり、可愛らしく囀っていた。
その鳴き声を聞きながら、幼い紫釉は息を切らせて武道場に向かっていた。

(次は燕蒼(えんそう)将軍の武術訓練か。今日こそは一本とってやるぞ!)

燕蒼はこの国の大将軍だ。
逞しい体躯の持ち主で、剣術にも体術にも優れた男で、戦場でも一騎当千の働きをする燕蒼は、武官達にも羨望の眼差しを向けられる存在だ。

もちろん紫釉もそんな人間の一人で、燕蒼から一勝することが目下の目標だ。

毎日手合わせをしてもらっているがいまだに一勝もできないでいる。
だから、紫釉は今日こそはと意気込んで訓練場に向かっていると、1人の武官が紫釉のもとにやってきて声を掛けた。

「紫釉様、お探しいたしました」
「いかがした?」
「燕蒼様からご伝言です。本日は訓練場ではなく、別の場所にて訓練を行うとのことです」
「別の場所?」
「はい、なんでも実践に近い訓練を行うとのことです。燕蒼様から紫釉様をご案内するようにと申し使っております」

燕蒼は20代の若かりし頃から実践を想定して様々な場所で訓練を行っていたと聞いたことがある。
その話を聞いた紫釉は燕蒼に自分もそう言う場所で訓練をしたいと言ったのだが、燕蒼は紫釉にはまだ早いといって聞いてはくれなかった。

だが、その燕蒼が実践を想定した訓練をしてくれるということは、少しは紫釉の実力を認めてくれてたということなのかもしれない。

「分かった」

燕蒼が自分の実力を認めてくれたことが嬉しくて、紫釉は笑みを浮かべてそう頷くと、武官の後に続いて歩き出した。
そして、紫釉の住む宮の入り口まで行くと、そこには一台の馬車が用意されていた。

それは貴族が使う馬車のようではあるが、皇族が乗るような華美なものではなく、紫釉も見たことのない馬車だった。
少しだけ違和感を覚えて紫釉が立ち止まると、武官が紫釉を促した。

「ささ、お乗りください」
「あ、ああ」

戸惑いつつ紫釉が乗ると同時に、馬車が動き出した。
いつもなら、馬車はゆっくりと進むのだが、今日は何故かその速度が速い。
加えて安物の馬車のため、ガタガタと揺れるので紫釉の体が車の中で跳ねた。

驚いて窓をチラリと見ているうちに、馬車はあっという間に皇城の門を出て、城下町へと出る。
楽し気に笑いながら走っていく子供達、着古した襦袢(きもの)短褐(ふく)を着た男女、野菜や肉を売る屋台や店。

城から出たことのない紫釉にとって街の様子は興味深く、流れゆく車窓からその景色を目を輝かせて見た。
食い入るように見ているうちに、やがて馬車は街を抜け、いつの間にか山の方へと進んでいた。

人影は無くなり、木々がその数を増す。
石畳がいつの間にか茶色い山道になっている。
そこまで来て紫釉は不安に襲われた。
この先に本当に燕蒼がいるのだろうか?
紫釉は馬車の後ろをついてきている武官に声を掛けた。

「おい、この馬車はどこに向かっているのだ? 燕蒼はこの先に待っているのか?」

そう問いかけた時だった、ガタンと音を立てて馬車が止まった。
紫釉の体が大きく前後し、思わず息を呑んだと同時に、馬車の扉が乱暴に開けられた。

「なっ!」

気づけば馬車の後ろにいた武官が突然紫釉の華奢な腕をぐいと掴んだかと思うと、そのままの勢いで紫釉を馬車から引きずり出した。

「な、何をするんだ!」

紫釉は驚きながら鋭い声でそう叫んだが、武官は紫釉の細い手首をがっちりと掴んだまま離すことはなかった。

「離せ! 皇子の私に触れるなど、万死に値する! 離せ!」
「うるさい! 大人しくしやがれ!」

なんとか武官の腕を振り払おうと暴れた紫釉に、武官が大声で一喝したかと思うと、紫釉の頬に痛みが走った。
鈍い痛みを感じたと同時に、気づけば紫釉の体は地面に倒れていた。

「っ!」

この乾泰国第一皇子である紫釉は殴られたことなど今まで一度もなく、殴られたという衝撃と驚きで紫釉は声を出すことができなかった。

状況が理解できず声を失っているうちに、武官は紫釉を乱暴に起き上がらせた。
そしてあっという間に紫釉の手首を縄で縛った。
ここにきて、紫釉は何とか声を出して叫ぶように言った。

「何をする! 私にこのようなことをして、タダで済むと思っているのか!」
「はっ、もうお前みたいなガキには何もできないさ。つーか、もう生きて城になって帰れねーよ」
「な、何を言っているんだ?」

武官の言っている意味が理解できずにいると、遠くから馬車の音が聞こえて来た。
助けが来たのだろうか。

一瞬の期待と安堵を覚えた紫釉だったが、音と共に現れたのは古びた幌馬車だった。
そして中から現れたのは大柄でガラの悪い男だった。

(助けが来た……わけではないのか?)

紫釉がそう思って混乱していると、脂ぎった顔に無精ひげの男が、紫釉を一瞥した。

澱んだ瞳に見つめられて紫釉の背中にゾクリと悪寒が走る。

「こいつが例のガキか?」

男は紫釉を見つめたまま武官に尋ねた。

「ああ。後始末はお前に任せるぜ」
「見たところお貴族さまじゃねーのか? 後で厄介ごとになりたくないが、問題ないんだろうな」
「もちろん。何かあっても紅蘆様が手を回してくれる」
「そうか。まぁ、これだけの金を貰えるならいいけどな」

武官とガラの悪い男はそう二言三言言葉を交わしたかと思うと、男は冷たい表情のままゆっくりと紫釉に近づいて来た。

そして、男が腕を振り上げた次の瞬間、紫釉の首に痛みが走る。
そうして紫釉は小さくうめき声を上げた後意識を失った。




紫釉は自分の体が何かに打ちつけられ、そして体がひんやりと冷たくなっていくことに気が付いてようやく意識が浮上した。
うっすらと目を開けると、灯された蝋燭の炎だけが暗闇をぼんやりと照らしていた。

「ここは……?」

小さく呟いたと同時にガチャンという金属音が鳴り、紫釉は反射的に起き上がった。
目の前には蝋燭の光を鈍く反射した鉄格子。
牢屋の扉を閉めた男に紫釉は駆け寄ると、力の限りに鉄格子を揺すりながら男の背中に向かって怒鳴った。

「ここから出せ! 私が何者か知ってのことか!」

振り返った男は、紫釉が意識を失う前に見た男だった。
男は無精ひげに脂ぎった薄汚れた顔を向け、紫釉を見下ろしながら気だるげに言った。

「うるせーな。お前が誰でも関係ねーよ。ここに来た時点でお前は商品以外の何物でもねえんだよ」
「商品? どういうことだ? とにかく何かの間違いだ。ここから出すんだ! 今なら見逃してやる」

紫釉は鉄格子の扉を揺するが、扉はガチャガチャと音を鳴らすだけだった。
必死に訴える紫釉を男は一瞥し、牢がある部屋から出て行ってしまった。

「どうなっているんだ……」

男は紫釉を商品と言った。
その言葉の意味が分からず、加えてこの異様な状況に紫釉の思考は混乱を極めた。
呆然としていると、不意に紫釉の背後から少年の声が聞こえた。

「俺達は売られたんだよ。奴隷になるのか、好事家に虐待されるのか、まぁ分からないけどよ」

驚いて後ろを振り返ると、ぼろぼろの着物をまとった年端も行かない少年少女が数人、牢の壁際に身を縮こめて座っていた。

(人が人を売買するということか? そんなことがあるなんて……)

そんなことが国内で行われていることなど知らなかった。
そのことに衝撃を受けると同時に、紫釉は自分がもう城には戻れないことを理解した。

「そんな! 出せ!! 私を城に帰してくれ!!」

だが、紫釉がどれだけ叫んでも男はやって来ず、そして助けも来なかった。
その絶望的な状況に紫釉は力なく座り込んだ。
このままどこに連れていかれるのか、何をされるのか、分からず不安で怖かった。

(なんでこんなことに……)

俯いた紫釉の頬を涙が伝った。
その時、紫釉はふっと手に温もりを感じて顔をあげた。
見れば一人の少女が紫釉の手を包み、心配そうに紫釉の顔を覗き込んでいた。

「お兄さん、大丈夫? 寒い?」

黒髪に緑の瞳。
この国には珍しい組み合わせの色だ。
年の頃は自分より少しだけ下だろう。
その緑の瞳が心配そうに紫釉を見つめている。

「えっ……?」

驚き戸惑っている紫釉に対して、少女はにっこりと微笑んだかと思うと、紫釉の首に手を回して抱きしめた。

「ほら、寒くないよ」
「……寒いわけじゃないよ」
「じゃあ、お腹空いてるの? なら、これあげるね」

少女はそう言うと懐から干し柿を取り出して紫釉の目の前に差し出した。

「はい、わたしの大好物なの。お父さまがさいごにくれたんだ。これを食べればおなかいっぱいになるよ」
「君は……怖くないのか?」
「こわい?」
「あぁ。どこに連れていかれるのか分からないんだよ?」

紫釉の言葉に少女は困ったように、そして悩むように答えた。

「でもね。わたし、帰ってきちゃダメって言われているの。だから帰る場所がないから、おじさん達の言うことを聞いて行かなきゃならないの」

少女のその言葉に、彼女は自分の父親に売られたのだと紫釉は悟った。

こんなに幼い少女が商品として売買されることに、紫釉は頭を鈍器で殴られた気分だった。

そしてその事実を平然と受け入れている少女を想うと、胸が痛くなり、紫釉は眉を顰めた。

「お兄さんは帰りたいの?」
「あぁ」
「そっか、帰る場所があっていいね」
「でも、もう帰れないんだな……」

どうしてこんな状況に陥ったのか。

あの温かな日差しを感じることも、花の咲き乱れる庭園を歩くことも、燕蒼たちと手合わせすることも、もうできないのだ。
そう思うと涙がまた溢れて来た。

「お兄さん、いいこいいこ」

少女は再び紫釉を抱きしめてそう言いながら、背中を優しく撫でた。

「お兄さんを待っている人がいるなら、きっと迎えにきてくれるよ」

少女から伝わる温もりに、少しだけ紫釉の心は慰められた。
そして握ってくれた手の温もりと力強さに、紫釉はようやく落ち着きを取り戻した。

(きっと迎えに来てくれる……か)

そうだ。
紫釉はここに来る前、燕蒼から武術訓練を受ける予定だった。
それなのに紫釉が現れなければ燕蒼はそのことをすぐに不審に思い、捜索を開始するだろう。

だから、絶対に助けが来るはずだ。

燕蒼の助けを信じると同時に、紫釉もまた自分で脱出できないかを考えることにした。
ここがどこなのか。
牢の外にはどのくらいの人間がいるのか。
脱出する抜け道はあるのか。
そして脱出するタイミングはあるのか。

(絶対にここから出てやる)

紫釉は拳を握りしめ、そう強く決心した。