ピーっという賑やかで可愛らしいメジロの囀りが聞こえ、心地よい風が窓から入ってきて寝台の床帳を揺らす。
その風に乗って遅咲きの枝垂れ桜の花びらが、はらりとはらりと床に舞い落ちるのを、由羅は寝台に横になりながら、見るともなしに見ていた。
そしてため息をつくとごろりと仰向けになって天井を見上げた。
身に着けた衣はビックリするほど上等で、化粧も薄く施されている。
三食出される食事も美味しく、先日紫釉と高級料理店で食べたものと遜色ないくらいだ。
先日まで、粗末な襦裙を着て、3日も食事ができなかった生活を考えると、夢のようだ。
このように贅沢すぎる生活をさせてもらっている由羅であったが、今、壮絶に暇を持て余している状況だ。
後宮入りして1週間。
凌空から聞いた話では、長らく妃がいなかった皇帝が、突然妃を迎えたことで宮中は大混乱だったらしい。
もちろんこれは計画通りだ。
由羅がお飾り妃となった目的の一つは紅蘆派をあぶり出すこと。
由羅の存在が目立てば目立つほど、紅蘆派は動揺し、何らかの反応を見せるだろうという計略だ。
そしてその計画通り、貴族たちの反応は色々なものがあったようだ。
身元不明の由羅に対する疑念を抱く者や、由羅に取り入ろうと賄賂を送って来る者、自分の娘を妃として差し出そうとする者……
(その反応で紅蘆派が何人か絞れそうだって凌空様は仰ってたわね)
まずは、一定の成果は得られたようだ。
その対応に追われているため由羅に構っている暇がないとのことで、由羅が聞かされた情報はそれだけだった。
その後どうなっていて、今度どうするかの連絡が一切なく、由羅は完全に放置されていた。
(怪死事件の調査はどうなってるのかしら。紅蘆派が分かったなら犯人も特定できたのかしら?)
由羅は後宮で碧華宮を与えられ、そこに住むことになったが、凌空と紫釉から、碧華宮から勝手に出ないようにと言われている。
凌空からは後宮にいる女官たちに出会った時に、平民丸出しだとお飾り妃であることがすぐにばれてしまう可能性がある。
そのため由羅の外出を防ぐためか、碧華宮の周囲はかなり厳重な警備が敷かれている。
何か問題が起きても外部にそれが漏れないようにするために、由羅付きの侍女も凌空の乳兄弟である蘭香一人である。
凌空の身内であれば、信頼できるし対応しやすいからだ。
碧華宮は一般的な妃の宮にしてはかなり小さい宮だが、それでも侍女の仕事の一切を蘭香が一人で担っている。
そのため、蘭香は由羅に構っている時間はなく、由羅は一人部屋で過ごすという毎日が続いている。
(はぁ……せめて剣の修行ができればいいんだけど)
身体を動かしていればまだ気が紛れるが、妃である以上そのようなことはできない。
かといって部屋でじっとしているのも、由羅の性格上難しく、なんでもいいから体を動かしたい。
(蘭香を手伝おうかしら)
そう思ったが、初日に手伝おうとして、「だめです。見つかったら凌空様に怒られてしまいます。部屋で大人しくしててください!」
とくりくりした目の愛らしい顔でぷりぷりと怒られ、結局部屋に押し込まれてしまったのだった。
(はぁ……せめて紫釉様が来てくれれば、情報が聞けるのに)
そう思って由羅は深いため息をついた。
だが事態が動いたのはその夜の事だった。
夕食を食べ終え、食後のお茶を楽しんでいると、廊下から息を切らした蘭香の声が聞こえた。
「由羅様! 失礼します!」
由羅が返事をするかしないかのうちに、蘭香がバンと勢いよく扉を開けて駆け込んできた。
いつも淑女らしい蘭香が走って来た様子からすると、よほど急用なのだろう。
蘭香らしからぬ行動に、由羅は驚いてお茶を飲む手を止めて凝視してしまった。
「ど、どうしたの?」
「由羅様! 待ちに待ったこの日が来たのです!」
蘭香は興奮気味に言うが、言わんとしていることが分からず、由羅は首を傾げた。
そんな由羅の反応に、蘭香はじれったそうに手をぶんぶんと振って力説する。
「ですから、陛下がお渡りになるんです!」
「本当!?」
漸く事件の話が聞ける。
さすがに1週間も後宮でのんびり待つのも限界だ。
少しは外に出させてもらえないか、あるいは他にやることはないのか。
とにかく事件の捜査状況を知らなくては何も始まらない。
そんなことを考え、真剣な面持ちの由羅に対し、蘭香は興奮しながら息巻いて言った。
「せっかくの初夜ですもの。わたくし、腕によりをかけて由羅様を磨きますね! 大船に乗ったつもりでいてくださいませ!」
「えっ!? しょ、初夜!? ちょっとそういうのじゃないわよ!」
蘭香は完全に誤解しているようだ。
確かに妃であり、皇帝が夜に後宮に来るならば共寝をすると思うのは当然だろう。
だが由羅と紫釉はそういう関係ではない。
が、それを蘭香に言うわけにはいかない。
非常に困ってしまった。
そもそも初夜と思われる時点で恥ずかしすぎる。
どう言えばいいのか考えあぐねていると、由羅の心を知ってか知らずか、蘭香は目を更に輝かせた。
「では、さっそく湯の準備をしますね!」
「あ!」
由羅が止める間もなく、蘭香は部屋を出て行ってしまった。
「いやいや、ちょっと待って!」
そうして蘭香を止めることができないまま、由羅はあれよあれよという間に初夜に向けての準備をさせられることになってしまった。
※
夜になり、由羅はそわそわしながら部屋の中をうろうろしてしまう。
(どうしてこうなっちゃったんだろう)
いや、どうしてもこうしても、夜に紫釉が来るからなのだが、まさかここまで準備されるとは由羅の想像を超えていた。
まず、花びらが浮かぶ湯に入れられ、肌には香油を塗り込まれ、麝香の香料入りの油で髪を梳かされた。
あれほど荒れていた肌も髪もびっくりするほどピカピカに磨かれた。
さらに薄く化粧を施され、鮮やかな紅まで差されてしまう。
極めつけは襟ぐりの大きく空いた衣で、下着も紗のものを身に着けているのでスースーする。
とてもこの格好で紫釉に会う勇気はない。
かといって着替えの襦裙もなく、由羅は途方に暮れてしまった。
(困ったわ……他に着るものはないし。でもさすがにこの格好で紫釉様には会えない……)
どうすべきか対策を考えていると、部屋の外から紫釉の声が聞こえた。
「由羅? 俺だけど」
「ひゃい! え、えっと……ちょっと待ってください」
動揺のあまり、声が裏返ってしまう。
「由羅?」
不思議そうな紫釉の声にわたわたとするが、もう何ともできない。
由羅は恐る恐る扉を開くと、顔だけを出して紫釉に事情を話すことにした。
「紫釉様、いらっしゃいませ。お久しぶりです」
「ごめんね。忙しくてなかなか顔を出せなくて。……それで、中に入れてくれないの?」
「えっとですね……ちょっと、蘭香が勘違いして気合いを入れてしまいまして……」
要領を得ない由羅の言葉に、紫釉は首を傾げた。
それはそうだ。
この状況を理解しろという方が無理だ。
「あの、ですから少し見苦しい恰好をしているんです」
「別に格好なんて気にしないけど。それで部屋には入れてくれないってこと?」
確かにこのまま紫釉を追い返すわけにもいかない。
由羅は覚悟を決めて紫釉を部屋に招くことにした。
「絶対に驚かないでくださいね」
「分かったよ」
「では、どうぞ」
由羅が扉を開けた瞬間、紫釉は息を呑み、そして硬直してしまった。
「だから驚かないでくださいって言ったじゃないですか!」
涙目になりながら言った由羅の言葉に、ようやく紫釉は弾かれたように我に返り、さっと視線を逸らした。
「あ、あぁ。ちょっと予想外だったから。と、とりあえずこれを羽織って」
視線を逸らしたまま紫釉が長袍を由羅にかけた。
「ありがとうございます」
一瞬、紫釉の白檀の香りが由羅を包むようで、少しだけドキッと鼓動が高鳴った。
(って、なにドキドキしてるの? それどころじゃないでしょ!)
動揺した気持ちを落ち着かせるために、一つ深く息を吸った後、気を取り直して紫釉を部屋へと招き入れた。
「どうぞ」
「ありがとう」
紫釉が席に着くと、由羅はまず飲み物を準備することにした。
これから長時間にわたって話し合うので、きっと喉が渇くだろう。
「お酒とお茶がありますが、どちらにされますか?」
「……お茶にする」
「分かりました」
心なしか紫釉の声も強張っている気がするが、それには気づかないふりをして由羅は茶器を温めると、茶葉を入れた。
今日のお茶は唐朝烏龍茶だ。
烏龍茶ではあるが、唐朝山でしか取れない貴重な茶葉であり、生産量が少ないため高級品だ。
普通の烏龍茶とは異なり、緑茶で、柔らかな甘い香りと味が特徴的な高級茶葉を由羅は茶器の中にたっぷりと入れた。
そこにお湯を注ぎ、茶葉が開いたのを確認してから紫釉の前に差し出す。
紫釉が香りを楽しむように目を閉じた後、一口飲んだ。
「おいしいな」
「そうですね。さすがは高級茶です」
「いや、由羅が淹れてくれたから、格別美味しいんだよ」
そう言って紫釉は微笑を浮かべるが、誰が淹れようとお茶はお茶で味は変わらないと思うが。
「茶葉がいいだけだと思いますけど……」
由羅もまたお茶を一口飲む。
唐朝烏龍茶特有の甘さの中に爽やかな香りが鼻腔を抜け、ほっとする。
そして、ことりと茶器を卓上に置いて、真剣な顔で紫釉を見つめた。
今はお茶を楽しむよりも重要なことがある。
居住まいを正した由羅に、紫釉が不思議そうな顔になる。
「どうしたの?」
「紫釉様。私が後宮入りして一週間経ちましたが、怪死事件についての捜査は進んでいるのでしょうか? 犯人の目星はつきましたか?」
「そんなこと聞いてどうするの?」
「どうするって……だって気になるじゃないですか。私が後宮から出るには、怪死事件を解決しなくちゃなりませんよね?」
「そうだけど……」
紫釉の反応からすると、あまり捜査は芳しくないのではないか。
「捜査に手が足りないのであれば、私も手伝います!」
由羅としては一刻も早くここから自由になりたい。
そして黒の狼の仲間の元に帰る。
それが今の由羅の願いだ。
「そんなにここを出たい?」
「はい。みんなのところに帰りたいです」
「早く解決したい気持ちは分かるけど、由羅ができることはないよ。それに捜査中に危険な目に遭うかもしれない」
「大丈夫です! 私は黒の狼ですよ。危険なんてありません」
「でも万が一がある。……それに実際、由羅は俺に負けたよね」
「うっ、それは……」
事実を突きつけられ、返す言葉もなかった。
「由羅、俺は君を危険に晒したくないんだ」
紫釉の真剣なまなざしに言葉が出せないでいると、彼はそっと懐から一つの箱を取り出した。
「そうだ、お土産だよ」
突然細長い木箱を差し出されて戸惑っていると、紫釉が視線で開けるように促してくるので、由羅はそっと木箱を取って蓋を開けた。
そこに入っていたのは、翡翠の簪だった。
翡翠の玉とその周りに花びらのように加工された翡翠が付き、そこに銀細工が施されていた。
一目見てそれが高級品だと分かる。
「これ……え!? お土産って……私にくださるってことですか!?」
「もちろん。由羅のために君の瞳の色に合わせて作らせたんだ」
「私のため!? 作らせたんだって……ええ!?」
この1週間でこれだけの品を作らせるなんて、職人に無茶振りをしたに違いない。
自分のために職人が振り回されたことを考え、そしてあまりの高級品に由羅の顔から血の気が引いた。
「な、何てことするんですか! というかこんなに高級な品、もらえません! そもそも、私はお飾りなんです。一時的な妃なんですよ。そんな人間にこんな高価なもの不要です!」
「嬉しくないの?」
「嬉しいとか嬉しくないという次元の問題じゃないです」
この簪一つでどれだけのご飯が食べられるだろうか?
思わず頭の中で市場で売られている小籠包で換算してしまい、恐ろしくなった。
紫釉はおもむろに立ち上がると、青ざめている由羅の手からするりと簪を取り、そのまま流れるような動きで由羅の髪に触れた。
そして結い上げていた髪に、その簪を挿した。
「うん。似合ってる」
にっこりと微笑まれてしまい、由羅はこれ以上固辞することもできず、口をつぐんでしまう。
「寂しい思いをさせてしまったから捜査したいなんて言うんだね。でも大丈夫。これからは由羅の元に毎晩通うから心配しないで。じゃあ、またお茶を飲もう」
そう言って紫釉はそのまま扉の方へと歩き出したので、由羅は驚いて声をかけた。
「ちょ、ちょっと待ってください!もう帰るんですか!?」
まだ事件の話を聞いていないのだ。
このまま帰られては困る。
思わずそう言った由羅の言葉に、紫釉が足を止めると首を傾げた。
「それは俺にここに泊まって欲しいってこと?」
「えっ!? と、泊まる!?」
「だって由羅は妃だし、帰らないでってそう言うことだろう?」
そう言って紫釉は奥の部屋にある寝台の方をちらりと見た。
突然の話に頭が真っ白になり、二の句が継げないでいる由羅を見て、紫釉がくすっと笑った。
「じゃあね、由羅。良い夢を」
紫釉がぽんと由羅の頭を撫でると、そのまま部屋を出て行ってしまった。
それを動揺したまま見送った由羅は、扉が閉まる音を聞いてハッとした。
「あ……誤魔化された……」
結局、捜査に加わることを有耶無耶にされてしまった。
なかなか手ごわい相手である。
由羅は寝台へと倒れ込むと、深いため息をついた。
(明日こそ、絶対に話を聞かせてもらおう)
敗北感を味わいつつ、由羅はそう固く決意して、その夜は寝ることにした。
その風に乗って遅咲きの枝垂れ桜の花びらが、はらりとはらりと床に舞い落ちるのを、由羅は寝台に横になりながら、見るともなしに見ていた。
そしてため息をつくとごろりと仰向けになって天井を見上げた。
身に着けた衣はビックリするほど上等で、化粧も薄く施されている。
三食出される食事も美味しく、先日紫釉と高級料理店で食べたものと遜色ないくらいだ。
先日まで、粗末な襦裙を着て、3日も食事ができなかった生活を考えると、夢のようだ。
このように贅沢すぎる生活をさせてもらっている由羅であったが、今、壮絶に暇を持て余している状況だ。
後宮入りして1週間。
凌空から聞いた話では、長らく妃がいなかった皇帝が、突然妃を迎えたことで宮中は大混乱だったらしい。
もちろんこれは計画通りだ。
由羅がお飾り妃となった目的の一つは紅蘆派をあぶり出すこと。
由羅の存在が目立てば目立つほど、紅蘆派は動揺し、何らかの反応を見せるだろうという計略だ。
そしてその計画通り、貴族たちの反応は色々なものがあったようだ。
身元不明の由羅に対する疑念を抱く者や、由羅に取り入ろうと賄賂を送って来る者、自分の娘を妃として差し出そうとする者……
(その反応で紅蘆派が何人か絞れそうだって凌空様は仰ってたわね)
まずは、一定の成果は得られたようだ。
その対応に追われているため由羅に構っている暇がないとのことで、由羅が聞かされた情報はそれだけだった。
その後どうなっていて、今度どうするかの連絡が一切なく、由羅は完全に放置されていた。
(怪死事件の調査はどうなってるのかしら。紅蘆派が分かったなら犯人も特定できたのかしら?)
由羅は後宮で碧華宮を与えられ、そこに住むことになったが、凌空と紫釉から、碧華宮から勝手に出ないようにと言われている。
凌空からは後宮にいる女官たちに出会った時に、平民丸出しだとお飾り妃であることがすぐにばれてしまう可能性がある。
そのため由羅の外出を防ぐためか、碧華宮の周囲はかなり厳重な警備が敷かれている。
何か問題が起きても外部にそれが漏れないようにするために、由羅付きの侍女も凌空の乳兄弟である蘭香一人である。
凌空の身内であれば、信頼できるし対応しやすいからだ。
碧華宮は一般的な妃の宮にしてはかなり小さい宮だが、それでも侍女の仕事の一切を蘭香が一人で担っている。
そのため、蘭香は由羅に構っている時間はなく、由羅は一人部屋で過ごすという毎日が続いている。
(はぁ……せめて剣の修行ができればいいんだけど)
身体を動かしていればまだ気が紛れるが、妃である以上そのようなことはできない。
かといって部屋でじっとしているのも、由羅の性格上難しく、なんでもいいから体を動かしたい。
(蘭香を手伝おうかしら)
そう思ったが、初日に手伝おうとして、「だめです。見つかったら凌空様に怒られてしまいます。部屋で大人しくしててください!」
とくりくりした目の愛らしい顔でぷりぷりと怒られ、結局部屋に押し込まれてしまったのだった。
(はぁ……せめて紫釉様が来てくれれば、情報が聞けるのに)
そう思って由羅は深いため息をついた。
だが事態が動いたのはその夜の事だった。
夕食を食べ終え、食後のお茶を楽しんでいると、廊下から息を切らした蘭香の声が聞こえた。
「由羅様! 失礼します!」
由羅が返事をするかしないかのうちに、蘭香がバンと勢いよく扉を開けて駆け込んできた。
いつも淑女らしい蘭香が走って来た様子からすると、よほど急用なのだろう。
蘭香らしからぬ行動に、由羅は驚いてお茶を飲む手を止めて凝視してしまった。
「ど、どうしたの?」
「由羅様! 待ちに待ったこの日が来たのです!」
蘭香は興奮気味に言うが、言わんとしていることが分からず、由羅は首を傾げた。
そんな由羅の反応に、蘭香はじれったそうに手をぶんぶんと振って力説する。
「ですから、陛下がお渡りになるんです!」
「本当!?」
漸く事件の話が聞ける。
さすがに1週間も後宮でのんびり待つのも限界だ。
少しは外に出させてもらえないか、あるいは他にやることはないのか。
とにかく事件の捜査状況を知らなくては何も始まらない。
そんなことを考え、真剣な面持ちの由羅に対し、蘭香は興奮しながら息巻いて言った。
「せっかくの初夜ですもの。わたくし、腕によりをかけて由羅様を磨きますね! 大船に乗ったつもりでいてくださいませ!」
「えっ!? しょ、初夜!? ちょっとそういうのじゃないわよ!」
蘭香は完全に誤解しているようだ。
確かに妃であり、皇帝が夜に後宮に来るならば共寝をすると思うのは当然だろう。
だが由羅と紫釉はそういう関係ではない。
が、それを蘭香に言うわけにはいかない。
非常に困ってしまった。
そもそも初夜と思われる時点で恥ずかしすぎる。
どう言えばいいのか考えあぐねていると、由羅の心を知ってか知らずか、蘭香は目を更に輝かせた。
「では、さっそく湯の準備をしますね!」
「あ!」
由羅が止める間もなく、蘭香は部屋を出て行ってしまった。
「いやいや、ちょっと待って!」
そうして蘭香を止めることができないまま、由羅はあれよあれよという間に初夜に向けての準備をさせられることになってしまった。
※
夜になり、由羅はそわそわしながら部屋の中をうろうろしてしまう。
(どうしてこうなっちゃったんだろう)
いや、どうしてもこうしても、夜に紫釉が来るからなのだが、まさかここまで準備されるとは由羅の想像を超えていた。
まず、花びらが浮かぶ湯に入れられ、肌には香油を塗り込まれ、麝香の香料入りの油で髪を梳かされた。
あれほど荒れていた肌も髪もびっくりするほどピカピカに磨かれた。
さらに薄く化粧を施され、鮮やかな紅まで差されてしまう。
極めつけは襟ぐりの大きく空いた衣で、下着も紗のものを身に着けているのでスースーする。
とてもこの格好で紫釉に会う勇気はない。
かといって着替えの襦裙もなく、由羅は途方に暮れてしまった。
(困ったわ……他に着るものはないし。でもさすがにこの格好で紫釉様には会えない……)
どうすべきか対策を考えていると、部屋の外から紫釉の声が聞こえた。
「由羅? 俺だけど」
「ひゃい! え、えっと……ちょっと待ってください」
動揺のあまり、声が裏返ってしまう。
「由羅?」
不思議そうな紫釉の声にわたわたとするが、もう何ともできない。
由羅は恐る恐る扉を開くと、顔だけを出して紫釉に事情を話すことにした。
「紫釉様、いらっしゃいませ。お久しぶりです」
「ごめんね。忙しくてなかなか顔を出せなくて。……それで、中に入れてくれないの?」
「えっとですね……ちょっと、蘭香が勘違いして気合いを入れてしまいまして……」
要領を得ない由羅の言葉に、紫釉は首を傾げた。
それはそうだ。
この状況を理解しろという方が無理だ。
「あの、ですから少し見苦しい恰好をしているんです」
「別に格好なんて気にしないけど。それで部屋には入れてくれないってこと?」
確かにこのまま紫釉を追い返すわけにもいかない。
由羅は覚悟を決めて紫釉を部屋に招くことにした。
「絶対に驚かないでくださいね」
「分かったよ」
「では、どうぞ」
由羅が扉を開けた瞬間、紫釉は息を呑み、そして硬直してしまった。
「だから驚かないでくださいって言ったじゃないですか!」
涙目になりながら言った由羅の言葉に、ようやく紫釉は弾かれたように我に返り、さっと視線を逸らした。
「あ、あぁ。ちょっと予想外だったから。と、とりあえずこれを羽織って」
視線を逸らしたまま紫釉が長袍を由羅にかけた。
「ありがとうございます」
一瞬、紫釉の白檀の香りが由羅を包むようで、少しだけドキッと鼓動が高鳴った。
(って、なにドキドキしてるの? それどころじゃないでしょ!)
動揺した気持ちを落ち着かせるために、一つ深く息を吸った後、気を取り直して紫釉を部屋へと招き入れた。
「どうぞ」
「ありがとう」
紫釉が席に着くと、由羅はまず飲み物を準備することにした。
これから長時間にわたって話し合うので、きっと喉が渇くだろう。
「お酒とお茶がありますが、どちらにされますか?」
「……お茶にする」
「分かりました」
心なしか紫釉の声も強張っている気がするが、それには気づかないふりをして由羅は茶器を温めると、茶葉を入れた。
今日のお茶は唐朝烏龍茶だ。
烏龍茶ではあるが、唐朝山でしか取れない貴重な茶葉であり、生産量が少ないため高級品だ。
普通の烏龍茶とは異なり、緑茶で、柔らかな甘い香りと味が特徴的な高級茶葉を由羅は茶器の中にたっぷりと入れた。
そこにお湯を注ぎ、茶葉が開いたのを確認してから紫釉の前に差し出す。
紫釉が香りを楽しむように目を閉じた後、一口飲んだ。
「おいしいな」
「そうですね。さすがは高級茶です」
「いや、由羅が淹れてくれたから、格別美味しいんだよ」
そう言って紫釉は微笑を浮かべるが、誰が淹れようとお茶はお茶で味は変わらないと思うが。
「茶葉がいいだけだと思いますけど……」
由羅もまたお茶を一口飲む。
唐朝烏龍茶特有の甘さの中に爽やかな香りが鼻腔を抜け、ほっとする。
そして、ことりと茶器を卓上に置いて、真剣な顔で紫釉を見つめた。
今はお茶を楽しむよりも重要なことがある。
居住まいを正した由羅に、紫釉が不思議そうな顔になる。
「どうしたの?」
「紫釉様。私が後宮入りして一週間経ちましたが、怪死事件についての捜査は進んでいるのでしょうか? 犯人の目星はつきましたか?」
「そんなこと聞いてどうするの?」
「どうするって……だって気になるじゃないですか。私が後宮から出るには、怪死事件を解決しなくちゃなりませんよね?」
「そうだけど……」
紫釉の反応からすると、あまり捜査は芳しくないのではないか。
「捜査に手が足りないのであれば、私も手伝います!」
由羅としては一刻も早くここから自由になりたい。
そして黒の狼の仲間の元に帰る。
それが今の由羅の願いだ。
「そんなにここを出たい?」
「はい。みんなのところに帰りたいです」
「早く解決したい気持ちは分かるけど、由羅ができることはないよ。それに捜査中に危険な目に遭うかもしれない」
「大丈夫です! 私は黒の狼ですよ。危険なんてありません」
「でも万が一がある。……それに実際、由羅は俺に負けたよね」
「うっ、それは……」
事実を突きつけられ、返す言葉もなかった。
「由羅、俺は君を危険に晒したくないんだ」
紫釉の真剣なまなざしに言葉が出せないでいると、彼はそっと懐から一つの箱を取り出した。
「そうだ、お土産だよ」
突然細長い木箱を差し出されて戸惑っていると、紫釉が視線で開けるように促してくるので、由羅はそっと木箱を取って蓋を開けた。
そこに入っていたのは、翡翠の簪だった。
翡翠の玉とその周りに花びらのように加工された翡翠が付き、そこに銀細工が施されていた。
一目見てそれが高級品だと分かる。
「これ……え!? お土産って……私にくださるってことですか!?」
「もちろん。由羅のために君の瞳の色に合わせて作らせたんだ」
「私のため!? 作らせたんだって……ええ!?」
この1週間でこれだけの品を作らせるなんて、職人に無茶振りをしたに違いない。
自分のために職人が振り回されたことを考え、そしてあまりの高級品に由羅の顔から血の気が引いた。
「な、何てことするんですか! というかこんなに高級な品、もらえません! そもそも、私はお飾りなんです。一時的な妃なんですよ。そんな人間にこんな高価なもの不要です!」
「嬉しくないの?」
「嬉しいとか嬉しくないという次元の問題じゃないです」
この簪一つでどれだけのご飯が食べられるだろうか?
思わず頭の中で市場で売られている小籠包で換算してしまい、恐ろしくなった。
紫釉はおもむろに立ち上がると、青ざめている由羅の手からするりと簪を取り、そのまま流れるような動きで由羅の髪に触れた。
そして結い上げていた髪に、その簪を挿した。
「うん。似合ってる」
にっこりと微笑まれてしまい、由羅はこれ以上固辞することもできず、口をつぐんでしまう。
「寂しい思いをさせてしまったから捜査したいなんて言うんだね。でも大丈夫。これからは由羅の元に毎晩通うから心配しないで。じゃあ、またお茶を飲もう」
そう言って紫釉はそのまま扉の方へと歩き出したので、由羅は驚いて声をかけた。
「ちょ、ちょっと待ってください!もう帰るんですか!?」
まだ事件の話を聞いていないのだ。
このまま帰られては困る。
思わずそう言った由羅の言葉に、紫釉が足を止めると首を傾げた。
「それは俺にここに泊まって欲しいってこと?」
「えっ!? と、泊まる!?」
「だって由羅は妃だし、帰らないでってそう言うことだろう?」
そう言って紫釉は奥の部屋にある寝台の方をちらりと見た。
突然の話に頭が真っ白になり、二の句が継げないでいる由羅を見て、紫釉がくすっと笑った。
「じゃあね、由羅。良い夢を」
紫釉がぽんと由羅の頭を撫でると、そのまま部屋を出て行ってしまった。
それを動揺したまま見送った由羅は、扉が閉まる音を聞いてハッとした。
「あ……誤魔化された……」
結局、捜査に加わることを有耶無耶にされてしまった。
なかなか手ごわい相手である。
由羅は寝台へと倒れ込むと、深いため息をついた。
(明日こそ、絶対に話を聞かせてもらおう)
敗北感を味わいつつ、由羅はそう固く決意して、その夜は寝ることにした。


