命を狙った皇帝のお飾り妃になりました―この謎、私が解決いたします―

月光を浴びて輝く金の髪が、いつもより更に煌めいて見え、神々しい。
高い鼻梁の形のよい横顔は美しかったが、その眼差しには憂いが滲んでいるように見えた。
由羅はその姿に吸い寄せられるようにして近づくと、紫釉に声をかけた。

「何を考えてるか聞いてもいいですか?」

驚きからか息を呑んだ紫釉は、由羅の姿を認めると小さく微笑んだ。
だがそれは弱々しく、どこか悲哀を含んでいるように見えて、由羅の胸が痛んだ。

「色々だよ」
「……気のせいでなければ伯瑜様のことですか?」

紫釉は無言だったが、それが肯定を示しているということは明らかだ。

「あの……ですね。悲しい気持ちも辛い気持ちも、吐き出しちゃってください。誰かに話せば少しは気持ちが楽になるかもしれませんよ」
「だが……情けない姿を見せることになってしまう」
「私は一応妃ですよ。妃は皇帝を支えるものです。だから情けないなんて思わないので大丈夫です」

意気込むように言った由羅に、紫釉は小さく笑ってから再び月を見上げ、ぽつりと呟くように話し始めた。

「伯瑜は師であり、両親からの愛情に恵まれなかった俺は父のように思っていた。だが伯瑜にとって俺は周家を没落させた憎い男の息子だったんだな」

紫釉はそう辛そうに言ってから、諦めたように力なく言った。

「今回のように紅蘆の甘言に惑わされて寝返る者が多くいるのは事実だ。でも、そのような気持ちを抱かせない程、強く揺るぎない皇帝であるべきなのに、俺にはその力がない。幼い頃から世話をしてくれた伯瑜でさえ俺から離れた。そんな人心を集められない俺は皇帝として失格だね」

自虐的に笑う紫釉に由羅ははっきりと言った。

「それは違うと思います」

紫釉が瞠目して由羅を見つめるのを、由羅もまたまっすぐに見つめ返した。

「紫釉様は凄い皇帝です。私は皇帝としての紫釉様を全て知っているわけではありませんが、少なくとも人身売買禁止の法令は簡単にできるものではありません。他でもない紫釉様だからこそ成し得たことです。そして凌空様や泰然様のように紫釉様を支える人がいます。裏切る人ばかりではない。紫釉様の味方もちゃんといることを忘れないでください」

紫釉は息を止め、魅入られたように由羅を見つめていた。
その瞳は泣きそうな、迷子の子供のようだった。
由羅はそんな紫釉の憂いを晴らしたくて必死で訴えた。

「伯瑜様の事ですが、伯瑜様は紫釉様の話をしている時、とても優しい顔をしていました。時に誇らしそうに、嬉しそうに、紫釉様の活躍を話していました。それこそ、本当の子供や孫の事のように。そんな伯瑜様が紫釉様の事を大切に思っていないわけないじゃないですか」

「そうだろうか?」

「はい」

そうでなければ、紫釉がいないところで紫釉は本当は優しい人間だなんて言わない。
それに由羅に紫釉のことを頼んだなんて言わないだろう。

「伯瑜様は紫釉様を裏切りたくて裏切ったんではないと思います。周一族に対する責任感と紅蘆の甘言で周りが見えなくなっていたのだと思います。私は仕事柄本当に多くの人の裏の顔を見てきました。善良な顔をして裏で悪どい事をしている人もたくさんいました。だから人を見る目は確かですよ」

信じてほしい、と由羅は思った。
紫釉は凄い皇帝だということ、裏切る人間ばかりではないこと、伯瑜が紫釉を大切に思っていたことを。
言葉だけでは伝えきれない。
もどかしく思った由羅は、紫釉を抱きしめた。

「信じてください」

紫釉が一瞬息を呑んだのが分かった。
由羅の腕にじんわりと紫釉の熱が伝わってくる。
紫釉にも由羅の体温と一緒にこの思いが伝わればいい。
そう思って由羅は抱きしめる腕に力を込めた。
あなたは一人じゃない、と。
そう伝わるように。

「……ありがとう。由羅を、信じるよ」

暫くして頭上から聞こえた紫釉の声にも、憂いの色はなくなっていた。



由羅はそれに安堵し、ゆっくりと体を離すと、一つ息を吸ってから気持ちを改める。

「紫釉様に私も話したいことがあるんです」

由羅はずっと気になっていたことを尋ねることにした。

「実は、子供の頃、奴隷商に売られて牢に入れられた時に、金髪のお兄さんと過ごしたことがあるんです。顔はよく覚えていないのですが……帰る場所がないと言った私に自分の元に来るといいと言ってくれました。そしてずっと一緒にいる。ずっと守ると言って髪を撫でてくれたんです。あれは、紫釉様ではありませんか?」

「やっと思い出してくれたんだね」

(やっぱりそうだった……)

優しく微笑みながら答えた紫釉の言葉を聞いて、由羅は納得したものの、一つ疑問が残った。
紫釉は”やっと”思い出したと言った。
つまり、由羅が紫釉を思い出す前に、紫釉は由羅が牢で出会った少女だと分かっていたことになる。

「いつから気づいていたんですか?」
「初めて会った時から。俺はずっと由羅を探していたんだ。各地方の官吏にまで由羅の捜索指示を出してたんだけど、見つけられなくて……。だから由羅と会った時、奇跡だと思ったんだ」

そう言った紫釉は一旦言葉を区切ると、由羅の瞳を覗き込んで微笑んだ。

「俺の話も聞いてくれる?」

紫釉の問いに由羅は小さく頷いた。

「俺は子供の頃の約束を守るために由羅を探して、そして傍に置きたいと思った。だから妃として後宮に入ってもらうことにしたんだ。だけど俺の記憶の中の由羅と今の由羅は全く違っていた」
「幻滅しましたか?」

由羅の問いに、紫釉は緩く頭を振った。

「逆だよ。危険に晒したくなくて事件から遠ざけているのに脱走する行動力、科挙に合格できるほどの知性、心に傷を負った者の心に寄り添おうとする優しさ、美味しいものを食べた時の幸せそうな笑顔……色んな由羅を見て、どんどん惹かれていった」

真っすぐに由羅を見つめる紫釉の瞳には、仄かな熱が宿っているのが見えた。
由羅は目を逸らすことができず、息を止めたまま紫釉を見つめた。
紫釉は静かに言葉を続けた。

「由羅が好きだ。側にいてほしい。……俺を君の帰る場所にしてほしい」

心臓が今まで経験したことのないくらい高速で動いているのが分かる。
脳が甘く痺れたようになり、思考が停止してしまった。

「私は……」

何とか言葉を絞り出そうとしたが、これしか言えなかった。
帰る場所。
それはやはり黒の狼の皆のもとだろう。
ヴァルティアの奇襲によって一族がどこにいるのかは分からないが、探し出して帰りたい。
答えられずにいる由羅に、紫釉は小さく微笑んだ。

「帰る場所は、できた?」

紫釉の言葉に由羅は逡巡し、思わず目を伏せて頷いた。

「……はい」
「そっか」

そう言って紫釉は、嬉しそうな、だけど少し寂しそうな、そんな複雑な表情を浮かべると、もう一度由羅を抱きしめて耳元で囁いた。

「由羅に帰る場所ができて、良かった」

その言葉を由羅は黙って聞くしかできなかった。



いよいよ旅立ちの日。
快晴で、太陽が暑いくらいに照りつけていた。
後宮の入り口の門には、由羅を見送りに、見知った顔が並んだ。
まず蘭香が涙を堪えながら由羅の手を握る。

「由羅様のお部屋はそのままにしておきますね」
「気持ちは嬉しいけど、新しいお妃様が使うだろうから、私の事は気にせず片付けてしまっていいからね」

苦笑しながらそう答えると、次に凌空がにっこりと食えない笑みを浮かべて言った。

「色々ありましたが、今回の件は貴女がいなければ解決しなかった。感謝します。もし、よろしければ妃としてではなく官吏として残っていただいてもいいのですよ? 貴女は優秀ですし、有能な人材は一人でも欲しいですから」
「いえ、私に官吏は務まらないですよ。それに男装しなくてはならないですよね?」
「まぁ、そうなりますね」

潜入捜査は期限が決まっているから何とかなるもので、男装して神経を削ってまで官吏をしたくはない。
丁重にお断りする。
今度は泰然が快活に笑いながら言った。

「由羅、刺客と戦ってたのを見たけど、さすがだな。できたら手合わせしたかったぜ。あ、そうそう、良かったら軍に来てくれてもいいんだぜ! もちろん妃でもいいけどよ!」

口々に出る言葉がまるで由羅に残ってほしいと言っているように聞こえるのだが、気のせいだろうか?
最後に紫釉が、優しく微笑んだ。

「由羅が自由に生きていると分かって嬉しかった。二度と会えないが、俺はずっと由羅の幸せを祈っているよ」

そうだ。
由羅はもう紫釉に会うことはできないのだ。
後宮を出れば紫釉は皇帝、由羅はただの平民に戻るからだ。
寂寥感、それだけではない何か。
心臓が掴まれるように胸がぎゅっと痛む。
だけど行かなくては。
後ろ髪引かれる思いを振り切るように、由羅は精一杯の笑顔で言った。

「では、行きますね。皆さん、短い間でしたけどお世話になりました!」

由羅は一つ礼をしてくるりと踵を返し、鸞凰門(らんおうもん)へ向けて足を踏み出した。
一歩一歩、碧華宮から離れていく。
紫釉と最初に会った時、突然求婚してくるなんて変な人だと思った。
だがヴァルティアから守ってくれたり、人身売買の法案を作ってくれたり。

そしてずっと自分を探してくれていた紫釉は、幼い由羅との約束を守ろうとしてくれた。
それだけで由羅の胸に温かなものが宿り、感謝で胸がいっぱいになる。
それにヴァルティアに触れられるのは嫌なのに、紫釉に触れられても嫌ではない。
むしろドキドキするがそのぬくもりが心地よいとも思ってしまう。
なぜそう思うのかは分からない。
ただ確かなのは、紫釉と別れることが辛いということだ。

(本当にここを出て行っていいの?)

自問して足を止めた由羅の耳に、紫釉の声が響いた。

「由羅!」

紫釉に名を呼ばれ、由羅は振り返る。
顔を見た瞬間、考えるよりも先に由羅は走り出していた。
気持ちばかりが急いて思うように走れない。
ようやく紫釉の前に立ち、あがった息を整えながら由羅は意を決して言った。

「もう少しお飾り妃を引き受けてもいいでしょうか?」

一瞬の間ができる。
それが由羅の不安を煽り、半ば縋るように紫釉を見てしまう。
だが紫釉は驚いて目を見開いたかと思うと、幸せそうに破顔し、そして由羅を抱きしめた。
ふわりと紫釉の白檀の香りに包まれる。

「もちろんだよ!」

その言葉に、蘭香たちも色めき立った。

「いきなり妃がいなくなったら不自然ですよ」
「まだまだ紅蘆派の炙り出しも必要です」
「そうそう後宮で主上を守るってのも衛兵だけじゃ十分じゃねーし」

温かく受け入れられたことに由羅は安堵するとともに、紫釉を抱く力を強くした。
そんな由羅の耳元で紫釉が囁く。

「由羅をずっと守るよ。俺が由羅の帰る場所になる。だから、これからも、よろしくね」
「はい! お飾り妃、精一杯務めさせていただきます!」




後に名君と呼ばれた乾泰国第十四代皇帝紫釉には、翡翠妃と呼ばれる翡翠の瞳の妃がいた。
その妃を皇帝紫釉は寵愛し、ただ一人の妃として愛し抜いた。
だが、人々は知らない。
翡翠妃が皇帝を護り、事が起これば奔走し、闇に紛れて情報を集め、秘密裏に事件を解決していたことを。
そうして繁栄を極めた皇帝紫釉の治世を陰から支えていたことをーー