楽雲の極秘裁定が行われた翌日。
由羅は伯瑜のもとでお茶を楽しんでいた。
外に目をやれば、春の名残のように何輪かの桜の花が残っていたが、ほとんどの枝は柔らかな緑色の若芽に覆われている。
「もう春も終わりますね」
「そうさね。『柳巷還飛絮,春餘幾許時。』」
「『吏人休報事,公作送春詩。』」
伯瑜が詩を詠んじたので、由羅はそれに続く漢詩を言った。
これは春の名残を詠んだ有名な漢詩である。
だが、由羅が続きをそらんじたのが意外だったのか、伯瑜は驚きながらも笑顔を向けた。
「おやおや、この漢詩を知っているのかい?」
「少しだけですが、昔勉強したことがあるので」
「さすが紫釉様の妃じゃ。博学ですな」
「いえいえ」
そう言ってから由羅は紅茶を一口飲んだ。
仄かな甘みが口に広がる。
「今日のお菓子も外国のものですか? 桃酥餅に似てますけど……中身は林檎ですか?」
「そうじゃよ。外国では苹果派というものじゃ」
由羅は珍しそうにいろいろな角度から苹果派を見た後、一口頬張った。
サクサクの食感と黄油の香りが良く、とても美味しかった。
由羅は一呼吸置くと、本題を切り出すことにした。
「そうだ、伯瑜様は外国の物にお詳しいですよね。キニーネってご存じですか?」
「あぁ、確かテフェビア王国にある薬じゃの。キナの樹皮で作られていると聞いたことがあるの」
「さすがですね。私も以前飲んだことがあるのですが、すごく苦くてびっくりしてしまいました。それで気づいたんですけど、貴族の間で飲まれている紅玉薬っていう美容薬はキニーネだったんです。まさか紅玉薬がキニーネとは思いませんでした」
由羅は笑いながら伯瑜を見つめ、反応を見たが、伯瑜は口の端を持ち上げて笑ったままで大きな反応はなかった。
そこで、由羅は更にゆさぶることにした。
「そうそう、以前話した妃候補の怪死事件が解決したようですよ」
「そうなのか。……それで犯人は誰だったんじゃ?」
「魯家当主、魯 楽雲が犯人でした。殺害方法はキニーネと葡萄柚の合食禁を利用したものだったんです。この殺害方法を考えた楽雲ってある意味凄いと思いませんか?」
「……確かにの」
「ただ、彼は気になることを証言したんです。『騙された』と。どうやら彼にこの仕掛けを教えて妃候補を殺害するよう指示した人間がいたようなのです」
「ほう、それは誰か分かったのかい?」
「顔は見ていないとのことでしたが、その人物の特徴は聞きました。白髪の老人で歩き方がぎこちない男性だったそうです」
ここまで話しても顔色一つ変えない伯瑜を、由羅はまっすぐに見つめた。
「その話を聞いて、その特徴に合致する人を私は知っているかもしれません」
「まさか儂だと言いたいのか? ははは、由羅は冗談が好きなのじゃな」
伯瑜は笑って一蹴しようとしたが、由羅はそれには答えなかった。
本当は伯瑜を疑いたくはない。
伯瑜と過ごす時間は心地よく、慣れない後宮生活の中でホッとするような癒しの時間だったからだ。
だが、由羅は樹璃と約束したのだ。
翠蓮を殺した犯人を見つけると。
だからこそ真実を明らかにしなくてはならない。
「伯瑜様はキニーネの存在を知っていました。そして合食禁のことも、葡萄柚のこともご存じですよね」
由羅が初めて伯瑜とお茶をした際、葡萄柚の甘煮をご馳走になった。
そして葡萄柚について教えてもらった。
「そうだとしても、その2つが合食禁だとは今初めて知ったよ」
「いいえ、それはありえません」
その言葉に伯瑜は怪訝な顔をしたが、それを無視して由羅は書棚にあるテフェビア語の医学書を手に取った。
「だってこの本に書いてありますから。伯瑜様は以前この書棚の本は全て読んだと仰ってましたよね」
キニーネと葡萄柚の合食禁について書かれている頁を開き、伯瑜に突きつけるように見せた。
「ここに記されています。伯瑜様はキニーネと葡萄柚が合食禁だと知っていたんです」
「まさか……お前さん、テフェビア語が読めるのか?」
「はい。以前お話ししましたよね。私は養父の仕事の関係でテフェビアに行ったことがあると」
零れんばかりに目を見開いて驚く伯瑜に、由羅は淡々と告げた。
「だが、もし2つが合食禁だと知っていたとしても、楽雲が言っていたという老人が儂である証拠にはならない。たまたま儂に特徴が似ているにすぎぬ」
「楽雲はキニーネと葡萄柚をその老人から紹介されたジャタイという商人から買っていたと証言しました。そしてジャタイは伯瑜様から楽雲を紹介されたと言っています。ジャタイと伯瑜様の取引記録もありますし、ジャタイの事を知らないとは言わせません」
伯瑜は無言だった。
ただ辛そうに顔を歪めていた。
伯瑜を信じたい気持ちはあるが証拠は全て伯瑜が黒だと示している。
「はぁ、楽雲も使えない男だったの」
由羅もまた顔を歪めながら声を絞り出すように伯瑜に尋ねた。
「どうして……紫釉様を裏切るような真似をしたんですか?」
妃候補が次々に怪死したことで、紫釉が妃を迎えられず、後継ぎを作る事さえできない。
その間に紫釉がいなくなれば、我が子を皇位につけさせられるというのが紅蘆の企みのはずだ。
伯瑜の行動は紅蘆の企みに加担するものであり、紫釉を裏切ったことになる。
「どうしてそんなことを? 紫釉様は伯瑜様の教え子じゃないですか! あんなに紫釉様を心配していたのに」
伯瑜は紫釉を気遣い、本当の孫に対するような優しい表情で紫釉の話をしていた。
なのに、どうして紫釉を裏切ったのかと思わずにはいられない。
「……お前さんは何故儂が書庫番をしているか分かるかな?」
由羅は伯瑜の言葉に首を振った。
「以前話した通り、儂はかつて皇太子殿下の教育係という名誉あるお役目をいただいておった。前皇帝陛下の覚えもめでたく、筆頭五家に次ぐ名家であった我が周家は、ますます栄えておったのじゃ。周家は安泰。一族みんながそう思っていた、そんな時じゃった。儂の息子が前皇帝陛下の下した命に異を唱えたのだ」
それは農民に増税を課すものだった。
当時は長い干ばつが続き、農民は重税に苦しんでいた。
そのため身売りや口減らしで子供を売るということが横行していた。
だから、伯瑜の息子はこれ以上の増税を止めるよう進言したのだ。
「それが陛下の不興を買ってしまった。更には周家を快く思わぬ者たちに足元をすくわれて、周家は要職を追われ、あっという間に没落してしまったのじゃ」
「それで伯瑜様は紫釉様の教育係の任を解かれ、書庫番という閑職に追いやられたのですね」
「左様じゃ」
「でもそれは前皇帝が悪いのであって、紫釉様は関係ないじゃありませんか!」
由羅の訴えに伯瑜は辛そうにぎゅっと目を閉じると、少しの時間口をつぐんだあと、ゆっくりと口を開いた。
「儂には10歳になる末の孫娘がおる。とても可愛くて良い子なんじゃ」
突然の脈絡のない話が出て、由羅は内心驚いたが、そのまま伯瑜の言葉を聞くことにした。
「あの当時、没落した周家と婚姻したいという相手がおらず、結婚先を見つけるのが大変じゃった。運よく結婚できても周家出身ということで肩身の狭い思いをしたりと苦労していた者も多かったしの。このままでは孫娘もまた、良縁がくることはないかもしれぬ」
痛々しい表情でそう語る伯瑜から、彼が孫娘を心から案じていることが伝わってきた。
「そんなある日、紅蘆様から第二皇子殿下との縁談を持ちかけられたんじゃ」
ここにきて紅蘆の名前が出たことに、由羅は息を呑んだ。
第二皇子ということは、紅蘆の息子であり、紫釉の義弟である。
「もし第二皇子が皇帝になった暁には、周家を昔通り取り立てると言われた。願ってもない申し出だった。没落して貧しさに苦しんでいる一族を助けたいと思ったよ。だが、話はここで終わらんかった。紅蘆様は見返りを要求してきた」
「それが、妃候補の殺害ですか?」
伯瑜は何も言わなかったが、それこそが肯定だった。
「紫釉様にお子が生まれぬよう、計らえということだった」
「それで4人の妃候補を殺したのですか?」
由羅の言葉に思わず怒りが滲んだ。
そして地位を得るために人を殺した伯瑜を詰りそうになった。
だがその前に、伯瑜は自虐的な表情を浮かべながら己を嘲るように言った。
「紫釉様の教育係の任を解かれても仕方ない。このような権力に目が眩んで裏切るような者に、人を導くことなどできぬな」
その時カツンと音がして入口を見ると、そこには厳しい表情の凌空と泰然が立っていた。
それを見た伯瑜は全てを悟ったようだった。
大きく息を吐いた後、再び由羅を見た。
「もう一つ儂の罪を告白しよう。お前さんの暗殺について楽雲を動かしたのは儂じゃ」
予想はしていた。
だから由羅は驚くこともなく、静かに伯瑜を見つめて問いかけた。
「なぜ私を狙ったのですか?」
「紫釉様が妃を娶り、寵愛しているという噂を耳にしたのじゃが、それは嘘だと思っとった。紫釉様は子供の頃に拉致されてから、人を心から信じないように見えていたからの。だからそんな紫釉様が急に人を愛するとは思えんかった。しかし先日ここで紫釉様と由羅が話している様子を見て、あの噂は本当だと確信したんじゃ。このままでは本当に世継ぎが生まれてしまうかもしれない。だから急ぎお前さんの元に刺客を送ることにしたんじゃよ」
「そうでしたか」
「……それだけかい? 儂に怒りをぶつけてくれて構わぬよ。騙されたと怒ってくれても、人でなしと罵ってくれてもいいんじゃよ」
伯瑜の言葉に由羅は首を振って答えた。
「いいえ。私は今生きています。それに結果的に見れば、あの刺客を捕らえたからこそ楽雲を捕縛し、全ての真実を明らかにすることができましたから」
会話が途絶えたのを見計らったように、入口にいた凌空が静かに告げた。
「周 伯瑜、妃候補殺害および翡翠妃暗殺未遂の罪で捕縛します」
伯瑜は抵抗することなく、不自由な足を引きずりながら歩き出した。
由羅もそれに付き添って入口まで行くと、凌空の促しに応じて伯瑜はその後ろに従った。
そんな伯瑜はふと足を止め、由羅を振り返った。
「……儂の最大の誤算は、お前さんかもしれぬな」
そうして再び歩き出した。
(こんな結末になるなんて思っていなかったわ……)
伯瑜の小さな後姿を見送りながらそう思っていると、物陰から一連の話を聞いていた紫釉が由羅に近づいて、そっと隣に並んだ。
そして去って行く伯瑜を見つめながら小さく言った。
「終わったね」
「はい」
こうして事件は解決を迎えた。
※
由羅は風呂上がりでしっとりと濡れた髪のまま、寝台に倒れ込んだ。
先日、伯瑜が捕縛されたことにより、妃候補怪死事件は解決を迎えた。
事件を解決したことで由羅はお飾り妃を辞することになり、明日後宮を出ることにした。
今夜が後宮で過ごす最後の夜。
目を閉じると様々なことが思い出される。
捜査に加われず脱走したことや、捜査の中で出会った多くの人、紫釉と市場で買い食いして凌空に怒られたこと……。
たった一ヶ月余りだ。
長くもあり短くも感じる一か月だった。
『悪いが由羅の帰る場所はお前の元じゃない。由羅は俺が守る。もう二度と離す気はない』
ふと紫釉の言葉が思い出された。
ヴァルディアが術を使って自分を連れ戻そうとした時に言った言葉だ。
(帰る場所……か)
紫釉のこの言葉には聞き覚えがあった。
それは由羅が奴隷商に売られ、客に買われるまでの間、入れられた牢でのこと。
同じ牢に金の髪が美しい少年がいた。
当時、由羅は6歳くらいだったので彼はそれよりも年上で、今思えば10歳くらいだったのではないかと思う。
少年は人攫いによって奴隷商に売られてしまったらしい。
そんな少年と、由羅は共に牢で過ごしているうちに仲良くなった。
子供たちは次々と客に売られていき、一人また一人と牢からいなくなっていく中、その少年は由羅に言った。
「絶対に僕を助けにやって来る人がいる。だからここを出る時は由羅も一緒だよ」
だがそう言われても、親に売られた由羅にはこの牢を出たとしても帰る場所がなかった。
一方で、攫われてここに来た少年には、待っている人や心配している人がいて、帰る場所がある。
「でも、わたしは帰る場所がないの」
「なら僕の元に来るといいよ。僕が由羅の帰る場所になってあげる。そうして由羅とずっと一緒にいる。ずっと由羅を守る」
そう言って少年は由羅をギュッと抱きしめてくれた。
少年の言葉はヴァルディアと対峙した時に紫釉が言った言葉と重なる。
そして聞かされた紫釉の生い立ち。
彼もまた人攫いによって奴隷商に売られたという。
(あの少年が紫釉様だった?)
そう思う一方で、そんな偶然はあり得ないと否定する自分もいた。
相反する二つの考えが脳内でぐるぐると回る。
脳が熱を持つように感じた由羅は、外の空気が吸いたくなってそっと扉を開けて部屋を出た。
春とは言え、やはり朝夕はまだ冷える。
だが、お風呂上がりで火照った体にはちょうど良かった。
由羅は廊下に出ると、すぐに人の気配に気づいて目を留めた。
そこには月を見上げる紫釉の姿があった。
由羅は伯瑜のもとでお茶を楽しんでいた。
外に目をやれば、春の名残のように何輪かの桜の花が残っていたが、ほとんどの枝は柔らかな緑色の若芽に覆われている。
「もう春も終わりますね」
「そうさね。『柳巷還飛絮,春餘幾許時。』」
「『吏人休報事,公作送春詩。』」
伯瑜が詩を詠んじたので、由羅はそれに続く漢詩を言った。
これは春の名残を詠んだ有名な漢詩である。
だが、由羅が続きをそらんじたのが意外だったのか、伯瑜は驚きながらも笑顔を向けた。
「おやおや、この漢詩を知っているのかい?」
「少しだけですが、昔勉強したことがあるので」
「さすが紫釉様の妃じゃ。博学ですな」
「いえいえ」
そう言ってから由羅は紅茶を一口飲んだ。
仄かな甘みが口に広がる。
「今日のお菓子も外国のものですか? 桃酥餅に似てますけど……中身は林檎ですか?」
「そうじゃよ。外国では苹果派というものじゃ」
由羅は珍しそうにいろいろな角度から苹果派を見た後、一口頬張った。
サクサクの食感と黄油の香りが良く、とても美味しかった。
由羅は一呼吸置くと、本題を切り出すことにした。
「そうだ、伯瑜様は外国の物にお詳しいですよね。キニーネってご存じですか?」
「あぁ、確かテフェビア王国にある薬じゃの。キナの樹皮で作られていると聞いたことがあるの」
「さすがですね。私も以前飲んだことがあるのですが、すごく苦くてびっくりしてしまいました。それで気づいたんですけど、貴族の間で飲まれている紅玉薬っていう美容薬はキニーネだったんです。まさか紅玉薬がキニーネとは思いませんでした」
由羅は笑いながら伯瑜を見つめ、反応を見たが、伯瑜は口の端を持ち上げて笑ったままで大きな反応はなかった。
そこで、由羅は更にゆさぶることにした。
「そうそう、以前話した妃候補の怪死事件が解決したようですよ」
「そうなのか。……それで犯人は誰だったんじゃ?」
「魯家当主、魯 楽雲が犯人でした。殺害方法はキニーネと葡萄柚の合食禁を利用したものだったんです。この殺害方法を考えた楽雲ってある意味凄いと思いませんか?」
「……確かにの」
「ただ、彼は気になることを証言したんです。『騙された』と。どうやら彼にこの仕掛けを教えて妃候補を殺害するよう指示した人間がいたようなのです」
「ほう、それは誰か分かったのかい?」
「顔は見ていないとのことでしたが、その人物の特徴は聞きました。白髪の老人で歩き方がぎこちない男性だったそうです」
ここまで話しても顔色一つ変えない伯瑜を、由羅はまっすぐに見つめた。
「その話を聞いて、その特徴に合致する人を私は知っているかもしれません」
「まさか儂だと言いたいのか? ははは、由羅は冗談が好きなのじゃな」
伯瑜は笑って一蹴しようとしたが、由羅はそれには答えなかった。
本当は伯瑜を疑いたくはない。
伯瑜と過ごす時間は心地よく、慣れない後宮生活の中でホッとするような癒しの時間だったからだ。
だが、由羅は樹璃と約束したのだ。
翠蓮を殺した犯人を見つけると。
だからこそ真実を明らかにしなくてはならない。
「伯瑜様はキニーネの存在を知っていました。そして合食禁のことも、葡萄柚のこともご存じですよね」
由羅が初めて伯瑜とお茶をした際、葡萄柚の甘煮をご馳走になった。
そして葡萄柚について教えてもらった。
「そうだとしても、その2つが合食禁だとは今初めて知ったよ」
「いいえ、それはありえません」
その言葉に伯瑜は怪訝な顔をしたが、それを無視して由羅は書棚にあるテフェビア語の医学書を手に取った。
「だってこの本に書いてありますから。伯瑜様は以前この書棚の本は全て読んだと仰ってましたよね」
キニーネと葡萄柚の合食禁について書かれている頁を開き、伯瑜に突きつけるように見せた。
「ここに記されています。伯瑜様はキニーネと葡萄柚が合食禁だと知っていたんです」
「まさか……お前さん、テフェビア語が読めるのか?」
「はい。以前お話ししましたよね。私は養父の仕事の関係でテフェビアに行ったことがあると」
零れんばかりに目を見開いて驚く伯瑜に、由羅は淡々と告げた。
「だが、もし2つが合食禁だと知っていたとしても、楽雲が言っていたという老人が儂である証拠にはならない。たまたま儂に特徴が似ているにすぎぬ」
「楽雲はキニーネと葡萄柚をその老人から紹介されたジャタイという商人から買っていたと証言しました。そしてジャタイは伯瑜様から楽雲を紹介されたと言っています。ジャタイと伯瑜様の取引記録もありますし、ジャタイの事を知らないとは言わせません」
伯瑜は無言だった。
ただ辛そうに顔を歪めていた。
伯瑜を信じたい気持ちはあるが証拠は全て伯瑜が黒だと示している。
「はぁ、楽雲も使えない男だったの」
由羅もまた顔を歪めながら声を絞り出すように伯瑜に尋ねた。
「どうして……紫釉様を裏切るような真似をしたんですか?」
妃候補が次々に怪死したことで、紫釉が妃を迎えられず、後継ぎを作る事さえできない。
その間に紫釉がいなくなれば、我が子を皇位につけさせられるというのが紅蘆の企みのはずだ。
伯瑜の行動は紅蘆の企みに加担するものであり、紫釉を裏切ったことになる。
「どうしてそんなことを? 紫釉様は伯瑜様の教え子じゃないですか! あんなに紫釉様を心配していたのに」
伯瑜は紫釉を気遣い、本当の孫に対するような優しい表情で紫釉の話をしていた。
なのに、どうして紫釉を裏切ったのかと思わずにはいられない。
「……お前さんは何故儂が書庫番をしているか分かるかな?」
由羅は伯瑜の言葉に首を振った。
「以前話した通り、儂はかつて皇太子殿下の教育係という名誉あるお役目をいただいておった。前皇帝陛下の覚えもめでたく、筆頭五家に次ぐ名家であった我が周家は、ますます栄えておったのじゃ。周家は安泰。一族みんながそう思っていた、そんな時じゃった。儂の息子が前皇帝陛下の下した命に異を唱えたのだ」
それは農民に増税を課すものだった。
当時は長い干ばつが続き、農民は重税に苦しんでいた。
そのため身売りや口減らしで子供を売るということが横行していた。
だから、伯瑜の息子はこれ以上の増税を止めるよう進言したのだ。
「それが陛下の不興を買ってしまった。更には周家を快く思わぬ者たちに足元をすくわれて、周家は要職を追われ、あっという間に没落してしまったのじゃ」
「それで伯瑜様は紫釉様の教育係の任を解かれ、書庫番という閑職に追いやられたのですね」
「左様じゃ」
「でもそれは前皇帝が悪いのであって、紫釉様は関係ないじゃありませんか!」
由羅の訴えに伯瑜は辛そうにぎゅっと目を閉じると、少しの時間口をつぐんだあと、ゆっくりと口を開いた。
「儂には10歳になる末の孫娘がおる。とても可愛くて良い子なんじゃ」
突然の脈絡のない話が出て、由羅は内心驚いたが、そのまま伯瑜の言葉を聞くことにした。
「あの当時、没落した周家と婚姻したいという相手がおらず、結婚先を見つけるのが大変じゃった。運よく結婚できても周家出身ということで肩身の狭い思いをしたりと苦労していた者も多かったしの。このままでは孫娘もまた、良縁がくることはないかもしれぬ」
痛々しい表情でそう語る伯瑜から、彼が孫娘を心から案じていることが伝わってきた。
「そんなある日、紅蘆様から第二皇子殿下との縁談を持ちかけられたんじゃ」
ここにきて紅蘆の名前が出たことに、由羅は息を呑んだ。
第二皇子ということは、紅蘆の息子であり、紫釉の義弟である。
「もし第二皇子が皇帝になった暁には、周家を昔通り取り立てると言われた。願ってもない申し出だった。没落して貧しさに苦しんでいる一族を助けたいと思ったよ。だが、話はここで終わらんかった。紅蘆様は見返りを要求してきた」
「それが、妃候補の殺害ですか?」
伯瑜は何も言わなかったが、それこそが肯定だった。
「紫釉様にお子が生まれぬよう、計らえということだった」
「それで4人の妃候補を殺したのですか?」
由羅の言葉に思わず怒りが滲んだ。
そして地位を得るために人を殺した伯瑜を詰りそうになった。
だがその前に、伯瑜は自虐的な表情を浮かべながら己を嘲るように言った。
「紫釉様の教育係の任を解かれても仕方ない。このような権力に目が眩んで裏切るような者に、人を導くことなどできぬな」
その時カツンと音がして入口を見ると、そこには厳しい表情の凌空と泰然が立っていた。
それを見た伯瑜は全てを悟ったようだった。
大きく息を吐いた後、再び由羅を見た。
「もう一つ儂の罪を告白しよう。お前さんの暗殺について楽雲を動かしたのは儂じゃ」
予想はしていた。
だから由羅は驚くこともなく、静かに伯瑜を見つめて問いかけた。
「なぜ私を狙ったのですか?」
「紫釉様が妃を娶り、寵愛しているという噂を耳にしたのじゃが、それは嘘だと思っとった。紫釉様は子供の頃に拉致されてから、人を心から信じないように見えていたからの。だからそんな紫釉様が急に人を愛するとは思えんかった。しかし先日ここで紫釉様と由羅が話している様子を見て、あの噂は本当だと確信したんじゃ。このままでは本当に世継ぎが生まれてしまうかもしれない。だから急ぎお前さんの元に刺客を送ることにしたんじゃよ」
「そうでしたか」
「……それだけかい? 儂に怒りをぶつけてくれて構わぬよ。騙されたと怒ってくれても、人でなしと罵ってくれてもいいんじゃよ」
伯瑜の言葉に由羅は首を振って答えた。
「いいえ。私は今生きています。それに結果的に見れば、あの刺客を捕らえたからこそ楽雲を捕縛し、全ての真実を明らかにすることができましたから」
会話が途絶えたのを見計らったように、入口にいた凌空が静かに告げた。
「周 伯瑜、妃候補殺害および翡翠妃暗殺未遂の罪で捕縛します」
伯瑜は抵抗することなく、不自由な足を引きずりながら歩き出した。
由羅もそれに付き添って入口まで行くと、凌空の促しに応じて伯瑜はその後ろに従った。
そんな伯瑜はふと足を止め、由羅を振り返った。
「……儂の最大の誤算は、お前さんかもしれぬな」
そうして再び歩き出した。
(こんな結末になるなんて思っていなかったわ……)
伯瑜の小さな後姿を見送りながらそう思っていると、物陰から一連の話を聞いていた紫釉が由羅に近づいて、そっと隣に並んだ。
そして去って行く伯瑜を見つめながら小さく言った。
「終わったね」
「はい」
こうして事件は解決を迎えた。
※
由羅は風呂上がりでしっとりと濡れた髪のまま、寝台に倒れ込んだ。
先日、伯瑜が捕縛されたことにより、妃候補怪死事件は解決を迎えた。
事件を解決したことで由羅はお飾り妃を辞することになり、明日後宮を出ることにした。
今夜が後宮で過ごす最後の夜。
目を閉じると様々なことが思い出される。
捜査に加われず脱走したことや、捜査の中で出会った多くの人、紫釉と市場で買い食いして凌空に怒られたこと……。
たった一ヶ月余りだ。
長くもあり短くも感じる一か月だった。
『悪いが由羅の帰る場所はお前の元じゃない。由羅は俺が守る。もう二度と離す気はない』
ふと紫釉の言葉が思い出された。
ヴァルディアが術を使って自分を連れ戻そうとした時に言った言葉だ。
(帰る場所……か)
紫釉のこの言葉には聞き覚えがあった。
それは由羅が奴隷商に売られ、客に買われるまでの間、入れられた牢でのこと。
同じ牢に金の髪が美しい少年がいた。
当時、由羅は6歳くらいだったので彼はそれよりも年上で、今思えば10歳くらいだったのではないかと思う。
少年は人攫いによって奴隷商に売られてしまったらしい。
そんな少年と、由羅は共に牢で過ごしているうちに仲良くなった。
子供たちは次々と客に売られていき、一人また一人と牢からいなくなっていく中、その少年は由羅に言った。
「絶対に僕を助けにやって来る人がいる。だからここを出る時は由羅も一緒だよ」
だがそう言われても、親に売られた由羅にはこの牢を出たとしても帰る場所がなかった。
一方で、攫われてここに来た少年には、待っている人や心配している人がいて、帰る場所がある。
「でも、わたしは帰る場所がないの」
「なら僕の元に来るといいよ。僕が由羅の帰る場所になってあげる。そうして由羅とずっと一緒にいる。ずっと由羅を守る」
そう言って少年は由羅をギュッと抱きしめてくれた。
少年の言葉はヴァルディアと対峙した時に紫釉が言った言葉と重なる。
そして聞かされた紫釉の生い立ち。
彼もまた人攫いによって奴隷商に売られたという。
(あの少年が紫釉様だった?)
そう思う一方で、そんな偶然はあり得ないと否定する自分もいた。
相反する二つの考えが脳内でぐるぐると回る。
脳が熱を持つように感じた由羅は、外の空気が吸いたくなってそっと扉を開けて部屋を出た。
春とは言え、やはり朝夕はまだ冷える。
だが、お風呂上がりで火照った体にはちょうど良かった。
由羅は廊下に出ると、すぐに人の気配に気づいて目を留めた。
そこには月を見上げる紫釉の姿があった。


