こうして碧華宮を飛び出した由羅であったが、だからと言ってどこかに行く当てがあるわけではない。
悩んだ末に由羅は宣言通り伯瑜に会いに行くことにした。
鵜呑みにしたわけではないが、以前「いつでもお茶を飲みに来ていい」と言われていたからだ。
それに一つ、紫釉について聞きたいこともあった。
(もし、邪魔なようならすぐに帰ることにしましょ)
そう思いながら由羅は書庫に向かい、書庫の入口に着くと恐る恐る中を覗き込んだ。
書庫の中は相変わらず埃っぽい。
貴重な本や書類があるはずなのだから、本の虫干しや部屋の掃除をするなどの管理が必要だと思うのだが、どうやらそういうことをしている様子はない。
書庫の管理人である伯瑜が足腰が悪いことを考えると、この状況は無理もないと思うが……。
そんなことを考えながら由羅は意を決して部屋へと足を踏み入れようとしたその時、背後から声がかけられた。
「由羅?」
「ひゃっ!」
「あぁ、驚かせて悪かったの。どうしたんじゃ?」
「えっと……伯瑜様のお時間があればお茶を飲ませてもらえないかなぁと思いまして」
由羅がおずおずと言うと、伯瑜は満面の笑みを浮かべ、優しく手招きして書庫に入るように促した。
「もちろんいいとも。いつでも歓迎じゃよ。さ、今日も新しい茶菓子があるんだよ。お入り」
「ありがとうございます!」
そうして由羅は伯瑜の後について書庫の奥へと進んだ。
この間来た時と同じく、丸窓の傍にある卓の椅子に腰を下ろす。
燦燦と降り注ぐ光が、暗い書庫内を明るく照らす。
伯瑜はにこやかに茶の準備を始めた。
ゆっくりと丁寧な一つ一つの所作を見ていると、ほっと心が落ち着いていく。
皇帝を暗殺しようとしたこと、お飾り妃になったこと、怪死事件を解決するために奔走していること。
激変した日々から少し離れて一息つけたような気がした。
「ほら紅茶じゃよ。菓子は桃酥餅じゃ」
「わぁ、美味しそうですね。いただきます」
そう言いながら由羅はまず紅茶を一口飲んだ。
前回と同様、独特で甘い香りが鼻腔をくすぐる。
桃酥餅は紅茶によく合い、サクサクとした酥が美味しい。
お菓子に舌鼓を打っていると、伯瑜が思い出したように尋ねてきた。
「そう言えば、由羅は後宮の侍女かな? それとも泰然と知り合いということはどこかの省の女官かな?」
伯瑜の問いに、由羅は妃ですとは言えず、言葉を濁しながらなるべく自然に答えた。
「えっと、後宮の侍女です。泰然様とはそこで知り合いまして、仲良くさせていただいてます」
(後半は嘘じゃないわ。うん)
「そうか、後宮ならば紫釉様をお見かけすることもあるじゃろうか?」
「まぁ、そうですね」
(妃だから一応毎日会っているけど。そこは言えないわよね)
「紫釉様は怖く見えるじゃろうが、本当は優しい良い子なんじゃ。子供の頃はやんちゃで無邪気で、子供らしい笑顔をよく見せておったが、拉致される事件があっての。それ以降、すっかり人が変わったように大人びてしまわれた」
拉致された事件というのはこの間紫釉が言っていた紅蘆の企みによって人買いに売られたという事件のことだろう。
あれが紫釉を変えたのか。
確かに人買いに売られるという経験をすれば、無邪気さを失ってしまっても無理はない。
当時の紫釉が体験した恐怖を想うと、由羅は沈痛な面持ちになった。
伯瑜は由羅を見ながら、真剣な表情で懇願するように言葉を続けた。
「今では感情を見せず冷たい表情で、滅多なことでは表情は変わらん。お立場上仕方がないのかもしれぬが、敵には容赦しないし、官僚の中には冷徹皇帝などと言われている。だが、本当は優しくて良い子じゃ。だからお前さんも紫釉様を怖がる必要はないからの」
伯瑜の言葉を聞き、由羅は思わず首を捻ってしまった。
由羅が知っている紫釉とはあまりにも異なり、他の誰かと勘違いしているのではと思えるほどだ。
「えっと、紫釉様にはよくしてもらっているので大丈夫です」
「そうか。ならば良かった。これからも紫釉様に仕えておくれ。頼んだよ」
「はい」
由羅は笑ってそう答えた後、今日ここに来た目的を思い出した。
「そうだ! 伯瑜様は紫釉様の教育係だったんですよね?」
「遙か昔のことじゃがの」
「では、紫釉様の好きな食べ物って何かご存じですか?」
急にそう尋ねた由羅に、伯瑜は面食らったように一瞬目を見開いた。
そして不思議そうな表情を浮かべたので、由羅は説明することにした。
「実は、この間紫釉様から柿を貰ったんです。私は柿が大好きなので、久しぶりに食べれて嬉しくて。それで何かお礼がしたいなと思いまして」
「なるほどの」
伯瑜はそう言うと、目を細めながら優しく微笑んだ。
そして少し考えた後、「そう言えば」と頷きながら答えた。
「紫釉様は蟹がお好きだったはずじゃ」
「……蟹の季節はまだ先ですね」
「この国の蟹は秋ごろが旬だからの」
その言葉を聞いて由羅はがっくりと肩を落とした。
今は春の終わりなので、今すぐに蟹を贈ることはできない。
「そうなんですね。あ、ということは、私の好物と紫釉様の好物は同じ時期の食べ物になるんですね」
「おお、そうなるかの。だが、蟹と柿を一緒に食べたらいけぬよ。食べ合わせが悪い」
「食べ合わせですか? 何か問題があるんですか?」
「合食禁と言ってな、一緒に食べると体に不調をきたす組み合わせがあるんじゃ。蟹と柿はどちらも体を冷やす効果があり、その上、両方の成分が合わさることで体調不良を引き起こすと言われておる」
食べ物の食べ合わせで体調不良になるなど、初めて聞く話だった。
興味が湧いた由羅はこの話を詳しく聞いてみることにした。
「他にも食べ合わせの悪いものってあるんですか?」
「そうさの。テフェビアの医学書によると、蛸と蕨は蕨の毒で中毒になると言われておる。鮫と梅干、数の子と熊の胆などは死に至るので注意が必要じゃな」
どれも身近な食材なだけに、知らずに食べてしまいそうだ。
しかも不調になるだけではなく、死に至る事さえあるとは、合食禁とは恐ろしい。
そう思っていると、沓音が書庫に響き、官吏が書庫に入って来た。
「伯瑜様。礼部の一昨年の財政報告書が必要なのですが、どこにありますか?」
「ああ、それならあっちじゃ」
そう言って伯瑜は重い腰をぎこちなく上げると、立ち上がってふうと息をついた。
そして由羅に視線を移して言った。
「……少し席を外すよ。暇じゃろうからこの辺の物でも好きに見ておるといい」
「ありがとうございます」
去って行く伯瑜の背中を見送って、一人残された由羅は、出された紅茶に再び口をつけた。
乾泰国で飲む緑茶や黒茶とは全く異なる風味で、由羅はすっかり気に入った。
あとで茶葉を貰って紫釉たちに淹れてあげるのもいいだろう。
(ただ待っているのも暇だわ。お言葉に甘えて本でも読みながら待っていようかしら)
そう思った由羅が伯瑜が個人的に集めた本棚を見ると、いくつかの外国語の本が並んでいることに気づいた。
本の背表紙を眺めているとテフェビア語の本もある。
(伯瑜様はテフェビア語も読めるのね)
まぁ、皇帝の教育係であれば、外国語を教えなくてはならない。
その中にテフェビア語の知識があるのも当然と言えば当然だろう。
それらの本は専門書が多いが、由羅の目にテフェビア語の医学書が留まった。
そう言えば先ほど伯瑜が合食禁の話はテフェビア語の医学書に載っていると言っていた。
さっき聞いたばかりの話題であるし、興味がある。
(食べ物単品では問題はないのに、食べ合わせで死ぬなんて驚きよね。もしかして他にも知らないで食べようとしていた組み合わせがあるかも……)
由羅はそう思うと、医学書をぺらぺらとめくり、合食禁について記載されている頁を探した。
その時、由羅はふと思った。
単体で食べるには問題がない。
だが一緒に食べるもので死に至る。
キニーネは単体ではただの解熱剤だ。
だが、もし他の食べ物と一緒に摂取したら、合食禁と同様に死に至るのでは……
そう考えついた由羅は急いで合食禁について書かれた箇所をくまなく読んでいった。
そして見つけた。「キニーネ」の文字を。
(やっぱり……これだったんだわ……)
今までバラバラであった情報が全て繋がった瞬間だった。
早く紫釉たちに知らせなくてはと思い、駆け出そうとした由羅だったが、さすがに伯瑜に何も言わずに帰るわけにもいかない。
由羅は焦る気持ちを抑え、立ち止まった。
(伯瑜様、早くお戻りにならないかしら)
一刻も早く紫釉たちに話したい。
逸る心を何とか抑えつつ、無駄に部屋の中を右に左に歩いていると、突然名前を呼ばれた。
「由羅」
「紫釉様!?」
声の方を振り向くと、そこには伯瑜だけでなく、紫釉の姿もあった。
意外な人物の登場に由羅が驚いて目を丸くしていると、紫釉はまるで悪戯が成功した子供のように楽し気に笑った。
「どうしてここに!?」
「由羅に早く会いたくて迎えに来たんだ」
満面の笑みでそう言った紫釉は、少しかがんだかと思うと由羅の顔を覗き込んだ。
目の前に紫釉の空色の瞳が迫る。
端正な顔が息がかかるほど近づいてきたので、由羅は思わず息を呑んだ。
すると、紫釉がそっと由羅の額に手を当てた。
「どうされました?」
「うん、熱はないみたいだね」
状況が分からずきょとんとしている由羅に、紫釉は苦笑しながら答えた。
「蘭香が由羅は体調が悪いはずだと言っていたから」
「あぁ、蘭香の勘違いです。ちょっと考え事をしてぼーっとしてたら体調が悪いんじゃないかって騒ぎ出してしまって」
「なら良かった。凌空には『蘭香はいつも大袈裟だから、気にせず仕事を続けてください』って言われたんだけど、やっぱり気になってしまって。心配で居ても立ってもいられなかったよ」
「まさか仕事を抜け出してきたりしてないですよね?」
「大丈夫、ちゃんと終わらせたよ。『できるならいつもこのくらいの速さで仕事して下さい』なんて凌空に言われたけどね」
呆れたような表情を浮かべたであろう凌空の姿が想像できて、由羅は思わず吹き出してしまった。
そんな2人の会話を聞いていた伯瑜が、目を見開いて驚いていた。
「おやおや、紫釉様のそのようなお顔は久しぶりに拝見しました」
さっきの話もだが、由羅の知っている紫釉と伯瑜の知っている紫釉とは異なっているように感じる。
(気のせいかしら?)
そう考えていると、紫釉は後ろから由羅をそっと抱きしめながら、微笑んで答えた。
「ふふふ、由羅はずっと探していた大切な宝物なんです」
「なるほど、紫釉様が直々においでになるということはそういう事でしたか。由羅様、大変失礼いたしました」
紫釉の言動で伯瑜は由羅の正体に気づいたようだ。
先ほど身分を偽ってしまったことがバレてしまい、罪悪感に駆られた。
「こちらこそ、先ほどは正直に言わなくて申し訳ありませんでした。騙すことになってしまって……」
「いやいや、一介の書庫番に名乗ることなどできなかったでしょう」
由羅が妃であることを察した伯瑜は、居住まいを正して急に敬語になってしまった。
だが由羅は一時的なお飾り妃である上、敬われる身分の人間でもない。
「そんな畏まらないで今まで通りの態度で接してください」
「ですが……」
「お願いします」
「分かりました」
そう頷いた伯瑜は、今度は紫釉に向き直って言った。
「それにしても外廷では皆、紫釉様がお妃様を溺愛されていると聞いておりましたが、いやはや誠だとは。仲睦まじいようで何よりでございます」
その表情はまるで本当の孫に対するかのような優しいものだった。
だが、由羅としてはその生温かい目にも感じられ、なんとなく気恥ずかしくなってしまった。
(むずむずする……あ、それどころじゃなかった!)
早く今回の殺人事件の仕掛けが分かったことを伝えなくては。
「あの、伯瑜様。急用を思い出したのでこれで失礼します」
「おやそうかい。じゃあ、また遊びに来るとよい。紫釉様も是非お越しくだされ」
「ありがとうございます。由羅と2人でまた来ます」
「では伯瑜様、ご馳走様でした」
先ほど思いついた答えを紫釉に早く言いたくて、由羅は伯瑜に礼を言うと、足早に書庫を出た。
図書寮の門まで紫釉を引っ張るようにして歩いたので、紫釉は驚きと戸惑いの声を上げた。
「どうしたんだい? そんなに急がなくても」
「実は、4人の殺害方法が分かったかもしれないんです」
由羅は周りに聞こえないよう声をひそめながら、さらに足を速めた。
「ですから、早く碧華宮に戻りましょう。話はそこで」
「分かった」
そうして由羅は紫釉の一歩後ろに下がり、皇帝の付き添い侍女を装って碧華宮へと急いだ。
悩んだ末に由羅は宣言通り伯瑜に会いに行くことにした。
鵜呑みにしたわけではないが、以前「いつでもお茶を飲みに来ていい」と言われていたからだ。
それに一つ、紫釉について聞きたいこともあった。
(もし、邪魔なようならすぐに帰ることにしましょ)
そう思いながら由羅は書庫に向かい、書庫の入口に着くと恐る恐る中を覗き込んだ。
書庫の中は相変わらず埃っぽい。
貴重な本や書類があるはずなのだから、本の虫干しや部屋の掃除をするなどの管理が必要だと思うのだが、どうやらそういうことをしている様子はない。
書庫の管理人である伯瑜が足腰が悪いことを考えると、この状況は無理もないと思うが……。
そんなことを考えながら由羅は意を決して部屋へと足を踏み入れようとしたその時、背後から声がかけられた。
「由羅?」
「ひゃっ!」
「あぁ、驚かせて悪かったの。どうしたんじゃ?」
「えっと……伯瑜様のお時間があればお茶を飲ませてもらえないかなぁと思いまして」
由羅がおずおずと言うと、伯瑜は満面の笑みを浮かべ、優しく手招きして書庫に入るように促した。
「もちろんいいとも。いつでも歓迎じゃよ。さ、今日も新しい茶菓子があるんだよ。お入り」
「ありがとうございます!」
そうして由羅は伯瑜の後について書庫の奥へと進んだ。
この間来た時と同じく、丸窓の傍にある卓の椅子に腰を下ろす。
燦燦と降り注ぐ光が、暗い書庫内を明るく照らす。
伯瑜はにこやかに茶の準備を始めた。
ゆっくりと丁寧な一つ一つの所作を見ていると、ほっと心が落ち着いていく。
皇帝を暗殺しようとしたこと、お飾り妃になったこと、怪死事件を解決するために奔走していること。
激変した日々から少し離れて一息つけたような気がした。
「ほら紅茶じゃよ。菓子は桃酥餅じゃ」
「わぁ、美味しそうですね。いただきます」
そう言いながら由羅はまず紅茶を一口飲んだ。
前回と同様、独特で甘い香りが鼻腔をくすぐる。
桃酥餅は紅茶によく合い、サクサクとした酥が美味しい。
お菓子に舌鼓を打っていると、伯瑜が思い出したように尋ねてきた。
「そう言えば、由羅は後宮の侍女かな? それとも泰然と知り合いということはどこかの省の女官かな?」
伯瑜の問いに、由羅は妃ですとは言えず、言葉を濁しながらなるべく自然に答えた。
「えっと、後宮の侍女です。泰然様とはそこで知り合いまして、仲良くさせていただいてます」
(後半は嘘じゃないわ。うん)
「そうか、後宮ならば紫釉様をお見かけすることもあるじゃろうか?」
「まぁ、そうですね」
(妃だから一応毎日会っているけど。そこは言えないわよね)
「紫釉様は怖く見えるじゃろうが、本当は優しい良い子なんじゃ。子供の頃はやんちゃで無邪気で、子供らしい笑顔をよく見せておったが、拉致される事件があっての。それ以降、すっかり人が変わったように大人びてしまわれた」
拉致された事件というのはこの間紫釉が言っていた紅蘆の企みによって人買いに売られたという事件のことだろう。
あれが紫釉を変えたのか。
確かに人買いに売られるという経験をすれば、無邪気さを失ってしまっても無理はない。
当時の紫釉が体験した恐怖を想うと、由羅は沈痛な面持ちになった。
伯瑜は由羅を見ながら、真剣な表情で懇願するように言葉を続けた。
「今では感情を見せず冷たい表情で、滅多なことでは表情は変わらん。お立場上仕方がないのかもしれぬが、敵には容赦しないし、官僚の中には冷徹皇帝などと言われている。だが、本当は優しくて良い子じゃ。だからお前さんも紫釉様を怖がる必要はないからの」
伯瑜の言葉を聞き、由羅は思わず首を捻ってしまった。
由羅が知っている紫釉とはあまりにも異なり、他の誰かと勘違いしているのではと思えるほどだ。
「えっと、紫釉様にはよくしてもらっているので大丈夫です」
「そうか。ならば良かった。これからも紫釉様に仕えておくれ。頼んだよ」
「はい」
由羅は笑ってそう答えた後、今日ここに来た目的を思い出した。
「そうだ! 伯瑜様は紫釉様の教育係だったんですよね?」
「遙か昔のことじゃがの」
「では、紫釉様の好きな食べ物って何かご存じですか?」
急にそう尋ねた由羅に、伯瑜は面食らったように一瞬目を見開いた。
そして不思議そうな表情を浮かべたので、由羅は説明することにした。
「実は、この間紫釉様から柿を貰ったんです。私は柿が大好きなので、久しぶりに食べれて嬉しくて。それで何かお礼がしたいなと思いまして」
「なるほどの」
伯瑜はそう言うと、目を細めながら優しく微笑んだ。
そして少し考えた後、「そう言えば」と頷きながら答えた。
「紫釉様は蟹がお好きだったはずじゃ」
「……蟹の季節はまだ先ですね」
「この国の蟹は秋ごろが旬だからの」
その言葉を聞いて由羅はがっくりと肩を落とした。
今は春の終わりなので、今すぐに蟹を贈ることはできない。
「そうなんですね。あ、ということは、私の好物と紫釉様の好物は同じ時期の食べ物になるんですね」
「おお、そうなるかの。だが、蟹と柿を一緒に食べたらいけぬよ。食べ合わせが悪い」
「食べ合わせですか? 何か問題があるんですか?」
「合食禁と言ってな、一緒に食べると体に不調をきたす組み合わせがあるんじゃ。蟹と柿はどちらも体を冷やす効果があり、その上、両方の成分が合わさることで体調不良を引き起こすと言われておる」
食べ物の食べ合わせで体調不良になるなど、初めて聞く話だった。
興味が湧いた由羅はこの話を詳しく聞いてみることにした。
「他にも食べ合わせの悪いものってあるんですか?」
「そうさの。テフェビアの医学書によると、蛸と蕨は蕨の毒で中毒になると言われておる。鮫と梅干、数の子と熊の胆などは死に至るので注意が必要じゃな」
どれも身近な食材なだけに、知らずに食べてしまいそうだ。
しかも不調になるだけではなく、死に至る事さえあるとは、合食禁とは恐ろしい。
そう思っていると、沓音が書庫に響き、官吏が書庫に入って来た。
「伯瑜様。礼部の一昨年の財政報告書が必要なのですが、どこにありますか?」
「ああ、それならあっちじゃ」
そう言って伯瑜は重い腰をぎこちなく上げると、立ち上がってふうと息をついた。
そして由羅に視線を移して言った。
「……少し席を外すよ。暇じゃろうからこの辺の物でも好きに見ておるといい」
「ありがとうございます」
去って行く伯瑜の背中を見送って、一人残された由羅は、出された紅茶に再び口をつけた。
乾泰国で飲む緑茶や黒茶とは全く異なる風味で、由羅はすっかり気に入った。
あとで茶葉を貰って紫釉たちに淹れてあげるのもいいだろう。
(ただ待っているのも暇だわ。お言葉に甘えて本でも読みながら待っていようかしら)
そう思った由羅が伯瑜が個人的に集めた本棚を見ると、いくつかの外国語の本が並んでいることに気づいた。
本の背表紙を眺めているとテフェビア語の本もある。
(伯瑜様はテフェビア語も読めるのね)
まぁ、皇帝の教育係であれば、外国語を教えなくてはならない。
その中にテフェビア語の知識があるのも当然と言えば当然だろう。
それらの本は専門書が多いが、由羅の目にテフェビア語の医学書が留まった。
そう言えば先ほど伯瑜が合食禁の話はテフェビア語の医学書に載っていると言っていた。
さっき聞いたばかりの話題であるし、興味がある。
(食べ物単品では問題はないのに、食べ合わせで死ぬなんて驚きよね。もしかして他にも知らないで食べようとしていた組み合わせがあるかも……)
由羅はそう思うと、医学書をぺらぺらとめくり、合食禁について記載されている頁を探した。
その時、由羅はふと思った。
単体で食べるには問題がない。
だが一緒に食べるもので死に至る。
キニーネは単体ではただの解熱剤だ。
だが、もし他の食べ物と一緒に摂取したら、合食禁と同様に死に至るのでは……
そう考えついた由羅は急いで合食禁について書かれた箇所をくまなく読んでいった。
そして見つけた。「キニーネ」の文字を。
(やっぱり……これだったんだわ……)
今までバラバラであった情報が全て繋がった瞬間だった。
早く紫釉たちに知らせなくてはと思い、駆け出そうとした由羅だったが、さすがに伯瑜に何も言わずに帰るわけにもいかない。
由羅は焦る気持ちを抑え、立ち止まった。
(伯瑜様、早くお戻りにならないかしら)
一刻も早く紫釉たちに話したい。
逸る心を何とか抑えつつ、無駄に部屋の中を右に左に歩いていると、突然名前を呼ばれた。
「由羅」
「紫釉様!?」
声の方を振り向くと、そこには伯瑜だけでなく、紫釉の姿もあった。
意外な人物の登場に由羅が驚いて目を丸くしていると、紫釉はまるで悪戯が成功した子供のように楽し気に笑った。
「どうしてここに!?」
「由羅に早く会いたくて迎えに来たんだ」
満面の笑みでそう言った紫釉は、少しかがんだかと思うと由羅の顔を覗き込んだ。
目の前に紫釉の空色の瞳が迫る。
端正な顔が息がかかるほど近づいてきたので、由羅は思わず息を呑んだ。
すると、紫釉がそっと由羅の額に手を当てた。
「どうされました?」
「うん、熱はないみたいだね」
状況が分からずきょとんとしている由羅に、紫釉は苦笑しながら答えた。
「蘭香が由羅は体調が悪いはずだと言っていたから」
「あぁ、蘭香の勘違いです。ちょっと考え事をしてぼーっとしてたら体調が悪いんじゃないかって騒ぎ出してしまって」
「なら良かった。凌空には『蘭香はいつも大袈裟だから、気にせず仕事を続けてください』って言われたんだけど、やっぱり気になってしまって。心配で居ても立ってもいられなかったよ」
「まさか仕事を抜け出してきたりしてないですよね?」
「大丈夫、ちゃんと終わらせたよ。『できるならいつもこのくらいの速さで仕事して下さい』なんて凌空に言われたけどね」
呆れたような表情を浮かべたであろう凌空の姿が想像できて、由羅は思わず吹き出してしまった。
そんな2人の会話を聞いていた伯瑜が、目を見開いて驚いていた。
「おやおや、紫釉様のそのようなお顔は久しぶりに拝見しました」
さっきの話もだが、由羅の知っている紫釉と伯瑜の知っている紫釉とは異なっているように感じる。
(気のせいかしら?)
そう考えていると、紫釉は後ろから由羅をそっと抱きしめながら、微笑んで答えた。
「ふふふ、由羅はずっと探していた大切な宝物なんです」
「なるほど、紫釉様が直々においでになるということはそういう事でしたか。由羅様、大変失礼いたしました」
紫釉の言動で伯瑜は由羅の正体に気づいたようだ。
先ほど身分を偽ってしまったことがバレてしまい、罪悪感に駆られた。
「こちらこそ、先ほどは正直に言わなくて申し訳ありませんでした。騙すことになってしまって……」
「いやいや、一介の書庫番に名乗ることなどできなかったでしょう」
由羅が妃であることを察した伯瑜は、居住まいを正して急に敬語になってしまった。
だが由羅は一時的なお飾り妃である上、敬われる身分の人間でもない。
「そんな畏まらないで今まで通りの態度で接してください」
「ですが……」
「お願いします」
「分かりました」
そう頷いた伯瑜は、今度は紫釉に向き直って言った。
「それにしても外廷では皆、紫釉様がお妃様を溺愛されていると聞いておりましたが、いやはや誠だとは。仲睦まじいようで何よりでございます」
その表情はまるで本当の孫に対するかのような優しいものだった。
だが、由羅としてはその生温かい目にも感じられ、なんとなく気恥ずかしくなってしまった。
(むずむずする……あ、それどころじゃなかった!)
早く今回の殺人事件の仕掛けが分かったことを伝えなくては。
「あの、伯瑜様。急用を思い出したのでこれで失礼します」
「おやそうかい。じゃあ、また遊びに来るとよい。紫釉様も是非お越しくだされ」
「ありがとうございます。由羅と2人でまた来ます」
「では伯瑜様、ご馳走様でした」
先ほど思いついた答えを紫釉に早く言いたくて、由羅は伯瑜に礼を言うと、足早に書庫を出た。
図書寮の門まで紫釉を引っ張るようにして歩いたので、紫釉は驚きと戸惑いの声を上げた。
「どうしたんだい? そんなに急がなくても」
「実は、4人の殺害方法が分かったかもしれないんです」
由羅は周りに聞こえないよう声をひそめながら、さらに足を速めた。
「ですから、早く碧華宮に戻りましょう。話はそこで」
「分かった」
そうして由羅は紫釉の一歩後ろに下がり、皇帝の付き添い侍女を装って碧華宮へと急いだ。


