人々が寝静まった夜。
由羅は城壁の上に立って、一つ息をついた。
この仕事――皇帝暗殺などと言う物騒な事はしたくはないのだが、事情が事情だけに仕方がない。
それに失敗すればこちらの首が飛ぶのだ。
由羅は緊張を抑えるように、大きく深呼吸した。
そして足音も立てずに軽やかに城壁の上を駆ける。
足音を消すことも、素早く駆け抜けることも、“黒の狼”の一族である由羅にとっては朝飯前だ。
見張りの兵士が見えたが、由羅の存在に気づく者はいなかった。
それ故、皇帝の寝所まではあっという間に着くことができた。
(間もなく寝所ね。……でもここから行くと見張りと遭遇しちゃうな)
さすがに皇帝の寝所の周りには見回りの兵士が多い。
由羅は茂みに身を潜め、その兵士が一人になる隙を見計らってそっと背後に近づく。
手刀を首に食らわせると、兵士は音もなく崩れ落ちた。
それを繰り返し、最後の見張りも気絶させた。
(よし、第一関門突破)
後は皇帝を殺すのみ。
たかが一人の人間。
しかもそれは武道の達人ではない非力な人間だ。
由羅自身も一族の中では剣の腕が立つ方ではないが、それでもある程度は訓練を受けている。
(大丈夫、落ち着けばできるわ)
そう自分に言い聞かせるよう頷くと、素早く皇帝の寝所の扉を開けて中に体を滑り込ませた。
そして足音もなく皇帝の寝台まで行く。
そっとその脇に立てば、人がこちらに背を向けたまま安らかな寝息を立てて眠っていた。
(申し訳ないけど、その命、頂戴します)
由羅は眠る皇帝を刺そうと剣を振り上げた。
それを一気に下ろす。
その時だった。
「はっ!」
「!!」
皇帝は小さく叫んで起き上がると寝台に隠していたと思われる短剣で由羅の剣を瞬時に弾いた。
由羅は咄嗟の事に驚きながらも、後ろに飛びのいて態勢を整える。
「っ!」
由羅はそのまま皇帝に向かって剣を繰り出すが、その度に皇帝は剣で応戦する。
二度三度と打ち合いが続く。
月明かりもない室内は真っ暗で、そんな暗闇の中で由羅の剣を正確に防ぐ皇帝に驚きを隠せない。
由羅は夜目が効くためこの暗がりも問題ないが、まさか皇帝が反撃できるとは思わなかった。
(なんで!?)
動揺していると、逆に皇帝が決定打となるべく一撃を繰り出したので、由羅は慌てて身を反転させ、そのまま壁を蹴って勢いをつけると上から剣を振り下ろした。
「はあ!」
だが皇帝はその剣を弾く。
同時に由羅の腹に思いきり蹴りを入れた。
痛みで顔を顰めた由羅は蹴られた勢いのまま屏風を薙ぎ倒す。
後ろに飾られていた壺と思われる陶器が割れる音が室内に響いた。
由羅は床に倒れたまま体勢を整える間もなく皇帝の剣が振り下ろされる。
それを転がるようにして避けた。
「くっ!」
由羅は手近にあった椅子を掴むと皇帝へと投げつける。
そして直ぐに動いた。
皇帝の意識を椅子に向け、由羅は身を潜ませて皇帝の右斜め下へと入り込み、その死角から一気に立ち上がり、喉元を目がけて剣を下段から上段へと振り上げた。
だが、皇帝は素早く身を躱し、由羅の剣をすれすれのところで避ける。
行き場を失った剣が虚しく空を斬った。
その一瞬の隙を、皇帝は見逃さなかった。
シュンと音がしたかと思った時には由羅の喉元に皇帝の剣が突きつけられていた。
動けば死ぬ。
息を呑んだまま硬直して動けずにいると、今まで厚い雲でその姿が隠されていた月が現れ、部屋を照らし出す。
そして互いの顔がはっきりと見えた瞬間、由羅は愕然とした。
同時に皇帝も由羅を見て驚いた表情を浮かべ、瞠目したまま互いに動けなかった。
そして声を絞り出したようにようやく紡ぎ出した言葉は、静かな室内にやけに響いた。
「君は……」
「紫釉様?」
そこには、昼間街で助けた紫釉の姿があった。
(紫釉様が……皇帝?)
混乱したまま由羅が紫釉の顔をじっと見つめていると、部屋の外から兵士が切羽詰まった声で呼びかけてきた。
「陛下、何かありましたか? 物音がしましたが」
その声に由羅も紫釉もハッと我に返った。
このまま兵に捕らえられてしまうのだろう。
そう思って由羅は身を固くしたが、紫釉は平静な声で兵士に答えた。
「大丈夫だ。よろめいて壺を割ってしまっただけだ」
「左様でしたか。片付けに侍女を呼びましょうか?」
「いや、大丈夫だ。それより、茶を用意して欲しい。茶器は2つ持ってきてもらえるか。それと凌空と泰然を呼んでくれ」
「御意」
兵士が去る一方で、由羅は紫釉の対応に戸惑ってしまった。
本来ならば由羅を兵に引き渡すだろうが、紫釉はそうしなかったからだ。
混乱する由羅をよそに、紫釉は入り口で侍女から茶器を受け取ると、そのまま茶の準備を始めた。
※
どうしてこうなった?
由羅はまだ混乱したまま目の前に置かれた茶器を見つめた。
茶器からは湯気が立ち上り、ジャスミンの華やかな香りが漂っている。
「さぁ、飲んで。毒は入ってないよ」
「はぁ」
そもそも毒を入れるなら、殺そうとしている自分が入れるべきではないか。
紫釉を見ると、にっこりと笑って目でお茶を飲むように促してくる。
由羅は促されるままにジャスミン茶を一口飲んだ。
(美味しい……)
昼間に飲んだものと同じくらい、いやそれ以上に香りのよいジャスミン茶であった。
だが頭の中は突然の展開についていけない。
先ほどまで殺そうとしていた皇帝と、何故お茶を飲んでいるのだろうか?
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
(暗殺に失敗したってことは私は死罪よね)
死ぬのは怖くない。
今までも死線を乗り越え、死と隣り合わせの世界で生きてきた由羅にとっては来るべき時が来てしまったのだと悟った。
由羅の手にあるお茶が、最後の飲み物になるかもしれない。
そう思うと由羅はゆっくりとそれを飲み干した。
その様子を笑みを浮かべて見ていた紫釉が徐に口を開く。
「由羅はなんで俺の命を狙ったの? 誰かに命じられた?」
「……はい」
由羅は床に視線を落としながら小さく頷いた。
ここまできたらじたばたしても仕方がない。
そもそも暗殺に失敗してもアイツには喋るなとは言われていない。
だから由羅は腹を括って紫釉の問いに答えることにした。
「テフェビア王国の第二王子ヴァルディアです」
由羅があまりにもあっさり答えたので紫釉は目を丸くした。
「そんなに簡単に喋ってしまって大丈夫なの?」
「隠す必要もないですし、むしろ皇帝暗殺を企てたとか言ってヴァルディアを殺して欲しいくらいです。まぁ私がその最期を見れないのは残念ですけど」
由羅は思わず吐き捨てるように言ってしまった。
自分は皇帝暗殺の罪で処刑されるのだ。
最後の悪あがきとして、紫釉がこの件を持ち出してテフェビア王国を攻め滅ぼしてくれれば少しは溜飲が下がると言うものだ。
「何か事情があるのかい?」
気遣わし気に真っすぐに見る紫釉に答えるように、由羅は身の上を話すことにした。
「『黒の狼』って知ってますか?」
「もちろんだよ。有名な闇組織だよね。頼めば汚れ仕事も何でもやってくれるって言う」
「私はそこの人間なんです」
由羅の言葉に紫釉が小さく息を呑む音が聞こえた。
「黒の狼は闇組織と言われてますが、実は一つの一族なんです。幼い頃、奴隷として売られそうになっていた私を救ってくれたのが、黒の狼の長である崔袁でした」
由羅はこの国によくある黒髪だが、目の色は鮮やかな緑なのだ。
黒の髪に翡翠色の目という容姿はこの国では非常に珍しい。
それゆえ由羅は親によって奴隷商に売られた。
その後、奴隷として売られる直前に崔袁が助けてくれたのだ。
「崔袁は私を自分の娘として育ててくれました。そして一族の皆も私の事を受け入れてくれてとてもよくしてくれました。ですが、先日崔袁が亡くなったんです」
誰よりも強い崔袁だったが依頼の途中での戦いで、爆発に巻き込まれそうになった子供を庇って重傷を負い、それが原因で命を落としたのだ。
暗殺集団だの闇組織だのと言われる一族だが人の情には厚く、無関係な人間を傷つけないという矜持を持っていた。
そんな一族の長である崔袁は特にその矜持が強く、だからこそ子供を守ったことが死因になったのは崔袁らしいと思うし、納得もいく。
「黒の狼は大きな一族ではありません。崔袁が亡くなった穴を埋めるため、戦力となる者は方々に仕事に出ていました。村に残ったのは弱い者や子供たちだけ。私と幼馴染の宇航が留守役をしていました。そんなある日、テフェビア王国のヴァルディアが突然襲ってきたのです」
一族は人が容易に立ち入れない山奥にひっそりと暮らしていた。
それゆえ村の場所が特定されることなど今までなかったのだ。
だがどこからか情報が漏れたのだ。
「一族と共に逃げた私と宇航は、最後尾を走っていました。だけど、不意を突かれて宇航と私は捕らえられてしまったんです。捕らえられた私たちにヴァルディアは言ったのです。宇航の命と引き換えに私の体を差し出せと」
おそらくヴァルディアは由羅の珍しい見目に興味を惹かれたのだろう。
それに加え、黒の狼としての利用価値があると踏んだのかもしれない。
由羅がそう言った瞬間パリンという硬質な音が室内に響き、紫釉の足元に茶器の破片がばらばらと散らばった。
見れば紫釉が持っていた茶器を握り潰していた。
「なんだって」
紫釉の纏う空気が黒いものに変わり、なんとなく静かな怒りが漂っているのを感じ、由羅は思わず息を呑んだ。
(な、何か、まずいことを言ったかしら!?)
「まさか体を許したの?」
「そ、そんなことはしません!」
地を這うような紫釉の声に驚きながら、由羅は慌てて否定した。
すると紫釉は安堵したかのような表情を見せ、小さく咳払いをした後に再び元の表情に戻った。
先程の剣呑な空気は何だったのか少々気にはなったが、そこは突っ込まないことにした。
「それで、その後どうしたの?」
「宇航を助けてもらうという選択をしました」
この提案を拒否すれば宇航が殺されてしまう。
考えた由羅は、宇航を解放してもらう道を選んだ。
だが由羅だとて黙って体を捧げる程おとなしい人間でもない。
むしろ寝所に連れて行かれた際にはヴァルディアを殺そうとしたり、逃げ出そうとしたりもした。
その度に多勢に無勢でヴァルディアの部下に取り押さえられてしまったのだが、由羅の反抗が20回を超えた辺りでとうとうヴァルディアが折れた。
『そう毎度毎度殺されそうになっては敵わない。いちいち取り押さえるのも面倒だ』
そう言ってヴァルディアはまた新しい取引を持ちかけてきた。
『そんなに俺のものになるのが嫌なのなら、こうしよう。乾泰国の皇帝を殺せ。そうしたらお前を自由にしてやろう。もし殺せなかったら今度こそお前には大人しく俺の玩具になってもらおうか』
乾泰国皇帝を殺せば由羅は自由となる。
由羅はその取引を受けることにした。
「でも今なら逃げれるんじゃないかい?」
「私の右手を見てください」
由羅はそう言って視線を自らの右手に向ける。
甲の部分には赤く発光する紋様が浮き出ていた。
「呪い?」
紫釉の言葉に由羅は小さく頷いた。
「取引の期限は二ヶ月。二ヶ月で皇帝を暗殺できなければこの呪いが発動して私は自分の意思を奪われてヴァルディアに一生隷属することになる。だから私が自由になるためには……皇帝を暗殺するしか道はなかったんです」
「なるほど。そういう事情があったんだ」
「はい。以上が貴方を殺そうとした理由です」
「事情は分かったよ」
「じゃあ、すぱっと殺っちゃってください!」
由羅はすくりと立ち上がると、どこからでも殺せるように紫釉に向かって両腕を開いた。
このような結果になってしまったのは無念だが、ヴァルディアに凌辱されるよりはマシである。
願わくば、紫釉がこのことを外交問題にしてヴァルディアに報復してくれればと思う。
(そもそも他人の命を奪って自分が自由になろうとしたこと自体が間違いだったんだわ)
黒の狼は無関係な人間を傷つけないという矜持を持っている。
それなのにそれに背いた罰だ。
由羅は覚悟を決めて目を閉じた。
なのに紫釉が動く気配はない。
不思議に思っておそるおそる目を開けると、なぜか紫釉はにっこりと笑っていた。
「大丈夫、殺さないから」
「……え? 殺さないんですか?」
意味が分からず首を傾げた由羅に対し、紫釉は衝撃的な一言を言った。
「俺のお嫁さんにならない?」
と。
由羅は城壁の上に立って、一つ息をついた。
この仕事――皇帝暗殺などと言う物騒な事はしたくはないのだが、事情が事情だけに仕方がない。
それに失敗すればこちらの首が飛ぶのだ。
由羅は緊張を抑えるように、大きく深呼吸した。
そして足音も立てずに軽やかに城壁の上を駆ける。
足音を消すことも、素早く駆け抜けることも、“黒の狼”の一族である由羅にとっては朝飯前だ。
見張りの兵士が見えたが、由羅の存在に気づく者はいなかった。
それ故、皇帝の寝所まではあっという間に着くことができた。
(間もなく寝所ね。……でもここから行くと見張りと遭遇しちゃうな)
さすがに皇帝の寝所の周りには見回りの兵士が多い。
由羅は茂みに身を潜め、その兵士が一人になる隙を見計らってそっと背後に近づく。
手刀を首に食らわせると、兵士は音もなく崩れ落ちた。
それを繰り返し、最後の見張りも気絶させた。
(よし、第一関門突破)
後は皇帝を殺すのみ。
たかが一人の人間。
しかもそれは武道の達人ではない非力な人間だ。
由羅自身も一族の中では剣の腕が立つ方ではないが、それでもある程度は訓練を受けている。
(大丈夫、落ち着けばできるわ)
そう自分に言い聞かせるよう頷くと、素早く皇帝の寝所の扉を開けて中に体を滑り込ませた。
そして足音もなく皇帝の寝台まで行く。
そっとその脇に立てば、人がこちらに背を向けたまま安らかな寝息を立てて眠っていた。
(申し訳ないけど、その命、頂戴します)
由羅は眠る皇帝を刺そうと剣を振り上げた。
それを一気に下ろす。
その時だった。
「はっ!」
「!!」
皇帝は小さく叫んで起き上がると寝台に隠していたと思われる短剣で由羅の剣を瞬時に弾いた。
由羅は咄嗟の事に驚きながらも、後ろに飛びのいて態勢を整える。
「っ!」
由羅はそのまま皇帝に向かって剣を繰り出すが、その度に皇帝は剣で応戦する。
二度三度と打ち合いが続く。
月明かりもない室内は真っ暗で、そんな暗闇の中で由羅の剣を正確に防ぐ皇帝に驚きを隠せない。
由羅は夜目が効くためこの暗がりも問題ないが、まさか皇帝が反撃できるとは思わなかった。
(なんで!?)
動揺していると、逆に皇帝が決定打となるべく一撃を繰り出したので、由羅は慌てて身を反転させ、そのまま壁を蹴って勢いをつけると上から剣を振り下ろした。
「はあ!」
だが皇帝はその剣を弾く。
同時に由羅の腹に思いきり蹴りを入れた。
痛みで顔を顰めた由羅は蹴られた勢いのまま屏風を薙ぎ倒す。
後ろに飾られていた壺と思われる陶器が割れる音が室内に響いた。
由羅は床に倒れたまま体勢を整える間もなく皇帝の剣が振り下ろされる。
それを転がるようにして避けた。
「くっ!」
由羅は手近にあった椅子を掴むと皇帝へと投げつける。
そして直ぐに動いた。
皇帝の意識を椅子に向け、由羅は身を潜ませて皇帝の右斜め下へと入り込み、その死角から一気に立ち上がり、喉元を目がけて剣を下段から上段へと振り上げた。
だが、皇帝は素早く身を躱し、由羅の剣をすれすれのところで避ける。
行き場を失った剣が虚しく空を斬った。
その一瞬の隙を、皇帝は見逃さなかった。
シュンと音がしたかと思った時には由羅の喉元に皇帝の剣が突きつけられていた。
動けば死ぬ。
息を呑んだまま硬直して動けずにいると、今まで厚い雲でその姿が隠されていた月が現れ、部屋を照らし出す。
そして互いの顔がはっきりと見えた瞬間、由羅は愕然とした。
同時に皇帝も由羅を見て驚いた表情を浮かべ、瞠目したまま互いに動けなかった。
そして声を絞り出したようにようやく紡ぎ出した言葉は、静かな室内にやけに響いた。
「君は……」
「紫釉様?」
そこには、昼間街で助けた紫釉の姿があった。
(紫釉様が……皇帝?)
混乱したまま由羅が紫釉の顔をじっと見つめていると、部屋の外から兵士が切羽詰まった声で呼びかけてきた。
「陛下、何かありましたか? 物音がしましたが」
その声に由羅も紫釉もハッと我に返った。
このまま兵に捕らえられてしまうのだろう。
そう思って由羅は身を固くしたが、紫釉は平静な声で兵士に答えた。
「大丈夫だ。よろめいて壺を割ってしまっただけだ」
「左様でしたか。片付けに侍女を呼びましょうか?」
「いや、大丈夫だ。それより、茶を用意して欲しい。茶器は2つ持ってきてもらえるか。それと凌空と泰然を呼んでくれ」
「御意」
兵士が去る一方で、由羅は紫釉の対応に戸惑ってしまった。
本来ならば由羅を兵に引き渡すだろうが、紫釉はそうしなかったからだ。
混乱する由羅をよそに、紫釉は入り口で侍女から茶器を受け取ると、そのまま茶の準備を始めた。
※
どうしてこうなった?
由羅はまだ混乱したまま目の前に置かれた茶器を見つめた。
茶器からは湯気が立ち上り、ジャスミンの華やかな香りが漂っている。
「さぁ、飲んで。毒は入ってないよ」
「はぁ」
そもそも毒を入れるなら、殺そうとしている自分が入れるべきではないか。
紫釉を見ると、にっこりと笑って目でお茶を飲むように促してくる。
由羅は促されるままにジャスミン茶を一口飲んだ。
(美味しい……)
昼間に飲んだものと同じくらい、いやそれ以上に香りのよいジャスミン茶であった。
だが頭の中は突然の展開についていけない。
先ほどまで殺そうとしていた皇帝と、何故お茶を飲んでいるのだろうか?
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
(暗殺に失敗したってことは私は死罪よね)
死ぬのは怖くない。
今までも死線を乗り越え、死と隣り合わせの世界で生きてきた由羅にとっては来るべき時が来てしまったのだと悟った。
由羅の手にあるお茶が、最後の飲み物になるかもしれない。
そう思うと由羅はゆっくりとそれを飲み干した。
その様子を笑みを浮かべて見ていた紫釉が徐に口を開く。
「由羅はなんで俺の命を狙ったの? 誰かに命じられた?」
「……はい」
由羅は床に視線を落としながら小さく頷いた。
ここまできたらじたばたしても仕方がない。
そもそも暗殺に失敗してもアイツには喋るなとは言われていない。
だから由羅は腹を括って紫釉の問いに答えることにした。
「テフェビア王国の第二王子ヴァルディアです」
由羅があまりにもあっさり答えたので紫釉は目を丸くした。
「そんなに簡単に喋ってしまって大丈夫なの?」
「隠す必要もないですし、むしろ皇帝暗殺を企てたとか言ってヴァルディアを殺して欲しいくらいです。まぁ私がその最期を見れないのは残念ですけど」
由羅は思わず吐き捨てるように言ってしまった。
自分は皇帝暗殺の罪で処刑されるのだ。
最後の悪あがきとして、紫釉がこの件を持ち出してテフェビア王国を攻め滅ぼしてくれれば少しは溜飲が下がると言うものだ。
「何か事情があるのかい?」
気遣わし気に真っすぐに見る紫釉に答えるように、由羅は身の上を話すことにした。
「『黒の狼』って知ってますか?」
「もちろんだよ。有名な闇組織だよね。頼めば汚れ仕事も何でもやってくれるって言う」
「私はそこの人間なんです」
由羅の言葉に紫釉が小さく息を呑む音が聞こえた。
「黒の狼は闇組織と言われてますが、実は一つの一族なんです。幼い頃、奴隷として売られそうになっていた私を救ってくれたのが、黒の狼の長である崔袁でした」
由羅はこの国によくある黒髪だが、目の色は鮮やかな緑なのだ。
黒の髪に翡翠色の目という容姿はこの国では非常に珍しい。
それゆえ由羅は親によって奴隷商に売られた。
その後、奴隷として売られる直前に崔袁が助けてくれたのだ。
「崔袁は私を自分の娘として育ててくれました。そして一族の皆も私の事を受け入れてくれてとてもよくしてくれました。ですが、先日崔袁が亡くなったんです」
誰よりも強い崔袁だったが依頼の途中での戦いで、爆発に巻き込まれそうになった子供を庇って重傷を負い、それが原因で命を落としたのだ。
暗殺集団だの闇組織だのと言われる一族だが人の情には厚く、無関係な人間を傷つけないという矜持を持っていた。
そんな一族の長である崔袁は特にその矜持が強く、だからこそ子供を守ったことが死因になったのは崔袁らしいと思うし、納得もいく。
「黒の狼は大きな一族ではありません。崔袁が亡くなった穴を埋めるため、戦力となる者は方々に仕事に出ていました。村に残ったのは弱い者や子供たちだけ。私と幼馴染の宇航が留守役をしていました。そんなある日、テフェビア王国のヴァルディアが突然襲ってきたのです」
一族は人が容易に立ち入れない山奥にひっそりと暮らしていた。
それゆえ村の場所が特定されることなど今までなかったのだ。
だがどこからか情報が漏れたのだ。
「一族と共に逃げた私と宇航は、最後尾を走っていました。だけど、不意を突かれて宇航と私は捕らえられてしまったんです。捕らえられた私たちにヴァルディアは言ったのです。宇航の命と引き換えに私の体を差し出せと」
おそらくヴァルディアは由羅の珍しい見目に興味を惹かれたのだろう。
それに加え、黒の狼としての利用価値があると踏んだのかもしれない。
由羅がそう言った瞬間パリンという硬質な音が室内に響き、紫釉の足元に茶器の破片がばらばらと散らばった。
見れば紫釉が持っていた茶器を握り潰していた。
「なんだって」
紫釉の纏う空気が黒いものに変わり、なんとなく静かな怒りが漂っているのを感じ、由羅は思わず息を呑んだ。
(な、何か、まずいことを言ったかしら!?)
「まさか体を許したの?」
「そ、そんなことはしません!」
地を這うような紫釉の声に驚きながら、由羅は慌てて否定した。
すると紫釉は安堵したかのような表情を見せ、小さく咳払いをした後に再び元の表情に戻った。
先程の剣呑な空気は何だったのか少々気にはなったが、そこは突っ込まないことにした。
「それで、その後どうしたの?」
「宇航を助けてもらうという選択をしました」
この提案を拒否すれば宇航が殺されてしまう。
考えた由羅は、宇航を解放してもらう道を選んだ。
だが由羅だとて黙って体を捧げる程おとなしい人間でもない。
むしろ寝所に連れて行かれた際にはヴァルディアを殺そうとしたり、逃げ出そうとしたりもした。
その度に多勢に無勢でヴァルディアの部下に取り押さえられてしまったのだが、由羅の反抗が20回を超えた辺りでとうとうヴァルディアが折れた。
『そう毎度毎度殺されそうになっては敵わない。いちいち取り押さえるのも面倒だ』
そう言ってヴァルディアはまた新しい取引を持ちかけてきた。
『そんなに俺のものになるのが嫌なのなら、こうしよう。乾泰国の皇帝を殺せ。そうしたらお前を自由にしてやろう。もし殺せなかったら今度こそお前には大人しく俺の玩具になってもらおうか』
乾泰国皇帝を殺せば由羅は自由となる。
由羅はその取引を受けることにした。
「でも今なら逃げれるんじゃないかい?」
「私の右手を見てください」
由羅はそう言って視線を自らの右手に向ける。
甲の部分には赤く発光する紋様が浮き出ていた。
「呪い?」
紫釉の言葉に由羅は小さく頷いた。
「取引の期限は二ヶ月。二ヶ月で皇帝を暗殺できなければこの呪いが発動して私は自分の意思を奪われてヴァルディアに一生隷属することになる。だから私が自由になるためには……皇帝を暗殺するしか道はなかったんです」
「なるほど。そういう事情があったんだ」
「はい。以上が貴方を殺そうとした理由です」
「事情は分かったよ」
「じゃあ、すぱっと殺っちゃってください!」
由羅はすくりと立ち上がると、どこからでも殺せるように紫釉に向かって両腕を開いた。
このような結果になってしまったのは無念だが、ヴァルディアに凌辱されるよりはマシである。
願わくば、紫釉がこのことを外交問題にしてヴァルディアに報復してくれればと思う。
(そもそも他人の命を奪って自分が自由になろうとしたこと自体が間違いだったんだわ)
黒の狼は無関係な人間を傷つけないという矜持を持っている。
それなのにそれに背いた罰だ。
由羅は覚悟を決めて目を閉じた。
なのに紫釉が動く気配はない。
不思議に思っておそるおそる目を開けると、なぜか紫釉はにっこりと笑っていた。
「大丈夫、殺さないから」
「……え? 殺さないんですか?」
意味が分からず首を傾げた由羅に対し、紫釉は衝撃的な一言を言った。
「俺のお嫁さんにならない?」
と。


