命を狙った皇帝のお飾り妃になりました―この謎、私が解決いたします―

ここ数日、被害者の屋敷に行き、現場を確認したりして部屋を空けていた由羅であったが、今日は捜査資料を再度確認しようと自室で過ごすことにした。
だが、どうしてもそれに集中できず、由羅は思わず窓辺から空を見上げた。
空は澄み渡った青一色で雲一つない。
だが、由羅はその景色をぼんやりと見つめるだけだった。
なぜなら頭の中が2つの事柄でいっぱいだったからだ。

一つは事件の事。
未だに全貌が見えず、殺害方法でさえつかめていない。
そしてもう一つは紫釉のことだった。
先日ヴァルディアに襲われた後、触れられた紫釉の柔らかな唇の感触を、ふとした瞬間に思い出してしまう。
そうすると胸がじんと甘く痺れるような感覚に襲われるのだ。
なぜそうなるのか?
今まで感じたことのない気持ちに戸惑ってしまう。

(って、事件に集中しなくちゃ! それでみんなの元に帰るのよ!)

由羅が気持ちを切り替えようとしていると、廊下で何やら切羽詰まった声がして、由羅は廊下を覗いた。
そこには蘭香と紫釉付きの官吏が焦った様子で話していた。

「まぁ、どうしましょう」
「急いでもらわないと困るんです」

このまま無視することもできず、由羅は2人に声をかけた。

「どうしたの?」
「実は、主上にお茶をお持ちしようと思ったのですが、急用ができてしまい……」
「なら私が持って行くわ」
「よろしいのですか?」
「ええ!」

特に急ぎの用事もないし、時間はたっぷりある。
由羅がそう申し出ると蘭香は申し訳なさそうに眉を下げ、持っていた盆を由羅に渡した。

「ではお願いします」

そう言って蘭香は官吏と共に足早に去って行った。
その後ろ姿を見送ったあと、由羅は碧華宮に作られた紫釉の執務室へと向かった。

「失礼します。お茶とお茶菓子を持ってきたのですが……」
「由羅か、入っていいよ」

紫釉の言葉を受けて、執務室の扉を開けた。
中に入った由羅が一番最初に目にしたのは泰然の姿であった。

「泰然様! 来てらっしゃったんですね」
「お、由羅、元気にしてたか? また脱走してないだろうな」
「ふふっ、さすがにもう脱走はしてませんよ。今は元気に捜査していますよ」

久しぶりに会った泰然に駆け寄ってそう答えると、その会話に割って入るように紫釉が大きなため息をついて言った。

「最初に声をかけるのが夫の俺じゃなく、泰然なのは薄情じゃないか?」

そこには大きな執務机に座っている紫釉が筆を片手に頬杖をつきながら、こちらを恨めしそうに見ている姿があった。

「夫って……紫釉様は夫じゃないですよね?」
「そんなことないよ。だって由羅は俺の妃だろう?」
「ですがお飾りですよね」

何をむくれているのかピンとこない由羅だったが、ふと見れば紫釉の机の上に大量の書類が積み上がっていることに気づいた。
蘭陵の部屋にも本がうず高く積まれていたが、紫釉も負けず劣らずの書類の山である。
まぁ、前者は怠惰の結果であるのに対し、紫釉のは不可抗力と言ったところだろう。

「すごい量の書類ですね」
「左半分の書類は片付けたんだけどね。まだ残りがこんなにあるんだよ……」

紫釉はそう言って深いため息をつきながら、右の紙の山を見た。
左半分の倍はある右半分の山を由羅も紫釉につられて、沈痛な面持ちで見てしまう。
その時、つかつかという足音がしたかと思うと、凌空が右の紙の山に更に紙の束を容赦なく置いた。

「これで今日の分の確認は終わりです」
「はあ……まだこんなにあるのか……」
「由羅さんの件で、だいぶ紅蘆派を刺激していますからね」

凌空の言葉に由羅は首を傾げた。
この書類と自分に何の関係があるのだろうか?

「あの、何故私の名前が出てくるんですか?」
「貴女を娶ったことで紅蘆派が反発して、色々と難癖をつけた意見書や法案を提出してくるんですよ。まぁちょっとした嫌がらせですね」
「でも、そのどうでもいい書類も確認しなくてはならないし、棄却するにしろ正当な理由を書類に書いて返答しなくてはならないからね。……いちいち面倒で」

紫釉は頬杖をついたまま右の一番上の書類を手に取ると、ぴらぴらと振りながらうんざりとした様子で言った。
その様子を見た凌空は、呆れた表情を浮かべた。

「ですが、後宮で執務なんていう馬鹿なことをしたために、紅蘆派の動きがさらに加速したんですから、自業自得です。むしろ巻き込まれた私は被害者ですよ」
「それは悪かったと思っているけど、由羅と一緒に過ごす時間を取るためなんだ。我慢してほしいな」

悪びれもなくにっこりと微笑む紫釉の言葉を聞いて、凌空は「言っても無駄」と言うように小さくため息をついた。
そのため息の意味を気づかないふりをして紫釉が話題を変えた。

「由羅はお茶を持ってきてくれたんだね。ありがとう」
「では、ちょうど切りもいいですし、休むことにしましょう」
「お、いいな! 俺もちょうど小腹が空いてたんだ」

紫釉は流れるようにさりげなく由羅の持っていた盆を取ると、執務室の続きになっている休憩部屋へと移動した。
熱々の胡麻団子と唐朝烏龍茶を一口飲み、ほうと息をつく。
昼下がりの穏やかな空気が流れた。
だが、それを壊すのが申し訳ないと思いつつ、せっかくこの面子(メンツ)が揃ったので、由羅は事件の捜査状況を確認することにした。

「あの、事件の捜査がどういう状況なのか、情報共有させてもらえないでしょうか?」
「そうですね。せっかく泰然からの報告も来ましたし、今の捜査状況を整理しましょう。由羅さんはこの間殺害現場に行って分かったことがありましたか?」

凌空の言葉に由羅はこの間の現場検証と証言者の内容を端的に説明した。

「えっと、まず死因についてですが、毒は口から摂取したと見て間違いないと思います」

5つの毒の摂取方法―経口摂取、注射による投与、吸入投与、点眼、経皮投与のうち、これまでの調査から、経口摂取以外は否定された。
だが、その説明に泰然は待ったをかけた。

「でも蘭陵の話では食べると呼吸困難になる毒芹も福寿草も食べていないだろう?」
「はい。今回現場に行って関係者に話を聞きましたが、それらの食べ物は食べていませんでした。亡くなる直前に口にしたのは紅玉薬だけ。……それで一つ確認なのですが、泰然様に確認をお願いした件は何か分かりましたか?」

検死した蘭陵の元に行った際、免疫過敏反応(アレルギー)が死因なのではと考えた由羅はそのことを蘭陵に尋ねた。
蘭陵は免疫過敏反応(アレルギー)の可能性は低いと言っていたが、由羅は念のため泰然に『4人の妃候補の方が何かを食べて体に異常があったことがあるかを侍女に確認してほしい』と依頼していたはずだ。

「ああ、色々聞いたけど食べ物を食べて体に異常をきたしたことはないってさ」

ということは、やはり蘭陵の言う通り、食べ物による体の免疫過敏反応(アレルギー)が死亡原因ではないと言える。

「となると、この事件の共通点は紅玉薬しかないですね」
「だけど、蘭陵は紅玉薬には毒性がないって言い切ったぜ」

だが、由羅の中にはもう一つの可能性が残っていた。

「実は、共通点がもう一つあるのではと考えているんです。それは(てい) 梓琳(しりん)様の存在です」
「あぁ、確か翠蓮(すいれん)と仲の良かった女性ですね」

凌空の言葉に由羅は頷いた。

「はい。実はこの方は瑤琴(ようきん)様とも仲が良かったそうです。そして翠蓮様も瑤琴様も梓琳様から紅玉薬を紹介されて飲んでいたという証言がありました」
「なるほど。由羅さんは梓琳が怪しいと踏んでいるわけですね」
「はい」

由羅が頷くと、紫釉が鋭い目をしながら言った。

「そう言うことなら、こっちの調査とも話が繋がるな」
「そうですね」

紫釉の言葉に凌空は相槌を打った。
そして泰然もまた同じことを考えているようだった。
だが、由羅だけは何のことか分からず首を傾げた。
そんな由羅に凌空が説明を始めた。

「今回主上が後宮で執務を始めたことで、由羅さん――つまり翡翠妃が寵愛を受けていると宮中で話題になっています。そのため翡翠妃に世継ぎが生まれるのは時間の問題だろうと……」
「よ、世継ぎですか……」

そんなことはあり得ないのだが、なんとなく赤面してしまう。
だが今はそんなことを考えている場合ではない。
由羅は再び話に集中した。

「主上の寵愛が翡翠妃に向かっていることを知った紅蘆派は、こちらの計画通り動きを見せ始めました。そして分かったのは魯家も紅蘆派に与しているということでした」
「魯家が?」

確か、筆頭五家の中では、魯家は中立だと考えられていた。
だが、その魯家が裏切っていたという事実が浮かび上がってきたということになる。
紫釉は腕を組みながら凌空の言葉に納得した様子で言った。

「あそこは表面上は俺を支持しているけど、土壇場になるとどちらの派閥に付くかは明言しないんだ。だから事実上中立だと言えたんだよね。でもここにきて、事件の重要参考人として名前が挙がったのが鄭梓琳。調べたところ、梓琳は魯家の侍女だし、何か繋がりがあるとしか思えないな」

紫釉の言葉は尤もだった。
だが、由羅はその言葉を緩く頭を振りながら否定した。

「ですが、侍女である梓琳が妃候補を殺害する動機はないように思えます。ですから、梓琳が単独で妃候補を殺害したとは考えにくいでしょう」
「つまり、梓琳様の背後に、殺害を指示した誰かがいるということだな」

由羅がそう言うと凌空もまた同じ考えに至ったようだ。
凌空は顎に手を当てて思案しながら由羅の考えに同意を示した。

「紅玉薬を梓琳に提供している人物が本星に近いでしょうが、どこから入手しているのかはまだ特定できていませんしね。分かりました。樹璃が梓琳に接触して情報を聞き出す予定ですが、こちらも刑部を使ってさらに調査を進めましょう」

凌空の言葉に泰然が不意に何かに気づいたように言った。

「なら梓琳を監視して、接触者を調べれば、紅玉薬を渡している人間が分かるかもしれないな」
「そうですね。泰然、お願いできますか?」
「おう、任せておけ」

泰然がにかりと笑ったが、すぐに真剣な顔に変わった。

「だけどよ。紅玉薬を誰から入手したのかが分かったとして、そもそも紅玉薬には毒性がないんだろ?」

泰然の言葉は尤もであるが、由羅の中ではどうしても紅玉薬の事が気になって仕方なかった。
絶対に何か見落としがあるはずだ。
そう思った由羅はそのことを泰然に告げた。

「ですが、被害者は全員紅玉薬を飲んだ直後に死亡しています。私はそこには何か仕掛け(トリック)があるんじゃないかって思うんです」

由羅の言葉に全員が黙った。
それは由羅の考えを肯定するものだが、かと言ってその正解を持っているわけではない。
その沈黙を破るように紫釉がまとめた。

「由羅の言う通り、紅玉薬はこの事件に絶対に関連があるはずだ。泰然は鄭梓琳と接触した人物を調べて、梓琳が誰から紅玉薬を手に入れているかを調べてくれ」
「おう、任せろ!」
「凌空は魯家が何かきな臭いことをしないか動きを探ってくれ」
「かしこまりました」
「由羅は紅玉薬と死亡原因に関連性がないか、調べてもらえないかな?」
「はい、分かりました!」
「皆、よろしく頼むよ」

こうして、それぞれの役割が決まると、泰然はまだ口の中に残っている胡麻団子を咀嚼しながら立ち上がった。

「じゃあ、さっそく行ってくるぜ」

そう言って颯爽と部屋を出た泰然に続くように凌空も席を立つ。
泰然とは違い、ゆっくりと余裕のある動きではあったが、凌空らしい無駄のない動きだった。

「では私もさっそく動きます。主上、私がいなくても通常の執務はこなしてくださいね」
「分かってるよ。それが俺の仕事だしね。お前の分もちゃんとやってるから、そっちは任せたよ」
「では」

凌空は紫釉に釘を刺して部屋を出ていった。
二人を見送ると、部屋には由羅と紫釉が残された。

(私も早く事件解決のために頑張らなくちゃ!)

そう思って席を立とうとしたが、ふと紫釉の顔を見ると、顔色が良くないことに気づいた。

「紫釉様、体調が悪いですか? 大丈夫です?」
「あぁ、少し疲れただけだよ」

あの机の上の書類の量を鑑みると、とても〝少し〟疲れた程度だとは思えない。
どう考えても過重労働(オーバーワーク)だろう。

「私にお手伝いできることはありますか? 私は科挙に合格しているので一応官吏にはなれるわけですから、少しなら書類仕事も手伝えるかも……あぁ、でも実務はしたことが無いし……」
何ができるのか腕を組んで悩んでいると、それを見た紫釉がくすりと小さく笑った。

「じゃあ少しお茶に付き合ってくれないかな?」
「もちろんです!」

由羅は立とうとして浮かした腰を再び椅子に戻した。