命を狙った皇帝のお飾り妃になりました―この謎、私が解決いたします―

それを見た由羅はソワソワと落ち着かなくなってしまい、気恥ずかしさを誤魔化すように、わざと大きな声を上げた。

「あっ、お代払ってませんでしたね」
「いらないよ」
「でも……」
「由羅が美味しそうに食べてくれたのがお代だよ」
「それはお代とは言いませんよ」
「気にしないで。俺がしたくてやっていることなんだから」

お金を差し出しても受け取ってくれない紫釉に由羅は困ってしまった。

(うーん……どうしようかしら)

悩んだ由羅にふと一つの案が思い浮かんだ。

「じゃあ、碧華宮に戻ったら紫釉様のために何か料理を作りますよ。菓子でも点心でも、たいていのものは作れると思いますから!」

以前、標的(ターゲット)から情報を聞き出すために、料理人見習いとして潜入したことがある。
その時に店のオヤジさんにみっちり料理を叩き込まれたのだ。
だから、料理の腕には自信がある。

「そっか。じゃあそうしてもらおうかな。ふふ、由羅の手料理、楽しみだよ」

「任せてください!」

由羅が自信たっぷりにどんと胸を張ったところで葱油餅を食べ終えた。
すると紫釉はおもむろに懐を探った。

「そうだ、さっき干し柿を売っているのを見つけたんだ。由羅は柿が好きだったよね。ほら、食べよう」

紫釉はそう言って懐からこの時期には珍しい干し柿を取り出して由羅に手渡した。
確かに由羅は柿が好きだが、それを紫釉に言った記憶がない。

「よく私が柿が好きって知ってましたね? 言ったことありましたっけ?」

「うん、前にね」

だが記憶を辿ってみるが、やはり話した覚えはない。

(お酒を飲んだ時に酔って言ったのかしら?)

そんなことを考えていると、紫釉に声を掛けられた。

「由羅、口を開けて」

言葉の意味を考えるより先に由羅が反射的に口を開けると、そこに柔らかい干し柿が差し入れられた。
思わずもぐもぐと咀嚼すると、柔らかな食感と共に甘さが口いっぱいに広がった。

(美味しい……けど!?)

ふと気づく。
これは世に言うところ「あーん」というやつでは?
以前恋人たちがこうやって食べさせているところを見たことがある。
そう意識した瞬間、カッと頬が熱くなった。

(いや、深い意味はないはず。ほら、宇航にもお粥を食べさせてもらったことがあるし!)

そう思って平静を装おうとする由羅だったが、追い打ちをかける事態が起こった。

「じゃあ、俺にも食べさせて」
「!?」

これこそまさに恋人同士がすることだ。
紫釉は悪戯っぽくそう言うと、由羅の顔を覗き込むようにして顔を近づける。

「由羅が食べたんだもの、俺も食べたいな。それとも由羅だけ食べて満足してしまうのかい?」
「そ、そんなことは……」

好物の柿を貰えたのは嬉しいし、紫釉にも食べて欲しい。
だがこのような形で食べてもらいたいわけではない。
由羅が動揺して固まっている間に、口づけをするのではないかと言うくらいの距離に紫釉の唇が迫る。

「黒の狼は義理堅いんじゃなかったんだっけ?」

黒の狼を持ち出されると由羅も弱い。

「じゃないとこのまま口づけしちゃうよ」
「~!」

紫釉の口がわずかに開き、それが妙に艶っぽく、違う意味でもバクバクと由羅の心臓が高速で動いてしまう。

(ええい! ままよ!!)

由羅は恥ずかしさでぎゅっと目を閉じて紫釉の口元に干し柿を差し出した。
するとふっと気配が消え、由羅がゆっくりと目を開けると満足そうな表情を浮かべた紫釉の姿があった。
漸く体が離されて、由羅はホッと一息ついた。
だが先ほどの間近に迫った紫釉の整った顔が思い出され、紫釉の顔がまともに見れない。
それを誤魔化すように、由羅は早口で提案した。

「も、もう帰りましょう。人も多くなってきましたし、身分がバレちゃうかもしれませんし」

夕暮れ時で夕飯の食材を買う人や屋台で食事をする人が増えてきて、通りも混んできた。
由羅はもっともな言い訳をすると、紫釉の返事も聞かずに踵を返そうとした時だった。
大声で話しながら歩いて来た酔っ払いが、どんと由羅の肩にぶつかってきたのだ。
勢いよくぶつかられてしまい、由羅はそのまま突き飛ばされてしまった。

「わっ!」

(倒れちゃう)

そう思いつつギュッと目を瞑り、衝撃に備えた由羅を、ふわりと白檀の香りが包み込んだ。

「大丈夫?」

耳元で紫釉の声が響く。
吐息が耳朶にかかり、仄かな熱が伝わる。
その時、由羅は初めて紫釉の胸に飛び込んでいることに気づいた。
トクトクという紫釉の心臓の音と、逞しい胸板、そして体温が伝わってくる。

「人の流れが多いから、少しこのままでいて」

そう言って紫釉が由羅を包み込むように抱き寄せた。
この数時間の間に何度心臓が音を立てただろう。
心臓があまりにも忙しなく動いたせいで、このまま止まってしまうのではないかと思ってしまう。

「し、紫釉様……」

この緩い拘束を解いてもらいたくて紫釉の名を呼んだ時だった。
由羅の背中にぞわりとした悪寒が走った。
そして由羅の頭の中で名を呼ぶ声が響いた。

『由羅……俺の声が聞こえているな』

低い艶のある男の声だったが、体に絡みつくようなねっとりした声音であった。
それを聞いた瞬間、心臓がドクンと大きく鼓動を打った。
瞬間、右手の甲に痛みが走る。
驚いて目を向ければ、消えたはずの紋様が赤く発光していた。
紋様はヴァルディアが施した黒龍の呪いの証。

「なんで……?」

そう由羅が小さく声を漏らしたと同時に、目の前が黒一色に染まった。
遠くで切羽詰まった声で紫釉が由羅の名前を叫ぶ声がしたが、それすらも微かになっていき、由羅は意識を失った。




突然、目の前が真っ暗になり、由羅は自分がどこにいるのかも分からなかった。
目を凝らしても見えるのはただただ闇。

(ここは……どこ? 何が起こったの?)

由羅は落ち着かせるように記憶を辿った。
さっきまで城下町で紫釉と一緒に買い食いをしていたのだ。
そして突然名前を呼ばれた。
あの男の声は聞き覚えがある。
ヴァルディアのものだった。
もしかしてこの状況もヴァルディアによるものか?
由羅の甲にあった呪いの紋章が再び現れたことと何か関係があるのだろうか。
そう思った由羅は急いで自分の右手の甲を見たが、そこにはもう紋章はなかった。

(どういうこと?)

由羅が混乱していると、暗闇の中から白くぼんやりとした人影が現れた。

「由羅……探したぞ」
「ヴァルディア……」

暗闇の中から音もなく現れたのはヴァルディアだった。
はだけた胸元からテフェビア人特有の褐色の肌が露わになり、赤銅色の髪を後ろだけ長くしている。
金の瞳は獰猛な獣のように鋭く。
だが薄い唇に浮かぶ笑みが不釣り合いで不気味に見えた。

「ここはどこ? これは貴方の仕業なの」

由羅は射殺さんばかりに睨みながらそう尋ねたのだが、ヴァルディアは意にも介さぬように薄く笑った。

「ここはお前の中だ」
「どういう意味?」
「その紋章がお前と俺を繋いでいる。あぁ、言ってなかったか。黒龍の加護は人の精神に干渉する力だ。それにより人を呪い、狂わせ、殺すことができる」

それは由羅が初めて知る事実だ。
驚く一方でなるほどとも納得していた。
黒龍が呪いをもたらす力ならば、紫釉の持つ応龍の力が呪いを解く力なのも頷ける。
ヴァルディアの話から分かったのは、ここは由羅の精神世界ということだ。
体は別にあり、精神にだけヴァルディアが干渉していると分かったが、だからと言ってここから抜け出せる術が分からない。

(どうすればいい?)

由羅はヴァルディアから目をそらさずに必死に策を巡らせていると、ヴァルディアが薄く笑いながらこちらにゆっくりとした足取りで近づいてきた。
思わず隠し持っていた短刀に手を伸ばそうとするが、同時にヴァルディアが地面を蹴って間合いを詰めた。
突然ヴァルディアの顔が迫る。
そうして気づけばヴァルディアが由羅の手首をきつく掴んだかと思うと、そのまま強引に由羅を引き上げた。

「っ!」

痛みから思わず顔を顰めた由羅には構わず、ヴァルディアは由羅の右手の甲を見つめた。
そして眉根をひそめ不愉快だと分かる声でヴァルディアは由羅に尋ねる。

「俺の証はどうした?」

証――あの呪いの紋様の事を言っているのだろう。

「呪いは解いてもらったわ」
「ほう、まさか俺の術を解くとはな。お前の白い肌に俺の証である真紅の紋があるのは美しかったのに残念だ」

ヴァルディアはくつくつと笑ったかと思うと、由羅の甲にそっと口づけた。
ぞわりという悪寒が背中を駆け抜ける。

「触らないで!」

由羅は渾身の力でヴァルディアの腹を蹴り、わずかに手首の拘束が緩んだ瞬間に体を離して間合いを取った。
そんな由羅の抵抗でさえもヴァルディアの愉悦を誘ったようだ。
悠然とした笑みを崩さずに由羅に言葉を投げかけた。

「由羅、俺の元に帰ってこい。どうせ行き場などないのだろう? 大人しく戻ってくれば飽きるまでは可愛がってやる」
「死んでもお断りよ!」

語気を強めて言ったが、この状況は圧倒的に不利だ。
どうやってこの世界から抜け出せばいいのか分からない。
持っている短刀で物理攻撃を仕掛けるか。

「由羅、戻ってこい」

そう言ったヴァルディアの金の瞳が怪しく光る。
同時に由羅は眩暈を覚え、息が苦しくなっていった。
黒龍の加護の力を強めたのだろう。
このままではヴァルディアに捕らえられてしまうということが、本能的に分かった。
意識がぼんやりしてきた由羅の脳裏に、何故か紫釉が浮かんだ。
由羅と一緒にいた紫釉は大丈夫だったのだろうか。
突然由羅がこんな状況になってどう思っているのだろう。
ヴァルディアは由羅に紫釉を殺すようにと呪いをかけた。
もしかしたら由羅がヴァルディアに屈すれば、そのまま意識を乗っ取られて紫釉に襲い掛かるかもしれない。

(絶対に、屈しない!)

紫釉の事だけは傷つけたくなかった。
だから由羅は必死に抵抗していたが、やがてジワリと汗が額に滲み出て、息が苦しくなる。

(紫釉……様……)

意識が失いかけた時だった。
突然暗闇を圧倒的な光が切り裂いた。

「由羅!」

光から紫釉が姿を現わし、由羅の手を握ると、ヴァルディアから由羅を庇うように立った。

「紫釉様……」

幻を見ているのだろうか?
まさか紫釉が現われるとは思わず、驚きつつも、思わず縋るように名前を呼んだ由羅を、紫釉が微笑を浮かべて答えた。
そして紫釉は、今度はヴァルディアに視線を移して彼を睨みつけた。

「紫釉…なるほど。お前が乾泰国皇帝紫釉か。応龍の加護を受ける貴様なら由羅の精神に干渉できる、ということか」

一瞬だけ驚きの表情を浮かべたヴァルディアだったが、すぐに納得したように頷いた。

「やはり俺の証を解いたのは貴様か、乾泰国皇帝紫釉。どけ、そいつは俺のものだ」
「断る。お前に由羅は渡さない」

紫釉の姿から白い光の粒子が纏い始め、それは由羅をも包み始めた。
光は輝きを増し、闇を飲み込むように広がっていく。
同時に、目の前にいるヴァルディアの姿が薄くなっていった。
そんなヴァルディアは由羅を見て口の端を持ち上げてにやりと笑った。
だがその瞳には憎々し気な色が浮かんでいる。

「お前には帰る場所など無い。俺の元に来るのを楽しみにしてる」
「由羅の帰る場所はお前の元じゃない。由羅は俺が守る。もう二度と離す気はない」

紫釉の力強い言葉に鼻で笑ったヴァルディアは、光に飲み込まれて溶けるように姿を消した。
そして由羅の意識も白に飲まれていく。

「さあ帰ろう」

紫釉が由羅の耳元でそう囁きながら、手を握り締めている感覚がした。
温かい温もりが伝わっていく。
同時に由羅の意識もまた遠のいていった。




不意に意識が浮上した。
由羅はゆっくりと瞼を開けると、視界いっぱいに心配そうに覗き込む紫釉の顔があった。

「ここは……」

長い夢を見ていたようにぼんやりとしながら、由羅は体を起こした。
周囲を見ると、見慣れた後宮の自室だった。

「私……戻ってこられたんですね。紫釉様が助けて下さったんですね」

ヴァルディアの黒龍の力を、紫釉が応龍の加護を使って助けてくれたのだ。
戻ってこられたことへの安堵の他に、紫釉が助けてくれたことに胸がいっぱいになった。

「由羅、良かった」

紫釉もまた万感の思いをにじませた表情を浮かべ、そして由羅を抱きしめた。
ふわりと紫釉の白檀の香りが由羅を包む。
今まではドキリと鼓動が跳ねたものだが、今はその香りは由羅の心に安堵をもたらした。
すると先ほどの緊張や不快感が一気に消え去り、由羅の心が安堵と安心感でいっぱいになった。

「紫釉……様。大丈夫です。来てくださってありがとうございました」
「何かされてない?」
「……少し、唇で触れられた程度です」
「……は?」

紫釉の問いに答えた由羅の言葉に弾かれるように体が離された。
そして眉間に皺を寄せた紫釉が、低い声でさらに尋ねて来た。

「どこを触られたの?」
「えっと、右手の甲ですけど」
「あの男、次にあったら殺す」

紫釉はそう吐き捨てるように言ったかと思うと、唇で由羅の手の甲に触れた。
だがそれには全く嫌な感じはしなかった。
唇から紫釉の優しさと愛おしさが伝わってきて、由羅の心がほっとして張りつめていたものが解けていくようだった。

「消毒完了」

紫釉は満足そうに笑った。
ヴァルディアに触れられた時は虫唾が走るほどの嫌悪感を覚えたが、紫釉に触れられるのは恥ずかしくはあるが全く嫌ではなかった。
むしろ紫釉に触れられたことで、ヴァルディアに触れられた不快感が全て取り除かれた気がする。

「由羅をまた失うかと思うと怖かった。本当に無事でよかった」

紫釉は慈愛に満ちた眼差しでそう言ったが、由羅はその言葉に引っかかりを覚えた。
”また”ということはどういう意味なのだろうか。
まるで以前に由羅の事を失ったことがあるかのように聞こえる。
その問いを口にしようとしたと同時に、紫釉がとんでもない発言をした。

「もう、後宮に閉じ込めてしまえたらいいのに……」
「じょ、冗談ですよね!?」

本気とも冗談ともとれる微笑みを浮かべるだけの紫釉に由羅は思わず動揺した。
目を見開いて驚く由羅を見て、紫釉はクツクツと楽し気に笑うと由羅の髪を一房すくうと、小さく口づけを落とした。

「さぁ?」

妖艶に笑う紫釉の笑顔に、由羅の心臓がドキンと跳ねた。
由羅が二の句を継げずにいると、紫釉はすくっと立ち上がった。

「もう少し休むといい。後で蘭香にお茶を持ってこさせるよ。じゃあね」
「あ、ありがとうございます」

由羅は何とかそう答えると、紫釉はまた小さく微笑んで部屋を出て行った。
その後ろを見送り、パタンと扉が閉まると同時に、由羅は再び寝台に身を倒した。
天井をぼうっと見上げる由羅の頭の中に一つの疑問が浮かんだ。
それは紫釉が先ほどヴァルディアに向かって言った言葉。

『由羅の帰る場所はお前の元じゃない。由羅は俺が守る。もう二度と離す気はない』

帰る場所……そして、二度と離す気はないという言葉。
どこかで聞いたような気がするが、どこで誰が言っていたのかが思い出せない。

(何か、大切なことを忘れている気がする……)

目を閉じ、記憶を辿ろうとした由羅だったがどうしても思い出せない。
紫釉の残した白檀の香りに包まれながら、由羅は今度は優しい眠りに落ちて行った。