由羅も凌空に続いて敷地に足を踏み入れたその瞬間、ぱたぱたと人が走って来る音がした。
驚いてそちらを見ると、一人の少女が手を振りながらこちらに駆けて来る姿があった。
「凌空お兄様!」
「樹璃、久しぶりですね」
薄い若葉色の裳に大ぶりの花の刺繍が入った白い領巾を肩に羽織った少女は、凌空の前で嬉しそうに微笑みを浮かべた。
抜けるように白い肌、大きな瞳、目じりに赤い差し色をしているためか、可愛らしくもあり、美しくもある。
まさに美少女という言葉がぴったりだった。
「お兄様が来ると聞いて待っていましたの。ゆっくりできますの?」
「ありがとうございます。でも仕事で来たので、それが終わればすぐ帰ります」
「そうですの……。お姉様にお線香をそなえる時間はありますか?」
「もちろん、翠蓮にも挨拶してから帰ります」
翠蓮をお姉様と呼ぶということは、彼女は翠蓮の妹なのだろう。
ということは凌空のもう一人の従妹になる。
凌空も整った顔立ちをしているし、樹璃も美人なとことを考えると、翠蓮もまた美人だったに違いない。
そう考えると、妃の第一候補となったのも頷ける。
(楊家は美形一族なのかしら?)
由羅はそんなことを思いながら凌空と樹璃を見つめていると、不意に樹璃が由羅の方に目を向けた。
「あら? お兄様、今日は侍女が一緒なの? 珍しいわね」
「あぁ、彼女が手紙で伝えていた人物ですよ」
凌空の言葉に樹璃が目を見開いた。
(手紙でって私のことなんて書いたのかしら)
そう思った由羅だったが、その答えはすぐに樹璃の言葉で判明した。
「でもお兄様は事件の捜査関係者の方を連れて来るって言っていたけど…」
「ええ。それが彼女です」
「まあ、そうなのね! 刑部の方がいらっしゃるかと思っていたからてっきり男性かと……」
確かに手紙に捜査関係者とだけ書いてあれば、男だと思うのは当然だろう。
なんたって刑部の官吏は男しかいないのだから。
驚いた表情をした樹璃は、今度は由羅をまじまじと見つめると、一歩一歩と由羅に近づいて目を覗き込んだ。
「貴女の瞳の色、珍しい色ね。翡翠みたいに綺麗だわ」
「あ、ありがとうございます」
樹璃の美しい顔が間近に迫り、由羅は思わずのけぞるようにして礼を言った。
すると興味深そうに由羅の瞳を見ていた樹璃の表情が一転し、憂いを帯びたものになった。
そしてぽつりと呟いた。
「翠蓮お姉様の首飾りみたいに綺麗……」
(え?)
樹璃は哀切な表情を浮かべて漏らした呟きに対し、由羅が言葉を口にする前に、樹璃はまた微笑みを浮かべた。
「さぁ、そろそろ行きましょう。お姉様の部屋に案内するわね」
そう言って凌空の手を取り、歩き出した。
※
翠蓮の部屋は、事件から半年経っているにも関わらず、綺麗に掃除されていた。
それだけで、彼女がいかに大切にされていたのかが分かる。
「ここがお姉様の部屋よ。亡くなった時のまま、物は動かしてないわ。どうぞ、自由に見ていって」
「ありがとうございます」
樹璃の言葉に由羅は一礼すると、ゆっくりと部屋を歩きながら一か所ずつ確認していった。
部屋には朱塗りの卓が置かれ、その奥の部屋が寝室になっているようだ。
大きな長方形の窓からは燦燦と日が差し込み、庭園がよく見える造りになっていた。
「以前、刑部の方が聞いたことと同じことを聞くことになってしまいますが、翠蓮様がお亡くなりになった時の状況を詳しく教えていただけますか?」
由羅の問いに、樹璃と一緒に来た翠蓮付の侍女が答えた。
「寝る前に、いつものようにこちらで御髪を整えまして、その後に紅玉薬を飲んだ途端にお倒れになりました」
「倒れた、とのことですが、昏倒してそのまま亡くなったのですか?」
「いえ、ふらふらと足元がおぼつかなくなり、首元を押さえて息ができないようでした。そのうち青ざめて、最後に倒れて痙攣して……そして……」
侍女は言葉を詰まらせて、力なく項垂れた様子から状況が察せられ、由羅もそれ以上の言葉は続けなかった。
侍女の表情は見ているこちらが辛くなるような心痛なものであり、声をかけられなかったからだ。
由羅は、気持ちを切り替えるようにゆっくりと瞬きしてから、侍女が示した場所へと足を向けた。
そこは寝台の手前に置かれている化粧台とその後ろにある小棚の間だった。
由羅はぐるりと部屋を見回すと、小棚の上にアヤメのような意匠が入っている香炉が置かれていることに気づいた。
「すみません。こちら触ってもいいでしょうか?」
「えぇ、どうぞ」
樹璃の許可を受けて由羅は香炉をそっと手に取ると、蓋を開けた。
中には燃え残った香が入っていたので、由羅は鼻を近づけて匂いを嗅いだ。
まず感じたのは甘い香り。
だが甘ったるい咽かえるような香りではなく、落ち着いて少し爽やかさを感じられる上品な香りだった。
「この香りは白檀と茉莉花……それと野苺でしょうか?」
由羅の問いに侍女は驚いた声を上げた。
「まぁまぁよくお分かりになられましたね。そうです」
凌空も驚いた表情を浮かべ、由羅に尋ねた。
「貴女は香りを嗅いだだけで分かるのですか?」
「仕事柄、身に付ける必要があったので叩き込まれてるんです」
黒の狼の仕事の中には、暗殺といった血なまぐさい依頼だけではなく護衛を行うこともある。
その際、食べ物に異臭がないか、部屋で変な香りがしないかという事にも気を配る必要があるのだ。
だから、まず基本的な香の香りは覚えさせられる。
「この香は亡くなった時に焚いてましたか?」
「いいえ。これから焚こうと思った時にお倒れになられたので」
確かに特に異常のある香りはなかったし、香りを嗅いでも由羅の体に痺れなどもなかった。
状況的にも香を吸引して死亡した可能性は低いだろう。
「吸引投与ではなさそうね」
ぽつりと呟いた由羅に、凌空が首を傾げて尋ねてきた。
「吸引、ですか?」
「はい。毒殺の方法としては毒を吸わせる吸引投与というのがあるんです。ちょうど翠蓮様が亡くなられた場所にこの香がありますよね。毒成分を混ぜたお香を焚き、その香りを吸入したことで亡くなったのではと思ったのですが、その可能性は低そうです」
「なるほど……というか、万が一毒が入っていたらどうするつもりだったんですか!?」
凌空は心配半分、焦り半分といった様子で由羅に詰め寄ったが、それに対し由羅は冷静に答えた。
「大丈夫です。仕事柄、毒には耐性があるので」
黒の狼として様々な毒を扱う機会もあるし、任務の中で毒矢で傷を負うこともある。
そのため様々な毒で体を慣らし、耐性を付けているのだ。
由羅の返答に絶句している凌空を無視して樹璃に向き直った。
「このお香を貰ってもいいですか?」
「ええ、いいわよ」
「ありがとうございます」
樹璃の許可を受けると由羅は懐から手巾を取り出して、香を包んだ。
念のため蘭陵にも確認してもらうことにしよう。
(あとはこの部屋に何か問題があるのか……)
由羅は再び歩き出し、窓を開けて外の様子や、風の流れを確認した。
ぱっと見る限りはいたって普通の間取りの普通の部屋である。
何か毒性のある空気が充満しているとか、流入しやすいというわけでもなさそうだ。
窓からは新鮮な空気が入ってくるし、異臭もしない。
これまでのところは毒の原因になりそうなものは見当たらなかった。
「部屋にも問題はなさそうですね。あとは……」
そう言いながら由羅は化粧台へと近づいた。
化粧台の近くで亡くなったということは、化粧品に毒が含まれていて、それを顔に塗ったために中毒死したのではないか。
その可能性を考えた由羅は、化粧台に置かれた化粧品に顔を近づけてよく観察しながら侍女に尋ねた。
「この化粧品はいつも使用していたものですか? 最近新しく使い始めたものはありますか?」
「いいえ。化粧一式はどれもいつも翠蓮様が使っていたものです。買い替えたのは……亡くなる一か月ほど前でしょうか」
と言うことは化粧品が死亡原因ではない。
「それと、翠蓮様は塗り薬を使っていなかったですか?」
「いいえ、使っていません。特に怪我やかぶれもございませんでしたから」
「目のご病気もなかったですよね?」
「はい、もちろんです」
検死結果にも健康だったと記されていたし、この証言からも点眼による毒の投与や皮膚からの毒の投与で殺害したという可能性は低いことになる。
その時、化粧台の端に化粧道具と共に小瓶が5本置かれていることに気づいた。
1寸くらいの赤い硝子の小瓶で、よく見ると中に液体が入っている。
「これは、化粧水でしょうか?」
由羅が尋ねると樹璃は首を振った。
「いいえ、紅玉薬よ」
「これが?」
紅玉“薬”と聞いていたのでてっきり丸薬かと思っていたのだが、まさか液体だとは思わなかった。
3本の小瓶は空になっていたが、残り2本は液体がそのまま入っていた。
「お姉様はこの紅玉薬を飲んだ直後に亡くなったのよね」
「ええ。飲んだ途端に苦しまれて、医者を呼ぶ間もありませんでした」
侍女は赤い輝きを放つ硝子瓶を見つめながら沈痛な面持ちでそう説明した。
樹璃は探るような表情で由羅に尋ねた。
「やはり、この紅玉薬が原因なのかしら」
「分かりません。今のところ毒性はないとの報告を受けていますが、状況からして、やはり何か関係があるのでは、と個人的には思っています」
「そうなのですね……」
由羅の言葉に樹璃は残念そうな、でも安堵したような複雑な表情を浮かべた。
その表情の意味が分からずに由羅は思わず問いかけていた。
「あの、何か気がかりでもあるんですか?」
「え?」
「気のせいかもしれませんが、この薬が原因であってほしいような、でも原因でなくて安心したような、複雑な表情に見えたので」
由羅の言葉に一瞬驚いた表情を浮かべた樹璃だったが、次の瞬間には眉を下げて困った様子を見せた。
「実はね、この紅玉薬は|梓琳≪しりん≫様が美肌に良い薬だと勧めてくださったものなの。ご自分も飲んでるから是非飲んでみないかって。だからこの薬が原因だとしたら梓琳様のせいでお姉様は死んでしまったことになるわよね。そんなことは信じたくなくて」
「梓琳様?」
事件を調べていて初めて出た名前に由羅は首を傾げて尋ねた。
「ええ。鄭 |梓琳≪しりん≫様、美人で有名な方なんだけど知らない?」
「すみません。田舎から出て来たばかりで都の話には疎くて……」
由羅がそう答えると、樹璃は小さく微笑んでから、顔に思慕の情を滲ませて話をした。
「梓琳様は凄い美人な方で、お姉様も私も梓琳様のようになりたいと憧れていたの。特にお姉様は梓琳様と年が近いこともあって、とても仲が良かったわ。それでよく珍しい果物や美容薬、紅を持ってきてくださって、この紅玉薬も梓琳様が持ってきてくださったのよ」
「そうなんですか」
その時、由羅は凌空の言葉を思い出して尋ねた。
「そういえば凌空様、以前紅玉薬は『一部の貴族の間で流行している』と仰ってましたよね」
「ええ、そうですよ。筆頭五家を中心に、口伝で広がっているようです」
凌空の答えは由羅にとって意外なものだった。
流行しているというからには、もっと多くの人間が使用していると思っていたが、そこまで大規模に流通しているわけではない。
ならば独自の流通網があると考えられるだろう。
そのことが何か重要な意味を持つような気がして、由羅は樹璃に尋ねた。
「あの、この紅玉薬ってどうやって手に入れているのですか?」
「梓琳様から譲ってもらっていたわ」
「では梓琳様は誰から買っているかご存じですか?」
「そこまでは……」
「凌空様はご存知だったりしますか?」
そう言って由羅は凌空に尋ねたのだが、凌空は首を振った。
「いいえ。入手経路は伝手を辿って購入しているということで、関係者が多く、大元までまだ辿り着けていません。それに紅玉薬からは毒性はないことから、そこまで重点的に調査してないのです」
「なるほど、では梓琳様から入手元を聞くことはできないのですか?」
「表向きは捜査は終了していることになっているので、直接刑部から問いただすことは難しいでしょう」
確かに表向きは捜査を打ち切ったことにしているのに、ここで大っぴらに捜査していることがバレれば、また紅蘆派によって捜査を妨害され、関係者が殺害されるという事態になりかねない。
紅玉薬を売っている大元が分かれば犯人の手がかりが得られることは明白だが、現状何もできないことにもどかしさを感じていると、透き通った樹璃の声が由羅の思考を止めた。
「なら、私が梓琳様に聞いてみますわ」
「いいのですか? でも……その、一般の方が捜査に関わるのは。それになにか危険があるかもしれませんし」
樹璃の申し出は確かにありがたいが、事件関係者ということで命を狙われる可能性もある。
黒の狼である由羅でさえ最初はその危険性から捜査に関わることを禁止されたのだ。
一介の令嬢を巻き込むわけにはいかない。
そう思って由羅は助けを求めるように凌空を見ると、彼も同意見のようだった。
眉間に皺を寄せて樹璃を見つめた。
「由羅さんの言う通り、捜査には危険が伴います。許可できません」
「でもお姉様が殺されたのにただ黙って見ているのは辛いわ。ですからどうか協力させてください」
「しかし……」
「それとなく聞くだけですから。もしはぐらかされてしまったら、それ以上は追及しません。それならいいですよね、お兄様」
樹璃の申し出を即答できないでいると、凌空も眉間に皺を寄せて難しい顔をして押し黙った。
「ね、お願いよ」
樹璃の声は切実なもので、まっすぐに凌空を見つめる眼差しには強い意志が感じられた。
その様子を見ていると愛する姉を殺された妹の無念が伝わってきて、由羅は樹璃の提案を無下にできない気持ちになってきた。
だから由羅は自然と口を開いていた。
「ではこうしてはどうでしょう。樹璃様が梓琳様と接触する時には私も同席します。それなら何かあった時に対処できますし」
由羅の提案に、凌空は逡巡した後、諦めたように言った。
「……無茶だけはしないでください」
「ありがとうございます」
樹璃は小さく頭を下げた。
ただ、紅玉薬がもし被害者の死因に関わっているのであれば、その入手経路の調査に樹璃が関与すれば、やはり彼女の身に危険が及ぶかもしれない。
樹璃を危険から遠ざける意味でも、死亡原因の特定をはっきりさせなければならないだろう。
(うーん、紅玉薬をもう少し調べれば何か分かるかもしれないわね。それに自分でも現物を見たいわ)
そう思った由羅だったが、自分の手元には紅玉薬はない。
押収した紅玉薬は分析用として蘭陵の元に行ってしまっているからだ。
「あの、できたら残りの紅玉薬をいただきたいのですが……」
「ええ、どうぞ。手元に置いていてももう使わないし」
「ありがとうございます」
そう言った由羅はもう一度部屋を見回した。
何か見落としはないだろうか。
だが、部屋には問題は見当たらない。
そうなると、やはり服毒か。
紅玉薬以外の食べ物に毒を入れられたのかもしれない。
最初に刑部が確認しているだろうが、念のために聞いておくことにしよう。
「何でもいいのですが、翠蓮様が亡くなる前に何か召し上がっていたものはないですか? いつもは口にしてなかったものを食べたとか」
樹璃と侍女に由羅はそう尋ねると、侍女は困惑した表情で答えた。
「そう言われましても、刑部の方に話した通り、お亡くなりになる前には紅玉薬しか飲まれていないので……」
だが、侍女がそう答えるその横で、樹璃がふと思い出したように床に視線を落としながらぽつりと呟いた。
「柚子……」
「え?」
「ねぇ、あの日お姉様は柚子を食べていなかった?」
樹璃の問いかけに、侍女は何かを思い出したようだ。
「あぁ、確かにあの日は梓琳様が紅玉薬と一緒に持ってきてくださった柚子を召し上がってらっしゃいました」
侍女の言葉に由羅は首を傾げた。
「柚子ですか?」
由羅の問いに、侍女は頷きながら答えた。
「ええ、梓琳様が見たことのない柚子を持ってきてくださったのです。私はあんなに大きくて黄色い柚子なので、最初は文旦かと思いました。翠蓮様はそれを湯浴みの後に召し上がって。『思ったよりも酸っぱいわ』と仰っておりましたね」
「そうそう。お姉様が酸っぱいというから『そんなに酸っぱいなら私はいらない』って言って食べなかったのよね」
「はい。それで私たちが代わりに食べさせていただいたんです」
樹璃と侍女は遠い目をしながらくすりと小さく笑った。
「翠蓮様がおっしゃった通り、とても酸っぱくて、『でも美肌のためには頑張らなくては』などと笑いながら食べていたのを覚えています」
侍女が食べたということは、柚子には毒が入っていなかったことになる。
紅玉薬以外に毒性のものを口にしていないか気になっていたのだが、それも違うということだ。
由羅は心の中でため息をついた。
今のところ、刑部の報告以上に新しい発見はない。
(それでもいくつかの可能性は否定できたし。今日はこれくらいかしら)
「凌空様、私が聞きたかったことは確認できました」
「そうですか。では私は叔父上に挨拶をしてきますから、由羅さんは先に門に行っていてください」
そう伝えた凌空に対し、樹璃が思いついたように声を上げた。
「由羅さん一人では迷ってしまうかもしれないわ。私が送りますね」
こうして一通りの現場検証を終え、由羅は樹璃と共に門へと向かった。
その道すがら、樹璃は由羅に気さくに話しかけてきた。
「どう? 何か、犯人の手がかりが掴めたかしら?」
「今は何とも……」
由羅がそう答えると、不意に樹璃が足を止めた。
何かと思って樹璃を見ると、彼女は眉をひそめながら、涙をこらえるように言った。
「……お姉様を殺した犯人を、絶対に捕まえてください」
そして懐から翡翠の簪を取り出し、それを悲しげに見つめた。
「お姉様は、妃として後宮に入ることが決まった時に、ひどく落ち込んだの。……好きな男性がいたから。だけど、皇帝陛下と何度か顔を合わせて、何か意気投合した様子だった。そして『正妃になって凌空様のお役に立てるように頑張るわ』と笑って、そしてやりたいことを私に話してくれたの」
人身売買の禁止、そして孤児のための養護院の設立、教育制度の改革などは紫釉の考えでもあると同時に、凌空もまたやりたいことでもあった。
そのために正妃として翠蓮自身も尽力したいと考え、勉強を始めていたらしい。
そのことから樹璃は誰とは言わないが、翠蓮の好きな人は凌空だったのではないかと由羅は思った。
「あの方のお役に立ちたいと一生懸命勉強して、積み重ねてきた姉の努力があんなに簡単に消されてしまうなんて……お姉様が可哀そうすぎる。お姉様はあの方の力になりたい、ただそう願っていただけなのに」
樹璃は悲壮な声を上げ、後半は涙声になっていた。
それに対して由羅は何も言えずに樹璃を見つめた。
「だから……お姉様を殺した犯人を見つけて。お願いします」
その言葉に由羅の胸がギュッと締め付けられた。
だが今の由羅には絶対的に情報が足りず、犯人の目処さえついていないのだ。
しかし、切実な表情でこちらを見る樹璃の目から目を逸らすことができなかった。
「尽力します」
絶対に犯人を捕まえるという約束はできず、今の由羅にはその言葉を言うだけで精いっぱいだった。
そんな自分が情けなく思いつつ、由羅は挨拶を終えた凌空と共に屋敷を後にした。
驚いてそちらを見ると、一人の少女が手を振りながらこちらに駆けて来る姿があった。
「凌空お兄様!」
「樹璃、久しぶりですね」
薄い若葉色の裳に大ぶりの花の刺繍が入った白い領巾を肩に羽織った少女は、凌空の前で嬉しそうに微笑みを浮かべた。
抜けるように白い肌、大きな瞳、目じりに赤い差し色をしているためか、可愛らしくもあり、美しくもある。
まさに美少女という言葉がぴったりだった。
「お兄様が来ると聞いて待っていましたの。ゆっくりできますの?」
「ありがとうございます。でも仕事で来たので、それが終わればすぐ帰ります」
「そうですの……。お姉様にお線香をそなえる時間はありますか?」
「もちろん、翠蓮にも挨拶してから帰ります」
翠蓮をお姉様と呼ぶということは、彼女は翠蓮の妹なのだろう。
ということは凌空のもう一人の従妹になる。
凌空も整った顔立ちをしているし、樹璃も美人なとことを考えると、翠蓮もまた美人だったに違いない。
そう考えると、妃の第一候補となったのも頷ける。
(楊家は美形一族なのかしら?)
由羅はそんなことを思いながら凌空と樹璃を見つめていると、不意に樹璃が由羅の方に目を向けた。
「あら? お兄様、今日は侍女が一緒なの? 珍しいわね」
「あぁ、彼女が手紙で伝えていた人物ですよ」
凌空の言葉に樹璃が目を見開いた。
(手紙でって私のことなんて書いたのかしら)
そう思った由羅だったが、その答えはすぐに樹璃の言葉で判明した。
「でもお兄様は事件の捜査関係者の方を連れて来るって言っていたけど…」
「ええ。それが彼女です」
「まあ、そうなのね! 刑部の方がいらっしゃるかと思っていたからてっきり男性かと……」
確かに手紙に捜査関係者とだけ書いてあれば、男だと思うのは当然だろう。
なんたって刑部の官吏は男しかいないのだから。
驚いた表情をした樹璃は、今度は由羅をまじまじと見つめると、一歩一歩と由羅に近づいて目を覗き込んだ。
「貴女の瞳の色、珍しい色ね。翡翠みたいに綺麗だわ」
「あ、ありがとうございます」
樹璃の美しい顔が間近に迫り、由羅は思わずのけぞるようにして礼を言った。
すると興味深そうに由羅の瞳を見ていた樹璃の表情が一転し、憂いを帯びたものになった。
そしてぽつりと呟いた。
「翠蓮お姉様の首飾りみたいに綺麗……」
(え?)
樹璃は哀切な表情を浮かべて漏らした呟きに対し、由羅が言葉を口にする前に、樹璃はまた微笑みを浮かべた。
「さぁ、そろそろ行きましょう。お姉様の部屋に案内するわね」
そう言って凌空の手を取り、歩き出した。
※
翠蓮の部屋は、事件から半年経っているにも関わらず、綺麗に掃除されていた。
それだけで、彼女がいかに大切にされていたのかが分かる。
「ここがお姉様の部屋よ。亡くなった時のまま、物は動かしてないわ。どうぞ、自由に見ていって」
「ありがとうございます」
樹璃の言葉に由羅は一礼すると、ゆっくりと部屋を歩きながら一か所ずつ確認していった。
部屋には朱塗りの卓が置かれ、その奥の部屋が寝室になっているようだ。
大きな長方形の窓からは燦燦と日が差し込み、庭園がよく見える造りになっていた。
「以前、刑部の方が聞いたことと同じことを聞くことになってしまいますが、翠蓮様がお亡くなりになった時の状況を詳しく教えていただけますか?」
由羅の問いに、樹璃と一緒に来た翠蓮付の侍女が答えた。
「寝る前に、いつものようにこちらで御髪を整えまして、その後に紅玉薬を飲んだ途端にお倒れになりました」
「倒れた、とのことですが、昏倒してそのまま亡くなったのですか?」
「いえ、ふらふらと足元がおぼつかなくなり、首元を押さえて息ができないようでした。そのうち青ざめて、最後に倒れて痙攣して……そして……」
侍女は言葉を詰まらせて、力なく項垂れた様子から状況が察せられ、由羅もそれ以上の言葉は続けなかった。
侍女の表情は見ているこちらが辛くなるような心痛なものであり、声をかけられなかったからだ。
由羅は、気持ちを切り替えるようにゆっくりと瞬きしてから、侍女が示した場所へと足を向けた。
そこは寝台の手前に置かれている化粧台とその後ろにある小棚の間だった。
由羅はぐるりと部屋を見回すと、小棚の上にアヤメのような意匠が入っている香炉が置かれていることに気づいた。
「すみません。こちら触ってもいいでしょうか?」
「えぇ、どうぞ」
樹璃の許可を受けて由羅は香炉をそっと手に取ると、蓋を開けた。
中には燃え残った香が入っていたので、由羅は鼻を近づけて匂いを嗅いだ。
まず感じたのは甘い香り。
だが甘ったるい咽かえるような香りではなく、落ち着いて少し爽やかさを感じられる上品な香りだった。
「この香りは白檀と茉莉花……それと野苺でしょうか?」
由羅の問いに侍女は驚いた声を上げた。
「まぁまぁよくお分かりになられましたね。そうです」
凌空も驚いた表情を浮かべ、由羅に尋ねた。
「貴女は香りを嗅いだだけで分かるのですか?」
「仕事柄、身に付ける必要があったので叩き込まれてるんです」
黒の狼の仕事の中には、暗殺といった血なまぐさい依頼だけではなく護衛を行うこともある。
その際、食べ物に異臭がないか、部屋で変な香りがしないかという事にも気を配る必要があるのだ。
だから、まず基本的な香の香りは覚えさせられる。
「この香は亡くなった時に焚いてましたか?」
「いいえ。これから焚こうと思った時にお倒れになられたので」
確かに特に異常のある香りはなかったし、香りを嗅いでも由羅の体に痺れなどもなかった。
状況的にも香を吸引して死亡した可能性は低いだろう。
「吸引投与ではなさそうね」
ぽつりと呟いた由羅に、凌空が首を傾げて尋ねてきた。
「吸引、ですか?」
「はい。毒殺の方法としては毒を吸わせる吸引投与というのがあるんです。ちょうど翠蓮様が亡くなられた場所にこの香がありますよね。毒成分を混ぜたお香を焚き、その香りを吸入したことで亡くなったのではと思ったのですが、その可能性は低そうです」
「なるほど……というか、万が一毒が入っていたらどうするつもりだったんですか!?」
凌空は心配半分、焦り半分といった様子で由羅に詰め寄ったが、それに対し由羅は冷静に答えた。
「大丈夫です。仕事柄、毒には耐性があるので」
黒の狼として様々な毒を扱う機会もあるし、任務の中で毒矢で傷を負うこともある。
そのため様々な毒で体を慣らし、耐性を付けているのだ。
由羅の返答に絶句している凌空を無視して樹璃に向き直った。
「このお香を貰ってもいいですか?」
「ええ、いいわよ」
「ありがとうございます」
樹璃の許可を受けると由羅は懐から手巾を取り出して、香を包んだ。
念のため蘭陵にも確認してもらうことにしよう。
(あとはこの部屋に何か問題があるのか……)
由羅は再び歩き出し、窓を開けて外の様子や、風の流れを確認した。
ぱっと見る限りはいたって普通の間取りの普通の部屋である。
何か毒性のある空気が充満しているとか、流入しやすいというわけでもなさそうだ。
窓からは新鮮な空気が入ってくるし、異臭もしない。
これまでのところは毒の原因になりそうなものは見当たらなかった。
「部屋にも問題はなさそうですね。あとは……」
そう言いながら由羅は化粧台へと近づいた。
化粧台の近くで亡くなったということは、化粧品に毒が含まれていて、それを顔に塗ったために中毒死したのではないか。
その可能性を考えた由羅は、化粧台に置かれた化粧品に顔を近づけてよく観察しながら侍女に尋ねた。
「この化粧品はいつも使用していたものですか? 最近新しく使い始めたものはありますか?」
「いいえ。化粧一式はどれもいつも翠蓮様が使っていたものです。買い替えたのは……亡くなる一か月ほど前でしょうか」
と言うことは化粧品が死亡原因ではない。
「それと、翠蓮様は塗り薬を使っていなかったですか?」
「いいえ、使っていません。特に怪我やかぶれもございませんでしたから」
「目のご病気もなかったですよね?」
「はい、もちろんです」
検死結果にも健康だったと記されていたし、この証言からも点眼による毒の投与や皮膚からの毒の投与で殺害したという可能性は低いことになる。
その時、化粧台の端に化粧道具と共に小瓶が5本置かれていることに気づいた。
1寸くらいの赤い硝子の小瓶で、よく見ると中に液体が入っている。
「これは、化粧水でしょうか?」
由羅が尋ねると樹璃は首を振った。
「いいえ、紅玉薬よ」
「これが?」
紅玉“薬”と聞いていたのでてっきり丸薬かと思っていたのだが、まさか液体だとは思わなかった。
3本の小瓶は空になっていたが、残り2本は液体がそのまま入っていた。
「お姉様はこの紅玉薬を飲んだ直後に亡くなったのよね」
「ええ。飲んだ途端に苦しまれて、医者を呼ぶ間もありませんでした」
侍女は赤い輝きを放つ硝子瓶を見つめながら沈痛な面持ちでそう説明した。
樹璃は探るような表情で由羅に尋ねた。
「やはり、この紅玉薬が原因なのかしら」
「分かりません。今のところ毒性はないとの報告を受けていますが、状況からして、やはり何か関係があるのでは、と個人的には思っています」
「そうなのですね……」
由羅の言葉に樹璃は残念そうな、でも安堵したような複雑な表情を浮かべた。
その表情の意味が分からずに由羅は思わず問いかけていた。
「あの、何か気がかりでもあるんですか?」
「え?」
「気のせいかもしれませんが、この薬が原因であってほしいような、でも原因でなくて安心したような、複雑な表情に見えたので」
由羅の言葉に一瞬驚いた表情を浮かべた樹璃だったが、次の瞬間には眉を下げて困った様子を見せた。
「実はね、この紅玉薬は|梓琳≪しりん≫様が美肌に良い薬だと勧めてくださったものなの。ご自分も飲んでるから是非飲んでみないかって。だからこの薬が原因だとしたら梓琳様のせいでお姉様は死んでしまったことになるわよね。そんなことは信じたくなくて」
「梓琳様?」
事件を調べていて初めて出た名前に由羅は首を傾げて尋ねた。
「ええ。鄭 |梓琳≪しりん≫様、美人で有名な方なんだけど知らない?」
「すみません。田舎から出て来たばかりで都の話には疎くて……」
由羅がそう答えると、樹璃は小さく微笑んでから、顔に思慕の情を滲ませて話をした。
「梓琳様は凄い美人な方で、お姉様も私も梓琳様のようになりたいと憧れていたの。特にお姉様は梓琳様と年が近いこともあって、とても仲が良かったわ。それでよく珍しい果物や美容薬、紅を持ってきてくださって、この紅玉薬も梓琳様が持ってきてくださったのよ」
「そうなんですか」
その時、由羅は凌空の言葉を思い出して尋ねた。
「そういえば凌空様、以前紅玉薬は『一部の貴族の間で流行している』と仰ってましたよね」
「ええ、そうですよ。筆頭五家を中心に、口伝で広がっているようです」
凌空の答えは由羅にとって意外なものだった。
流行しているというからには、もっと多くの人間が使用していると思っていたが、そこまで大規模に流通しているわけではない。
ならば独自の流通網があると考えられるだろう。
そのことが何か重要な意味を持つような気がして、由羅は樹璃に尋ねた。
「あの、この紅玉薬ってどうやって手に入れているのですか?」
「梓琳様から譲ってもらっていたわ」
「では梓琳様は誰から買っているかご存じですか?」
「そこまでは……」
「凌空様はご存知だったりしますか?」
そう言って由羅は凌空に尋ねたのだが、凌空は首を振った。
「いいえ。入手経路は伝手を辿って購入しているということで、関係者が多く、大元までまだ辿り着けていません。それに紅玉薬からは毒性はないことから、そこまで重点的に調査してないのです」
「なるほど、では梓琳様から入手元を聞くことはできないのですか?」
「表向きは捜査は終了していることになっているので、直接刑部から問いただすことは難しいでしょう」
確かに表向きは捜査を打ち切ったことにしているのに、ここで大っぴらに捜査していることがバレれば、また紅蘆派によって捜査を妨害され、関係者が殺害されるという事態になりかねない。
紅玉薬を売っている大元が分かれば犯人の手がかりが得られることは明白だが、現状何もできないことにもどかしさを感じていると、透き通った樹璃の声が由羅の思考を止めた。
「なら、私が梓琳様に聞いてみますわ」
「いいのですか? でも……その、一般の方が捜査に関わるのは。それになにか危険があるかもしれませんし」
樹璃の申し出は確かにありがたいが、事件関係者ということで命を狙われる可能性もある。
黒の狼である由羅でさえ最初はその危険性から捜査に関わることを禁止されたのだ。
一介の令嬢を巻き込むわけにはいかない。
そう思って由羅は助けを求めるように凌空を見ると、彼も同意見のようだった。
眉間に皺を寄せて樹璃を見つめた。
「由羅さんの言う通り、捜査には危険が伴います。許可できません」
「でもお姉様が殺されたのにただ黙って見ているのは辛いわ。ですからどうか協力させてください」
「しかし……」
「それとなく聞くだけですから。もしはぐらかされてしまったら、それ以上は追及しません。それならいいですよね、お兄様」
樹璃の申し出を即答できないでいると、凌空も眉間に皺を寄せて難しい顔をして押し黙った。
「ね、お願いよ」
樹璃の声は切実なもので、まっすぐに凌空を見つめる眼差しには強い意志が感じられた。
その様子を見ていると愛する姉を殺された妹の無念が伝わってきて、由羅は樹璃の提案を無下にできない気持ちになってきた。
だから由羅は自然と口を開いていた。
「ではこうしてはどうでしょう。樹璃様が梓琳様と接触する時には私も同席します。それなら何かあった時に対処できますし」
由羅の提案に、凌空は逡巡した後、諦めたように言った。
「……無茶だけはしないでください」
「ありがとうございます」
樹璃は小さく頭を下げた。
ただ、紅玉薬がもし被害者の死因に関わっているのであれば、その入手経路の調査に樹璃が関与すれば、やはり彼女の身に危険が及ぶかもしれない。
樹璃を危険から遠ざける意味でも、死亡原因の特定をはっきりさせなければならないだろう。
(うーん、紅玉薬をもう少し調べれば何か分かるかもしれないわね。それに自分でも現物を見たいわ)
そう思った由羅だったが、自分の手元には紅玉薬はない。
押収した紅玉薬は分析用として蘭陵の元に行ってしまっているからだ。
「あの、できたら残りの紅玉薬をいただきたいのですが……」
「ええ、どうぞ。手元に置いていてももう使わないし」
「ありがとうございます」
そう言った由羅はもう一度部屋を見回した。
何か見落としはないだろうか。
だが、部屋には問題は見当たらない。
そうなると、やはり服毒か。
紅玉薬以外の食べ物に毒を入れられたのかもしれない。
最初に刑部が確認しているだろうが、念のために聞いておくことにしよう。
「何でもいいのですが、翠蓮様が亡くなる前に何か召し上がっていたものはないですか? いつもは口にしてなかったものを食べたとか」
樹璃と侍女に由羅はそう尋ねると、侍女は困惑した表情で答えた。
「そう言われましても、刑部の方に話した通り、お亡くなりになる前には紅玉薬しか飲まれていないので……」
だが、侍女がそう答えるその横で、樹璃がふと思い出したように床に視線を落としながらぽつりと呟いた。
「柚子……」
「え?」
「ねぇ、あの日お姉様は柚子を食べていなかった?」
樹璃の問いかけに、侍女は何かを思い出したようだ。
「あぁ、確かにあの日は梓琳様が紅玉薬と一緒に持ってきてくださった柚子を召し上がってらっしゃいました」
侍女の言葉に由羅は首を傾げた。
「柚子ですか?」
由羅の問いに、侍女は頷きながら答えた。
「ええ、梓琳様が見たことのない柚子を持ってきてくださったのです。私はあんなに大きくて黄色い柚子なので、最初は文旦かと思いました。翠蓮様はそれを湯浴みの後に召し上がって。『思ったよりも酸っぱいわ』と仰っておりましたね」
「そうそう。お姉様が酸っぱいというから『そんなに酸っぱいなら私はいらない』って言って食べなかったのよね」
「はい。それで私たちが代わりに食べさせていただいたんです」
樹璃と侍女は遠い目をしながらくすりと小さく笑った。
「翠蓮様がおっしゃった通り、とても酸っぱくて、『でも美肌のためには頑張らなくては』などと笑いながら食べていたのを覚えています」
侍女が食べたということは、柚子には毒が入っていなかったことになる。
紅玉薬以外に毒性のものを口にしていないか気になっていたのだが、それも違うということだ。
由羅は心の中でため息をついた。
今のところ、刑部の報告以上に新しい発見はない。
(それでもいくつかの可能性は否定できたし。今日はこれくらいかしら)
「凌空様、私が聞きたかったことは確認できました」
「そうですか。では私は叔父上に挨拶をしてきますから、由羅さんは先に門に行っていてください」
そう伝えた凌空に対し、樹璃が思いついたように声を上げた。
「由羅さん一人では迷ってしまうかもしれないわ。私が送りますね」
こうして一通りの現場検証を終え、由羅は樹璃と共に門へと向かった。
その道すがら、樹璃は由羅に気さくに話しかけてきた。
「どう? 何か、犯人の手がかりが掴めたかしら?」
「今は何とも……」
由羅がそう答えると、不意に樹璃が足を止めた。
何かと思って樹璃を見ると、彼女は眉をひそめながら、涙をこらえるように言った。
「……お姉様を殺した犯人を、絶対に捕まえてください」
そして懐から翡翠の簪を取り出し、それを悲しげに見つめた。
「お姉様は、妃として後宮に入ることが決まった時に、ひどく落ち込んだの。……好きな男性がいたから。だけど、皇帝陛下と何度か顔を合わせて、何か意気投合した様子だった。そして『正妃になって凌空様のお役に立てるように頑張るわ』と笑って、そしてやりたいことを私に話してくれたの」
人身売買の禁止、そして孤児のための養護院の設立、教育制度の改革などは紫釉の考えでもあると同時に、凌空もまたやりたいことでもあった。
そのために正妃として翠蓮自身も尽力したいと考え、勉強を始めていたらしい。
そのことから樹璃は誰とは言わないが、翠蓮の好きな人は凌空だったのではないかと由羅は思った。
「あの方のお役に立ちたいと一生懸命勉強して、積み重ねてきた姉の努力があんなに簡単に消されてしまうなんて……お姉様が可哀そうすぎる。お姉様はあの方の力になりたい、ただそう願っていただけなのに」
樹璃は悲壮な声を上げ、後半は涙声になっていた。
それに対して由羅は何も言えずに樹璃を見つめた。
「だから……お姉様を殺した犯人を見つけて。お願いします」
その言葉に由羅の胸がギュッと締め付けられた。
だが今の由羅には絶対的に情報が足りず、犯人の目処さえついていないのだ。
しかし、切実な表情でこちらを見る樹璃の目から目を逸らすことができなかった。
「尽力します」
絶対に犯人を捕まえるという約束はできず、今の由羅にはその言葉を言うだけで精いっぱいだった。
そんな自分が情けなく思いつつ、由羅は挨拶を終えた凌空と共に屋敷を後にした。


