命を狙った皇帝のお飾り妃になりました―この謎、私が解決いたします―

名前を呼ばれて振り向くと、そこにいたのは先日書庫まで本を運ぶのを手伝った伯瑜(はくゆ)だった。

「あ、伯瑜様! こんにちは」

伯瑜は緩く眉を下げ、柔らかに微笑みながら由羅たちの元へとゆっくり歩いてきた。

「伯瑜様、ご無沙汰しています」
「おお、泰然か。お前さんはあんまり変わらないの。また、喧嘩してるんじゃないかい?」
「あはは、もう喧嘩はしてないですよ。……というか、なんで由羅は伯瑜様と知り合いなんだ?」

泰然はそう言って不思議そうに首を傾げた。
伯瑜を前にして、まさか後宮を抜け出した時に出会ったとは言えず、由羅が口籠っていると、伯瑜が朗らかな表情で由羅の代わりに答えてくれた。

「この間、書庫に本を運んでくれたんじゃよ。そうだ、由羅は時間があるかの? 良かったらこの間の礼に茶でもいかがかな?」

伯瑜の誘いに乗りたい気持ちはあるが、泰然が一緒なので即答できずにいると、泰然がそれを察してくれた。

「行きたいなら行っていいぜ」
「本当ですか? では、是非!」
「泰然もどうじゃ?」
「あ、俺はこの後仕事があるんで、失礼します」
「そうか、残念じゃの」

泰然も一緒に行くと思っていたので、予想外のことに由羅は驚いて言った。

「えっ? 泰然様は行かれないのですか?」
「あぁ、帰りは迎えに来るから、ゆっくり楽しんでこいよ」

泰然は仕事なのに自分一人が楽しむことになり、なんだか申し訳ない気持ちになる。

「すみません。では行ってきます」
「じゃあ、由羅、行くとしようか」

そう言って伯瑜は杖をつきながらゆっくりと歩き出した。

「泰然様、ではまた後で」
「ああ。んじゃあな」

由羅は泰然に一礼したあと、先を歩く伯瑜の後を追った。




先日訪れた時と同様に、少し埃っぽい室内の奥に書卓があった。
そこから少し離れた丸窓の傍に(テーブル)があり、伯瑜は由羅にその椅子を勧めた。

「今、茶を淹れるからの。ちょっと待っておくれ。あぁ、そういえば茶菓子を用意しておいたんじゃ」

そう言って伯瑜は飾り棚の一番上から壺を取り出した。
何が入っているのだろうかと由羅は伯瑜の手元を興味津々に見つめた。
そんな由羅の様子に気づいた伯瑜はくすりと笑った。
そして壺の中から匙で艶のあるハチミツ色の水あめのようなものを皿に取ると、伯瑜は桃酥(ビスケット)と共に由羅の前に置いた。

「桃酥にこれをつけて食べると美味いんじゃよ」
「これは何ですか?」
文旦(ぶんたん)の一種で、南の国で取れる柚子(ザボン)じゃよ。確か葡萄柚(プータオヨウ)ともいうらしい。それを甘く煮たものじゃ」

よく見ると確かに柑橘系の果物の実が入っている。
匙で掬ってみると、甘煮よりも粘性が高く、ねっとりとしていた。
甘煮というよりは果醤(ジャム)のようだ。
由羅は伯瑜に勧められるまま、桃酥(ビスケット)に葡萄柚の甘果醤(ジャム)を載せて食べてみた。
甘さが口に広がるが、同時に柑橘特有の爽やかさと少しのほろ苦さがあった。

「わぁ! 初めて食べた味ですが、すごく美味しいです!」
「そうかそうか。ほら、この茶も飲んでみるといい。この菓子に合うぞ」

今度は由羅の前に柿色の茶が出された。
一口飲んでみると渋みがあるが、決して嫌なものではなく、鼻に抜ける仄かに甘い香りが広がった。

「わぁ、美味しいお茶ですね! これも初めてです」
「これは紅茶という茶だ。烏龍茶よりも発酵させた茶葉を使ってるのだよ」

伯瑜が出してくれたものは、由羅が口にしたことのないものばかりだった。

初めての経験で興奮から声を上げてしまったものの、もしかして後宮ではこういったものが普通に食されているもので、侍女であれば普通の知識なのだろうか?
自分が普通の侍女ではないと伯瑜に悟られてはまずい。

どう言い訳すべきか悩んでしまった由羅に対し、伯瑜は何かを察したようだ。
伯瑜は柔らかな声を上げて笑った。

「ほっほっほっ、いやいや、知らなくて当然じゃよ。これは全部外国から取り寄せているものなんじゃよ。儂は珍しいものに目がなくての。こうやって色々と集めたくなってしまうんじゃ」

そう言いながら伯瑜はぐるりと部屋を見回した。
伯瑜の視線に導かれるように見ると、書棚には様々な言語の本が並んでいた。

「すごい量の本ですね。もしかしてこれ全部お読みになったんですか?」
「あぁ。本は好きじゃてな。ついつい買っては読んでしまう」

由羅も本は嫌いではないが、武術の鍛錬の方が性に合っている。
だから、これほどの量を読む伯瑜は素直に凄いと思う。

さらに見てみると、書棚の他に飾り棚がいくつかあり、見たことのない置物や道具が飾ってあった。
由羅はそれらの輸入品を興味深く見ていると、馴染みのある三日月型の短刀が飾られていた。
鑑賞用なのか柄や鞘に宝石がはめ込まれている。

「あら、ジャンビヤですね。テフェビア王国の品物もあるんですね」
「お前さんは、テフェビア王国に行ったことがあるのかい?」
「えぇ、まぁ」

黒の狼の村は乾泰国とテフェビア国の国境に近い所にあったため、テフェビア王国の人間からの依頼も頻繁にあった。
そのため由羅はテフェビア国に行くこともあったし、その国の文化にも造詣がある。
だが乾泰国の人間がテフェビア国に行くのは稀だ。
だから由羅がテフェビア国に行ったことがあるという返事を聞いた伯瑜は驚いた表情となった。

「それはまた、どうしてあんなところまで」
「ええと、養父の仕事の都合で行ったことがあるんです」

まさか黒の狼の仕事で行ったとは言えず、由羅は言葉を濁したのだが、伯瑜は逆に怪訝な表情を浮かべた。

「養父……?」

伯瑜の反応に、由羅はなんと説明すべきか考えつつ、慎重に言葉を選んだ。
同情を誘うのは嫌だし、由羅が黒の狼であることを絶対に悟られてはならない。

「子供の頃、親がお金と引き換えに私を商人に引き渡したのです。それで新しい雇い主の所に行く直前に、今の養父が助けてくれたんです」
「なるほど、人買いに売られたか。……お前さんの目の色は珍しいからの」

詳しくは言ったわけではないが、さすがは皇帝の指南役をしていただけあって伯瑜は由羅の身の上を理解したようだ。

「それは辛かったの」
「いえ! 養父は私をとても可愛がってくれて、色々なことを教えてくれました。お陰でこうやって侍女もできてますし。私は恵まれてました……」

由羅は小さく微笑みながら答えたが、その脳裏には同じ牢で過ごした日々がちらついた。
あの時、他の牢にいた子供たちは様々な人間に売られていった。
一人、また一人と売られて、由羅は最後まで残った。

だが、とうとう売られそうになった時、由羅は偶然崔袁に助けられた。
そしてこうしてここまで育ててもらった。
一人で生きる術も教えてもらった。
だが、自分のように幸運な境遇の人間は少ないだろう。

実際、仕事で貴族の屋敷に入った時など、人買いに売られた人間が奴隷として、家畜の様に扱われている光景を何度も目にしてきた。
だから、同じ牢にいた子供たちの事を思い出すと罪悪感が胸を去来する。
それが顔に出たのだろう。
伯瑜はあえて由羅から視線を外し、円窓の外を見ながらゆったりとした口調で由羅に語り掛けた。

「以前、この国では人身売買は黙認されていたからの。だが、紫釉様が皇帝になられて状況は変わった。今は人身売買は重罪だ。見つかれば死罪になる」

桜の花びらが舞う速度に合わせて伯瑜は言葉を続けた。

「紫釉様が皇帝になられて最初に取り掛かった政策は人身売買の禁止と厳罰化じゃ。そして徹底的に人買いを取り締まった。それゆえ、今では奴隷にされる不幸な子供はいなくなった。今は人買いによって売られた人間を解放するような法案も検討しているようじゃ」

「そう、なのですか……」

「ただ、あの法令は安価に労働力を手に入れられなくなる支配階級の人間から反対意見が出ての。奴らから色々な妨害があったんじゃよ。だが紫釉様は人の命を売り買いするような国にはしないと強い信念を持って法令の公布を進めた。凄いことじゃ」

もしかして、紫釉が作った法案のお陰で、あの時由羅と一緒に牢にいた子供達も今は自由になっているかもしれない。
伯瑜の話を聞いた由羅は、心に重くのしかかっていた罪悪感や後ろめたさが軽くなっていく気がした。
まさか紫釉が人身売買を禁止する法を作っているなんて思いもよらなかった。
だが、不意に疑問が湧き上がった。
外交問題や軍事問題、税制対応……皇帝として取り組むべき問題は山積みだ。

(それなのに紫釉様は何故人身売買の禁止を最初に行ったのかしら?)

由羅は紫釉の事を全く知らない。
だからもっと紫釉の事を知りたい。
はらはらと踊る桜の花びらを見ながら由羅はそう思った。




しばらくお茶をしていると、約束通り泰然が書庫まで迎えに来てくれた。
泰然と共に伯瑜の元から碧華宮へと戻った由羅は、廊下でお茶を運ぶ蘭香に会った。

この宮には由羅しかいないはずなのに、何故お茶を持っているのだろう?
不思議に思いながら由羅は蘭香に尋ねた。

「蘭香、ただいま。お茶を持ってどうしたの?」
「由羅様、お帰りなさいませ。主上にお茶をお持ちしようと思いまして」
「え? 主上?」

怪訝な顔をした由羅に、蘭香もまた困惑している様子だった。

「あの、もしかしてお聞きになっていらっしゃいませんか?」
「何を?」
「今日から主上はこちらでお過ごしになります」
「夜に来るのはいつものことよね?」
「いえ、執務をこちらでなさることになりました」
「……はぁ?」

蘭香の言っている意味が分からない。
いや、意味は分かるのだが理解できなかった。
皇帝が後宮で執務を行う?
そんなことは聞いたことがない。
前代未聞だ。

由羅は蘭香の言葉が信じられず、足早に紫釉がいるという部屋へと向かった。
そして焦りから少し乱暴に扉を叩くと、中から紫釉の声が聞こえた。

「紫釉様、いらっしゃいますか?」
「入っていいよ」

入室の許可が下りると同時に由羅は勢いよく扉を開くと、こめかみを押さえる凌空と、黒塗りの大きな()に座る紫釉の姿があった。
紫釉は突然の由羅の登場に、目を丸くして筆を止めた。

「そんなに慌ててどうしたんだい?」
「どうしたんだいって、ここで執務なさるって冗談ですよね?」
「冗談じゃないよ。本気だよ」

にっこりと笑う紫釉を見て、思わず由羅が凌空を見ると、凌空は深いため息をついた。
それはもう、心の底から地の底から出るようなため息だった。

「本気のようです。由羅さんと少しでも一緒に過ごしたいからだそうです」
「なんで止めないんですか?」
「止めましたよ。ですが、なんかもう面倒になりまして……」

(そこは面倒にならないで!!)

由羅は思わず心の中で突っ込んでしまった。
現実に突っ込んでもよかったが、凌空の機嫌をさらに損ないそうでぐっと我慢した。

「『俺が絶対に守る』って約束したよね? ここで執務すれば由羅の傍にいられるし、何かあっても守れるし」

確かに紫釉は先日そう言ったが、だからと言ってこんな暴挙に出るとは誰が思うだろう。
由羅は思わず苦言を呈した。

「いや、でも皇帝が後宮に籠るっていうのはいかがなものでしょうか?」
「執務はちゃんとするし、新婚なら仕方ないって思ってもらえるよ。ほら、世継ぎも望まれているわけだし」
「よ……!?」

紫釉の言葉に絶句しつつ、なんとか声を絞り出して由羅は言った。

「私たちは偽装結婚ですよね? 私はあくまでお飾りの妃ですよね?」
「さぁ?」

そう言って意味深に微笑む紫釉に、由羅は今度こそ言葉を失った。

「あぁそうだ。寝室も由羅の部屋の隣だから安心して。俺に部屋にはいつ来てもらっても構わないから。昼でも夜でも大歓迎だよ」

人身売買禁止の法を作る名君かと思えば、めちゃくちゃな理由でお飾り妃を押し付けたり、後宮で執務を始めたり……紫釉の考えていることがさっぱり分からない。

(紫釉様の事を理解するのはまだ難しいわ……)

由羅はそう思いながら呆れた顔でため息をついたのだった。




うららかな春の空の下。
春の香りを纏った暖かい風が柔らかく吹き抜けて由羅の髪を揺らした。
屋敷の庭に咲いた桜の花びらが石畳の道に舞い落ち、薄紅色の絨毯が敷かれているように見える。

そんな穏やかな光景にも関わらず、隣を歩く凌空の顔色は優れない。
由羅たちは怪死事件の最初の被害者である(よう) 翠蓮(すいれん)の屋敷へ向かっている。

現場検証をするためなのだが、凌空と共に後宮を出発しようとしたところ、紫釉が「由羅が行くなら俺も行く! 凌空だけでは心配だ!」と言って聞かなかったのだ。
何とか説得して留守番をしてもらったわけだが、その時点で凌空の体力が尽きかけてしまったようだ。

「あの……なんか色々申し訳ありません」
「はぁ、別に由羅さんが謝ることではありませんよ。全ては主上のせいですから。それに彼の言動に振り回されるのはいつもの事です」

重いため息と共にそう言う凌空の姿から、その苦労が伝わってきた。

初めて会った時も町でふらふらしていたし、由羅をお飾り妃にしたり、後宮で執務してみたり……由羅が知っているだけでも突拍子もない言動の数々が思い出され、凌空の心労は察するに余りある。

先ほどの紫釉とのやり取りを思い出したのか、凌空の眉間の皺が深くなったので、話題を変えることにした。

「それと、今日は現場検証の許可をいただきましてありがとうございます」
「礼には及びません。叔父の屋敷ですから調整しやすかったですし、私が案内するのは当然ですよ。ただ、事件からもう半年は経っているので、刑部が調査した以上のことは出ないと思いますよ」
「それでも、少し聞いておきたいこともありますので」

翠蓮はこの怪死事件の第一被害者だ。
最初に妃候補として名前が挙がり、半年前に後宮入りが確定した。
その後、間もなくして今回の被害に遭い、亡くなったのだ。
しばらく街を歩くと、喧騒は遠くなり、貴族や高官の住居が並ぶ地域へと景色が変わっていった。

「ここが翠蓮の屋敷です」

凌空は大きな屋敷の一つに足を止めてそう言うと、そのまま門を潜った。